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元警部補 不起訴と検察審査会の問題

富山市で2010年4月,会社役員夫婦が殺害され,住宅に放火される事件が起き,元警部補が殺人と現住建造物等放火の容疑で2012年12月に逮捕された。
「逮捕に踏み切ったのは刑事の勘」(捜査幹部)であり,「警官が自供しているのに逮捕しなかったら『身内に甘い』と非難される」(警視庁幹部)から逮捕した。

だが,殺害方法も事件前後の足取りも現場の状況とことごとく食い違うという。
自供があるからと証拠の積み上げを怠り,矛盾を突き崩すこともしなかった警察。これは,「証拠がなくても自供さえとれば犯人にできる」という姿勢の裏返しだろう。

結果,富山地検は7月24日「客観的証拠と供述が矛盾している」として嫌疑不十分で不起訴とした。

これに対し,遺族は「警察・検察には失望の連続。裁判員裁判の下,市民の感覚で裁かれるべきだ」として今月中にも検察審査会に審査を申し立てると記者会見で表明した。

つまり,「市民の感覚なら,『自分がやったと言っているのだから犯人だ』と言ってくれるはず」ということである。そして「証拠と供述が矛盾していようと,自供がある。2人殺害して放火したので死刑で」となる市民感覚に期待しているということになる。

「検察審査会」は,裁判員制度と同じ「市民感覚を司法に生かす」という「司法改革」の一環であるが,そもそも,「無実」ではなさそうだから裁判で白黒つけようというのは,推定無罪から逸脱しているだろう。
刑事裁判は,「無実」を争うものではなく,検察の有罪証拠が疑いなきまでに立証されているかどうかを判断するものだからだ。

検察の持つ絶大なシステムは,長期にわたる勾留における秘密の取り調べでの脅し,不利な証拠の未開示=無罪証拠の隠蔽など様々な問題をはらみ,数多くのえん罪を生み出してきた。
それをもってしても起訴できないと判断した者を,「市民感覚からしたらそれはおかしい」という程度で刑事裁判ができるというシステム自体が間違っている。

「検察審査会」も裁判員制度同様,いらない!inko_A4-1

 

 

投稿:2013年7月25日