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『朝日新聞』は結局最高裁の広報紙か

                                                                  名古屋の弁護士

 昨年7月に投稿させていただいた名古屋の弁護士です。掲載基準が厳しいのかもしれませんが、また投稿させていただきます。よろしくお願いします。

 1-e1397901276348インコご挨拶  いえいえ、決して厳しくありません。ふるってご意見をお寄せ下さい。
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 『朝日新聞』は、裁判員死刑判決を否定した高裁判決を是認した最高裁の決定について、「覆った死刑と裁判員制度」という特集をオピニオン欄で組んだ(「耕論」2月21日)。裁判員制度に対する同紙自身のオピニオン(見識)について、私の感想を述べたい。

 特集をお読みにならなかった方のために要旨を紹介しておこう。インタビューに答えて意見を述べているのは、元裁判官の法科大学院教授平良木登規男氏と弁護士の織田信夫氏と裁判員経験者の田口真義氏の3人である。

 平良木登規男氏は42年生まれ。裁判員制度を作ることに関わった方。表題は「いずれ国民の総意に沿う」。氏は言う。「死刑の適用は慎重を期すべきで最高裁決定は妥当である。1人殺害は死刑回避が妥当というルールも長い間には変わるかも知れず、いずれ国民の総意にそった形になってゆくだろう。私としては初めは比較的軽い犯罪を担当させ徐々に重罪に進むべきと思っていた。これからは何らかの選抜が要るのではないか」。

 織田信夫氏は33年生まれ。元裁判官だが早くに退官されている。「刑罰の公平性保つべきだ」のタイトル。裁判を経験して国家賠償請求を起こした元裁判員の代理人をされ、裁判員制度には強い反対意見を持つ。「刑罰の公平性、公正さを保つ最高裁の判断は正しい。議論が混乱したのは『司法への国民参加で国民の健全な社会常識が反映される』などという制度のイメージがメディアを通じて広がったためだ。裁判員法1条には『司法に対する国民の理解の増進と信頼の向上に資する』とあるだけなのに。感覚と感情を根拠にする裁判員は重罪に傾く。国民には司法権の行使者としての正統性もない」。

 田口真義氏は76年生まれ。裁判員を経験した不動産業者。表題は「情報公開し是非の議論を」。裁判員の交流団体のまとめ役を務めているという。「最高裁判決への疑問に違和感がある。冷静に受け止めるべき。執行の実情や死刑囚の状況などの情報が公開されていない。死刑にしたくて下した判断ではないのに実情を知らないまま選択せざるを得ないのは恐ろしい。量刑判断は酷という意見があるが、裁判員は量刑を判断することで被告人のその後に思いをはせられる。死刑を言い渡した裁判員にはどうあれ苦悶が残る。もっと情報公開を進め、死刑とは何かということに市民は目を向けるべきだと思う」。

 データが紹介されている。裁判員のメンタルヘルスサポート窓口に入った相談の約3割が「話を聞いてほしい」、約3割が「メンタル症状が出ている」、2割近くが「不安へのアドバイスを求める」。強盗強姦罪と傷害致死罪の量刑分布は、ともに裁判官裁判より裁判員裁判の方が重刑に傾斜している。求刑を上回る判決は裁判員裁判が裁判官裁判の10倍に達する。以上が特集の概要である。正確に紹介したつもりだが、まとめが不適切ならお詫びする。

 私の感想を一言で言うと、各氏のご主張に対する感想以前の問題として、『朝日新聞』はいつから最高裁の広報紙になったのかという驚きだ。いや、もともと最高裁の広報紙なのだという意見も聞いた。死刑廃止に熱心な新聞なので、死刑が無期になったことを喜んでいるだけなのじゃないかという見方もあるらしい。基本 CMYK

 私にはそのあたりはよくわからないが、裁判員裁判の死刑判決をひっくり返したのは妥当だったという言葉を3人の論者にそろって同じように主張させた。この見識を広めたいという編集者の強い姿勢を感じさせる。中正・公正のバランスをとるに気を遣ってみせる『朝日』風を投げ打っているように思える。

 しかし、「死刑の適用は慎重を期すべきで最高裁決定は妥当」という平木氏も、「冷静に受け止めるべき」という田口氏も問題に正面から答えていない(特に、「死刑にしたくて下した判断ではないのに実情を知らないまま選択せざるを得ないのは恐ろしい」という田口氏の言は何を言っているのかまったくわからない)。

 裁判員裁判に参加した3人のプロの裁判官は裁判員たちを相手に、「死刑の適用は慎重を期すべきだ」とそれなりに説得したはずだ。しかし、おそらくはそれにもかかわらず裁判員たちは死刑を選択したのだろう。「裁判員裁判という新しい制度を採用したからにはこれまでとは考え方を変えてもよいはずだ」と言った裁判員もいたに違いない。

 最高裁の判断に疑問を持つのはおかしいという田口氏は何を言いたいのだろうか。氏自身が見聞きした裁判員の訴えの中に冷静さを欠く意見が多かったのか。それともこの国の司法は三審制を採用している以上当然だというただそれだけの話なのか。

 この種の物の言い方は今回の問題の説明にまったくなっていないと思う。三審制は中高生程度の司法知識があれば誰でも知っていることだ。裁判員制度の後に三審制が登場した訳でもない。一審の判断が控訴審や上級審でひっくり変えることがあることくらい誰でも知っている。基本 CMYK

 問題は裁判員裁判になって市民の意見に重きを置くことになったというので、これまでの司法の考え方がそれなりに変わるのではないかという「市民感覚」が生まれているということだ。死刑は慎重にとか三審制だからと言っただけではそういう見方に対する答えにはならない。

 答えにならないことを言われると、問題がわかっていないのか意識的にそらしているのかという疑いの目でみたくなる。そう考えると、「司法への国民参加で国民の健全な社会常識が反映される」などという制度のイメージがメディアを通じて広がったために議論が混乱したという織田氏の説明は私を納得させる。国民参加という新事態がこれまでの判断基準をどう変えるかがわからないために、そんなはずじゃなかったというような意見もあちこちから出てくるのだろう。

 「市民参加」になるとこれまでの考え方がどう変わるのか、変わってゆくのか。最高裁は一般の市民を理解させる説明を何もしていない。今回の最高裁決定の理由をいくら読んでも、裁判長の補足意見をいくら読んでも、その点は私には少しも理解できなかった。

 データを見るまでもなく、現実の市民参加裁判の特徴は明らかな重罰化だ。それが目的だったのか結果論なのかははっきりしないが、制度導入時から重罰化が進むだろうという声があったのは紛れもない事実だ。しかし、『朝日新聞』は官僚裁判官の弊害を市民裁判官によって正すというような論陣を張り、市民参加の重要性をメディアの先頭に立って大宣伝した。

 その『朝日』が、「過去の裁判例をもとに、死刑を選択する際に考慮されるべき要素を検討し、評議ではその検討結果を共通の認識として議論しなければならない」などという最高裁の決定に、何一つ異論も唱えず、「市民感覚を法廷に持ち込みさえすればいいという制度ではない」とか、「今後どう向き合うか、裁判官と裁判員が議論を続けていくしかない」などとまるでそらとぼけたような言説を展開している(2月6日「社説」)。

 『朝日』は、市民感覚を大事にするというような物の言い方をすました顔でどこかにしまい込み、今や名実ともに最高裁の広報メディアになりきったということなのだろうか。

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投稿:2015年3月16日