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幻想を振りまく若者たちと幻想に踊る人々と

島根県の日本司法支援センター(法テラス)の弁護士が、市民講座「よくわかる刑事裁判のしくみ」で刑事裁判の流れや裁判員裁判の評議について市民ら約15人に話したとの報道がありました。講師は法テラス島根や法テラス浜田所属の若い弁護士たち。(読売新聞9月8日島根県版、記事全文は「インコつつく」参照)。

 強盗致傷事件の模擬裁判を行い、被告人が有罪か無罪かを話し合ったが、被告が犯人と断定できる証拠がなく、結論は見送りになったとのことです。どんぐり下2個

 講師の弁護士は「裁判員に必要なのは法律の知識よりも経験則。裁判官の意見に流されず、評議で疑問に思ったことは聞いてほしい」と訴え、参加した松江市の男性(44)は、「映画やドラマで見ているような世界を体験でき、興味深かった。裁判員裁判は難しいと思っていたが、身近に感じることができた」と話したとありました。

この弁護士と市民の意見を考えてみます。まず弁護士。「裁判員に必要なのは法律の知識よりも経験則」というのは、この制度が登場した時から、最高裁・法務省が常に使ってきた言葉です。例えば、裁判員法が成立した翌年の2005年には、町田顕最高裁長官は「常識に照らして判断すればよい。市民に過大なことは求めない」と言っていました。どんぐり上下

でも、裁判は常識や経験則から離れてはいけないということと、裁判は常識や経験則だけでできるということは意味がまったく違います。裁判はもともと簡単にできるものではないのです。簡単にできるのならなぜ知識と経験を積んだ法曹がこの世界を仕切っているのかということになります。

どんぐりリス右 若い弁護士たちは、法曹の知識経験と市民の常識が解け合うところにこの制度の妙があるという「美しい融和」の世界を説明しているつもりなのでしょう。でも、ここにはとんでもないからくりがあります。その一つは、法曹に市民常識が欠けているのなら(それは確実に言える!)、法曹に市民常識を備えさせるべしという結論になるだけです。なぜ裁判官をそのままにして「市民参加」を言い出すのでしょうか。

 もう一つは、裁判官と市民の間に対等性はまったくなく、そこに美しい融和などある訳もないということです。そのことは、講師を務めた弁護士が「裁判官の意見に流されず、評議で疑問に思ったことは聞いてほしい」と言ったところによく表れています。裁判官は、その都度その都度圧倒的な権威で結論を決めてゆく。しかもいかにもみんなで考えた結論のように見せかけながらやってゆく。「見えない路線が引かれていた」と評した裁判員がいましたが、評議室の実態は正にそのとおりなのです。

 この弁護士はそのからくりに少し気づいているから、「流されるな」「疑問はぶつけろ」と言うのです。しかし、それを言うのなら、「法律知識と常識の融和」と「強引なリードとの闘い」が整合しないことをどうしてきちんと説明しないのでしょうか。普通の市民はそこに矛盾を感じます。どんぐりリス左

 さらに一つ。「疑問に思ったことを聞く」と説教を垂れても実際には意味がないということ。評議室のリアルな風景を知らない者だけがこんなことを言います。ストップウォッチをちらつかせて弁護人を恫喝する裁判長です。公開の法廷で専門家の法曹に対してさえそれだけのことをやれる裁判長が、密室の中で西も東も分からない市民を相手にどういう姿勢でいるか(腹の底で考えているか)、その真実を知らずにどうして市民に抵抗精神を植えつけられるのでしょうか。

 論点を市民に移します。「映画やドラマで見ているような世界を体験でき、興味深かった」と参加した市民が言ったという。だが、裁判は「映画やドラマ」では断じてありません。それは、被告人の人権を侵害しないように細心の注意をはらいながら、真実を究明し責任の有無や責任の程度を判断してゆく気の遠くなるような冷徹な論理の世界です。

 裁判を「映画やドラマ」のように興味本位で受けとめることほど有害なことはありません。一方の言い分が他方の主張を圧倒したという風景からおもしろさを感じ、そういう角度から刑事裁判に関心を持つのをゲーム感覚裁判といいます。ゲーム感覚で裁判を考える社会は、ローマのコロセウムを思い起こさせる異様な世界です。

 「裁判員裁判は難しいと思っていたが、身近に感じることができた」と受け止めたといいます。このような理解の仕方は、本来の刑事裁判の見方とも本来の市民社会の見方とも正反対の位置にあります。刑事裁判は難しいものであり、刑事裁判を身近に考えねばならない社会は間違いなく病んだ社会です。裁判員制度は確実に病む市民を作っています。

 この模擬裁判の評議では、被告が犯人と断定できる証拠がなく結論は見送りになったということですが、結論が見送りになるのはゲームだからできること。怖いのはバーチャルとリアルを一緒に考えてしまう市民がいることと、制度の病理をさして異としない弁護士がいることです。いや、実は裁判員裁判に抱えきれないほどの悩みを抱える市民と弁護士を、メディアが歪めて報道しているのかも知れません。本当に解剖すべきことはそのあたりでしょう。

秋のライン 

秋のラインリス

 

 

 

投稿:2013年9月11日