トピックス

トップ > トピックス > 「『裁判員制度守』さんを送る言葉」に連帯する

「『裁判員制度守』さんを送る言葉」に連帯する

                                                        音痴で短歌好きの高校教師

 1月の『朝日歌壇』に特定秘密保護法に関連する短歌が12首並んだ。1月27日にはそのことを謳う短歌まで撰ばれた。

「成立より記事減りきたる秘密保護法朝日歌壇に十二首並ぶ」(京都市・村上清子)   「一時だけ騒げば終わりというものではあるまい。朝日歌壇の十二首を頼もしく思う作者。誰もが注意深く見守りたい」というのが撰者永田和宏さんの評。27日には、このほかにも次のような反秘密法の歌が撰ばれている。

「脱原発も再稼働もすべて闇のなか特定秘密保護法の下」(東京都・半杭螢子)

「言い遁れも拡大解釈する余地もたっぷり残して法案通る」(春日井市・伊東紀美子)  

「戦争はかかるプロセスとりながらくるものなのか昭和史思う」(静岡市・篠原三郎)

「驚きぬこの人からの賀状にも秘密保護法憂えることば」(篠原三郎)

「サッカーに興じる孫に思い馳せ秘密保護法危惧すの賀状」(半田市・依田良雄)

 メディアが報道しないテーマ、少ししか報道しないテーマ、脚色して報道するテーマ。その中に、私たちが絶対に見逃してはならない問題が潜んでいる。そういう思いを連ねた短歌がこの間執念深く続く。そのこと自体メディアに対する批判を含んでいる。

 佐村河内守氏の偽作に関する投稿「にせ司法『裁判員制度守』さんを送る言葉』」を興味深く読んで、私自身、『朝日新聞』の吉田純子記者の一文(2月11日)に目を通してみた。メインタイトルは「いつわりの『物語』感動生む『装置』に」、サブタイトルは「佐村河内氏問題への自戒」である。ネットで見ると吉田記者は音楽関係のテーマでよく登場する人らしい。

 「熱狂の一翼を担った私たち記者もいま、足元を見つめ直さねばならないと思う」とある。見つめ直すとは何をどう見ることか。騙されないようにもっと疑い深くなろうというのか、音楽記者としての感性の薄っぺらさを正そうというのか、それとも偽作かどうかにかかわらず作品自体の優秀性を検証しようというのか。絶賛の言葉を書き連ねた記者たちや音楽通たちの「極限のみっともなさ、恥ずかしさ」に、かれらはどう対処、対峙しようとしているのだろう。

 だが、趣味の話ならその程度で話が終わってもよい。罪深さもまずまずのレベルである。そうはいかないのが国策をめぐる論議だ。私も、インコさんの基本テーマ「裁判員制度」に議論を移す。メディアをあげての翼賛裁判員報道にウソ・偽りはなかったか。メディアが報じなくなっても国民が忘れてはならない秘密法のように、メディアが報道しないことやメディアが歪めて報道しているところにことの真相が潜んでいるというのは、ほかならぬ「裁判員制度」の世界に確実に存在する重大問題ではないか。あちらでは騙されたが、こちらでは騙されていないなどと言えるのか。

 「市民参加」「常識の反映」「陪審への一里塚」…。飾り付けの言葉(装置)が山と用意された。その「熱狂」の跡をいま寒々と感じているメディアの人びとは少なくないはずだ。「かすかな違和感」を感じながら裁判員裁判の報道に明け暮れていた記者たち、中途半端な思いを抱きながら賞賛の言葉を並べていた事情通もいよう。いまこそあなたたちが本当に自戒する時がきたのではないか。

 ファシズムの時代には、騙すつもりで騙す確信犯が真ん中に1人いて、その周りには騙す結果になってもよいと思うワルが10人いて、その周りにはまずはやってみようと思う半信半疑の100人がいて、その周りには熱に浮かれたように飛び出して行く1000人がいるという話をどこかで聞いた。祭りが終わったあとの惨憺たる光景を前に、このどこにいたのかを見つめ直し、深く自戒しなければならない人たちがたくさんいるはずだ。

 そのうえでメディアの皆さんに伝えたいのは、1000人の人たちのさらに外側には、無報道や脚色報道の状況に置かれながらあなたたちの熱狂ぶりをじっと見つめてきた冷静な1万人の視線が厳然とあったということである。

 人びとをあなどってはいけない。「佐村河内守」問題は、今こそ「秘密河内守」問題や「裁判河内守」問題として捉え直す必要があると私たちに発している天の警告である。

033202

 

 

 

投稿:2014年2月17日