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裁判員制度はいよいよ破局 ー 高山俊吉弁護士のお話

 裁判員制度の現状がどうなっているのか、当局やマスコミの物言いがどう変わったか、この闘いの道筋という3右上つの話をしたい。

 基本的なことは闘いだということだ。袴田事件と飯塚事件は再審請求としては共通性があるが、飯塚事件には支援の闘いがなかった。様々な事情があったのだろうが、再審開始を求める裁判外の闘いがなかったように思う。
裁判員制度も闘いが必要だ。制度は崩壊的な危機に直面している。崩壊的な危機と聞くとみな安心してしまう。目の前で崩れて行くのなら放っておいてもいいだろうと。しかしそれは違う。崩壊的危機にしたのは運動だということ。また、この事態になっても自動的に崩壊はしないということ。

花飾り
まず、裁判関係者の中に起きている抵抗、これは非常に大事なことだ。公判前整理手続きがどんどん長くなってきた。最高裁は「書面中心主義でなくなったためだ」と言うが、これは嘘、それは関係がない。公判は確かに長くなった、調べる証人の数も増えた。しかし、それは3日が5日になる、5日が7日になるという話だ。公判前整理手続きが長くなっているのとは比べものにならない。

 制度が導入された09年、起訴から公判まで平均2.8月だった。今は6.9月になっている。これは弁護人・被告人の闘いの結果である。「どうしてもこれを調べろ」と言い、検察官がこれに抵抗するという抗争が行われている。弁護人・被告人が頑張るのは当然だ。3日や4日、5日で裁判されてまともな判決になると思えないのだ。それだったら公判前整理手続きで頑張らなければとなり、それで年々長くなっているのだ。裁判員制度を導入する際、国会審議の中で、裁判員裁判を導入する理由に、「起訴から判決までの期間を短くする」という説明があった。ところが、裁判官裁判の時代に比べて裁判員裁判の方が判決まで長くかかるようになった。裁判員裁判は彼らの設計にさえ合っていない。

 この抵抗に対し、裁判官や書記官の増員で対応しようとするから、民事部や家庭裁判所も人がいなくなってきている。裁判所がだんだん全体に回らなくなってきている。花飾り
数字で見る。死刑は21人に言い渡されている。無罪判決はたった33件。覚せい剤事件が比較的多い。6千件のうちの30件、0.5%、覚せい剤事件を除くと0,2%台。裁判官裁判時代から全然増えていない。以前と同じだから「よろしい」と最高裁の中で評価されている。21人の6倍、126人の裁判員が国家による殺人行為に参画させられたことを忘れてはいけない。その中に心の病になってしまった人がいるというのが現実だ。

 もう一つ言えるのは裁判官が反乱を起こしていること。地裁の裁判員裁判が出した判決を高裁がひっくり返す、無罪を有罪にというものもあるが、有罪を無罪にとか重い判決を減刑するいうのも少なくない。事件名で言うと、松戸女子大生殺害放火事件、長野市一家3人殺害事件、南青山殺人事件、この3つは一審の裁判員裁判は死刑判決だったが、東京高裁の村瀬均裁判長がひっくり返して無期にした。1件はそこで確定し、2件は上告中。村瀬裁判長は、瀬木さんの3年先輩のエリート。最高裁の調査官をやり、最高裁刑事局の一課長、三課長などもやり、研修所の教官もやって自分の教え子もたくさんいる。その人が裁判員裁判の死刑を無期にしている。

 高裁の裁判官の中に広がっている発想に「裁判員裁判なにするものぞ」という見方がある。最高裁が必死に裁判員裁判を推進しているのに、「私たちはそれには当然には従わない」という発想。裁判官には有罪思考もある。その発想にある権力志向は問題だと思うけれども、それも含めて最高裁の裁判員制度推進に「なにするものぞ」と見る発想が広がっている。「裁判官の反乱」が現実化し、制度廃止に向けて裁判所の内部にも動きがある。

花飾り
施行5年の特集記事には「見えてきた裁判員裁判の課題」などという見出しがある。いつ見えてきたんだお前たちは。私たちは前から言っていることだぞ。しかもこの「見えてきた」という言い方も気に食わない。いかにも賢しらだ。

 その中に、残酷な写真を見せられて苦しんでいるAさんという紹介がある。でも、彼女にあるのはそれだけじゃない。なぜ自分がこのような行動に組み込まれたのかという怒りと悔しさと反発がある。記者会見で彼女に「苦しむ原因は残酷な場面を見せられたことかこのような裁判に加わったことか」と尋ねた記者がいる。しばらく考えて彼女は「両方です」と言った。あっちですこっちですと簡単に言わなかった。いろいろ好条件があって、彼女は織田さんや佐久間さんまでたどり着いて提訴に至ったけれど、そういう条件に恵まれなかった人は今も苦しんでるだろう。

 実際、Aさんは、「裁判員には自分を含めて3人の女性がいたが、その2人は今も苦しんでいます」と言われた。Aさんのことは氷山の一角で、同じような被害者が実はたくさんいると思う。

花飾り
水戸地裁の現住建造物放火事件の裁判員裁判。裁判が始まる直前に裁判員が1人、補充裁判員が1人辞めると言った。これで補充裁判員1人が裁判員になり、補充裁判員なしで裁判が始まった。その途中で裁判員の1人がインフルエンザになった。本当にインフルエンザかどうか怪しいものだが、とにかくこれで1人足りなくなった。裁判長が1人追加選任するまで待ってくれるかと言ったら、残る5人全員が自分たちも辞めると言い出して崩壊。文字通り裁判員裁判が崩壊し、改めて裁判員を全員選び直すことになった。被告人はそれまでずーっと待たされる。これに近い「冷や汗三斗」の裁判はあちこちで起きている。そのうち必ず第2、第3の水戸地裁が出てくる。

 イヤだという人がどんどん増えた。今年の最高裁のデータでは「義務であっても参加したくない」と「あまり参加したくない」を合わせると85.2%になった。違法だろうがやりたくないという人が半分近くに増えてきて、わからないという人は年々減っている。態度をより明確にしはじめた。

 立法の際、国会で「なぜ義務づけるのか」という質問に、当局は「やりたい人だけにやらせると一定の傾向が出てくる。義務づけると国民の意識が平均的に反映される」と答えていた。結局、今、やりたいとかやっても良いというわずかな人たちで裁判が行われている。当局によれば現状は特殊な傾向の裁判ということになる。かといって、出てこない人にペナルティを科すと大変なことになる。やりたくないが98.9%とかいう数字になるだろう。今や裁判員裁判は「死刑判決に関わりたい」「死刑判決に関われて良かった」などという人によって辛くも支えられているという状況にある。

花飾り
今年、寺田新長官は「裁判員裁判の改善は中長期の課題だ」と言った。裁判員制度に問題があると言うようになった。「順調」は竹﨑語。竹﨑前長官は制度を始めた人なので「うまくいっていない」とは言えない。とりあえず順調、一応順調、ひとまず順調とずっと言っていた。それを課題があると正面から言うようになった。隠しようがなくなったということだ。

 新聞には「市民感覚か先例か」という見出しが並んだ。市民感覚とは何か。こういう言い方は最高裁も法務省も正式にはしていない。彼らは「国民」という言葉を使う。重罰を求める感覚か、それとも先例と整合性を求める判決か、簡単に言うとそういうことになる。裁判員裁判の基本的な感覚は重罰を求める感覚だ。実際、「あすの会」という犯罪被害者組織の決議は「何時間も慎重に審理を尽くし、死刑を言い渡した。一般市民のその判断の重みを軽視してはならない。裁判員裁判の否定につながる。軽々に一般市民の良識ある判断を覆すべきではない」である。「重罰にせよ」と絶叫する運動が起きている。これを「市民感覚」というならば、重罰要求が裁判員制度の本質ということになる。

花飾り
ガスが充満してもそれだけでは爆発しない。イヤだという気持ちが充満していてもそれだけではダメ。火花が散らなければならない。私たちは火花になろう。

 ナチスの時代には「市民参加」がヒトラーを支えた。そのことは『ヒトラーを支持したドイツ国民』(ロバート・ジェラテリー著、 みすず書房)の中に「政権は人種主義制度の違反容疑について国民から密告を得るのに苦労しなかった。警察またはナチ党に情報を提供することは市民参加の最も重要な貢献の一つだった」と書かれている。「市民参加」がナチスを支えたと言っている。それによって人種排外思想の徹底に成功したというのだ。これは歴史の教訓として重要なことだが、私はこの話をこのままこの国に持って来ようとは思わない。どうしてか。この国では彼らが市民参加に成功していないからだ。「重罰要求の市民感覚」を「市民参加」と言っている彼らが、ここまで市民から抵抗を受けている。

 裁判員制度が廃止できたときには、成果はそれだけに留まらない。「絶望の裁判所」が「希望の裁判所」に、再審に広く門戸が開かれ、不正義が消え、正義が実現する力がこの国にみなぎるだろう。そのことをみんなで自覚しよう。制度廃止の闘いは希望の闘いである。高山下

投稿:2014年5月26日