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裁判員裁判のおかしさ

愛読者の60期弁護士

  裁判員裁判の深層をえぐる投稿記事に感銘を受けている弁護士です。司法研修所60期です。裁判員裁判の弁護活動もいくらか手がけており、裁判員制度について日ごろ考えていることを少しだけ述べてみます。

  法律家にとってはイロハの話ですが、はじめに刑事裁判の基本的な構造の説明をさせていただきますと、刑事裁判は事実認定と量刑判断から成り立っています。事実認定は被告人が検察官の主張する罪を本当に犯したのかどうかを論じる部分です。検察官の主張の一部を認めるという場合もあります。一方量刑は、有罪とされた時に被告人にどのような刑罰を科するかを決める部分です。死刑、無期懲役、有期懲役、罰金などが検討されます。

裁判員裁判も事実認定と量刑が大きな柱になります。評議の場で検察官の主張が認められるか否かが検討されるのは一般の刑事裁判と同じです。事実認定は難しいことではない、素人にもできるというのが最高裁の説明ですが、多くの事件では被告人は検察官の主張を争いません。争うとしても部分的な争いに限られる場合が多いと言えます。私の経験で言えば、平田オウム裁判のように事実関係をめぐって論争になる事件は非常に少ないのが現実です。

 さらに言えば、裁判官と裁判員が事実認定をめぐって争う局面はおそらくまったくといっていいほどないでしょう。裁判官が率先して認定を引っ張ることはあまりないでしょうが、裁判員の議論が自分たちの考える範囲内に収まっていればそれでよしとし、はみ出せばやんわりと正す。正されれば裁判員たちは抵抗しない、というよりも抵抗できない。つまり、事実認定は一見裁判員の判断を尊重しているようで、実は常に裁判官の掌の中にあるものということになるでしょう。

  量刑判断はかなり様相が異なります。量刑は裁判員の判断の限界を完全に超えています。妥当な判断をと言われてもどうにもこうにも無理です。被告人には同情の余地があるとか、彼は極悪人だとかは言えても、ではどのくらいの刑罰がふさわしいのかとなると、答えはとても出てきません。

  そうなることがわかっている裁判官は、「量刑データベース」という過去の量刑のデータに基づいて本件はどうしようかという話になります。でも、これでホッとする人が半分、残る半分は「だったらどうして私たちに判断をせよと言うのか」と思うに違いありません。

 弁護人の立場で言えば、裁判員たちには妥当な量刑判定など絶対にできません。しかし、裁判員裁判の多くは事実関係に争いがない事件です。ということは、多くの国民は妥当な判断が絶対にできない量刑判定のために裁判所に呼び出されていることになります。

敢えて言えば、裁判員制度の本当の目的は、裁判所が長い年月をかけて蓄積してきたデータを生の事件を通して国民に教え込むことにあるのだろうということです。事実認定は裁判官の掌、量刑は裁判官の強制誘導。裁判員制度はなんのために導入されたのか、改めて原点に立ち返って考えるべきときが来ていると私は思います。ne

 

投稿:2014年3月5日