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再掲:逆転無罪判決 裁判員や被害者の声に違和感

このトピックスでも度々、転載させて戴いている猪野亨弁護士のブログ。昨年12月27日には、「菊地直子さん無罪が確定 時間が立証を阻んだのではない」をアップされました。無罪は当然だというもので、インコも声を大にしてそのことを訴えたい。

そして、改めて、2015年11月28日に猪野先生がアップされた「オウム元信者に対する逆転無罪判決 裁判員や被害者の声に違和感」をここに転載します。
これは、一審の裁判員裁判の有罪判決に対し、高裁が逆転無罪判決を出したときに書かれたものですが、最高裁判決に対しても同じことが言えるからです。以下、猪野先生のブログからです。

 東京高裁は、オウム元信者に対する控訴審で、一審の裁判員裁判の有罪判決に対し、逆転無罪判決を下しました。
その理由とするところは劇薬ではあるものの、それが人の殺傷に使われることの認識はなかった、つまり故意がなかったという点でした。
元信者が起訴されたのは、都庁事件での殺人未遂と爆発物取締罰則違反のそれぞれの幇助の罪でしたが、劇薬であろうと、それだけで殺人の故意があるということにはなりません。
高裁は、この点を慎重に判断したということなのでしょう。

 問題は、朝日新聞、毎日新聞がそれぞれ一審で担当した裁判員の声を大々的に報じていることです。
捜査幹部「無罪、何かの間違い」、一審裁判員「無力感」」(朝日新聞2015年11月27日)
「菊地元信徒を有罪とした一審で裁判員を務めた会社員の男性(34)は「無罪と聞いてショック。確かに証拠が少ない難しい事件だったが、私たちが約2カ月間、一生懸命考えて出した結論。それを覆され、無力感を覚える」と話した。
一審では19年前のことを振り返る菊地元信徒や証人の記憶はあいまいで、「何が本当なのか判断が難しかった」という。「その分、自分の感覚を大事に意見を出した」と振り返る。」

菊地被告無罪:爆発負傷者「誠に残念」 裁判員、疑問の声」(毎日新聞2015年11月27日)
「逆転無罪判決について、1審で裁判員を務めた男性会社員(34)は「控訴審で刑が軽くなることはあるかもしれないと思っていたが、まさか逆転無罪とは。自信を持って出した判決なのでショックだ」と話した。
1審では教団元幹部らの証言が食い違った。事実をどう認定するかが難しく、評議は約3週間続いた。男性は「事件から年月が経過し、被告の内心の認定に頭を悩ませた。決め手となる証拠もなく、真剣に話し合った」と打ち明け、「裁判員を務めた意味が何だったのか考えてしまう。直接的証拠があり、市民も判断しやすい事件に裁判員の対象を限ったほうが良いのではないか」と語った」

元裁判員は、自信を持った判決だったそうです。このような自信をどこから持てるのかが不思議ですが、裁判員制度のもっとも重大な問題点でもあります。もともと裁判員をもてはやすマスコミは、これを「市民感覚」と表現して持ち上げてきました。
その結果、裁判員は批判の対象から外され、自信だけが増幅されていったのです。それが裁判員による死刑判決が破棄されたときから、何のための裁判員裁判だということが裁判員制度を推進するマスコミから声高に主張されるようになったのです。
それは元裁判員の声を利用する形で報じられてきました。
裁判員制度の意義が揺らぐ? だったら死刑にすべきなのか 岡田成司氏の見解

 それがまたオウム事件というかつてのテロ事件に対する裁判ということで、「市民感覚」がどう裁くというように強調されてきたにも関わらず、その判断があっさりと否定されたものだから、マスコミが元裁判員の声ということで大きく取り上げたという構図です。
有罪・無罪のようなものが「市民感覚」で判断されるべきものではないことは当然のことで、ましてやそれが有罪方向で働くのであれば弊害しかありません。

 もっとも両紙ともこのような声も伝えています。
「一方でオウム事件捜査を担当した警視庁OBの大峯泰広さん(67)は「被告の当時の上司だった土谷正実死刑囚らから、被告に事件の計画を話したという供述を得られなかった記憶がある。状況証拠を詰め切れたとは言えず、判決は致し方ない気もする」と話した。」(前掲毎日新聞)
「元捜査幹部は「菊地元信徒は逃亡したからこそ注目を浴びたが、オウム事件全体でみると果たした役割は小さかった。事件に直結する役割ではなく、元々、立証に難しさはあった」と話す。」(前掲朝日新聞)

事件の全体像については、江川紹子さんのコメントがとてもよく伝えています。
「裁判員らは一般人の感覚で『自分ならこう思う』という発想で結論を導いた。控訴審は、(信者をマインドコントロールした)オウムの特殊環境に置かれていたことも考慮して彼女の内心を推し量った」と判決を評価。」(前掲毎日新聞)

 このオウム事件が起きたとき、私は司法試験を受験している頃で、その年に合格したのですが、江川さんの著作でこの元信者の境遇も読みました。周囲から本当にひどい仕打ちを受けていたということを今でも鮮明に覚えています。オウムに入信することになり、それが駒のように使われるようになったということですが、社会のゆがみこそがこのオウムのようなモンスターを生み出したことを忘れてはなりません。

 もう1つ違和感があったのは被害者の声です。
「(菊地元信徒は)長年逃亡生活を続けており、罪の意識は十分持っていたはずです。無罪の判決は、その事実を法廷という場でしっかりと立証できなかったということで、誠に残念なことだと思います」(前掲朝日新聞)

 逃亡=有罪ではありません。痴漢えん罪でも問題にされることはありますが、「やっていないなら堂々と釈明したらよいではないか」と言われることもしばしばです。しかし、一度、疑いを掛けられたどうなりますか。極論すれば無罪を立証しなければならない立場に追いやられるわけです。
堂々とすればいいなどということには絶対になりません。
また元信者の逃亡の背景には教団からの指令もあったのかもしれません。いずれにしても、逃亡=有罪という認識は問題です。
もしかすると一審裁判員裁判でも、このような有罪推定が働いていたのかもしれません。

 オウム事件では、当時の警察庁長官も狙撃され、かなりたってからオウム関係者が逮捕されましたが、嫌疑不十分で東京地検は捜査を終えているにも関わらず、警視庁はオウムが犯人であるかのように述べ、批判を浴びました。
事件当時も首都を震撼させたということで、警察庁はオウムであれば何をしてもいいというように別件逮捕や違法逮捕などあまりにもひどい捜査がなされていました。対象がオウムだからということで当時は、ほとんど批判的に報じられることがなかったのです。
そのような中で今回、無罪判決が出たということは、当時の捜査がどうだったのか、報道のあり方がどうだったのかが問われるべきでしょう。
前掲朝日新聞が当時の警視庁幹部の言葉として、「幹部は「逮捕状を取った当時は、オウム信者を微罪でも捕まえろ、という世論の後押しがあった。年月を経て、慎重な司法判断が下されたのではないか」と報じていますが、批判的な検証こそ必要です。

 当時の東京は、同時テロに見舞われたパリの状況を彷彿させます。
フランスでは非常事態宣言の延長、国籍剥奪 日本では共謀罪、憲法「改正」だ

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投稿:2018年1月13日