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この制度はもう山を越えられないのでは

私も田舎の一弁護士

秋深く日本海を越えてくる湿った風が私の町の東側の山並みにあたり山々の頂が雪の冠に覆われるとその雪は根雪になり、いつものように長い冬が始まる。猛暑だったが短かった夏が過ぎると、間もなくその季節が来る。りす

時々、このウェブは見ているが、あまりまじめな読者ではない。これは最初にお断りしないといけない。

先月、私は何ヶ月ぶりかで東京に行き、裁判所の前でしばらくぶりの友人に出会った。司法問題や裁判員制度などにいろいろ関わっている知友だ。今何が話題なんだいと聞くと、彼は頭をぐるりとまわして、そうだな、例のきゅうけいごえの最高裁判決かなぁ、こないだ判決が言い渡されたでしょ、最高裁もフラフラしてるから波紋が広がるかもねと言った。

「きゅうけいごえ」は弁護士としては恥ずかしながら知らない言葉だった。きゅうけいごえねぇなるほど、などと中途半端な返事をして別れたが、実は最高裁の判決と言われても、新聞になんか載っていたなという程度の記憶しかなかった。それが司法問題に詳しい弁護士の常識らしいと知って少しひるんだのだった。

夜、事務所に戻った私は、先週の新聞を引っ張り出して記事を探した。そうか、「きゅうけいごえ」は「求刑超え」か、難しいな。こころみに目の前のパソコンできゅうけいごえと打ってみたら、休憩声と出た。パソコンも休みたがっている。少なくとも求刑超えはまだ社会常識ではない。こんなことで気を取り直そうと思う自分も少し情けなかった。087636

翌日、ちょっと試してみたいという気持ちも働いて、事務所で主(ぬし)のような顔をしている事務員に、ほら、この間の求刑超えの最高裁判決だけどさぁと口にしてみた。途端に彼女は、涼しい顔をしてきゅうけいごえってなんですかぁーと返してきた。知らないことを知らないと正直に言えるのはいいなぁなんて、一瞬思ってしまった。

新聞を読んだだけの付け焼き刃の知識で言えば、求刑超えの最高裁判決というのは、女児虐待死事件と言われる大阪の事件で、被告人は1歳の娘の両親。検察官の求刑を超える重い判決を言い渡した一審大阪地裁の裁判員裁判やその判決でよろしいと認めた二審大阪高裁の判決について、事件の実情に合わない重罰を言い渡すのはだめだと全部破棄し、最高裁自身がもともとの一審検察官の求刑以下の判決を言い渡したというものだ(インコ注。この判決については「最高裁は結局こういうところに行き着く」で詳しく紹介しています)。

裁判員裁判が始まってから、検察官が求める刑より重い刑を言い渡す判決が増えているという。私の実務経験の中には求刑超えなんて一度もなかったし、私は裁判員裁判の弁護活動をしたこともないから、門外漢の感想になるのかも知れないが、求刑を超える判決を言い渡された検察官は、公訴官としての自分の判断の根幹をを否定され、立場がなくなるのではないか。088719

しかし、私の知友が懸念していたのは検察の権威失墜のことではないらしい。新聞は、裁判員たちががっかりしたり反発したりしていることを大きく報道している。裁判員制度の今後に暗雲が垂れ込めたというような論評もあった。
翌日、事務員に、最高裁判決の説明をして、キミはどう思うかねと尋ねてみた。彼女の答えは明快だった。裁判員が判断したって上の裁判所でひっくり返されちゃうんだったら裁判員裁判はムダだと思います、やめちゃえば、ときた。なるほどムダねぇ、やめろか。自分の机に戻った私は小さくつぶやいた。

この制度は国民の声を裁判に反映させるものじゃなかったのか。公民司法教育という国民動員目的の制度だという見方もあるようだが、マスコミなどの受け止め方は国民の声を反映させる国民本位の裁判方式ということだったと思う。だから大方の市民は、自分としてはあまり関わりたくはないけれど反対はしないという気持ちになったのだろう。

国民の声が求刑超えならこの国の司法部はその声をそのまま受けとめるべきだという議論は確かに一つの正論だ。これを仮に事務員説と言おう。法律専門家は事務員説にどう答えるか。この国の司法は三審制といって、一審にあるかもしれない誤判の間違いを正すために二審高裁があり、二審の誤判を正すために三審最高裁がある、裁判員裁判を正すために二審や三審で職業裁判官が待ち構えているのではないというようなことを言うのだろう、きっと。088719

法律専門家説の難点は、だったら二審にも三審にも素人の国民を入れてちょうだいよという声にちゃんと答えていないところだ。現在の刑事裁判は一審に裁判員を参加させるだけだ。二審にも三審にも素人の国民が裁判員として入り、地裁の裁判員の判断が高裁や最高裁の裁判員に否定されるんだったらそれは仕方ないとあきらめもつく。そうでないから、ムダ論や廃止論に火が付く。三審制の法律専門家説も正論ではあるが、裁判員が一審にしか参加していないからムダ論・廃止論が生まれてしまうのだろう。

どうして二審・三審にも裁判員制度を登場させなかったのか。夜遅く知友の自宅に電話を架けて聞いてみた。彼の説明によれば、2001年に答申された政府の審議会では上級審の裁判員参加問題はうやむやになり、その後裁判員法の制定準備の中でそのことは議論になったけれども、結局、「一審尊重を含みとして裁判官だけでやる」ということになったという。波紋はキミのところにまず広がったようだと電話口の彼から笑われたが、夜中の問い合わせにこれだけ答えてくれた彼もすごいもんだと感心した。088719

何でもかんでも国民を引きつけたいと思うあまり、国民の声を裁判に反映させるなどと調子の良い言い方をし、それがやたらに宣伝された結果、「国民の声は天の声」まで高まってしまった、いや高めてしまった。そのことが話のねじ曲がりのきっかけになっていることは確かだ。

考えて見れば、「一審尊重を含みとする」と言ったって、一審地裁の判決のままにするのかそれとも一審判決をひっくり返すのか、その境界の判断基準がさっぱりわからない。「原判決破棄の基準を多少厳格にするってことらしい」と彼は言っていたが、「多少厳格」では何の基準にもならない。この話はもともと途方もなくあいまいな話なのだ。
原判決はだめと言う破棄判決が増えれば裁判員裁判を軽視するなという声が高まり、原判決のとおりで結構ですと言えば何のための控訴審かということになる。進退極まる結果を招いたのは最高裁自身だ。裁判の基本的な考え方は変えないという立場と国民参加で新しい司法をという立場を両立させるのはもともと難しい話なのである。

最高裁もフラフラしているという彼の言葉は、裁判員に妙におもねってみたり、そうかと思うと旧来の司法を変えないと言ってみたりと、時計の振り子のようにふらついているという意味なんだろう。私の頭でもそのあたりまでは何とか推測できた。今日はこのあたりで納得して寝よう。086619

何日かして彼からメールがきた。8月22日に開かれた自民党の法務部会が最高裁の例の判決に苦言を呈したという。「裁判員裁判は検察の求刑を大幅に上回る判決を出していたのに、最高裁が量刑の先例に従って原審を破棄したのは、市民目線で刑の重さを考えるという裁判員制度の趣旨を根底から覆しかねない。過去の量刑の傾向を重視しすぎると裁判員制度導入の意味がなくなる」。そんな批判が相次いだとある。

彼が言うとおりやっぱり議論はひたひたと広がっている。裁判員裁判に国民がノーを突きつければ突きつけるほど「調子こきのキャッチコピー」を頻繁に使わなければならなくなり、そうなればなるほど先例を踏襲しなければという伝統的な考えとのずれが広がる。そして外野は日増しにうるさくなる。

さすがの最高裁もこんなに重罰を求める裁判員が多いとは予測しなかっただろう。というよりも圧倒的多数の国民が裁判員をやりたくないと言う中で、重罰を求める数少ない国民が裁判員席に残っているという予想外の実態が現出しているのだろう。

裁判員裁判の上訴審破棄をめぐって進退窮まる状態に追い込まれているらしい最高裁はどこに活路を見出すのか。いくら頑張ってみても言葉の飾りでとりつくろうのには限界がある。5年を経過したこの制度はいよいよ難しい局面に突入した。

雪と寒さの季節が過ぎればこの地にも春がめぐり来るが、裁判員制度には越えたくても越えられぬ峻険な山々がありすぎ、遭難の危険こそ高まれ、春風が吹く見通しなどとても立たないように思われてならない。088719

 

 

投稿:2014年9月9日