~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
2017年5月27日、埼玉会館において、主催「裁判員制度に反対する埼玉市民の会」、「埼玉県弁護士会」の後援で、裁判員制度に断固反対する市民集会「まっぴらごめん裁判員 Part Ⅷ」が開催されました。
インコのトピックスでも、ちょこっとだけ報告したので、覚えていらっしゃる方もいるかも。
その報告集が出来ました。ぜひ、多くの方に読んでいただきたい。
主催者挨拶………………………………車田隆
後援埼玉弁護士会挨拶………………渡邉祐樹
特別報告
埼玉弁護士会「裁判員制度の見直しに関する意見書について……長沼正敏
パネルディスカッション
市民は裁判員制度をどう思っているか
コーディネータ:岩佐憲一
パネラー:山本美紀、佐藤将行、大山千恵子
基調報告
裁判員制度を突き崩す力…………高山俊吉
高山さんとの質疑応答
基調報告レジュメ&資料
集会アンケート
資料
裁判員制度の見直しに関する意見書……埼玉弁護士会
報告集はこちらへお申し込みを。バックナンバーもあります。
小出重義法律事務所
〒330-0854さいたま市大宮区桜木町4丁目244-2
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投稿:2018年3月25日
ノンフィクション作家伊佐千尋さんが
2月3日、前立腺癌のため88歳で亡くなられました。
伊佐さんは東京に生まれ、沖縄県立中学を出て沖縄で働いていた時に地元の青年たちによる米兵殺傷事件の裁判の陪審員に選ばれ、無罪の評決に加わりました。その伊佐さんはご自身の経験をノンフィクション『逆転』に描き、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し(1978年)、これを機に作家としてデビューされました。1982年には「陪審裁判を考える会」を発足、陪審制の導入を求める運動を推進。陪審制や裁判員制度に関係した著書に、『逆転 アメリカ支配下・沖縄の陪審裁判』新潮社(1977)、『裁判員制度は刑事裁判を変えるか-陪審制度を求める理由』現代人文社(2006)、『えん罪を生む裁判員制度-陪審裁判の復活に向けて』現代人文社(2007。石松竹雄・土屋公献共編著)、『裁判員拒否のすすめ-あなたが「冤罪」に加担しないために』WAVE出版(2009。生田暉雄共編著)など多数があります。
伊佐さんは、陪審制を強く支持され、その視点から裁判員制度に鋭い批判の目を向けました。氏の言葉を、『裁判員拒否のすすめ-あなたが「冤罪」に加担しないために』の第5章「裁判に市民が参加する意義」からいくつかご紹介しましょう。要旨で紹介するところがあります。
今年(2009年)、国民的議論を経ないまま、裁判員制度は正しい反論を押しのけて実施に移されようとしている。司法制度改革審議会の答申は、「21世紀の日本を支える司法制度」と題し、「市民主体の司法改革」を標榜するが、これは本当に「市民のための改革」か?
警察・検察・裁判所は無数の冤罪を真摯に反省することなく、裁判員制度の導入を推し進めた。これにより冤罪は増加、市民は片棒を担がされることになった。
陪審裁判では、裁判官と陪審員の分担がはっきりし、互いの独立性を尊重しあうことが鉄則になっている。裁判官の説示に言う「判事と陪審のチームワーク」はこのことを指す。それは裁判員制度にいう「裁判官と裁判員の協働」とは根本的に異なる。「任意性に疑いがあればそれを証拠としてはならない」という判事の説示と証拠法則に陪審は忠実である。
捜査のあり方も公正だ。アメリカのテレビなどで、警察官が被疑者を逮捕するとき、次のように言う場面を見たことがあるだろう。「君は黙っていてもいい権利がある。言ったことは法廷で君の不利益に使われることがある。君には取り調べの前に弁護士の助言を求める権利があり、取り調べに同席を求めることもでき、いつでも質問に答えるのを止めることができ、弁護士と相談するまで答えないと言ってもよい」。
昨年(2008年)、日弁連の招きに応えて訪日したアメリカ・コーネル法科大学のハンズ教授から尋ねられた。教授がいい言葉だと指摘したのは『裁判員制度は国民のためではなく、政府のためのもの』という私のメモだった。
犯人必罰を目的とすると言っても、もっと重要なのは罪なき被告人を有罪としてはならないことだ。死刑が確定した後に危うく執行を免れた免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件の例がある。免田さんからは、34年に及ぶ獄中生活の中で別れを告げた死刑囚77人のうち少なくとも7~8人は無実だったと自分は思ったと聞いた。加藤老事件、梅田事件、徳島ラジオ商殺し事件も気の遠くなるような長年月を経て無罪になった。横浜事件、布川事件、袴田事件、名張事件もある。これらは氷山の一角であり、今なお無辜有罪誤判が続出している状況を考えると、官僚裁判制度は破綻していると言わざるを得ない。
有罪に間違いなかろうという程度で有罪にしてはならない。陪審裁判とは、法の専門家だけでなく市井の人たち12人全員の目に一致して明らかであることを求める裁判制度なのである。
法哲学者ラートブルフは、刑事裁判官にとって大切なのは「民衆の温かい理解に満ちた心」であり、「法学知識1に対して人間と人生に関する知識1000が求められる」と説き、刑事心理学者ハンス・グロスは「被疑者・被告人のレベルに身を置かなければその心情と供述を理解することはできないだろう」と言っている。
裁判員制度の致命的な欠陥は、裁判官と裁判員が事実問題を一緒に評議することである。裁判官にとって市民裁判官を言いくるめ、自説に同調させることなど簡単である。私が陪審員だったとき、裁判官が同席していろいろ言われたら説得されて自分の考えなど通すことはできなかったろう。裁判について何も知らない素人が経験豊富な裁判官に反論し、自分の考えを主張することは極めて困難である。裁判官1人と裁判員11人の模擬裁判でさえ、1人の裁判官の与える影響がいかに大きいか、模擬裁判の結果が報告されている。
今回の司法改革を振り返ると、鳴り物入りで喧伝された「市民主体の司法改革」からほど遠く、いったい誰のための改革であったか疑問に思う。司法制度改革審議会の13人の委員は官邸で決められていたし、顔ぶれを見ただけでも民意を反映できる構成でないことが明らかだった。審議会発足後間もない時期に現場報告の機会が日弁連の講堂で持たれた。中坊公平元日弁連会長は、「法が社会の骨肉と化していないのは、基本的に国民の責任だ。国民は官を頼んで生きるのではなく、統治主体意識を持つべきだ」と語った。責任を市民に転嫁する怪しい雲行きの話に驚いた私は、閉会の挨拶で「国民の司法意識をそのように仕向けてきたのは(国の)中枢だったではないか」と異議を呈したが、統治主体意識と権利主体をすり替えられていることに、日弁連会長を務めたひとが気付かないのかと感じた。
司法制度改革審議会が政府に意見書を提出した直後の2001年7月に持たれた「司法改革市民会議」では、小田中聡樹専修大教授(東北大名誉教授)は、「意見書は迅速な処罰を第一義に重要だとして捜査手段の拡大を追求する一方、適正手続きの重視に強い拒絶を示して身柄拘束や取り調べの改革には一切取り組まないことを明示している。意見書の改革案は基本的人権や司法権独立や公正な裁判を受ける権利や適正手続きなどの保障など、いくつもの憲法の司法原則に明らかに逆行している」と強く批判した。
本書の作成に参加された生田暉雄元裁判官は、「最高裁の狙いは裁判の市民参加ではない。裁判員になった市民に強権的裁判を実体験させることで国家権力の強大さ恐ろしさを知らせてこれに従順な国民を作ること。制度の目的は裁判の市民化に名を借りた巧妙な国家権力従順化教育制度でしょう」と言っている。
簡単に要約すれば以上のようなものです。陪審制の下でも冤罪事件がたくさん出ています。人種差別の陪審員判決が暴動にまで発展した例もあり、陪審員判決の誤判も多く報道されています。伊佐さんは陪審にいのちをかけた方ですが、2001年9月11日以降のアメリカ刑事司法が人権保障司法とは無縁の暴走を続けている事情も綿密な検証を行う必要があると思います。
また、中坊元日弁連会長の行動は権力の意向を自ら買って出た行動というのが正しいと思われ、伊佐さんの中坊観にはいささか甘さを感じないでもありません。それらのことは確かにありますが、しかし裁判員制度のおかしさを指摘する限りでは、伊佐さんのおっしゃることは否定のしようがない正論でしょう。
追悼の文章にしては詳しく細かくなり過ぎました。でも、伊佐さんが生前強調してやまなかったことをご紹介するのはインコの責任だと思います。
伊佐さん。裁判員制度反対を「貫いた」とインコが申し上げたのには理由があります。陪審だ、陪審だと大騒ぎをしていたあの人もこの人も揃いも揃って裁判員制度に雪崩を打つように吸い込まれていった中で、伊佐さんは少しも動揺することなく裁判員制度の批判を徹底された。そのことに敬意を表してそう申し上げたのです。あの人って誰かって。ほら、しのみや何とかとかいうちゃらちゃらおしゃべり屋とか、それにつながる訳のわからん人たちですよ。「昔陪審今裁判員」っていう本籍不明のお天気屋さんたち。
伊佐さん。彼の地において裁判員制度創設の罪で裁かれる人たちは、町田顕元最高裁長官を先頭にもう結構な数に達しています。彼らを徹底的に裁く必要があります。インコは厳罰一辺倒で良いと思っていますが、伊佐さんの慧眼をとことん働かせていただき、心おきなくばっさり斬っていただきたいとひそかに思っています。
後はインコが引き受けます。では、お元気に冥府におかれましても権力批判の闘いを展開されますようよう祈念いたします。
合掌
投稿:2018年2月12日
京都弁護士会 弁護士H
新年早々裁判員裁判を論じる文章にお目にかかった。京都青酸連続死事件をテーマとする『朝日』1月18日の「記者有論」欄のエッセイである。筆者は京都総局の記者安倍龍太郎氏。これが新聞記者の書いたものかと正直驚いた。お粗末な文章はお粗末と言って終わりにしてもよいのだが、この文章の背景には『朝日』の裁判員裁判に対する姿勢があると思えるので、少し丁寧に分析したい。いささか長いが、検証する以上はその全文をまず紹介する。
京都地裁であった青酸連続死事件の公判が終わって1カ月後。一審で死刑判決を出した元裁判員の女性は、拘置所にいる筧(かけひ)千佐子被告(71)との面会を希望した。判決内容に悔いはない。しかし、38回の公判を通し、「本当は魅力的な人なのではないか」という思いがぬぐえなかったからだ。裁判員本来の役割である「起訴内容が有罪か否か」の判断を超え、被告の歩んだ人生をきちんと知りたいと思ったのだという。①
裁判員裁判史上2番目に長い135日間の長期裁判となったが、判決後に会見した裁判員3人は「負担は感じなかった」と口をそろえた。そればかりか、検察、弁護側双方に「証拠を絞らず、時間がかかってもすべてを提示してほしかった」と語った。犯行の背景に「多額の借金」があるとされても、公判で具体的な金額はでなかった。犯行に使われた青酸も、被告は「業者からもらった」と言ったが、その証拠は示されなかった。裁判員から「判決を導き出す上でモヤモヤしたものは残したくない。具体的な証拠がほしかった」との声が出るのは当然だろう。②
あるベテラン検事は「法廷は真実を解明する場ではない」と言う。殺人事件であれば、裁判員は本当に人を殺したか否かを検討し、起訴状が述べる範囲の「公訴事実」が認められれば量刑を決める。結果、「被告の悩みや借金の程度など、犯行に直結しないものは二の次、三の次になる」。審理日数を抑えようとすれば一層その傾向は強まるだろう。③
一般市民である裁判員の負担軽減のため、法曹三者は証拠の数を絞り、事件の説明を簡略化するよう努める。だが、裁判員たちは負担を負担と思わないほど、事件の全体像を正確に把握しようと目を凝らしている。「枝葉」のように証拠を切り落とすことばかりに目を向けるのではなく、裁判員の「知りたい」との思いに積極的に応える審理のあり方を模索しても良いのではないか。④
判決の前日、拘置所で面会した私に被告は「これまで私の人生を聞いてくれてありがとう」と涙を見せた。死刑を覚悟した上での言葉だった。高校は進学校だったが、家庭の事情で大学に行けず、結婚後に苦労し、人生が暗転したと繰り返した。法廷で被告の人生が詳細に語られることはない。「私は人を殺(あや)めたけど、鬼ではないことは分かって」。被告も、自分が道を踏み外した過程を知ってほしいと願っていた。⑤
冒頭の女性から体調をいたわる言葉をもらった被告は、ずっと泣いていたという。長い裁判が終わり、走り書きでいっぱいの女性の裁判資料は地裁に回収され、シュレッダーにかけられた。「もう裁判を振り返ることもできない」。真剣に向き合ってきた資料を失ったことを女性は今も残念がっている。⑥
さて、以下に私の意見を記す。
① 冒頭に「一審で死刑判決を出した元裁判員」と来る。早くもこれでダメである。判決主文は死刑だったから「一審死刑判決に加わった裁判員」と言うのなら間違いにはならない。裁判所が死刑を言い渡したのであって、「裁判員が死刑判決を出した」のではない。その裁判員が死刑を求めたと言いたいというのであればなおいけない。裁判員はどういう量刑判断をしたのかを公にしてはならないからである。全員一致の死刑であったとしても個々の裁判員の意見を明らかにすることは許されない(全員一致であったかどうかを明らかにすることも許されない)。この文章はその辺りの理屈をこの記者がまったく理解していないことを示している。
元裁判員は「判決内容に悔いはない」が、「被告人は本当は魅力的な人なのではないか」という気持ちがぬぐえなかったから被告人への面会を希望したという。今度は話の内容そのものがダメである。判決が「被告人の魅力の有無」を論じたはずもない。元裁判員は、この被告人がどうしてかくもたいそうな事件を起こしたのか、本当のところが腑に落ちていなかったということなのだろう。そうだとすれば元裁判員は「判決内容に悔いが残る」と言っているのではないか。「判決内容に悔いはないが判決内容に納得しきっていない」とはどういうことか。そのことに疑問を持たない記者の浅薄さ(疑問を持っても言わないあざとさ)。
「裁判員本来の役割である『起訴内容が有罪か否か』の判断を超え、被告の歩んだ人生をきちんと知りたいと思ったのだという」。何を言っているのか。「裁判員本来の役割は起訴内容が有罪か否かだ」などという決まりはどこにもない(「起訴内容が有罪か否か」という言い方自体がおかしい。普通は「起訴事実が認められるか否か」と言う)。安倍記者は陪審裁判における陪審員の役割と裁判員制度における裁判員の役割の違いも区別できていないし、そもそも裁判に関する基本知識がない。
被告人が歩んだ人生は被告人に科す刑罰を決める上で極めて重要なテーマである。裁判員裁判においてもそのことは(少なくとも建前としては)当然の前提である。この記者が「裁判員にとって、被告人の歩んだ人生をきちんと知ることは本来の役割を超えるもの」と思っているとすればそれは大間違いと言うほかない。
出だしでこれだけの不出来では、この記者の文章の先行きが思いやられ、はっきり言って読む気が消え失せるが、分析を宣言した以上、腹を決め読み続けることにする。
② 第2段落である。共同記者会見に出た裁判員3人が、史上2番目に長い裁判員裁判にも「負担は感じなかった」と口をそろえたと紹介する。みんなが審理に積極的・意欲的に関わったことを強調したいらしい。しかし、参加した裁判員と補充裁判員は当初計11人はいた。後に2人が解任され、結局9人が残ったが、裁判直後の会見にそのうち3人しか出なかった。過半の裁判員たちが自分たちの思いを語らずそそくさと裁判所を後にしたことに記者はまったく触れない。「口をそろえた」裁判員が3人しかいなかったことを論じない記者の鈍感さに驚く。
元裁判員たちが、会見の場で、検察・弁護の双方に「証拠を絞らず提出してほしかった」と語ったという。この話をそのまま紹介する記者は、証拠を絞り提出させないのは裁判所であるということを知らないようだ。審理に時間をかけないよう最高裁から厳しく注文されている地裁の裁判長が、証拠をもっと出したいと言う検察と弁護を強く牽制して提出証拠を絞らせている。しかもその決着は公判前整理でついてしまっている。知らぬは裁判員と安倍記者ばかりなりである。
「判決を導き出す上でモヤモヤしたものは残したくない。具体的な証拠がほしかった」 という声が裁判員から出たということは、つまり「判決を導き出す上でモヤモヤしたものが残り、具体的な証拠がなかった(足りなかった)」 と言っていたということである。死刑を言い渡す重大裁判に関わった裁判員のこの不満は到底軽視できない。その声を「当然だろう」という記者は、誰に対して何をせよと要求しているのか。その姿勢の曖昧さは拭いがたい。
③ 第3段落。「ベテラン検事」の言葉の理解が全然できていない。
「法廷は真実を解明する場ではない」ということと、犯行に直結しないものは後回しになるということは当然に結びつかない。法廷は、検察の主張を支える立証を検察がし得たかどうかを検証する場である。犯罪事実の存在の証明ができていないと判断されれば無罪になるし、犯罪事実の存在の証明はできているが、検事が求める刑罰を科さねばならないとまでは認定できないと判断されれば検事の求刑より軽い量刑判断がなされる場合がある。つまり検察の主張する内容が検察によって証明されているかどうかを判定するのが刑事裁判の肝で、検察の頭越しに裁判所が真実を究明するものではないという当たり前のことを「ベテラン検事」は言っている。求刑超えの判決というのも稀にあるが、基本はこのとおりである。
そしてそのことは、当然に「犯行に直結しないものは後回しにする」という理屈には結びつかない。被告人の悩みや借金の程度なども、被告人の責任の程度の判定に意味を持つことがあり、どうでもよいことでは決してない。有罪が前提のケースなら最初から被告人の刑責の程度の論議に入るし、無罪を争うケースなら、主張の仕方は微妙な場合があるけれども(無罪を主張している弁護側としてどのような情状立証ができるかという問題に逢着する)、仮に有罪だとしてもこのような事情があることを斟酌すべきだという論陣が張られるのが普通である。
審理を抑えようとすればその傾向(情状立証を抑える傾向)は強まろうと記者は予測するが、「抑えようとする」のは誰なのかにも、その目的にも一言も触れないのでは、何も言ったことにはならない。
④ 第4段落。「裁判員は知りたいと考えている。事件の全体像を正確に把握しようと目を凝らしている。法曹3者は証拠を絞ったり切り捨てたりするな」。それが安倍記者の主張である。裁判員がみんなそのように考えているというのは記者の思いに過ぎない。記者はそうあってほしいと考えているのだろう。しかし、この記者には候補者名簿に登載された裁判員候補者の2割程度しか裁判所に来ず、来た者の中からも裁判員就任を断る者が続出している現状は見えないらしい。
記者は、証拠を絞らせ、証拠調べを簡略にさせようと躍起になっている最高裁に対して、どうして正面から反論しないのか。圧倒的な数の市民が裁判員をやりたくないと思っている現状を突破する鍵として最高裁は審理の短縮を言い、市民の負担を軽くすることで出頭率を高めようとしている。市民は自ら進んで刑事裁判の審理に関わろうとしていると言うのであれば、記者は出頭率の極端な低さや、その傾向がこの間ますます強まっていることをどう説明するのか。社からこれだけスペースを与えられながら黙して語らないのは、語らぬことを条件とされたからなのか。いかにも不可解、不合理である。
⑤ 第5段落。「私は人を殺めたけど鬼ではない」と被告人は言い、
「被告人も自分が道を踏み外した過程を知ってほしいと願っていた」と記者は言う。無罪を争う事件で被告人が「私は人を殺めた」と言い、「道を踏み外した」と言うとすれば(それが本当だとすれば)、その被告人の弁護活動は困難を極めよう。捜査の実際も裁判のありようも直接見ていない私は、こうすべきであったという言葉を持たないが、被告人の人生や境遇が十分に注目されないまま審理が終結されたことを強く推測する。そして、それが裁判員裁判の現実であることを強く感じる。だから、裁判員裁判はダメなのだ。しかし、この記者はそういう論旨の展開は一切しない。
⑥ 第6段落。どうやら元裁判員はこの被告人と判決後に面会したらしい。元裁判員と被告人の面会は極めて珍しい。その話を聞いた記者としては、あれこれのどうでもよい話をするのではなく、対面の場でどういう会話がかわされたのかに絞ったエッセイにどうしてしなかったのか。裁判に用いた資料は回収され廃棄される。資料を失って残念。そんな感慨より百倍も千倍も大きな教訓が存在したはずである。百歩譲っても資料の廃棄を残念だと元裁判員が言う言葉を引用しながら、その保存をせよと言わないのはなぜか。言えば、保存を否定した最高裁の方針への疑問に踏み込まざるを得ないからではないか。
□ 筆力のない文章であることは措いても、この記者はこれまで刑事事件や裁判を取材した経験があるのだろうかという疑問を懐く。そしてそれ以上に重大なのはこの人は裁判員裁判に関する知識がまるきりないということだ。毒にも薬にもならない中途半端なエッセイと言いたいところだか、この文章には毒がある。市民が裁判員裁判に真剣に取り組もうとしているという「荒唐無稽の大デマ」を含むからだ。
裁判員裁判を真剣に論じるのなら、どこで裁判員裁判が危殆に
瀕しているのかを論じ、どんなに破綻しても破綻を認めない最高裁を批判する姿勢が求められる。しかし、記者は最高裁の「さ」の字にも触れない。誰がこの制度をどういう理由で推進しているのか、そこにどのような問題があるのかということに少しも触れないのは今日の裁判員裁判論の基本を踏み外すものである。
『朝日』が自社の記者に書かせる裁判員裁判論であるから、所詮はこの程度のものであることは当たり前かも知れないが、それは確実に『朝日』を市民から遠ざけ、市民の裁判員制度批判をいっそう強めるきっかけになることを指摘しておきたい。
以上
投稿:2018年1月29日
このたびは、テラダ最高裁長官の後任として新しい最高裁長官になられたそうで、まことにおめでたいと言ったらいいか何と言ったらいいか、インコとしてはホント五言絶句です。ほら裁判員制度に深く関わったタケサキ長官は病気で途中退官したでしょ、テラダ長官は退官の記者会見もせず、すたこら最高裁の用務員口から消えました。オオタニさんはどうなるのかなぁと。それでも就任の言祝ぎですし、とりあえずインコも毒舌を控えようと、かわいく花を持ってみました。
オオタニさんは2002年から05年まで最高裁事務総局で広報課長をされ、07年までは刑事局長、12年からは事務総長と、そういう訳だ。つまり典型的なエリートコース。そして同時に、裁判員制度とこの15年間悪戦苦闘の日々を送り続けてきた方。その感慨を忖度し、心底同情してます。投げ出したくても投げ出せない、愚痴弱音はあの要塞建物脇の土手の穴ぼこに叫び続けたことでしょう。
02年と言えば、司法制度改革審議会が裁判員制度を政府に答申した翌年です。政府には司法制度改革推進本部ができた。裁判員制度の法律を作らねばならんという大騒ぎの中であなたは広報課長になった。裁判員法の国会成立の時もあなたはずっとその位置にいた。
広報課長なんて普通ならちっとも忙しくないポストだけれど、この時は違いましたね。わが国司法史上最激の逆風に抗して、何が何でも制度の宣伝をしてしてしまくらなければいけなかった。だからオレ国民の司法参加なんて反対だったんだ、って正直思ったでしょ。
今、思い起こしても息が詰まります。テレビや週刊誌を先頭に、「とんでもないこと」って調子で多くのメディアが冷たい態度をとった。
推進本部のパブリックコメント(03年)には制度批判の声が洪水のように押し寄せました。『読売』の世論調査(04年)では「参加したくない」が69%、「適切な判断をする自信がない」が71%。この時期のマスコミ各社の調査結果は似たような数字が並びました。
05年の内閣府調査は極めつき。「参加したい」は僅か4%、「参加したくない」が70%。最高裁は目の色を変えました。このままでは制度の発足はとてもおぼつかない、広告に金を使えばメディアも寄ってこようってことになった。広告ほどメディアにとって弱いところはありません。
ところが裁判所ほど広告に縁のない役所はこれもありません。裁判所のパソコンでコウコクって打てば、出てくるのは「公告」や「抗告」ですもんね。待ってましたとあなたたちの素人判断に電通などが飛びついた。それこそハイエナのように。でも言っときますが、同じ素人でもあなたたちとインコたちは違います。インコたちは詳しいことを知らないために自分が損をするけれど、詳しいことを知らないあなたたちは媒体に食い物にされても自分の損はありません。いい気な人たちっていう訳よ。
あなたが広報課長から刑事局長に昇進した05年は、制度起死回生のZ旗が上がった時でした。最高裁は制度のシンボルマークを発表。でもこれもまともに取り上げてくれるメディアはほとんどなかった。シンボルマークというのは、みんなが話題にしたり使ってくれたりして初めてホントにシンボルになる。注目されなけりゃおしまい。インコが聞いたのは「これは国民を縛る手錠か」というトホホな感想。
発表から13年目の今、このマークを見せて何のことか分かるかと聞いたら、100人のうち99人は分からないと答えるでしょうね。無限大をイメージしたって言うんですが、何が無限大なんですかね、オオタニさん。
そうそう、05年10月には女優の長谷川京子さんも登場しました。当時の芸能ニュースはこんな紹介をしてましたよ。
「09年までに実施される裁判員制度を広く知ってもらうため、最高裁判所は女優の長谷川京子(27)を起用した広告を新聞などで展開していくことを発表した。制度に関しては、国の世論調査で国民の7割が『参加したくない』と回答しており、最高裁では『国民の間で幅広く親しまれている長谷川さんにご協力していただくことで、より多くの皆さんが制度に関心を持っていただくことを期待しています』と説明。今月中旬から来年3月までの間に、長谷川が出演した広告が新聞のほか雑誌、インターネットで掲載される。最高裁によると、裁判員制度の広報活動でタレントを起用したPRは今回が初めてという」
こんな報道もありました。
「『裁判は、あなたに語りはじめます』。10月17日の全国紙の朝刊に、長谷川京子さんが遠くを見つめるカラーの全面広告が掲載された。最高裁事務総局には『ハセキョー』の名を知らない幹部もいたが、担当者は『国民の間では広く親しまれているはず』。最高裁は来年3月にかけて、約6億円をかけて新聞のほか約20の経済誌、インターネットなどに、長谷川さんを起用した広告を展開する。内山理名さんが登場する小冊子も制作中だ。最高裁の大谷直人刑事局長と対談し、裁判員制度の仕組みや疑問を解き明かしていく内容で、30万部刷る。こちらの費用は約970万円。こうした広報戦略には、内部から『上滑りだ』『人気頼みでいいのか』などの批判もある。だが導入まで4年を切っており、最高裁事務総局の戸倉三郎審議官は『まずは国民に振り向いてもらわないと』と話す。」
オオタニさんは内山理名さんと対談され、裁判員制度の仕組みや疑問を解き明かし、よくわかっていただけたんですかね。それにしてもこの年だけで広報予算は13億円でした。このコスパを今どう評価していますか。国民に広く親しまれている女優さんたちにあやかろうとしたけれど、この制度は国民にとことん疎まれる制度に落ち込んでいきましたね。そして「上滑り批判」を排してこの方針を決裁したのはあなたでした。
今から思えば「遠くを見つめて」というよりは、「遠い目をしている」って感じですね。もうすでに制度の先行きは暗示されていたのかとインコも遠い目(  ̄◇ ̄)
オオタニさんは無類の読書好きだそうですが、裁判員制度に反対するたくさんの書籍をお読みになられたと想像します。反対する本の方が圧倒的に多く、圧倒的に売れていました。あなたとしても感じるところが本当は多くあったことでしょう。
また、思い出してしまいました。あなたの刑事局長時代には裁判員制度をめぐる不祥事が続出したのでした。制度の広報業務をめぐって、05年と06年の2年間に最高裁が電通に発注した「裁判員制度全国フォーラム」企画(最高裁主催)で、ウソの契約日付を記載し、印刷会社発注パンフの作成でも契約日を偽るなど、16件計約22億円の契約で不適切な経理処理をしていたことがバレました。あなたは自身への波及をおそれてか、さっさと人事局長に横滑り転進しましたね。その「裁判員制度全国フォーラム」、07年には、共催の産経新聞や千葉日報が「サクラ」を動員していたことが明らかになりました。「うそつきは最高裁の始まり」という言葉が広がったのはあなたが刑事局長の時からです。
政府の「国民対話」でも、参加者が多いように見せかける「やらせ」や「仕込み」の偽装が多数行われていたことが後に発覚しましたが、最高裁が電通に委託して実施した「司法制度改革タウンミーティング」でも、電通が人材派遣会社を通じてサクラ要員を募集し、計6回の「やらせ」が行われていました。思い出すのもうとましいご経験でしょう。どうにもこうにも嫌われっぱなしの制度、藁をもすがりたい最高裁はプロの広告業者の餌食にされ、国民の血税をだだ漏れさせたのでした。うまくいかないものはどこまで行ってもケチがつくものですね。
05年秋の長谷川京子に続いて仲間由紀恵が「ともに」と手を差し出した全面広告が各紙に登場したのは06年秋でした。この時期に彼女は携帯電話会社のCMに出ていたので、多くの市民が裁判員制度のこととは思わなかったらしい。ここでも血税は無駄に流されただけだったようです。
まぁ、あなたの事務総局時代というのは悪評のくそ貯めの中で裁判員制度がもがいていた時でした。あなたはその醜状を終始見続けていた生き証人というわけだ。
制度が始まって9年目に入る今年です。1923年に始まった戦前の陪審制も発足当初から悪評さくさくで、その生命は事実上3年で絶たれた。とりわけ被告人から拒絶されたことが致命傷になりました。
その教訓に学び、裁判員制度は被告人の拒絶を認めず、裁判員も就任拒絶を原則禁止としました。かくして「強制の仕組み」として登場したこの裁判制度は、内実はどうあれ存在だけはし続けることになった。根腐れしても立ち枯れしても存在はし続けている不思議な制度です。でもオオタニさん、そういう仕組みは国民に散散の悪印象を残します。そう、司法不信という印象です。
あなたは、就任に際し「国民の皆さんにトラディション(伝統)だと言ってもらえるような制度にしたい」とおっしゃったそうですね。でもこの制度、定着もしないでどうして伝統になり得るでしょう。「むかしむかし最高裁は国民動員を目論んで裁判員制度を始めました。しかし、良識ある国民からそっぽを向かれ、制度はついに頓挫したそうな」。そんな昔話にはなるかもしれませんが。
ところで、新聞評によれば、前任のテラダさんは「的確なコントロールで変化球を投げるタイプ」で、あなたは「ストレートの豪速球を投げるタイプ」だとか。そういえば、テラダさんは「出前講座」だの「顔写真入り裁判員候補者への呼びかけ」などの変化技の持ち主でした。でも結果は、的確なコントロールどころか相手にもされないフォアボールに終わりました。オオタニさんはどんな速球を投げるのですか。不出頭者に対する処罰強化ですかね。しかし、その球は、裁判員経験者による急性ストレス障害訴訟で「ボーク」です。あなたに残された球種はたった1つ。そうです、「裁判員制度廃止」という直球。それはあなたを間違いなく「歴史の人」とするでしょう。
ではではオオタニさん、定年まで後4年半、病気にならずに良い日々をお過ごし下さいますよう。
投稿:2018年1月21日
このトピックスでも度々、転載させて戴いている猪野亨弁護士のブログ。昨年12月27日には、「菊地直子さん無罪が確定 時間が立証を阻んだのではない」をアップされました。無罪は当然だというもので、インコも声を大にしてそのことを訴えたい。
そして、改めて、2015年11月28日に猪野先生がアップされた「オウム元信者に対する逆転無罪判決 裁判員や被害者の声に違和感」をここに転載します。
これは、一審の裁判員裁判の有罪判決に対し、高裁が逆転無罪判決を出したときに書かれたものですが、最高裁判決に対しても同じことが言えるからです。以下、猪野先生のブログからです。
東京高裁は、オウム元信者に対する控訴審で、一審の裁判員裁判の有罪判決に対し、逆転無罪判決を下しました。
その理由とするところは劇薬ではあるものの、それが人の殺傷に使われることの認識はなかった、つまり故意がなかったという点でした。
元信者が起訴されたのは、都庁事件での殺人未遂と爆発物取締罰則違反のそれぞれの幇助の罪でしたが、劇薬であろうと、それだけで殺人の故意があるということにはなりません。
高裁は、この点を慎重に判断したということなのでしょう。
問題は、朝日新聞、毎日新聞がそれぞれ一審で担当した裁判員の声を大々的に報じていることです。
「捜査幹部「無罪、何かの間違い」、一審裁判員「無力感」」(朝日新聞2015年11月27日)
「菊地元信徒を有罪とした一審で裁判員を務めた会社員の男性(34)は「無罪と聞いてショック。確かに証拠が少ない難しい事件だったが、私たちが約2カ月間、一生懸命考えて出した結論。それを覆され、無力感を覚える」と話した。
一審では19年前のことを振り返る菊地元信徒や証人の記憶はあいまいで、「何が本当なのか判断が難しかった」という。「その分、自分の感覚を大事に意見を出した」と振り返る。」
菊地被告無罪:爆発負傷者「誠に残念」 裁判員、疑問の声」(毎日新聞2015年11月27日)
「逆転無罪判決について、1審で裁判員を務めた男性会社員(34)は「控訴審で刑が軽くなることはあるかもしれないと思っていたが、まさか逆転無罪とは。自信を持って出した判決なのでショックだ」と話した。
1審では教団元幹部らの証言が食い違った。事実をどう認定するかが難しく、評議は約3週間続いた。男性は「事件から年月が経過し、被告の内心の認定に頭を悩ませた。決め手となる証拠もなく、真剣に話し合った」と打ち明け、「裁判員を務めた意味が何だったのか考えてしまう。直接的証拠があり、市民も判断しやすい事件に裁判員の対象を限ったほうが良いのではないか」と語った」
元裁判員は、自信を持った判決だったそうです。このような自信をどこから持てるのかが不思議ですが、裁判員制度のもっとも重大な問題点でもあります。もともと裁判員をもてはやすマスコミは、これを「市民感覚」と表現して持ち上げてきました。
その結果、裁判員は批判の対象から外され、自信だけが増幅されていったのです。それが裁判員による死刑判決が破棄されたときから、何のための裁判員裁判だということが裁判員制度を推進するマスコミから声高に主張されるようになったのです。
それは元裁判員の声を利用する形で報じられてきました。
「裁判員制度の意義が揺らぐ? だったら死刑にすべきなのか 岡田成司氏の見解」
それがまたオウム事件というかつてのテロ事件に対する裁判ということで、「市民感覚」がどう裁くというように強調されてきたにも関わらず、その判断があっさりと否定されたものだから、マスコミが元裁判員の声ということで大きく取り上げたという構図です。
有罪・無罪のようなものが「市民感覚」で判断されるべきものではないことは当然のことで、ましてやそれが有罪方向で働くのであれば弊害しかありません。
もっとも両紙ともこのような声も伝えています。
「一方でオウム事件捜査を担当した警視庁OBの大峯泰広さん(67)は「被告の当時の上司だった土谷正実死刑囚らから、被告に事件の計画を話したという供述を得られなかった記憶がある。状況証拠を詰め切れたとは言えず、判決は致し方ない気もする」と話した。」(前掲毎日新聞)
「元捜査幹部は「菊地元信徒は逃亡したからこそ注目を浴びたが、オウム事件全体でみると果たした役割は小さかった。事件に直結する役割ではなく、元々、立証に難しさはあった」と話す。」(前掲朝日新聞)
事件の全体像については、江川紹子さんのコメントがとてもよく伝えています。
「裁判員らは一般人の感覚で『自分ならこう思う』という発想で結論を導いた。控訴審は、(信者をマインドコントロールした)オウムの特殊環境に置かれていたことも考慮して彼女の内心を推し量った」と判決を評価。」(前掲毎日新聞)
このオウム事件が起きたとき、私は司法試験を受験している頃で、その年に合格したのですが、江川さんの著作でこの元信者の境遇も読みました。周囲から本当にひどい仕打ちを受けていたということを今でも鮮明に覚えています。オウムに入信することになり、それが駒のように使われるようになったということですが、社会のゆがみこそがこのオウムのようなモンスターを生み出したことを忘れてはなりません。
もう1つ違和感があったのは被害者の声です。
「(菊地元信徒は)長年逃亡生活を続けており、罪の意識は十分持っていたはずです。無罪の判決は、その事実を法廷という場でしっかりと立証できなかったということで、誠に残念なことだと思います」(前掲朝日新聞)
逃亡=有罪ではありません。痴漢えん罪でも問題にされることはありますが、「やっていないなら堂々と釈明したらよいではないか」と言われることもしばしばです。しかし、一度、疑いを掛けられたどうなりますか。極論すれば無罪を立証しなければならない立場に追いやられるわけです。
堂々とすればいいなどということには絶対になりません。
また元信者の逃亡の背景には教団からの指令もあったのかもしれません。いずれにしても、逃亡=有罪という認識は問題です。
もしかすると一審裁判員裁判でも、このような有罪推定が働いていたのかもしれません。
オウム事件では、当時の警察庁長官も狙撃され、かなりたってからオウム関係者が逮捕されましたが、嫌疑不十分で東京地検は捜査を終えているにも関わらず、警視庁はオウムが犯人であるかのように述べ、批判を浴びました。
事件当時も首都を震撼させたということで、警察庁はオウムであれば何をしてもいいというように別件逮捕や違法逮捕などあまりにもひどい捜査がなされていました。対象がオウムだからということで当時は、ほとんど批判的に報じられることがなかったのです。
そのような中で今回、無罪判決が出たということは、当時の捜査がどうだったのか、報道のあり方がどうだったのかが問われるべきでしょう。
前掲朝日新聞が当時の警視庁幹部の言葉として、「幹部は「逮捕状を取った当時は、オウム信者を微罪でも捕まえろ、という世論の後押しがあった。年月を経て、慎重な司法判断が下されたのではないか」と報じていますが、批判的な検証こそ必要です。
当時の東京は、同時テロに見舞われたパリの状況を彷彿させます。
「フランスでは非常事態宣言の延長、国籍剥奪 日本では共謀罪、憲法「改正」だ」
投稿:2018年1月13日
めでたさも中ぐらいなりだが、一応申し上げよう、明けましておめでとうございます。
インコの立場からすると、裁判員制度が廃止されない限り、めでたさは中ぐらいなのです。
混ぜっかえさないことよ。だいたいインコさんは、この2日間飲みっぱなしで3日に新年のご挨拶なんだから。
静かにしなさい。年の初めのためしとて、今日は菊地直子さんのことを論じようぞ。
最高裁第1小法廷(池上政幸裁判長、大谷直人、小池裕、木澤克之、山口厚各裁判官)の昨年12月25日付け決定で無罪が確定した元オウム信者の菊地直子ですね。17年間の逃亡生活の後に捕まった例の事件…。
「裁判員裁判の有罪判決がひっくり返った事件」と言ってほしい。それに人の名前を呼び捨てにするのはやめなさい。新聞もテレビも何に気兼ねしてかルールを無視して依然敬称付けを避けているが、無罪が確定した人に失礼ではないか。
はい、では私から。1995年5月、地下鉄サリン事件の2カ月ほど後です。教団が都知事宛に送った郵便物が爆発し、都の職員が重傷を負いました。そして菊地さんは、殺人に使うと知りながら爆薬原料の薬品を山梨県内の教団施設から都内のアジトまで運んだとして殺人未遂ほう助などの罪名で起訴されたのでした。
菊地さんは長い逃亡生活の末、2012年6月に逮捕されましたが、始まった裁判員裁判では「運んだものが人の殺傷に使う薬品だとは知らなかった」と無罪を主張しました。しかし一審の裁判員裁判は「菊池さんは教団の幹部たちが薬品を使って人を殺傷することがあり得ると認識していた」として、14年6月、懲役5年の有罪判決を言い渡しましたね。約2ヶ月の審理。裁判長は杉山愼治氏、陪席の裁判官は江美健一氏と戸塚絢子氏です。
でも、2審東京高裁は、15年11月、「被告人は教団の意思決定を知る立場になかった」として無罪を言い渡し、菊地さんは直ちに釈放されました。裁判長は大島隆明裁判官。
検察は上告したのですが、今回の上告棄却の決定で2審判決が是認されました。最高裁は「被告人の認識内容は教団幹部らが薬品を使って何らかの活動をするという程度のもので、殺人未遂ほう助の認識があったという1審の判断には論理の飛躍があって合理性がない」などとしました。裁判官5人全員一致の裁判です。
いやいやご苦労さん。説明も簡単ではなかったね。裁判員裁判の有罪判断が高裁でも最高裁でも全面的に否定されたということだ。裁判員の有罪と裁判官の無罪。どこで判断が分かれたのか、もう少し踏み込んで考えてみようか。
1審裁判員裁判は「劇物などと書かれた薬品を運んでいて薬品で危険な化合物を作ることが容易に想像できた」「被告人は教団が人の殺傷を含む活動をしようとしていると認識していた」としています。だから殺人未遂のほう助が成立すると。
一方、2審は「薬品が取扱注意の劇毒物だとしても直ちに毒ガスや爆発物を製造することを思い起こすことは困難」「1審が薬品の危険性の意味を明らかにしないまま被告人にテロの未必的認識があったとまで認定したのは問題」「被告人にはどのような殺害行為に出るのかほとんど想起できなかっただろう」「それで殺害行為をほう助する意思があったと結論づけるにはより説得的な論拠が必要」と、1審判決を全面的に切り崩しました。
2審は、1審判決が拠り所にした井上嘉浩死刑囚の証言を分析し、井上証言は「不自然に詳細で具体的」だと断じましたね。「詳細で具体的」であることは一般的には信用性を高める要素でしょうが、高裁は、井上証言は「不自然に詳細で具体的」だと言いました。さて、どうであれば自然で、どうであると不自然になるのか、その判断の線引きはとても難しいように思います。
高裁は、長期間の逃亡の事実をもって殺人未遂ほう助の意思を認定することについても否定しましたね。
裁判員制度の導入に先立って「事実認定は素人にもできる、簡単なものだ」と言い切ったのはほかならぬ最高裁長官だった。素人には判断が困難なことがあるなどとは一言も言わなかった。
「騙される検事」は伊藤榮樹検事総長ですが、「騙す最高裁長官」は誰ですか。
町田顕(あきら)という人さ。2005年5月の憲法記念日記者会見の場で、「検察官の主張する事実を認めるに足りる証拠があるのかを常識に照らして判断するということ。そんなに過大なことを求められている訳ではない」と言っていた。15年には亡くなったがね。
井上死刑囚は何事についても饒舌で、裁判所におもねるような供述をやたらくり返しした人だったのでは。
裁判官たちはプロとしてたいていそういうことを知っている。他方裁判員たちの多くは知らないだろう。裁判官たちがどのように裁判員たちをリードしたかも問われるところだ。
それにしても1審の裁判官や裁判員たちが、末端のメンバーに過ぎない菊地さんなのに「劇物運びは危険な化合物の製造のためと想像できた」とか「教団が人の殺傷をもくろんでいることを認識していた」などと断定できたのはどうしてなんでしょうか。
それは何と言っても17年間に及ぶ「写真入り手配書」の効果でしょう。「菊地直子は殺人未遂のほう助犯人」という手配ビラは日本中の警察、交番、駐在所、市区町村役場に何万枚も貼られました。犯人じゃなければおかしい、いや確実に犯人だ、誰しもそう考えるようになっていったと思います。
でもそんな感覚で行われる裁判は理屈抜きのでたらめ裁判ではないでしょうか。裁判の体をなしていないとボクは思います。
マスコミにも責任があるでしょう。長年のお尋ね者がやっと捕まった。さぁ、「走る爆弾娘」をおもしろおかしいニュースねたにしようっていう気分だったのでは。
確かに。高裁無罪判決の時のマスコミの対応には、そんな気分に冷や水がぶっかけられたような戸惑いが窺われました。
最高裁は「被告人が認識したのは井上死刑囚たちが何らかの危険な化合物を製造し、何らかの活動をする意図にとどまる」「いずれも曖昧な内容であり、これで人の殺傷結果を想起できると推認するのは困難」「また、人の殺傷可能性を想起できるだけでは殺人の認識にもならない」と断じた。それは当たり前過ぎるほど当たり前の判断だった。
高裁と最高裁が菊地さんの無罪を明確にしたことで辛くも「破滅司法の惨」をさらさずに終われたけれど、裁判員裁判のでたらめはこれ以上ないほど明確になったということでしょうか。
最高裁決定時の報道ぶりも結構異様でしたよ。マスコミの中には、再逆転してあらためて1審判決が支持されるんじゃないかと見ていた人たちも多かったのではないでしょうか。
「オウム事件 残る無念」「被害者は風化を懸念」「年月が立証阻んだ」「関係者複雑な思い」…。新聞の見出しを見ると明らかにそんな感じがします。
その一方、捜査当局の判断ミスを論じる報道も、裁判員裁判の問題性に触れた報道もほとんどなかったのではないでしょうか。
時の経過が真相究明を困難にしたというような論調がやたら多かったように思います。
それは、菊地さんがもっと早く逮捕されていれば有罪になったはずだとか、菊地さんは立証不能になるまで逃げ通したというように言っているのに近くはないか。
インコは、菊地さんの1審裁判ほど裁判員裁判の危うさを示した裁判はないように思う。こういうことになるから裁判員裁判はやってはいけないし、廃止しなければいけないのだ。
裁判員裁判が高裁や最高裁でひっくり返ると、「無力感」に襲われたというような裁判員たちの感想がよく紙面に登場します。裁判員裁判の裁判長は、3審制という裁判構造や高裁や最高裁での破棄の可能性について裁判員に説明しないのでしょうか。
裁判員のやる気をかき立て、判決まで彼らをハイな状態に置き続ける必要があるから、気分を減退させるような話はしないし、できないだろう。結果、彼らは後になって幻滅し、2度と裁判員をやりたくないと思うようになる。
それも不幸な話ですね。いくら物好き・説教家・日当稼ぎでもそれなりの負担感はあるでしょう。それを補う高揚感で均衡をとっているのでしょうから、自分の「努力」が無駄だったとなると、何をしていたんだと思うかも知れません。
今どき裁判員をやってみたいと思う人たちは、自身の判断が否定されることについて人並み以上に反発するヘンなプライドの持ち主かも知れません。実際、菊地さんの事件の審理に参加した裁判員(30代男性)は「明らかな証拠がない中で一生懸命考えた有罪判決。自分たちの判決には今も自信がある」と豪語していました。
「明らかな証拠がない中で有罪判決を出した」と自負する神経には恐ろしいものを感じます。
それもそうだが、無理筋承知で起訴した捜査当局の責任がなんと言っても重大だ。重大犯人として手配し続けたものの、実際には菊地さんの刑事責任は問えそうにないというのが捜査側の常識になっていた事件だ。警察や検察などが誰々が犯人だと言えば、市民の中にはそうなのかと思う人が当然出てくる。当局の判断が間違っていたとなれば、当然その誤判断を謝罪し、責任をとらなければいけない。
これは裁判員裁判が言い渡した有罪判決が高裁で逆転無罪になった7件目の事件だそうですね。
曖昧にごまかすだけだろう。これで警察や検察はまた国民の信頼を失う。
裁判員のことには直接結びつかないかも知れないが一言言いたい。17年も逃げ回るのは犯人に違いないという思い込みから卒業する必要があるな。人は自分が犯人と誤解されていると思うだけで長く逃げ続けようとすることがある。そういう話はドラマの中だけではないということだ。
ボクは今回のことで今年もまた一段と賢くなれそうです。そのことに気づかせて貰っただけでも新年を寿ぐ意味があります。そうだ、今年は「レ・ミゼラブル」を読もうっと。
お屠蘇がまだ残っています。遅ればせながらそれではみんなで新年の乾杯といきますか。
投稿:2018年1月3日
裁判員制度はいらないインコ
12月1日、松尾浩也先生が胆管がんで亡くなられたことを知りました。享年89歳とのこと。インコも弔辞を述べなければなりません。インコのお山から謹んで西方浄土を望み、もとい、先生はクリスチャンであられますので天国ですね、天国を望み、一言ご挨拶申し上げます。
松尾先生は平野龍一先生の高弟でした。団藤重光先生や平野先生と同じく東京大学名誉教授。日本刑法学会の理事長もお務めになられた。日本の刑法と刑事訴訟法の研究者のど真ん中で一生を過ごされた方で、日本の刑事法の泰斗です。
しかし、先生のご逝去を報じたメディアは、先生の学績はそっちのけで、判で押したように「裁判員の名付け親」って書いたり言ったりしてました。先生の業績は裁判員しかなかったかのよう。でも学者の「亡者記事」っていうと(これ業界語。著名人お亡くなりの傍線付き報道を業界の人はこう言う)、「なんたらの研究でなんたらを書いた人」なんていう、パンピーには面白くも何ともないことが多い。みんなが知ってそうなことになると結局こうなっちゃうんですね。
ま、いいでしょう。先生は、熊本県の炭鉱の町に生まれ、五高(旧制熊本高校)を経て東大法学部に進まれ、1960年には東大教養学部で助教授をされていました。安保の風が吹いていた時代には駒場にいて、70年安保は教養学部教授でした。法学部助手から法学部助教授、教授への一直線ではない、若い頃はちょっと回り道の人でしたね。でも、定年退官後には法制審議会の会長をやったり、法務省の特別顧問を引き受けて勲章貰ったりして、しっかりお国の方に顔が向いてたみたい。
経歴ご紹介はそのくらいにして、せっかくですから裁判員の話に行かせて貰います。司法制度改革審議会という組織が内閣に設けられたのが18年前の1999年。2年かけて2001年6月に審議会は裁判員制度の採用などを求める意見書を時の内閣総理大臣に提出しました。総理大臣は就任早々の小泉純一郎氏。彼はこの答申を国家戦略として推しすすめると言いました。その裁判員制度の話です。
話はちょっと戻りますが、審議会では陪審制の採用をめぐる論争が延々と続いていました。最高裁は素人の裁判能力に強い疑問を示し、誤判を生む危険のある陪審は絶対に採用すべきでないと主張し、審議会は審議期間の大半が過ぎても話がまとまらなかった。裁判官と一緒に裁判をする評決権なしの「参審制」で行くというところまで最高裁が譲歩した2000年11月になって出された中間報告でようやく裁判員制度の骨格らしきものが見えてきました。
「裁判員制度」が登場したのは第4コーナーに入った2001年のことです。
突然の話でした。1月の審議会で行われたヒアリングに登場した当時法制審議会会長だった松尾先生が、「裁判に市民を参加させ、参加する市民を裁判員とでも読んだらどうか」と提案したのでした。これで、松尾先生の人生を代表する出来事が「裁判員」の命名みたいなことになっちゃった。ひょんなことでひょんと命名されてひょんと滑り込んだ「裁判員制度」だったんですね。
松尾先生は、制度実施1年目の2010年5月には、法務省で講演して、「法曹3者の綿密な準備で順調なスタートが切れた。裁判への国民の積極的な姿勢は今後も変わらないだろう。司法への国民参加は一つの文化になりつつある」なんて、実態とはめちゃかけ離れたスピーチを行って話題になりました。浮世離れした学者先生だなぁってことで。
だって、この当時はもう裁判員なんてやりたくないっていう声がどんどん強まっていて、世論調査をした新聞社も最高裁も「こりゃあかん」と悲鳴を上げていましたからね。現場はすでに惨状でした。
でも、実を言うと、制度実施直前に当の松尾先生自身が「現状は少なくない国民が参加に消極的なようです」とおっしゃっましたね(『毎日新聞』2009年3月13日)。その後推進派は、制度は順調と言い続けました。実態とかけ離れた説明をする文化が最高裁を中心に広がったことだけは確かです。
松尾先生の造語とされる「精密司法」についても一言述べておきましょう。松尾先生は、日本の司法は精密司法として運用されてきたと言われました。犯罪を緻密に分析し、被疑者・被告人の責任を厳密に判定する姿勢を指して言われた言葉でした。それはラフ・ジャスティスの対語、あるべき刑事司法の姿を積極的・肯定的に評した言葉でした。
でも裁判員制度の登場以来、精密司法は良い意味では使われなくなりました。精密司法の反対語は「核心司法」なんですって。「精密」は「反核心」だっていうことになると、「精密」の意味は「どうでもいいことにやたらに関心を寄せる無駄司法」ということになるらしい。今度は一転して消極的・否定的な言葉です。
インコは、短い時間に素人に判断させる「粗雑司法」に変わっただけだろう、人権擁護という観点を費用対効果の論理で踏みにじるものではないかと声を大にして言いたいです。
そうそう、松尾先生については、裁判員制度の関係でどうしても触れなければならないことがもう一つあります。それはテラダ現最高裁長官が2015年の裁判員候補者の名簿搭載通知の中に、自分の写真入りの「最高裁判所長官からのごあいさつ」という脅迫状まがいの書面を入れたことについてです。
その書面の中で、テラダ長官は「我が国の刑事司法は近代的な訴訟原理のエンジンが回っている一方、国民参加のエンジンが回っていなかった」とおっしゃった松尾先生の言葉を引用されました。先生がどういう意図でそういう言い方をされたのかインコは知りませんが、話はもう少し精密におっしゃった方がよかったと思います。
正確に言えば、我が国の刑事司法は近代的な訴訟原理を掲げながら実際にはまともに行われてこなかった。我が司法の冤罪史を一瞥しただけでもそのことは歴然としている。その結果、国民は我が刑事司法をあまり信用しなくなった。そういうことでしょう。
とするなら、必要なのは片肺飛行を両肺飛行にするのではなく、裁判官エンジンをオーバーホールして総点検することではないでしょうか。欠陥裁判官エンジンをそのままにして国民エンジンを一緒に回すと、飛行機はどこに飛んでいくか、どこで墜落するかわかったもんじゃありません。
また、裁判官エンジンにはものすごい強力な推進力があるのに、国民エンジンはまるっきり力がなければ両者の協力で飛んでいるように見えても、実際には裁判官エンジンだけで飛んでいることにもなります。実際の飛行機は片肺でも飛べちゃいますからね。
松尾先生の言葉入りのテラダ書簡にも起死回生の神通力はなかったようで、その後も裁判員候補者の出頭率は下落の一途です。
最後に申し上げます。「先生との永遠のお別れのこの時に、この制度ともお別れにさせて下さい」ということです。「制度もどうぞ持って行って」です。竹内浩三の「兵隊のひょんと死ぬる」は腹からの怒りと慟哭のうたですが、この制度について言えば、制度がひょんと死んでも私たちは少しも悲しくありません。先生は、「国立大学が教官なら、私立大学は教員だ。そうだ、裁判員で行こう」。そんな発想だったっておっしゃってましたよね。どうせ先生の思いつきで登場しただけの制度です。なくなったら国民が慶祝し、裁判所の職員も裁判官も正直ほっと安堵の胸をなで下ろすだけです。
おまけを申し上げれば、先生のご逝去とともにこの制度がなくなれば、先生の名声は長く国民の心に残り、みんな飛行機に乗った時には先生のお名前を思い起こすことでしょう。
それでは先生さようなら。
投稿:2017年12月31日
関西の1研究者
「裁判員を経験した人たちは隠れキリシタンのように生きている」という言葉があるのをトピックスで知りました。隠れキリシタンは権力の統制に抗い世間に隠れて自身の信仰を守り通した人たちです。裁判員経験者たち最高裁や政府の司法政策に協力しようという人たちですから、その言い方は美称に過ぎるというか、間違っていると言った方がよいと思いますが、自身の経験を世に隠して生きているところは確かに共通しています。
でも不思議な話です。裁判員法は審理や評議の秘密を漏らすことは禁じていますが、裁判員になったことを周囲に知らせることはもちろん許されるし、経験を通して抱いた感想も漏らしてはいけないなどとは一言も言っていません。むしろ裁判員裁判を広く宣伝してもらいたくて仕方がないはずです。裁判所の雰囲気、裁判官の態度、他の裁判員の姿勢、被告人の態度、検察官や弁護人の言動などに関する感想……。何の差し障りもなく話せることはいくらでもあります。最高裁自身、裁判員裁判について周囲に知らせ、良い経験をしたとできるだけ広汎に伝えてほしいと裁判員経験者に言うように、現場の裁判官たちに強く指示しているはずです。
それにもかかわらずほとんどの人たちが黙りこくる。裁判員制度が国民の支持と共感を取りつけていることを最高裁が強調する時に判で押したように言うのが、裁判が終わった後に裁判員経験者たちに書かせる感想の内容です。「貴重な体験であった」と肯定的な評価をした者が95%を超えたと最高裁は誇らしげに発表したのは2012年12月でした(「裁判員裁判実施状況の検証報告書」最高裁事務総局)。しかし、その後5年も経ちますが、最高裁はその数字のその後の変化などについて一切語りません。裁判後の感想は一貫して集めていますから、その数字もその後怪しい状態になってきているのかも知れません。
貴重な経験をしたと評価した人が圧倒的多数なのに、出頭率がどんどん下がっているのはなぜか。この2つのデータの関係に関して、最高裁も制度翼賛論者たちもひとことも触れないのは不思議です。矛盾を暴露することになるので、触れる訳にはいかないのでしょうか。
とは言え、先日のトピックスでは、「裁判員をやりたいと思って出頭したのに選任されなくて残念だった」という人の話が登場していましたから、やりたくてしょうがないとかやってもよいという人がまだ多少はいるのでしょう。
人を裁き処断することは市民の人生に絶対にない経験です。誰かについて死んだらいいとか殺してやりたいと思ったり、言ったりしても、それは言っているだけに過ぎません。職業裁判官でもないのに、懲役20年の判決言い渡しに関わってその判決が確定すれば被告人は20年刑務所に押し込められるし、死刑判決が確定すれば被告人は絞首台に追い込まれます。その行為に市民が関わらされ責任を負わされる。その経験は職業軍人でもないのに戦場に赴き人を傷つけたり殺したりするのを強制されるのとあまり違いがないのではないか。
そういう人たちがどうしてこの国にいるのか、考えて見たいと思います。インコさんのおっしゃる「ワインの澱」に関する考察です。
作家の西村京太郎さんが戦時下のご自身を書かれた「十五歳の戦争」の中に、次のような記述があります。
14歳で入校した陸軍幼年学校では将校養成コースを選んだ。ラッパ起床、整列・食事の遅刻厳禁、教師命令の絶対。1カ月過ぎる頃、鏡の中の自分の目がキラキラしていた。緊張の連続がすごい充実感を生んだ。それはおかしな充実だった。空襲で焼けた校舎に「天皇陛下から頂いた短剣」を取りに戻った同級生が命を落とした。彼は校長から「名誉の戦死」と称えられた。
私は、その状況が少しわかるような気がします。恐ろしく重大なことを実行する自分。自身を極端に高揚させないととてもやりきれない心理。やりがいのあることだと自身に得心をいかせることで辛くもやりおおす。「貴重な経験をした」というのは、自身に言い聞かせる「窮極の説得用語」以外のものではないのではないか。「貴重な経験をした」は、自分はいったい何をしていたんだという自身への指弾と苦悩を回避するための自分への必死の言い聞かせなのだろう。その裁判員経験者の目はもしかすると「きらきら輝いていた」のではとも思う。おかしな充実であることは時が経過すればわかります。だから彼らのほとんどは自らの苦悩や葛藤を人に言えず、密かに生きることになる。
裁判員裁判が始まった翌年2010年3月26日の『朝日』声欄で、「警察官になりたくなる一瞬」という58歳の男性の投書を読んだことを思い起こしました。違法運転者を認めた瞬間に自分はその場で検挙し、容赦なく切符を切れる警察官になりたくなる。その思いを踏まえ「民間通報検挙制度」の導入検討を提案したい。みんなが警察に通報する。周りの誰が通報者かわからないという心理状態は効果を生むに違いない。そんなことが書かれていました。
市民が国家権力の手先を買って出ようとする構図そのものです。
そして、「同意の調達と利用」の思想はナチズムの特徴です。『ヒトラーを支持したドイツ国民』(2008年・ロバート・ジェラテリー・みすず書房)は、「強制」と「同意」が絡み合いながらナチス体制を支えていったと分析しています。
インコさんの動画「総統閣下は裁判員制度の失敗にお怒りです」が各方面で話題になっているようですが、裁判員制度をヒトラーに結びつける発想は案外恐ろしい現実味を持っているように私は感じます。
京都大学名誉教授の池田浩士先生は、ジェラテリーの本の紹介文(08年3月『日経』)の中で、「国民の能動性に依拠して戦争と大量虐殺に突き進み、敗戦に至るまで国民に支えられつづけたヒトラー体制の日常を、本書によって見つめなおすとき、凶悪犯罪を激しく憎む私たちの世論と、近く始まる『裁判員制度』の行く末にも、思いを致さずにはいられない」と書いておられました。今になって私は池田先生の慧眼を深く考えさせられています。
以上
投稿:2017年12月10日
中国唐の時代、悠久の自然を前に、政治に翻弄された詩人たちが、人の命のはかなさ、頼りなさを詠んだ漢詩二題
21世紀の東の果て島国、鳥頭よりさらに軽い浅はかな制度が、政治に翻弄されて作られたことに怒ったインコが詠んだ漢詩二題
前不見古人
後不見来者
念天地之悠悠
獨愴然而涕下
前に古人を見ず、後に来者を見ず。天地の悠々たるを念い、独り愴然として涙下る。
過去の人に会うことは出来ない。この後に生まれ来る未来の人には会うこともかなわない。天地がこのように悠々と続いているのを思うと、人の一生の短さが胸に迫り、私は一人さめざめと涙を流す。
作者:陳子昴(中国初唐の詩人。武則天朝の酷刑や密告制度を多用する政治体制を批判して投獄された)
前不識法人
後不識私人
念鸚哥之悠悠
獨愴然而涕下
前に法人は識なし、後に私人は識なし。
鸚哥の悠々たるを念い、独り愴然として涙下る。
施行前、法の人は裁判員制度に見識がなかった。施行後、市民は裁判員制度には見識がないと言う。インコだけが悠々と前も後も廃止を言っているのを見ると、制度を推進してしまった悲しさが胸に迫り、私(最高裁長官)は独り、ただ涙を流すだけである。
作者:インコ(本音を語ることの出来ない長官になりかわり、インコが羽組みをして詠む)
千山鳥飛絶
萬徑人蹤滅
孤舟簑笠翁
獨釣寒江雪
千山 鳥飛ぶことを絶え 万径 人蹤滅す 弧舟 簔笠の翁 独り釣る寒江の雪
見渡す限りの山々は鳥の飛ぶ姿も見えず、雪の積もったどの小道にも人の足跡は見られない。簔笠をつけた老人が、雪の降る寒々とした川に小舟を浮かべ、独り釣り糸を垂れている。
作者:柳宗元(中国中唐の詩人。政争に敗れ、永州司馬に左遷されたときに詠んだものとされる)
本庁人来絶
支部人語滅
孤立司法長
独立逆風晒
本庁 人来ることを絶え 支部 人語を滅す
孤立 司法の長 独り逆風に晒されて立つ
本庁に来る裁判員候補者の姿は絶え、支部でも裁判員の話し声は消えてしまった。孤立した最高裁長官は、制度を廃止しろという逆風に独り晒されて立っている。
作者:インコ(誰もいなくなってしまった裁判所の庭に、己の写真を胸に下げて立つ老人を認めて、ふと詠む)
投稿:2017年12月5日
親愛なる地裁刑事部職員の皆さま方へ
前略
そうでなくても人べらしで日頃から苦労されている皆さま、8年前に最高裁が訳のわからない制度を始めたことで、義務を果たしに来るだけの市民に最大限の敬語を使って粗相のないように対処せよなんて厳しく言われくそ面倒な気遣いに追われている皆さま方におかれましては、お疲れとお嘆きと憤懣の日々をお過ごしのことと心からご同情申し上げます。
今や裁判所に出頭してくる、いえ皆さまの慣用語法では「出席」なさる人たちは、お上に召されて御用を果たせるのが嬉しくて仕方がないお調子者と、長いものには巻かれるしかないと思い定めている諦めの人と、暇をもてあましている説教たれと、行かなきゃ過料行けば日当、そうだ裁判所行こうと財布を握る人だけになったと言われています。
人を見る眼という言葉がありますが、出頭してくる人たちの風貌、顔色、挙動、視線、言葉遣いなどを観察されている皆さまの眼には、この人たちはどのように映っていますか。皆さまが自身の誇りをかけて生涯の仕事に選んだ司法の現場がこんな姿になってしまったことをどうお考えでしょう。おいおいこれが裁判かよって正直思っているのではありませんか。
本論に戻ります。インコ先輩は、「ワインの澱のような人たち」と言ってますが、ボクは出頭者のすべてが吐き出すしかない澱のような人たちだとは思っていません。もっともこれからはわかりませんが今のところの話です。現在は、その人たちの中にも「やりたくない」と言うためだけに出頭してくる人たちもいます。その皆さんはくじで外れればほっとして裁判所を後にします。
しかし、人を裁きたくて出てきた人たちはくじ引きで外れるとがっかりするんですね。何だやらせてくれないのかって職員の皆さんに怒りをぶつける人もいるやにうかがいます。11月14日付け『朝日』の声欄には「裁判員呼び出し 駆けつけたら…」という投書が掲載されていました。これもどうやらその手の人らしい。彼はあわれインコ先輩の餌食となりました。ご覧にならなかった向きはぜひご一読をと思います。
その中で、ボクは「くじで外れてがっくりしている人にはテラダ長官の顔写真&サイン入りの感謝状を差し上げるという方針が登場するのでは」と申しました。われながらそれは妙策だと思うのです。司法への信頼を維持するというテラダ長官のお気持ちにもそうのではないでしょうか。そこで、僭越ながら、最高裁事務総局になり代わり、「最高裁判所長官からのごあいさつ」というタイトルの感謝状を作ってみました。地裁刑事部職員の皆さまにおかれましては、ぜひともこの感謝状をご活用いただき、裁判員に選ばれなかった市民にお渡し下さるようお薦めいたします。丁寧に懇切にお渡し下さいね。
そう、お客様は丁寧に懇切に対応しなければならない神様です。そしてまた、お客様は結局のところ司法判断の本当の中身には関わりようのない通りすがりのお客様です。通りすがりの人たちからも非難や中傷をされないように配慮することは出前持ちとしての常識だとテラダ長官にお伝え下さい。
急に寒くなってきました。裁判所内のブリザードはこれからますます激しく厳しくなるでしょう。皆さまのこれからの生活が実り多きものになりますよう、どうぞご自愛ください。ボクはインコのお山のてっぺんからじいーっと観察させていただきます。
草々
投稿:2017年11月26日
これは『朝日』(11月14日)の声欄への投稿のタイトルです。
千葉県に住む70歳以上になる義弟に地裁から呼び出し状がきた。「正当な理由のない不出頭は過料の対象になるかも」などと書かれていた。やりくりして2日間日をあけて出て行ったら、「70歳以上は辞退できるのを知っているか」と聞かれた。えっと思い、「知っているが司法に興味があるので来た」と答えた。事前に辞退したいと裁判所に伝えていなかったし、強い文面で日時を指定している以上、行けばやることになると思っていた。実際には選任で外され、役立ちたいという義弟の気持ちは裁判所に振り回されて終わった。年齢を言うのなら選考の段階で考慮できないのか」。そんな文章でした。
今でも、正当な理由のない不出頭は過料の対象になるのですよね。
でも、理由の有無にかかわらず無断で出頭しない人はものすごい数になっているのに、1人も制裁を科されていないんでしょ。
そうだ。でも、制裁しないと言い切ってしまうと不出頭者が更に増えるから、最高裁は幾ら有名無実になってもこの規定を改めるわけにはいかない。
やってみたいという人は今や極少です。みんなやりたくないと思っているとなると、最高裁としては何があってもこの言葉を消すわけにはいかないんでしょうね。
そういうこともあるが、この制度の本質は国民意識の改造にあるのだから、やりたい者だけの制度にするなんていう制度仕組みの本質を変えるようなことはできるわけがないのだ。
『朝日』は、こんな人がまだいたんだという感動で投稿を掲載することにしたんでしょうね。制度推進新聞らしい。
70歳以上は辞退できるっていうことは呼び出し状に書いてあるんじゃなかったっけ。
書いてある。この義弟という人はその説明も読んだけれど、裁判員をやってみたいと思っていたので、計画していた旅行の日程を切り上げて出頭したというのだ。
どうしてそんなに辞退できるんだよとしつこく言うのだ、私はやりたいんだということですね。
そう言われても裁判所は簡単には引けない。異議も申し立てず裁判員の仕事をやり通した人から「どうして私に裁判員をさせたのだ」と国家賠償請求の訴訟を起こされたからな。
トラウマだかなにうまだか知らんが、最高裁は国賠事件以降、やりたくなければやらないでくれとしつこく言えと現場を指導するようになった。
やりたくないというのは出頭を拒否する正当な理由になったんですか。
裁判員法に出頭義務の規定がある以上、堂々とは言えないが、裁判員就任を事実上抑える方針をとっている。
70歳以上の国民には裁判員資格がないことにするという案はないんですか。
そうするとそれは問題だという論が必ず出てくる。大体これだけ不評の制度でも支えようと言ってくれるんだから、テラダ長官なんぞ涙を流して卒倒するほどうれしい話なのだ。
制度構想としては、やりたくてしようがない人というのはお呼びじゃなかったんでは。インコ先輩は「どうしようかなぁと迷っている中間層が主要なターゲットだ」とか言ってませんでしたか。
そのとおりなのだが、ここまで不評と反発が続いたら、そんな原則論を言っている余裕なんてなくなってしまっている。
とにかく来てくれる人は誰だっていいから来てくれ、拒絶しないでくれっていう状況なんですね。
そんな状況なのにこの義弟さんのような人を作ってしまっちゃダメじゃないですか。
くじで外れてがっくりしている人にはテラダ長官の顔写真&サイン入りの感謝状を差し上げるという方針が登場するんじゃないかな。
面白い。裁判員候補者名簿登載通知で呼びかけるだけじゃ駄目。奇特な方へのアフターフォローもしていただかなきゃ。
拒絶がひどく増えて裁判員と補充裁判員の数しか残らないというような場合でなければ、選任期日にはくじ引きが行われるんですよね。
選任手続きがあると書かれていれば、この義弟さんは自分が選ばれないこともあり得ると考えていてもよかったように思うんですが。
♪やりたいきもーちがままーならーぬ、さいばんのくーじはー、つめたーくはずーれー♪♫
(無視して)呼び出し状に「ほとんどの場合にくじびきという手続きがあります。あなたがどんなにやりたくても裁判員にも補充裁判員にも選ばれないことがあり得るのです。もしかするとそうなるかもしれないということを考えて、そうなっても致し方ないというおつもりでお見えください」と太文字で書くことが考えられる。
でも、そんなことを書くと、旅行を取り止めたり受診日を変更したりしても全部無駄になるかもしれないぞということを事前通告するようなものですね。
そんな犠牲を払わなくちゃいけないのだったら裁判所に行かないことにするという人がどっと出てしまいますね。
そのとおりさ。それで出頭車は一挙に20%を割る。インコのかねての説明を使わせて貰えば、ワインの本体と澱の境界辺の微妙な層がごっそり不出頭側に言ってしまい、旅行や受診日の変更が無意味になったとしても裁判所やテラダ君を恨まないという奇特な人だけが残るのだ。
それはまた、制度の破綻をみんなに示してしまうことにもなりますね。
日頃司法に興味を持ち、裁判所から呼び出されたので万障繰り合わせて裁判所に駆けつけた人が選任されずに怒っているというそのこと自体が現在の裁判員制度のありようを象徴しているように思います。
どう取り繕ったところで制度は完全に破綻している。京都地裁の裁判員裁判で行われた青酸事件を見てみろ。裁判員は記者会見で「証人尋問などで専門用語が飛びかい、理解が追いつかず質問も浮かばなかった。素人にもわかりやすい言葉で説明してほしかった」と言ったそうだ(『京都』11月7日)。自分はよくわからないまま判断したと告白している。この事件の判決は死刑だったのだ。
やりたいという執念一筋で参加したり、やってもよいという程度の無責任な感覚で参加したりしている人たちがこの国の重大刑事裁判を担っている。
『共同』の大きな配信記事は、裁判員経験者は「被告人が共犯者と知り合った経緯を知りたいと裁判官に言ったら、明日の公判になればわかると言われた。裁判員はお客さんに過ぎず、なめられている。被告人がどんな人かもわからなかった」という裁判員経験者の言葉を紹介しています (『山梨日日』10月19日など)。
「裁判官が教え、裁判員が教えられる関係だった。台本どおりにやっているという感じだった」と言っている女性裁判員の声も紹介していますね。
今、最高裁が現場の裁判官に求めているのは「レールは見えないように引け、台本を裁判員に気付かせるな」だ。裁判員の意見を尊重しつつ結論を出しているというように装いながら既定の結論に上手に導いていけるかどうかで裁判官の能力を判定している。
これまで裁判員を経験した人は5万9000人います。この人たちはいったい今どこにいるのでしょうか。『山梨日日』は隠れキリシタンのように生きていると評する人もいると紹介していますが。
投稿:2017年11月23日
下記は「弁護士 猪野亨のブログ」11月18日の記事です。
インコ作成の「総統閣下は裁判員制度の失敗にお怒りです」をご紹介いただきました。
猪野弁護士のご了解の下、転載しております。
この動画がおもしろいです。これまでに起きた司法「改革」がらみの不正や不祥事が思い起こされます。
司法制度「改革」が始まったのが2001年の司法制度改革審議会の意見書(なのでその前からは始まっているのですが)とすれば、それに日弁連やマスコミ、政府、大学関係者などがこぞって、その司法審意見書を絶賛していました。
しかし、すべての「改革」がことごとく失敗し、散々たる状況を招いていますが、未だに「反省」の声が聞こえません。
動画では、「関係者」が悲痛な面持ちになっていますが、本来、今の惨状をみたらこうならなければならないはずです。
推進した人たちには一欠片の自責の念はあるのでしょうか。
推進してきた方々へ 少しの良心でも残っているなら動画を見て反省してください。
投稿:2017年11月19日
下記は「弁護士 猪野亨のブログ」11月15日の記事です。
猪野弁護士のご了解の下、転載しております。
裁判員裁判では時折、疑問符の付くような判決が出てくることがありますが、これもその1つではないでしょうか。
「不倫に激高、妻を死亡させた夫に判決」(MBSニュース2017年11月13日)
「13日の判決で大阪地裁は「抵抗しなかった被害者に対し、暴行を繰り返したことは厳しい非難を免れない」とした一方で、「被告人が激しい怒りを覚えたのは理解ができ、重大な傷害を負わせる意図はなかった」として、本間被告に対し懲役3年執行猶予5年の判決を言い渡しました。」
不倫をした妻に繰り返し暴行を加え、その結果、急性硬膜下血腫などの傷害を負わせ死亡させたという事件ですが、不倫をした配偶者であろうと暴力が許されるはずもなく、その責任は重大なのですが、「被告人が激しい怒りを覚えたのは理解ができ、重大な傷害を負わせる意図はなかった」から執行猶予に結びつくのかが理解不能です。怒りを覚えることと暴力行為を結び付けるには飛躍があるからです。
「理解でき」できようができまいが暴力行為自体を正当化することはできないのですから、それが執行猶予の理由(根拠)として挙げられていることになります。
この判決を意訳すると、こんな感じになります。
「不倫に対して殴ってしまったのはよくなかったけれど、不倫したやつがわるいんだしね、結果として死んでしまったのは残念だったけれど、まっ、死ぬとは思っていなかったんだから仕方ないよね」
暴力行為から死の結果が生じることは当然に予期できることであり、だから傷害致死罪という犯罪類型が規定されています。
本来であれば、頭部や腹部に繰り返し暴行を加えれば死の危険があることは明らかであり、死ぬとは思わなかったという主張(言い分)でさえ、疑問符のつくところであり、殺人という故意の有無、その立証の問題に行き着くことから、検察は傷害致死での起訴ということになるわけです(その辺りがかなり定型的に処理されていると思います。被害者側が納得できないのは、これが何故、殺人ではなく傷害致死なんですかという思いです)。
「虐待する親に親としての資格なし 幼児の頭を殴って死亡させても傷害致死にしかならない怪」
この事件でも同じ何故、傷害致死どまりなのかという疑問が沸きます。殴り殺したという感じなのですが。
参照
「I容疑者の詳細情報!19歳の与島稜菜さんを殴打し殺害した動機とは?新橋ホステス傷害致死事件まとめ」
今回の裁判員裁判の判決は、これら傷害致死を適用はしているものの、死亡の結果が生じた、しかし殺人の故意は立証できないということを前提としたものよりもさらに軽く扱うものです。
裁判員が関与しからの判決なのか、裁判官だけでも同じような判決になったのか、その裁判員の顔ぶれがわからないので断言はできませんが、裁判官だけの判決ではこうはならなかったのではないでしょうか。
インコおまけの一言
どうも「女性差別の匂いがする判決」なんだよね。不倫も浮気も法律では「不貞行為」。
夫(男)が他の女と情を通じたって? 男が浮気するのは仕方ない、よくある話だ。
妻(女)が他の男と情を通じたって? 不倫するような女はけしからん。夫をこけにしたんだから殴られて当然。
そんな意識が根底にないか?
投稿:2017年11月18日
10月2日の『静岡新聞』夕刊「窓辺」欄に、「女優検事」と題して裁判員裁判にまつわる次のエッセイが掲載されました。筆者は静岡地検の検事正です。
私は本年2月から現職にありますが、静岡地検勤務は2回目で、前回2010年10月から約1年半、沼津支部長を務めました。その短期間に、同支部では連続女性暴行犯の裁判員裁判が5件も集中しました。
連続女性暴行犯5人のうち、最も悪質だったのは10年間に通行人の若い女性9人を襲った被告人で、無期懲役の求刑も考えられました。しかし、この被告人は別の犯罪で執行猶予付き判決を受けていて、刑法の規定により確定判決前後の5件と4件を分けて求刑しなければなりませんでした。
そこで、いずれも有期最長の懲役30年を求刑し、合計懲役50年(24年と26年)という判決が得られました。刑事裁判史上異例の判決だったこともあり、今も強く記憶に残っています。
これら連続女性暴行犯5人は全員起訴事実を争わなかったため、幸いにも被害者が証人として呼ばれることはなく、被害状況の立証はすべて供述調書の朗読によって行われました。これを一人で担当したのが当時任官3年目の若い女性検事でしたが、被害者は計30人近くに上りましたから、裁判を重ねる都度、朗読の技量は当然向上します。
そのため、裁判終了後しばらくして、司法修習が同期だった裁判補から「女性裁判員が『検事が女優さんみたいだった』と言っていたよ」と伝えられたそうです。被害者を思い、自らの職責を果たせたという安堵感もあったのでしょう。うれしそうに私に報告してきました。
でも判事補君、それって評議の秘密じゃないの?
組頭は人聞きが悪いな。警察で言えば県警本部長、裁判所で言えば地裁所長。
朗読がうまくなったら女優みたいだと誉められたっていう女性検事の話です。
彼女は女優みたいではなく、本物の女優だ。人を殺した犯人を演じたことはあるが検事をやったことはなかったはずだ。
窓辺に寄っても目に入るのは犯罪人、てな日々を送ってるせいかも知れぬ。
家族と一緒の北海道旅行中に速度違反をしたっていう経験を政府刊行雑誌に書いて話題になった検事総長ですね。
オホン、本論に戻して、このエッセイに書かれているのは、通行人の若い女性を何人も襲ったが、1件も警察に把握されない間にこの男は別の犯罪で捕まり、その事件で執行猶予付きの有罪判決が出たということだ。
その判決が確定するまでの被害女性の数は総勢5人でした。その判決の後に4人を襲い、結局10年の間に都合9人が被害者になったという訳ですね。
連続女性暴行とありますが、強姦、最近名称が変わって強制性交ですか、そのことなんでしょうね。こんな数になったのは被害者が被害を警察に届け出なかったからかな。
こういう時には確定判決の前の事件と後の事件は別々に判決を言い渡すんですね。
そうだ。前の一群の事件と後の一群の事件に分け、それぞれ言い渡すことになっている。
それで前の事件の判決の量刑が24年、後の事件の判決の量刑が26年、合計50年になったと。
そうとは限らないのだが、被告人が起訴事実を争わないと言うと、普通、検察官は証人調べの代わりに被害者を取り調べた捜査段階の調書を朗読させてくれと裁判所に申し立てる。普通、弁護人はそれに同調する。すると裁判所はそれで行こうと応える。
要点を検察官が朗読する。男女のやりとりを男の検察官と女の検察官が読み分けて演じたこともあるな。
お芝居の世界ですね。本当の話か作り話かなんだかわからなくなりそう。
話を裁判に戻します。調書重視はやめて法廷で調べろというのが竹崎前最高裁長官のお達しだったのでは。
まぁな。しかし現場には、被告人が起訴事実を認めた時まで被害者の証人尋問をする空気などない。何が何でも早く裁判を終わらせろと言われてるんだからな。
調書の朗読が上手になったということは、反面尋問技術が低下しているってことかも知れませんね。
それもないではないが、もっと気になるのは、調書の朗読技能が向上したとか、検事が女優のようだったとかいう話がいかにもうれしそうに語られていることだ。
9件もの事件が隠れたままで経過していたのはどうしてだったのだろう。どれもこれも調書を読めば済む事件と決めつけてよかったのか。そもそもこの被告人には刑事責任が問える能力が真実あったのだろうか。あれこれのシリアスな問題が潜んでいたのではという疑問が残る。だが、この検事正はそういうことにまるで関心がなさそうだ。
市民・県民にはこんな話の方が受けるだろうと思ったのだとすれば、それは愚民思想だろう。どっちにしても底抜けに底が浅い。
「自らの職責を果たせたという安堵感でうれしくなった」という言葉もあります。
その程度のことで検事の職責を果たしたと思ったり、安堵感に浸っているようでは文字どおり検事は失格だ。
最後に「でも判事補君、それって評議の秘密じゃないの?」という言葉で結んでいます。
裁判員が評議の中で聞いたことを漏らすと評議の秘密の漏洩になる。それから着想して書いたのだろうが、そんなことは評議の秘密の漏洩にならない。
それもあるが、そもそも裁判官は評議の秘密を漏らすことを禁じられていない。袴田事件で自分は死刑に反対したと告白した熊本典道元裁判官は処罰されていない。
それには深い意味があると読んだ。この一文を読んだ静岡県民はどう思うか。
「検事が女優のようだった」という単なる感想も評議の秘密の漏洩になるんじゃないかと思います。そうなれば、ますます裁判員になりたい人はいなくなります。
そうだ。奥村検事正はそう思わせたかったのだ。だから、東海の小島で蟹と戯れながら、刑事司法の行く末を嘆いておられるのだ。
投稿:2017年10月8日
季節柄、法律事務所報が出回っています。事務所報は弁護士が自分の依頼者などを相手に、所員の近況報告をしたり、話題の司法情報などを紹介する「拡大版暑中見舞」です。インコのお山に伝わってきた事務所報の中に裁判員に触れたエッセイがありました。
先生方は裁判員制度の現状をどう論じているのでしょうか。
まずは弁護士歴14年、東京の松田耕平さん(城北法律事務所)の言葉。タイトルは「裁判員裁判で変わったの?」 要旨は次のとおりです。
「最高裁のホームページによれば、裁判員制度を導入した趣旨は、国民の皆さんが刑事裁判に参加することにより、裁判が身近で分かりやすいものとなり、司法に対する国民の皆さんの信頼の向上につなげ(が)ることと言われている。
一般の方々を説得するため、弁護人も検察官もより簡潔で分かりやすく主張を伝えるようになった。パワーポイントの使用はその一例だ。
裁判員の負担を考慮して開廷期間を大幅に短縮させたが、準備の公判前整理には相当時間がかかっている。
判決の中身はどうか。2012年に発表された検証報告書によれば、生命に関わる犯罪などでは裁判官判決より刑が重くなる傾向がある。し一方、保護観察付きの執行猶予判決も多くなっている。重・軽両方向に判決(量刑)の幅が広がっていることから、裁判員裁判は裁判官裁判よりそれぞれの事件の事情を詳細に拾い出した判決になっているのではという見方もある。
裁判員裁判は順調にも思われるが課題も多くある。8割以上が参加したくないとアンケートに答えており、実際の参加率もこの間84→65%と大幅に低下している。(重い)守秘義務の問題もある。国は改善対策に取り組むだろうが、制度趣旨が実現されるかどうか、今後の推移を注意深く見守る必要がある。」
松田クン。きみは裁判員制度の現状や問題点にはひよこの涙くらいしか触れていないではないか。タイトルからすれば、裁判は標榜したほどには変わっていないのではと言っているようにも読めるが、何を言いたいのかはっきりしない。
「裁判員制度を導入した趣旨は、国民の皆さんが刑事裁判に参加することにより、裁判が身近で分かりやすいものとなり、司法に対する国民の皆さんの信頼の向上につなげる」という最高裁の姿勢については、正しいというのでもなく問題だというのでもない。
「司法に対する国民の皆さんの信頼の向上につなげる」という前提にはこの国の司法をもっと信頼して貰いたいという認識があり、その前提にはこの国の司法はまっとうなものだという認識がある。
松田さんが所属している法律事務所は、そういう権力的司法観に対決してきた事務所ではなかったですか。
「生命に関わる犯罪などでは裁判官の判決より重い傾向があるが、保護観察付きの執行猶予判決も増えている。重・軽両方向に量刑の幅が広がっていることから、裁判員たちは職業裁判官よりも事件の事情を詳細に拾い出しているのではという見方もある」と。
「生命に関わる犯罪」と言うが、裁判員裁判は基本的に生命に関わる犯罪を対象としている。裁判員裁判は覚せい剤関連事件を例外として、裁判官裁判時代より基本的に有罪率は高くなり量刑は重くなっている。
保護観察付きの執行猶予判決が増えていることを挙げて、量刑の幅が軽い方向に広がっていることを示すようにおっしゃってますけれど。
大間違いだ。保護観察を付けるということはただの執行猶予より厳しい制限を科すということ。保護観察が付かない執行猶予より保護観察付きの執行猶予の方が確実に重い。そのことを松田クンはわからないのだろうか。
実刑判決が減って保護観察付きの執行猶予判決が増えているというのでは。
そんなデータはない。基本的に言えば、量刑の幅は重い方向に広がっている。重・軽両方向に広がっていると言える根拠などないのだ。
裁判員たちは職業裁判官よりも事件の事情を詳細に拾い出しているのではという見方もあると。
4、5日で結論を出す裁判員裁判のどこに「事件の事情を詳細に拾い出せる」時間があるか。
「裁判員裁判は順調にも思われるが課題も多くある」という説明は。
制度順調論なんてもう誰も言わなくなった過去の言説。「順調にも思われる」なんて口にしてみせるのは、何周回も常識に遅れていることを暴露するものだ。
8割以上が参加したくないと答えていたり、実際の参加率も65%まで大幅に低下しているという事実も指摘されています。
それが何を意味するのかをきちんと論じない所にこの人の裁判員制度論の中途半端さがある。
それも制度発足当初の時期にずいぶん言われ、その後みんな言わなくなった論議だ。
当初は、裁判員裁判の意義を広く知らせるには守秘義務の緩和が不可欠だと民間推進派が強調していた。しかし、守秘義務を緩和すると裁判員など2度とやりたくないという思いが広がるだけだと気がついて、マスコミも日弁連もほとんど言わなくなった。
国は改善対策に取り組むだろうが、制度趣旨が実現されるかどうかについては、今後の推移を注意深く見守る必要があるとおっしゃっています。
「取り組む改善対策」とは何か。この8年間国は何をしてきたか言ってみなさい。
何も言っていない。NHKニュースを注意深く見てみろ。毒にも薬にもならない傍観者的評論で話をまとめるのは、自分の主張をあいまいにする時の常套手段だ。
松田さんの所属事務所は共産党の代議士も擁したことのある著名な東京の法律事務所ですよね。
共産党は裁判員制度実施の1年前に延期を提案し、それにも関わらず実施と決まると率先して推進の旗を振った。松田クンが中途半端なのではなく共産党が基本的にいい加減なのだ。
次に弁護士歴33年、京都の鍬田則仁さん(鴨川法律事務所)の言葉に進みましょう。タイトルは「裁判員制度をめぐる数字」 要旨は次のとおりです。
最高裁が裁判員辞退者増加(出席率低下)の原因をさる民間会社に調査させた結果、「審理の長期化」や「非正規雇用の増加」の可能性が指摘された。最高裁はこの結果を踏まえて参加者を増やす対策を検討しているという。
だが、原因はそれだけだろうか。裁判員候補者として選定された者の選任手続きに来てくれた者の数はもともと39.3%しかいなかったのが平成27年には23.7%まで落ち込んだ。当初から不正常で今は一層機能しなくなっているということだ。
一昨年3月の日本世論調査会の調査結果では、制度が定着していると言う人が30.9%、否と言う人が65.3%。参加したい・参加してもよいと言う人は元々18.5%しかいなかったが、平成27年にはそれがさらに下がって14.3%になった。
他方、義務なら仕方がないが40%余、義務でも参加したくないという強固な消極意見も40%余になっている。就任は義務と知っている者が70.2%に達する中でのこの数字なのだ。
今回の民間会社調査は制度の是非などの根幹に踏み込んでいないが、ネットでは「国民に犠牲を強いながら上級審でその判断を覆すのなら、国民の声の反映などポーズだけではないか」など、制度の存否(要否)に関わる書き込みが目立つ。ネットに限られた意見ではなかろう。
裁判員制度違憲論がある。そのことを措いても国民の声とは遠く離れたところにあるこの制度は抜本的な見直しを要しよう。
ふむふむ、これは語尾を濁しつつ事実上の制度廃止論と言ってよいだろう。
でもどうしてこんな制度は止めてしまえとはっきり言わないのでしょうか。
違う。真実を言わせない力が強烈に働いている。おかしな風にあらがうことの難しさが弁護士の発言にさえ表れているということだ。
それにしてもとても順調とは言えない悲惨な数字をぎょうさん並べてくれはりました。
「裁判員裁判は順調にも思われる」などとのたまった東京の弁護士さんに比べれば、鍬田さんの解説はすぐれもんではありまへんか。
よく言えば8合目まで来ているのだが、リアルに言えば8合目で転んでいるとも言える。
「審理の長期化」や「非正規雇用の増加」に対する最高裁の参加者増対策とは何でしょうか。
「審理の長期化」対策なら、乾いたぞうきんを絞るようにもっともっと工夫して審理を短くせよとハッパをかけるだけじゃないですかね。
最高裁の名において政府と経団連に非正規雇用を減らせと申し入れる、かな。
裁判員制度採用の時でさえ人員増の要求をしなかった最高裁だ。人手の不足を定年後職員の嘱託採用でしのぐ最高裁に非正規問題解決のもくろみも決意もある訳がない。
「非正規雇用の増加」と言いますが、正規雇用労働者だって不安だらけですよね。
推進派の連中は、ああでもないこうでもないと適当なことを言っているだけで、本当のことには触れないところだけはしっかり共通しているのだ。
「国民に犠牲を強いながら上級審でひっくり返すのなら、国民の声の反映などポーズに過ぎないのではないか」という声に鍬田さんは共感を示しています。
「国民の声の反映などポーズに過ぎない」というのは百%正しい。だがここは議論の分かれ目になる大切なところだ。
民間推進派の一部には上級審も国民参加にせよという人たちがいる。それが国民の声だと言うのだ。
国民を教育善導するのが国の責任だと考えている彼らに、上級審の裁判を国民に解放する考えなど微塵もない。彼らは司法を批判の対象とするのではなく、信頼の対象と位置づけている。
言わずと知れた制度廃止論さ。廃止こそ国民の声、天の声。ついに廃止の時が来たと言うのだ。
鍬田さんは国民参加拡大論に共感しているのではないでしょうね。
よくわからん。分かれ目の所でどちらの道を選ぶかをはっきりさせなければ8合目から麓まで転げ落ちるだろう。
鍬田さんの言説の今後の推移を注意深く見守りましょう(笑)。で、民間推進派はどういう立場に立ったのですか。
政府・最高裁の騙し言葉を真に受けたのか、わかった上で一緒に騙す側に回ったのか、『朝日』を先頭にしたマスコミ総連合や共産党を先頭にした革新諸政党や政府・最高裁と一体になった日弁連が「みんなの力で国民主権の司法を実現しよう」なんてはやし立てた。
だがそれは束の間の夢だった。インコは予測していたとおりだったが、裁判員裁判の惨状を前に混乱と右往左往が始まり、そのうちに何を議論すべきかもわからなくなった。で、みんなどうでもいいことしか言わないか、黙り込むかになった。
ここまで制度の惨を描くなら、その根源に踏み込むのが責任ある弁護士の姿勢だろう。
そう言えば、裁判員制度違憲論を通り過ぎてしまわないでほしいですね。
国民の声とは遠く離れたところにあるこの制度をどうするか、国民の声とは何かだ。
鍬田さんの事務所は歴史のあるリベラルな法律事務所と聞きました。
「抜本的な見直し」の答えはずばり廃止だと言わなければ、残念だが鍬田クンの言説も通俗論の域を出ない言葉に終わる。
いま問われているのは、弁護士が確かな物言いをするかどうかということ。そう言ってよいでしょうか。
だが、最後に一言付け加えておこう。お2人はみんなが触れなくなった裁判員制度論を敢えて取り上げた。インコの分析対象にされたのは不運だったかも知れないが、かつて大風呂敷を広げ歓迎の旗を振ったのに、惨憺たる姿を人々の前に晒すようになったら知らん顔している多くの連中に比べれば誉めてあげたいくらいだ。
マスコミ・革新政党・日弁連の「矜持」が問われているということですかね。
私にも一言言わせて下さい。触れなければなぜ逃げると叱られ、言葉を濁せばなぜちゃんと言わないと叱られ、インコさんの手厳しさに全国の法律事務所と弁護士さんは頭を抱えるんじゃないかしら。
標語ができた。「汝インコの餌食となるも、ほら吹きの鳩となるなかれ」
……(インコさん、今は亡き鳩がインコに化けたことをまだ許していないのね)。
投稿:2017年8月13日
「夏は夜。月のころはさらなり。闇もなお」と言ったのは清少納言姉さん。
李白兄さんが詠んだのは、霜が降りても不思議ではない晩秋の月。
そしてインコは、盛夏の候、真っ暗闇の中でブリザード吹き荒れる制度を詠む。へっ。
静夜思:李白
牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷
牀前 月光を看る しょうぜん げっこうをみる
疑うらくは是 地上の霜かと うたごうらくはこれ ちじょうのしもかと
頭を挙げて 山月を望み こうべをあげて さんげつをのぞみ
頭を低れて 故鄕を思う こうべをたれて こきょうをおもう
(関西吟詩文化協会訳)
静かな秋の夜、ふと寝台の前の床にそそぐ月の光を見ると、その白い輝きは、まるで地上におりた霜ではないのかと思ったほどであった。
そして、頭(こうべ)を挙げて山の端にある月を見て、その光であったと知り、眺めているうちに遥か彼方の故郷のことを思い、知らず知らず頭をうなだれ、しみじみと感慨にふけるのである。
(インコのお山文化協会正訳)
ふと目覚めると、ベッド前のフロアに月の光が降りそそいどったねん。寝ぼけ眼で見たらあんまり白かったもんやさかい、「えっ、部屋の中に霜が降りたんかいな」と疑ってしもたわ。そんで、頭を挙げたら山の端っこにお月さんがあってな、ぼんやり見ながら、なんや、やっぱりお月さんの光やったんかいな、寝ぼけとったなぁと。ほんで、帰られへん故郷のことなんか思い出しとったら、なんやまた眠とうなってきて、頭が自然と枕の上や。
さて、ここからが本番やで・・・
(李白兄さんに敬意を表してインコも韻を踏んでいます。)。
廃止思:独白
悄然看拒否
疑是鸚哥企
挙頭望一縷
低頭思廃止
悄然 拒否を看る しょうぜん きょひをみる
疑うらくは是 鸚哥の企みかと うたごうらくはこれ インコのたくらみかと
頭を挙げて 一縷を望み こうべをあげて いちるをのぞみ
頭を低れて 廃止を思う こうべをたれて はいしをおもう
(関東禁止歌協会意訳)
無断欠席や出頭しても拒否するという人たちの数字を看て心が折れそうだ。もうだめだ。いや、これはインコの企みで、何かの間違いじゃないか。悪い夢を見ているだけではと、一縷の望みをかけて書面から顔を上げて事務方を見た。だが、彼らは「間違いじゃない」と言う。がっくりとうなだれ、「もう廃止しかない」とつくづく思う。
(インコのお山文化協会異訳)
事務方が持ってきた書面見て、ほんまがっくり来てもたで。無断欠席激増やて。出頭しても「イヤやと言いに来ただけや。ボケ」て、無茶苦茶でんがな。「ほんまかいな、そうかいな」で済ます訳にいかへん。ひょっとしたら、こんなんインコの企みに騙されてるだけちゃあうかと淡い期待もって書面から顔を上げて、事務方を見たけど、奴もオレの顔じっと見てたわ。そんで、首横に振って「ほんまもんの数字です」やと。こんな制度、もうあかんがなとこっちまでへたばってもたわ。
(現場裁判官遺訳)
お母さん、私もう疲れました。皆いやだ、いやだと言います。そういえば、お母さんもいやって言ってましたよね。これって四面楚歌じゃないですか。
今、昨日終わった裁判員裁判の判決書いているんです。訳わかんない裁判員のご機嫌うかがって、今度は明後日までにこれ書き上げなくちゃいけません。いい加減なもんです。でも、私の気持ちを見透かすように満月の光が、この薄っぺらな文章を皓々と照らしています。
上を見れば所長がいるし、その向こうの向こうに最高裁がいます。でも、だから何なのですか。私の初心は良い裁判官になって良い裁判をすることでした。初心がなつかしいです。
裁判所はもう荒れきっています。田園まさに荒れているかも知れませんが、裁判の世界は終末のブリザードです。
投稿:2017年7月31日
裁判員裁判の対象事件なのに裁判官が裁判するケースが増えているんですね。
2010年と13年に福岡地裁小倉支部で始まり、15年になって福岡本庁でも裁判員裁判が避けられ,16年には福岡地裁管内で一気に7件に広がった。
この動きは福井地裁や岡山地裁にも広がった。17年には福井・福岡地裁で計3件。結局17年までに全国で16件に拡大している。
裁判員裁判への動員に反発する動きが強まる中で、暴力団事件には皆さんを関わらせませんのでご安心を、というメッセージを発信しているのだ。
昨年5月、特定危険指定暴力団工藤会(北九州市)系の元組員らが、小倉支部の初公判の後に、「あんたらの顔は覚えとるけんね」とか「よろしくね」などと裁判員に声をかけた事件が発生しましたね。
裁判員6人のうち4人が辞任し、元組員たちは裁判員法違反(請託、威迫)の疑いで逮捕された。
裁判所は、公判途中で裁判員裁判から外すことを決定し、その後は裁判官だけで裁判が行われました。
そうだ。福井地裁の2ケースは神戸山口組系正木組(敦賀市)の事件だ。福岡地裁小倉支部の声かけ事件以来、西日本を中心に全国の地方裁判所は緊張状態に入っている。
効果を発揮しているとはとても言えないだろう。この1年じりじりと拒絶率が高まっているところを見ても、裁判員裁判には近づきたくないという気分を強めているだけではないか。
裁判員裁判の対象事件の審理を裁判官だけでやるという仕組みはどうして生まれたんですか。
良いことを聞いてくれた。それこそ裁判員裁判の構造的破綻を示すものなのだ。
裁判員の身を守る上で他に方法がないと思われるケースについては、極例外的に裁判員裁判から外すことが裁判員法によって認められているのだ。
「地方裁判所は、前条第1項各号に掲げる事件(死刑又は無期の懲役禁錮に当たる罪に係る事件等)について、被告人の言動、被告人がその構成員である団体の主張若しくは当該団体の他の構成員の言動又は現に裁判員候補者若しくは裁判員に対する加害若しくはその告知が行われたことその他の事情により、裁判員候補者、裁判員若しくは裁判員であった者若しくはその親族若しくはこれに準ずる者の生命、身体若しくは財産に危害が加えられるおそれ又はこれらの者の生活の平穏が著しく侵害されるおそれがあり、そのため裁判員候補者又は裁判員が畏怖し、裁判員候補者の出頭を確保することが困難な状況にあり又は裁判員の職務の遂行ができずこれに代わる裁判員の選任も困難であると認めるときは、検察官、被告人若しくは弁護人の請求により又は職権で、これを裁判官の合議体で取り扱う決定をしなければならない」。
1つの文章にいろんなことがてんこ盛りに書かれてやたら長ったらしいし、「若しくは若しくは」って意味不明に言葉がつながっていて、何を言っているのか善良な市民にはわかりませーん。
解剖すると次のようになる。
1 地方裁判所は、死刑又は無期の懲役禁錮に当たる罪に係る事件等について、次の場合に限り、検察官・被告人・弁護人の請求か職権で、裁判官の合議体で取り扱う決定をする。
2 ①被告人の言動、②被告人が構成員である団体の主張、③当該団体の他の構成員の言動、④現に裁判員候補者若しくは裁判員に対する加害若しくはその告知が行われたこと、⑤その他の事情によって次のことが認められる時。
3 裁判員候補者、裁判員、裁判員であった者、その親族やこれに準ずる者の生命、身体、財産に危害が加えられるおそれがあったり、これらの者の生活の平穏が著しく侵害されるおそれがあったりし、次の条件を満たす時。
4 裁判員候補者や裁判員が畏怖し、①裁判員候補者の出頭を確保することが困難か、②裁判員の職務の遂行ができずこれに代わる裁判員の選任も困難な時。
どうだ、これで少しは理解できたか。
やっぱりひどく難しいな。よほどの事情がなければ裁判員裁判でやらなければならないらしいことはわかりましたが。
そこまでわかれば十分だ。つまり、並大抵のことでは、裁判員裁判で審理する事件を裁判官だけで審理してはいけないということになっているのだ。
当たり前だ。殺人などの事件は、区分すれば文字どおり凶悪な事件になる。
凶悪な事件を審理するために作った制度について、事件が凶悪だということで裁判員裁判の対象から外してしまったら何のための制度かということになります。
なるほど。暴力団による殺人事件などは凶悪事件中の凶悪事件ですね。
同じ殺人事件でも、一家心中のケースなどと比べてご覧。動機に汲むべきものがあるなんていうやくざの殺人事件はありますか。
そうですよね。かねて狙っていた相手を拳銃で撃ち殺したことについて、無理もない事情があったという判決なんて聞いたことがありません。
本来そういう凶悪事件のために裁判員裁判が予定されていると言ってもいいのでしょうね。市民生活の平穏を害すると言えば、まず問題になるのは暴力団などでしょうから、その制圧の先頭に市民が立つのは当たり前かもしれません。
そのとおりだ。だから、例外規定のハードルは極めて高い。「裁判員等に危害が及ぶ具体的な危険がある場合には、非法律家である裁判員またはその候補者に対し、その危険を冒して審理に加わり公正な判断をするよう求めるのは過大な負担を強いることになる」という理屈で説明されている。
この除外措置については、司法制度改革審議会の場でも裁判員法制定の場でも例外を認めるべきか否かとか、どういう時に除外できるかをめぐって大議論になったようですね。
当然だ。被告が暴れるかもしれないとか、裁判員に危害が加えられるかもしれないから、止めようということ自体、司法が暴力に屈したと言っているのと同じことになる。
「凶悪事件の審理に国民を参加させる」という裁判員制度の趣旨からして、裁判員に裁判をさせないという選択肢は本来はあり得ないと。
そうだ。「司法の敗北宣言」に等しいということになりかねないからな。
そうすると、現在の問題は、現実の運用がそのような基準で厳しく制限されているかどうかですね。
このところ急に回避事例が増えているのはうさんくさいというか、厳格な適用でなくなっていることを疑わせます。
福岡地裁小倉支部の声かけ事件の1年ほど前から回避事例が急増している。その背景には、裁判員の参加が最悪になっていることが当然絡んでいると見なければならない。
いくら暴力団の分裂が進んでいると言ったって、除外事件増に直結はしない。暴力団事件即除外事件という訳ではない。
この除外措置がなければ、声かけ事件後、4人に辞退された小倉支部は新たな裁判員を選出しなければなりませんでした。「組員に声かけられる事件」の裁判をやりたいという物好きは少ないでしょうから、もしかしたら未だに公判を開けないでいたりして……。
裁判員裁判の中で暴力団絡みの凶悪事件など数が知れている。そんな所に期待をかけるということ自体が苦し紛れの対策というか、もう対策はないという自白みたいなものだろう。
元々、市民に出頭してもらわなければ成り立たないという、心許ない制度だからね。
♪
民が冷たい 心が寒い
綱渡りかよ 制度の行方
粗雑司法の 恥さらし
民よ変われと テラダは願う
振起願掛け 写真を載せて
嘆くやつらの たよりなさ
廃止まつなら 出頭おやめ
とかく司法は 苦労の種よ
故意も刃傷も うわの空
投稿:2017年7月20日
裁判所という世界にもどこぞの中央官庁の役人のようなやつがいるんだな。
それは早とちりだ。裁判官や書記官が「記録は消えた」とか「記憶に基づいて言う」事件が発生したのだ。
それを波及・拡大・ウィルス・ひありと言わないで何と言いますか。
豪快な「やりまわし」のだんじりで知られる岸和田の大阪地裁岸和田支部で昨年10月、裁判員裁判連続逆転で知られる大阪高裁で今年7月に舞台が開かれました。
女性をはねてけがをさせたとして自動車運転死傷行為処罰法違反(過失運転致傷)の被告人に禁錮1年4月、執行猶予3年の判決を言い渡した「だんじり支部暴走の段」。 そして、このほどこれを大阪高裁が正した「逆転高裁差戻しの段」です。
その事件ならボク知ってます、早くそう言ってくださいよ。被害者の家族が公判の場で被告人への質問をしたいと裁判官に申し出た。裁判官が許可すれば被害者の家族も被告人に直接質問ができる。ただし裁判官は検察官の意見を聞くことなど一定の手続きを経ることが必要とされている。
しかし、裁判官はその手続きを怠り検察官に意見を聞くこともしなかった。ところが公判経過を記録する手続調書には、「裁判官が検察官に意見を聞き、検察官は『裁判官の許可が相当だと思う』と意見を述べた」と書かれていた。「調書の記載は事実と異なる」と弁護人がクレームを付けた。そういう話でしょ。
ひよこ君だいぶ詳しいようだな。だが、そんなにはやることはない。話はいま始まったところだ。
裁判官は毎回の公判経過の要点を調書に記録しなければなりません。稲田防衛相も弁護士をしていました。話は民事ですが、稲田氏の裁判所出頭の事実が調書に書かれていたことで、森友学園の代理人として訴訟活動をやっていたことが明るみに出ました。
その話も大阪やないでっか。記録に基づくとか記憶に基づくとかの歴史的迷言が登場したあの話でんな。
怪しげな関西弁はやめなさい。この裁判官は「大崎良信」という経験25年超のベテラン判事です。
実際に手続調書を作るのは書記官だが、調書は裁判官の指示に基づいて作り、裁判官がチェックする。
交通事故事件などでは検事ではなく副検事が立ち会うことが多い。もう一つ言っておく。刑事裁判で被害者が被告人に質問するのは2008年に導入された「被害者参加制度」による。刑事訴訟法第316条の37に規定されている。この制度は刑事裁判の基本構造を壊す危険なものだと私は考えるが、そのことはひとまず措く。
被告人の刑事責任を追及する立場に立って質問するのは本来は検察官だ。そこで刑事訴訟法は、被害者の不適切な質問で審理が混乱するのを避けるために、被害者が被告人に質問したい時は質問事項を明らかにして検察官にそのことを申し出て、検察官はこれに意見を付けて裁判所(裁判官)に通知することを義務づけている。
弁護人が法廷で「検察官の意見が必要ではないか」と聞いた時、大崎裁判官は「だから検察官は許可相当だって言ってるんだよ」とはねつけたとか。1審判決の後、弁護人は岸和田支部に「この事件の審理では検察官は意見を述べていない」と異議申立書を提出しました。大崎裁判官は裁判の後にも、「検察官から意見が明確に述べられ、裁判官と書記官がそのことを確認しており、申立てには理由がない」という回答書面を出しています。
弁護人は、訴訟手続きに違法があると控訴し、これを受けて大阪高裁の福崎伸一郎裁判長は一審書記官の証人調べを実施しました。
出廷した書記官は「裁判官が『意見は』と聞くと、検察官は『相当と思料します』と言ったと記憶している」などと証言し、「ICレコーダーでも録音していたが、昨年11月、パソコンの更新の際に消してしまった」とも証言しました。
しかし結局、福崎伸一郎裁判長は7月6日、「1審の裁判官があえて事実と異なる意見を書記官に記載をさせた可能性を否定できず、審理の公平性に疑念を抱かせる。一審判決には公判の結論に影響を及ぼす明らかな法令違反がある」と結論付け、「意見を述べた」と記載された裁判官作成の書面は事実ではないと認定、審理を大阪地裁に差し戻す判決を言い渡しました。
検察側も「副検事は意見を述べていない」との結論をまとめていたこともあって、高裁は一審の裁判官・書記官の態度を不埒と断じたようだな。
控訴審の判決後、弁護人の赤堀順一郎弁護士は「司法の根幹を揺るがす行為だ」と述べ、刑事告発も検討する考えを示したと報道されています。
この事件には「裁判所もり・かけ事件」的な感じも確かにありますが、それにしてもこの事件が裁判員裁判とどう関係してくるのか、インコさんのことですからわざわざ紹介されたのにはきっと理由があるんでしょう。
裁判員制度は、国民に裁判に加わってもらうことによって、国民の司法に対する理解を増進し、裁判の正統性に対する国民の信頼を高めることを目的とするもので、現在の刑事裁判が基本的にきちんと機能しているという評価を前提としているというのが当局御用達の説明だ。裁判員法案起草者のひとり池田修裁判官が『解説 裁判員法』でそのことをはっきりと書いている。
我が国の司法と裁判は権威と歴史をもって厳粛に行われている。裁判官と一緒に実際の裁判を経験してそのことをよく理解し、よりよい国民に成長してほしいという訳だ。
それがどうだ。裁判官と書記官が調書を偽造する司法文化がこの国にはあるということになりそうではないか。これが裁判の正統性か。
ほんまや。これで「裁判の正統性に対する国民の信頼を高める」と本気で言えるんでっか。ホンマのことを勉強されたら困るんとちゃうか。
きみが無理して関西弁を使うことはない。司法に対する理解を増進すると、その結果は悲惨なことになる可能性がある。
そうですね。「現在の刑事裁判が基本的にきちんと機能しているという評価」がとんでもないでたらめってことでしょうか。
言葉遣いが変な君たちに告ぐ。「大崎良信」という人は、裁判員裁判の裁判長としてその名を国中にとどろかせた裁判官なのだ。
最高裁の指導に盲従したストップウォッチ裁判長として知られた。
あれは何年前っ。いやまじめに行くぞ。
裁判員裁判の幕が開いた翌年の2010年7月だった。鳥取地裁の裁判員裁判で、この人は20分の予定で始めた弁護人の弁論が15分経過したところでストップウォッチをかざし始め、これを振り続けたり腕時計をわざわざのぞき込んで見せたりなどのパフォーマンスをし続けた。
弁護人の抗議で問題が広がり、鳥取弁護士会は「人の話に真摯に耳を傾けない弁護活動妨害の侮辱行為。刑事裁判の公正を疑わせる重大問題」と、地裁と裁判長自身に正式抗議をしました。
大崎裁判官は12年に、ひとり鳥取を離れて大阪高裁の陪席裁判官になり、去年4月から大阪地裁岸和田支部の裁判官になったのだ。事件翌年の転勤を契機に、裁判員裁判には関わらない裁判官人生になったと言ってもよい。
「ひとり」という表現はどうなんですか。しかし、「止めるあなた」はいなかったろうなぁ。最高裁もさすがにこれはダメだと思ったでしょうね。
この世界では、上の言うことを上手に現場に徹底できない裁判官には×が付く。キーワードは「上手に」だ。最高裁は、「裁判員制度は国民の司法に対する理解を増進し、裁判の正統性に対する国民の信頼を高めることを目的とする」「現在の刑事裁判が基本的にきちんと機能しているという評価を前提とする」という『途方もないウソ話』を、それこそいかにも本当そうに言ってみせる演技ができない者に将来を保障しない。
しかし、こういう裁判官がはからずも国民の裁判員裁判に対する理解を増進させ、この国の司法の救いようのない汚さ・悪辣さを国民に教えてしまう訳だ。
そう言えば、厚労省の村木厚子さんの有罪を立証しようとした前田恒彦という検察官は虚偽公文書作成などで有罪に追い込もうと証拠改ざんを決行しましたね。
そう言えば、鹿児島・大崎事件では、第3次再審請求の再審開始決定に検察は即時抗告しました。原口アヤ子さんは90歳だというのに。この事件では判決確定までと再審段階を通じて総勢何十人という裁判官が関係しています。
そう。それが、この国の裁判の正統性で、この国の刑事裁判がきちんと機能しているという説明の内実なのだよ。
投稿:2017年7月9日
国際会議の場で、「ここに並んでいる人たちは自分を含めて美人だ」と発言して、大顰蹙を買ったんですよね。
そうだ。インコはワルかどうかで判断したい。アホかどうかで判断したくないが、そう思うインコなのだが。やっぱりアホだと思う。
情報に少し混乱がある。中本和洋現会長が会長になる少し前まで選挙責任者と一緒に稲田議員に政治献金を続けていたということだ。
会長選挙の時にそのことが明るみに出てカンパをやめることにしたとか。
いや、それもやめたんじゃなくて、自分が会長をしている間は稲田議員への献金を休むことにすると言ったらしい。
立派じゃなけりゃカンパはすまい。中本会長というお方は人を見る眼があるはずだ。
なんか堂々巡り。超お粗末右翼政治家を支援する日弁連会長ですか。それはたいていの人が驚く話でしょう。吃驚ひよこ、辺りきょろきょろ見合わせり。
小泉純一郎という人は、自衛隊員が派遣される非武装地帯の概念について、「自衛隊員が派遣されている所は非武装地帯だ」と答えました。
稲田防衛相は、南スーダンの情勢に関連して、「武力行使があったと言うと憲法違反になってしまうから、事実上の戦闘行為はあっても憲法上の武力行使はないことにする」と言いました。
……。稲田防衛相の東京都議会選挙の応援演説が問題になりましたね。
6月27日の応援演説を新聞で知りました。記憶に基づいて(笑)、紹介します。
「東京都ではテロ対策、災害、首都直下型地震も懸念される中、防衛省・自衛隊と東京都がしっかりと手を携えることが非常に重要だ。地元の皆さまと国政をつなぐのは自民党の都議会の先生しかいない。(演説会場の)板橋区ではないが、隣の練馬区には自衛隊の師団もある。何かあった時、自衛隊がしっかりと活躍できるためには、地元の皆さまと都民の協力、都議会、都、国のしっかりした連携が重要だ。下村(博文)先生との強いパイプもあり、自衛隊とも連携のある○○候補をお願いしたい。防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい」
一句浮かびました。手元の記録に基づいて(笑々)、紹介します。
「この国ではテロ対策、犯罪、南海トラフ大地震も懸念される中、防衛相・自衛隊と日弁連がしっかりと手を携えることが非常に重要だ。国民と国政をつなぐのは弁護士の先生しかいない。永田町ではないが、隣の霞ヶ関には日弁連、東京弁、第一東京弁、第二東京弁もある。何かあった時、自衛隊がしっかりと活躍できるためには、地元の弁護士たちの協力、弁護士会、日弁連のしっかりした連携が重要だ。中本和洋先生との強いパイプもあり、自衛隊・防衛省とも連携のある○○候補をお願いしたい。防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい」
そう、破綻していると言えば終わりを認めることになるから破綻しているとは言わない。事実がどうかではなく言えないことになっているから言わない。
稲田防衛大臣の発言は「とんでもないことを言った」とか「言ってはいけないことを言った」と批判されてますが、本質は本音を正直に言ったということ、つまり「本質」が問題なのですね。
ひよこは二度吃驚、「制度破綻か大臣お終いか」と呆れて、詞もなかりしが。
政府は、裁判員制度のリーダーを引き受けてきた日弁連を否でも応でももう一度旗振り役に据え、窮地に陥った制度の延命を担わせようとしている。戦前にも「国策遂行の旗振り役弁護士会」という構図があった。
その再来ですか。ということは、さっきの「一句」はあながち見当違いではないと。
いえ、誤解させるおそれがある言い方をしたとしたら、それは誤解ということですから、誤解は解かなければ誤解なのにかかわらず誤解ではないと思われてします。あ、誤解を5回も言っちゃった。
投稿:2017年7月2日
そうだ。埼玉県では、裁判員制度廃止を正面から訴える運動が続けられていて、市民と弁護士が毎年、集会を持っている。そこにマネージャーも参加したということで報告を待っているのだ。
「まっぴらごめん裁判員 第8回」5月7日午後2時~5時。埼玉会館で開催
主催:裁判員制度に反対する埼玉市民の会
後援:埼玉弁護士会
代表あいさつ
埼玉弁護士会あいさつ(副会長)
報告:長沼正敏弁護士「埼玉弁護士会『裁判員制度の見直しに関する意見書』について」
パネルディスカッション:コーディネータ・岩佐憲一弁護士
パネラー・市民3人
基調報告:高山俊吉弁護士「裁判員制度を突き崩す力」
集会場はほぼ満席。50人はいたかな。「立て看板を見て来た」という方もいたようです。そんなアンケート回答がありました。「初めて参加したが勉強になった」というコメントもありました。白熱した論議が続き、会場が盛り上がり、集会後に集めたアンケートの回収率も80%ほどだったそうですから、大成功だったとのではないでしょうか。
そうです。埼玉弁護士会は「制度修正論」なので、不満ではありましたが。それにしても3年で見直すと規定する法律自体おかしいし、しかもその見直しが実際にはなきに等しかったということも問題です。「埼玉弁護士会」としては「見直し提言」が顧みられなかったのですから、廃止を訴えて欲しいですね。
集会参加者の大勢は廃止。パネルディスカッションに参加した3人もみな廃止論でした。
「裁判員制度に反対する市民の会」は、いつも集会の内容をまとめて報告集を発行します。興味・関心のある方はぜひ、お読みください。連絡先は次のとおりです。バックナンバーも取り揃えてあるそうですよ。
小出重義法律事務所
〒330-0854さいたま市大宮区桜木町4丁目244-2
℡048-647-1222
キミキミ、「報告集」が出されるからといって、そちらに丸投げという手はないだろう。
すみません。それはそうですね。高山弁護士の言う「裁判員制度を突き崩す力」の内容がみなさんの一番知りたいところでしょう。
それは
「出頭拒絶運動の徹底的な強化」と「制度廃止を正面に掲げた運動」
でしたね。
インコが常々言っている
「一人の拒否を みんなの拒否へ みんなの拒否で制度の廃止」
ということだろう。
このホームページを使って廃止の声をもっともっと広げ、「埼玉市民の会」のみなさんはもちろんのこと、北海道から九州・沖縄まで全国の心あるみなさんと連帯して、制度廃止を大きく訴えていくということ!
これでいいのかな?
投稿:2017年6月8日
そのこと自体を論じる必要があるが、流れている報道をよりどころに考えてみよう。
そういうことでしたら、まず5月19日の『読売』があります。大見出しが「裁判員判決 2審の壁」。そして「開始から8年 死刑破棄5件」「遺族『制度の意味どこに』」「最高裁 過去の量刑重視」と見出しの砲列。表やグラフや写真入りの大容量です。
私も読みましたが、「壁」がテーマですから、ハッピーな話題ではありませんね。
そう、私たちにはハッピーです。制度開始8年で言い渡された30件の死刑判決中、高裁で5件が破棄されて無期に変わっている。最高裁は死刑に慎重な姿勢を示すが、被害者遺族は無念の思いを抱いているという話です。
今年3月に大阪高裁が逆転無期懲役にした大阪心斎橋の通り魔事件。1審大阪地裁の裁判員死刑判決の被害者遺族を追う記事ですね。
被害者は2人ですが、高裁は計画性が低いことや精神障害の影響も否定できないことを理由に破棄しました。
記事中では「お父さんを殺した人がなんで生きているの」という娘さんたちの声や法廷でのご遺族の言葉などを詳しく紹介する一方、被告人に精神障害があることについては記事中でまったく触れないなど、基本的に被害者の視点から見た記事でした。
最高裁は、15年2月に、死刑の適用には慎重さと公平性が求められるという判決を出している。高裁は多くこの考え方に従って裁判員判決をチェックする。
最高裁は、できるだけ裁判員の判断を尊重せよと言う一方、その行き過ぎをたしなめるという二元政策を採っていますね。
前者に傾く地裁の裁判員裁判と、後者に傾く高裁の裁判官裁判の対立構造ですかね。
うむ。矛盾政策と言った方が近い。2つの方針の「調和」は難しい。「できるだけ」と言うのも、「行き過ぎ」というのもどだい基準なんてないからな。
抽象的な言い方をされると現場は混乱するだけではないでしょうか。
「一般基準」を言われても、裁判員たちには使える物差しにはならない。
無理なことを言い募ることで混乱や反発が生まれている、その基本的な責任は本音とリップサービスを混ぜて使った最高裁にある。
勝手な解釈で大騒ぎしたマスコミ・野党・弁護士会などにも責任がありますね。
5月21日の『読売』も大きなアンハッピー記事を載せました。『裁判員辞退止まらず 制度開始8年』という大見出し。上から下まで8段です。
中見出しは「昨年64% 審理長期化が負担」「非正規雇用増も影響」とあります。
最高裁が裁判員候補者の辞退率上昇の原因を分析した報告書を公表したという記事ですね。09年の辞退率53.1%が16年には64.7%に増えたと。
辞退率というのは、裁判員候補者に撰ばれた者のうち自ら辞退を申し入れて認められた人の割合のことだ。
でも、やりたくないというだけでは本当は辞められないんですよね。
そういう建前なのだが、実際には辞めることは許さぬなんて言ったら大変なことになる。やりたくないと言えば今はすべて辞めさせる。
16年には100人のうち64.7人が資格がないとかやりたくないと答えたということですよね。
手元にある今年3月末のデータではその数字はさらに上がって65.6%になっている。
裁判員の辞退の実際はもっと深刻だ。何にも答えず呼出当日に黙って欠席する徹底無断不出頭者がどんどん増えている。
今年3月末、断りを入れなかったために選任手続き期日に呼び出された者のうち、当日無断欠席した者の比率は40.1%に達している。
断りを入れなければ出席する予定なのだろうと裁判所は一応みなすでしょうね。
現実は、断らず黙って欠席する強者(つわもの)が4割もいるということだ。
辞退の流れが強まる一方だということはわかりましたが、最高裁はどうしようというのですか。
方針の立てようがない。長期拘束は裁判員の負担が大きすぎるという声があるとして、最高裁は短期結審を強く要求している。
でも、裁判員からは、裁判にはもっと時間をかけねばという声も上がっていますよね。しかし、そんなに長い時間お付き合いはできないというのも裁判員の偽らざる心情です。
最高裁は、審理期間が長いからやりたくなくなるという理屈を作っている。でも現場には「そう言ったって」という冷たい空気が流れている。
今回の調査報告では、非正規雇用の増加が辞退増加の原因になっているのではないかとされているとか。
「参加の可能性があるのは正規の40.2%、非正規の30%位」「審理期間が長くなると参加不可能者がどっと増える」。これが民間の調査会社のアンケ調査結果だそうです。
そうかも知れん。でも、非正規とか正規とかの別なく、この不景気状態で裁判員裁判どころじゃないのが現実だろう。正規・非正規の参加比較をするのなら、実際に裁判員をやった者について調べなければ意味がないし。
まさか非正規にも参加できるようにという口実を作って裁判を1、2日で終わりにすると言うんじゃないでしょうね。
8年報道と言えば、神戸新聞も流していますね。通信社配信記事ならほかの県紙にも出ている可能性があります。
控訴審裁判の一審逆転が年々増えているという経年変化の詳細ですね。通常裁判に比べても裁判員裁判の方が破棄率が高くなっているという分析をしています。
控訴審に行ってひっくり返される例が多く、出頭率も年々大きく下がったというのが8年目の現実だ。
仲間由紀恵とか上戸彩とか長谷川京子なんかを並べて、「私たち市民が物言う時代が来た」なんて言う雰囲気を広げた下手人は最高裁です。
「事実認定は市民にも簡単にできる」なんて、市民の感覚をいかにも尊重するような言い方をしたのが最高裁なのだ。
この現実を破綻と言わず何というか。最高裁には非正規対策を考える能力も資格もない。あるのは廃止を言う責任だけだ。
投稿:2017年5月24日
えっへっへっへ、 お呼びでないと。まったく失礼しましたね。
何ともお呼びでない制度でしたな、これは。
ま、とりあえず、めでてぇじゃないですか。
1割台の声聞いたってんだから。
景気よくお祝いしましょ、ご同輩。
ア ホレってね。
♪チョイト裁かす つもりで始め
いつの間にやら どん詰まり
気がつきゃ 破綻の話題でフテ寝
これじゃ司法に いいわきゃないよ
分かっちゃいるけど やめられねぇ
♪ねらった出頭 見事にはずれ
毎月下がって 1割台
気がつきゃ
法廷ぁ すっからかんのカラカラ
日当金儲け 欲し奴ぁだけだよ
分かっちゃいるけど やめられねぇ
♪一目見た男(やつ) たちまち予断
よせばいいのに 説教たれ
裁いたつもりが チョイとひっくりかえされ
オレがやる意味 ある訳ゃないよ
分かっちゃいるなら やめんかい!
♪ア ホレ ズタズタ ズータララッタ
ボロボロ ズタズタズタ
ズターラ ズタララッタ
ボロボロ ズタズタズタ
ズタズタ ズータララッタ
ホロホロ ズタズタズタ
ズタズタ ズータララッタ
ズータララッタ ズタズタ♪♪
投稿:2017年5月13日
世の中何がおもしろいのかというご面相の人だが、今年はいつも以上にきつかった。
話題がなかったということでしょうか。ゆうことなしの禿頭とか。
いくら行くとこなしの大型連休だって、この話題だけは大あり名古屋の金のしゃちほこ。せっつきなさんな青年たちよ。順序立てて話して進ぜよう。
さてはさては先輩、またまた朝早くからコンビニに駆けつけましたね。
去年の記者会見は、ハンセン病隔離法廷問題で長官が謝罪したことが柱。後はほとんど付け足しでした。
差別の先頭に立った最高裁の責任は重かつ大。頭を下げれば済む問題ではない。「この国の司法の正統性」なんてどこのコンビニで売ってるんだっていう話だった。
しかしまた、ハンセンの問題にこと寄せて裁判員制度について一言も話さなかったのはこれはこれで大問題でした。
今年も無言劇を通そうとしたようだが、昨年の無言劇はやはりまずかったと思った記者の方が質問の追い打ちをかけたらしい。
そういう質問をした記者がいたので、そうだったのではなかろうかと思うのだ。
それはきっと『朝日』や『読売』ではないでしょう、制度が破綻していることをよくよく知っている新聞社は黙っている。
去年も言ったのだが、この記者会見は会見場の全景も撮らない約束になっているらしい。徹頭徹尾報道管制が敷かれている。参加できるのも各社1人だけとかね。
『朝日』は千葉雄高。市川美亜子は消えた。わずか26行のベタ記事。写真なし。冷たいなぁ。見出しは「『国民的な議論に委ねるべき問題』改憲めぐり最高裁長官」。裁判員制度については一言もなし。「司法取引」の来年施行に備えて裁判官の準備が必要と。人権侵害刑事司法をいそいそと進める最高裁を紹介しています。
『読売』無署名。3段41行と昨年同様に記事量が多い。写真あり。見出しは「最高裁長官 改憲議論『十分に注視』」。こちらは裁判員制度にも論及、昨年公判前整理手続きが平均8.2か月と長期化したことに触れ、「手続きが簡潔に行われていない。効率化は大課題」と長官が言ったと。また、司法取引は「柔軟な発想で議論したい」とも言ったそうな。露骨な刑事司法改悪歓迎がこの日の会見の「きも」だったようです。
『毎日』伊藤直孝。2段24行。文字がやけに少ない。写真でごまかした感じ。見出しは「『柔軟な発想必要』最高裁長官」。裁判員制度にはまったく触れていない。司法取引の施行に「柔軟に」備えると。記者連は危険性がわかっているのでしょうか。この淡々とした紹介ぶりはとても気になります。
『日経』無署名。2段28行。短いがおもしろい。昨年と違って写真なし。「8年目を迎える裁判員制度への評価を問われると、『大きな破綻はないが、努力すべきことも少なくない』と言ったそうな。(長官は)争点や証拠を絞る公判前整理手続きの充実などを課題に挙げた」ともあります。裁判員制度については、長官は自分からは発言せず、質問が出て初めて答えただけのようです。こんなところでリアルな姿が露見しますね。
『産経』無署名。大ぶりのカラー写真でなぜかはしゃいでいる。34行。見出しは、「『国民的議論に委ねるべきだ』寺田最高裁長官が見解」。改憲論議が巻き起こることを期待しているように誤読する向きもありそうだ。裁判員制度に関しては、「『裁判員が安心して裁判に参加できるよう、環境整備など努力しなければならないことも少なくない』と語った」とある。長官は、例の声かけ事件のことを言ったんだろうが、もう一回りも二回りも回っているのに、外れている。
『東京』無署名。ベタ記事で写真もない。28行とこれも冷たいなぁ。「司法取引」には触れたが、裁判員制度には一言も触れなかった。
これが憲法記念日朝刊の報道ぶりだ。裁判員に触れたのは、『読売』『日経』『産経』の3紙だけ。悪辣司法隠蔽策の裁判員制度。ハンセンショックと通底する大テーマのはずなんだが、この影の薄さをどう見るか。
少しでも光が見えてくれば、何か言うはずですよね、針小も棒大にして。
そう。「お客様満足度95%」みたいな宣伝がいっとき盛んでしたが、出頭率がどんどん悪くなる状況にあまりにも整合しない話で、あの話は今では神通力を失いましたね。
言う方のテラダ君は言いたくなく、聞く方の各社記者連も聞きたくもないということになったのでしょうか。どちらもどっちも触れたくない。
長官とすれば、少しでも光が差す話があれば話したかったが、何一つなかったということだ。
しかし『日経』の報道はおもしろいですね。「裁判員制度への評価を問われると、『大きな破綻はないが、努力すべきことも少なくない』と言ったという。
「大きな破綻はない」とは傑作だ。これは「破綻の徴候が各所に出ている」と言っているのに等しい。「順調」とか「定着」とかの言葉を使わなくなって久しいが、これが最末期の「公用語」になったのだろう。
前号でもお伝えしましたが、今年2月末には裁判員の出頭率がとうとう20%を割りました。これは「大きな破綻」の証拠ではないのでしょうか。
そう、20%を割ったら大変だなどと言われていました。そのことに触れないようにするのが今回の記者会見の最重要課題だったかもしれませんね。
でも、これを「大きな破綻」と言わないのなら、裁判員が法廷で毒を飲んで死にでもしなければ破綻とは言わないかも。
いや、それでも破綻したとは言わないだろう。最高裁は「この程度のことで死ぬ奴は死んでも仕方がない」くらい言いそうだ。
テラダ長官の口から「破綻」という言葉が出たというだけで、眼前に広がるのは終末期の荒涼たる風景なのだと思わなければなりませんね。
「努力すべきことも少なくない」というのはどういうことでしょうか。
どういう問題点が表れているかを具体的に言わないから、何を努力しなければならないのかがまるきりわからない。
第一線の記者が集まっているのにそこを指摘しないというのはどういうことか。
そうですね。でも、この日の長官会見の内容が事前に漏れていたのか、前日の『読売』朝刊は公判前整理が長くなっていることを大きく報道しています。
ボクも読みました。見出しは「公判前整理延々8か月 裁判員裁判昨年平均 弁護・検察側の駆け引き」でしたね。
公判前整理が長くなっていることはかねてからの指摘です。制度発足当初は手間のかからない事件から始まりましたから整理期間も2.8か月という短さでしたが、その後段々長くなって今では実に8か月ほどです。
無理もない。超短期間の法廷審理で決着をつけるとなれば、公判前整理は激しい攻防戦になる。無罪を争う事件ならとりわけそうだ。検察は証拠を出したがらないし、弁護側は開示を強く求める。
「準備は短く 公判も短し 裁けよ市民」という要求自体に無理があるのではないでしょうか。
長官は「手続きが簡潔に行われていない。効率化は大課題」というが、無理に争点を少なくさせたり証拠を絞らせたりすると、真実の認定は一気に難しくなる。
最高裁が 「努力すべきことも少なくない」というのは、具体的にはどういう方向を考えているのか。そこが問題ですね。
裁判員制度は起訴から判決までの期間を短くさせることに目標の柱がありました。でも、裁判員裁判になって裁判官時代より審理期間が長くなってしまった。
そうだ。これでは裁判員裁判を導入した目的と現実の結果が大きく乖離する。何とかしなければ制度存立の大きな柱が崩壊する。
しかし、公判前整理手続きを短くしたら、審理そのものが粗雑になってしまいます。
そうさ。裁判員裁判はもともと粗雑司法だ。考えて見れば、公判前整理の長期化は粗雑司法に対する実務法曹の抵抗とも言える。
素人に裁かせるのだから簡単でよいという理屈がこれから裁判所の中を吹き荒れるのでしょうね。
ということは、民意の離反というだけではなく、制度そのもののあり方という面からもやっぱりこの制度は破綻じゃないですか。
そうだ。この制度はにっちもさっちもいかないところにきている。長官が憲法記念日に裁判員制度に触れない、そっとしておいてくれということ自体、最高裁が制度破綻を自白していることを意味するのだ。
あ、先輩、聞こえてきました。ららばい ららばい お休みよー ボロボロ制度の子守歌♪ って。
テラダ君も嘆いているだろうよ。そんなにオレが悪いのかってさ。同情する気には少しもならないがね。
投稿:2017年5月5日
今年2月末の裁判員制度実施状況の速報発表。
出頭率19.2%、ついに2割を切った。
もう一つの出頭率、呼び出されて何も応えず欠席した人たち(最高裁はどうしてこんな統計取ってるんだ)の数が去年の35.2%から今年2月末に43.4%に急増した。
インコの情けじゃ。これ以上、何も申すまい。
寺田殿、早々に腹を召されい…じゃなかった、腹を括られい。
詩:Inko ~en~L’abolition
I swear to God
そう(陪審制度と)似ていない制度を選んだのは…最高裁
I swear to God
もう行かない裁かない国民の強い…my will
止まない何故に止まない拒否…
(Ah ah…everlasing rain)
I ask my heart
ねぇ 感覚で裁いて司法の市民参加してほしい
I ask my heart
そう 決めたの 最高裁が望んだのに何故?
止まない拒否と来ない民
(Everlasting,everlasting rain)
ああ、止まない拒否よ
嫌がられる制度よ この司法よ
冷たい民 拒否し続け制度を廃止に向けて
拒み続ける民にああ、まだ期待してる
The core of a loving heart defies all scientific reason.
Love isn’t perceived through the eyes, it’s felt through the heart.
That’s why it’s so hard.
心の中はまだ科学的に解明されていない。
裁判員は事実と法ではなく、心で被告を見る。
だからやっかいだ。
I swear to God
そう 似ていない人を選んだのは…私
I swear to God
もう 帰らない逢わない私の強い…my will
止まない 何故に止まない君…
(Ah ah…everlasing rain)
I ask my heart
ねぇ くちづけで気持ち塞いでほしい
I ask my heart
そう 選んだの 私が望んだのに何故?
止まない雨に 止まない君
(Everlasting,everlasting rain)
ああ、止まらない季節よ
止まない詩よ この恋よ
冷たい雨 降り注げ 君を洗い流して
隠しきれない君に ああ、まだ恋してる
The core of a loving heart defies all scientific reason.
Love isn’t perceived through the eyes, it’s felt through the heart.
That’s why it’s so hard.
心の中はまだ科学的に解明されていない。
恋とは目で見ないで、心で相手を見る。
だからやっかいだ。
投稿:2017年4月23日
弁護士 猪野亨
下記は「弁護士 猪野亨のブログ」3月18日の記事です。
猪野弁護士のご了解の下、転載しております。
先般、大阪高裁では、裁判員裁判の死刑判決を破棄し、無期懲役とした判決が立て続けに2件ありました。
「裁判員裁判の死刑判決が高裁で破棄される 守られるべきは先例ではなく基準 勝手に作られる裁判員制度の意味」
遺族やその代理人弁護士にとって死刑判決が破棄されることに対して、感情的に受け入れられないのは、理解できなくもありません(代理人弁護士が感情論に陥っているのは、法曹としてはどうかと思います。)。
検察庁に対し、上告するよう求めるわけですが、そこで違和感があるのが、「裁判員の判断」を持ち出すことです。
「「裁判員裁判を軽視している」最高検に遺族が上告要請 一審の死刑から無期減刑で」(産経新聞2017年3月17日)
「大阪の繁華街・ミナミで平成24年、通行人2人を無差別に刺殺したとして殺人などの罪に問われた無職礒飛京三被告(41)に対し、大阪高裁判決が一審の死刑から無期懲役に減刑したのを受け、遺族や代理人弁護士らが17日、「市民感覚を取り入れた一審の裁判員裁判を軽視している」として上告するよう最高検に申し入れた。」
確かに裁判員制度になってから、重罰化が進みました。死刑か無期懲役かという究極の量刑が争われるような事件ですら、中には、過去の基準なんて関係ない、などと言い放つ裁判員もいたり、非常に問題をはらんでいたのが裁判員裁判でした。
死刑か無期懲役かは、天と地ほどの差があるのですから、これを裁判員裁判だからというただの一言をもって正当化されることはありません。
だからこそ、最高裁は、死刑判決を破棄した高裁判決を是認しているのです。
「最高裁 裁判員裁判の死刑判決を認めず!」
この裁判員裁判による死刑か無期懲役かの量刑判断ははもちろんすべてが死刑になっているわけではありません。
そのような場合、遺族やその代理人は、裁判員裁判の結果だから尊重せよ、ということになるのでしょうか。
遺族についてはそれぞれが全く違う方たちですから、同じような議論はなじみにくいとはいえます。例えば、あなたは裁判員裁判の結果は尊重しなくてもいいというのであれば、別事件で裁判員裁判の死刑判決を破棄した高裁判決も尊重すべきといえるのですね、ということですが、その遺族にとっては他は関係ないとは言うでしょう。
しかし、代理人弁護士としてはどうですか。この犯罪被害者の事件ではよく同じお名前をみたりしますが、死刑を選択せず、無期懲役とするようなどのような判断に対しても尊重せよと言うのですか。
先の日弁連の人権擁護大会でも、死刑制度廃止宣言に反対する弁護士たちは、極めて恥ずかしいレベルの醜態をさらしていました。単なる感情レベルでの絶叫でおおよそ法曹としての発言ではなかったわけです。
「瀬戸内寂聴さんの発言はどうかと思うが、犯罪被害者側弁護士の主張に道理はない」
弁護士が極めてご都合主義的に「裁判員裁判」を利用するのはやめるべきでしょう。
法曹としての資質が問われます。
投稿:2017年4月16日
弁護士 猪野亨
下記は「弁護士 猪野亨のブログ」3月15日の記事です。
猪野弁護士のご了解の下、転載しております。
最高裁のホームページに裁判員制度に関する2017年1月末の速報が掲載されています。
そこに掲載されている裁判員候補者の出頭率が前年度に比べてもさらに低下しています。
その数字は何と23.7%です。前年度の24.5%からさらに下がりました。
2017年1月末の速報値は、さらに低下し、20.9%です。
この時期は数値としては低くなるようですが、それにしても20.9%とは5人に1人しか出頭しないという状況です。
裁判員裁判の実施状況について(制度施行~平成29年1月末・速報)
ちなみに当局は発表する「出席」率は、下段の数字である64.8%です。この数字は、裁判員候補者が辞退を申し入れたような場合には、法定の辞退事由を厳格に適用することなく広く辞退を認める運用によって、出頭しない可能性のある候補者は最初から除外しています。そのため当局が出頭義務があるとする候補者は来たくないという除いた数字ということになり、この母数として算出したのが「出席率」です。
それでも制度が始まった当初は8割の出頭率と言われていました。最高裁の統計によれば83.9%です。
それが既に64.8%にまで下落しているのです。
ちなみに2017年1月末の速報値では60.9%です。
今時の司法改革の中で同じように創設されたものに法科大学院があります。この法科大学院志望者の激減は、目に見えて法科大学院の経営を圧迫しますし、文科省、法科大学院側は危機感に満ちあふれていますが、これに比べると裁判員制度は、惰性で続いています。これは裁判所がとりあえず必要な裁判員さえ確保できればよいというスタンスになったからです。
候補者(国民)の拒否が強まれば、裁判員裁判の歪みはなお一層、ひどくなります。
弁護士会の中でも裁判員制度を絶賛する人たちがいますが、その中でも特に刑事弁護系の人たちにとっては、憂うべき状況になっています。
「裁判員裁判の死刑判決が高裁で破棄される 守られるべきは先例ではなく基準 勝手に作られる裁判員制度の意味」
ここまで裁判員制度に弊害が生じていながら、何故、裁判員制度の問題点を正面から議論しないのでしょうか。いつまでも惰性によって流されるままにしておくべきではありません。
投稿:2017年4月16日
守られるべきは先例ではなく基準 勝手に作られる裁判員制度の意味
弁護士 猪野亨
下記は「弁護士 猪野亨のブログ」3月13日の記事です。
猪野弁護士のご了解の下、転載しております。
先般、裁判員裁判が下した死刑判決が2件、高裁で破棄されました。
「ミナミ2人刺殺 二審は無期判決 裁判員裁判の死刑破棄」(東京新聞2017年3月9日)
「大阪の繁華街・ミナミで2012年、通行人2人を無差別に刺殺したとして殺人と銃刀法違反の罪に問われた無職I被告(41)の控訴審判決で、大阪高裁は9日、裁判員裁判で審理された一審大阪地裁の死刑判決を破棄、無期懲役を言い渡した。
中川博之裁判長は被告の完全責任能力を認め、「基本的には身勝手で自己中心的な犯行だが、計画性が低く、精神障害の影響が否定できない。死刑が適用されたこれまでの無差別通り魔殺人とは異なる」と述べた。
一審に続き争点だった犯行時の精神状態については、支援団体などの適切な対処が行われた形跡がないと指摘。「精神障害の全てが自己責任とまでは言えない」として「酌むべき事情があり、死刑の選択がやむを得ないとまでは言えない」と結論付けた。」
「女児殺害、二審は無期=裁判員判決の死刑破棄-「計画性ない」・大阪高裁」(時事通信2017年3月10日)
「樋口裕晃裁判長は「計画性がないことは重視すべきで、生命軽視の態度が甚だしく顕著とは言えない」と述べ、死刑とした一審神戸地裁の裁判員裁判判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。」
「一審判決は、動機の身勝手さや殺害方法の残虐性を挙げ、生命軽視の姿勢が甚だしいとして、被害者1人でも死刑が許容されると判断した。
樋口裁判長は、わいせつ目的で誘拐したと認定したが、発覚を免れるため殺害したことは「非難を格段に高めるとは言えない」と判断。殺害方法について「残虐性が極めて高いとした判断に賛同できない」と述べた。
さらに「声を掛けた時点で殺害を具体的に計画していたとは言えない」と指摘。非難の程度は弱まり、死刑が許容されるとは言えないと結論付けた。裁判員裁判の量刑判断を覆したことには「尊重すべきだが是正せざるを得ず、制度の趣旨を損なうものではない」と付言した。」
の刑判決が破棄された事案は、いずれも「先例」とされる永山基準に従えば、今回の死刑判決は重きに過ぎするということになります。
これに対して、ネット界では、裁判員制度なんて無意味だとか、市民感覚が無視されたというようなお決まりの批判が渦巻いています。
私自身は、裁判員制度は有害でしかありませんから廃止すべきとは思いますが、それにしても、未だにこのような「先例」重視なのかという批判がなされていることは憂うべき状況です。特にマスコミがこのような視点から報じるのは問題です。
「減刑5例目「裁判員死刑」覆る…”市民感覚とのズレ”浮き彫りに」(産経新聞2017年3月10日)
「神戸市長田区の小1女児殺害事件で、大阪高裁は10日、1審裁判員裁判の死刑判決を覆し、被告に無期懲役を言い渡した。高裁が裁判員裁判の死刑を破棄するのは、前日の心斎橋通り魔事件に続き、これで5例目となる。「国民の常識を刑事裁判に反映させる」というのが裁判員裁判の主眼だったが、「究極の刑罰」の選択にあたって、市民感覚と職業裁判官の考え方が大きく違うことが浮き彫りになった。」
「神戸・小1女児殺害 . 判例重視、鮮明に 裁判員判断と乖離 控訴審判決」(毎日新聞2017年3月11日)
「神戸市長田区で2014年、小学1年の女児(当時6歳)が殺害された事件の控訴審で、殺人やわいせつ目的誘拐などの罪に問われた無職、君野康弘被告(50)を無期懲役とした10日の大阪高裁判決は、量刑の判断について、同種事件に関する過去の裁判例の傾向を重視する姿勢を鮮明にした。樋口裕晃裁判長は「先例との公平の観点から死刑の選択が十分許容される事案とは言えない」と述べた。」
永山基準は、「基準」です。ここを取り違えてはなりません。
死刑か無期懲役か、その分水嶺はどこにあるのか、それが基準です。
先例重視は問題だという意味は、基準を無視して、裁判員の感覚で裁いてしまえという発想と全く同じです。
死刑か無期懲役が、裁判員の感覚の違いによって差が出て良いのですか。
出ても良いと言い切るレベルはまさに感情レベルですが、その感情で裁判が行われるとしたら、それは本当に法治国家と言えると思いますか。
裁判員は抽選によって偶然に選ばれる人たちです。その偶然によって選ばれた人たちの哲学(なのか感情なのか…)によって結論が異なる、しかも死刑か無期かで異なるというのは、法治国家では到底、容認し得ない結論です。
だから最高裁は、死刑判決を破棄した高裁判決を是認したのです。
「最高裁 裁判員裁判の死刑判決を認めず!」
マスコミが未だに「先例」などという言葉で「基準」を曖昧にしようとしていることは問題なのです。ジ
だったら裁判員制度なんかに意味がないではないかというのも、まったくずれています。
もともと裁判員制度は裁判員が裁判官と一緒になって刑事裁判(重大事件)を裁く(参加する)ことに意味があるとして導入されたものであって、「市民感覚の反映」(これも後から作られたキャッチフレーズですが)によって、量刑を裁判員が好きに決めて良いとする制度ではないのです。
マスコミが勝手に作り上げた「市民感覚の反映」はもともと国民を裁判員として裁判所に来てもらうためのものとして多用されてきました。
それ自体、裁判員法にも規定されておらず、審議の過程でも出てきていない全く法的な根拠がないものなのですが、裁判員制度が始まった当初から国民が裁判員になることに否定的だったものだから、何とか裁判員になってもらおうとマスコミが必死になっていたわけです。マスコミは裁判員制度を絶賛していた手前、国民から否定されていたという事実は受け入れがたかったのです。
「国政モニターからの裁判員制度に対する疑問 疑問に正面から答えない法務省」裁
国民が裁判員として裁判官とともに裁くことに意味がある、という裁判員制度の目的が無意味というのであれば、当然、廃止されるべきでしょう。
私は意味があると思っていないので、意味付自体はどうでも良いのですが、自分勝手に意味付をして、それに合わないから「意味がないじゃないか」と批判するのは、はっきりと間違っているということです。
ところで、感情の中でも「人を殺したら死刑だ」というのは全く意味が違ってきます。殺人の法定刑を原則死刑にするのであれば、それは立法により法定刑の引き上げがなされなければなりません。
あくまで現行法の殺人罪の法定刑は、「死刑又は無期若しくは5年以上の懲役」と定められているからです。
投稿:2017年4月16日
記者会見場の苦しい空気
昨日午後9時、法務省大会議室で、政府・最高裁の共同記者会見が開かれた。時間も異例、共同の記者会見も異例とあって、朝刊記事の準備に追われていた各社の一線記者が駆けつけ、外国特派員も参加する会見になった。菅義偉内閣官房長官と今崎幸彦最高裁事務総長が並んで会見が始まった。
菅官房長官は次のように述べた。
「安倍政権が最大の司法チャレンジと位置づけて進めてきた『裁き方改革』の実行計画がまとまった。その中核は裁判員制度の廃止に向けた手順検討の開始である」。
続けて今崎事務総長は、「政府と並行して事務総局内部で検討を進めてきたが、裁判員制度はその歴史的使命を果たしたと評価されるというのが、事務総局と裁判官会議の大方の見方になった」と述べた。
菅長官のいつも以上にふてくされた顔つきと今崎事務総長のあまりにもうつろな表情に事態の重大性が浮き彫りになり、記者たちは騒然となった。
菅長官の説明は次のようなことだった。
裁判員制度を根付かせようと処罰を伴う参加方式をとったことで、国が責任を問われる裁判が起こされたばかりか、この間裁判員経験者の中から何人もの自殺者が出た。行き過ぎた参加強制は制度の安定的維持を害するという点で最高裁と意見が一致し、やりたくない者にはやらせないという方針に転換したが、その結果、出頭者は大きく減少した。
テレワークなど出頭しないで裁判に参加する方法や病気治療と裁判員の両立を図る罹患裁判員総合病院の設立などの方策も検討し、また繁忙期を中心に裁判員参加の上限規制を設けるなどの改革も試験的に実施した。
しかし、国民の不参加の流れは甚だしく、抵抗を少なくしようとした結果、制度の安定をかえって損ねさせた。このことは遺憾ながら認めざるを得ない。そこでこの際、裁判員制度の廃止を検討することにした。
今崎事務総長は次のように述べた。
裁判員の参加が少なくなっていることは事実だが、裁判員裁判に参加した裁判員や補充裁判員からは「参加して良かったとか、良い経験をした」という感想が圧倒的だ。
国民の間には我が国の司法の正統性に関する信頼が深まり、自身がわざわざ裁判に参加しなくてもこの国の裁判官たちは良い裁判をしているという信頼感というか安心感が醸成されたのではないか。
その意味でこの制度は歴史的な使命を果たし終えたと評価している。私の意見は最高裁の裁判官会議の検討を踏まえて申し上げている。
追及する記者と逃げる有責当事者
記者たちはいっせいに質問の手を挙げた。官房長官は、目ざとく『朝日』の大久保真紀記者を指名した。記者は目を赤くして、「要するに裁判員制度は破綻したということか」と尋ねた。長官は「破綻という言葉は使わないことになっている。我々はこのような事態を一定の困難な状態という」と答えた。記者は「そんな」と言ったままハンカチで目を押さえた。
『共同通信』の記者が、森友学園問題で大きなダメージを受けた安倍内閣は人気回復策として制度廃止を掲げたのではと質問した。官房長官は記者を睨み、「断じて違う、首相は国民の信用を失ったら首相も議員も辞めるとまで言っている。信なくばたったひとり、もとい信なくば立たずだ。偏見に満ちたメディアは会場を去ってほしい」と述べた。
ニューヨークタイムズの特派員は「Godless!」と叫んだ。
『東京』の記者は「困難を自ら作った政府がその困難を取り払うことで人気を得ようと考えるのはおかしいと言われたら」とたたみかけた。長官は色をなして、「裁判員制度は政府・自民党だけではなく、全野党が賛成してできた。皆さんも基本的に賛成した。破綻の責任はみんなにある」と答えた。どこかの記者が「長官自身も破綻という言葉を使ってますが」と声を上げたが、長官は「不規則発言はやめ給え」と応じた。
今崎事務総長への質問に移った。指名された『読売』は「裁判員を務めたほとんどの人たちが良い体験をしたと言っていたということだが、安定して実施しているのならわざわざ止めることはないのでは」と尋ねた。事務総長は、「裁判員と補充裁判員の経験者総数は7万4000人ほど。良い体験をした95%というのは7万人。有権者総数1億人の0.07%にとどまる」と答えた。これには記者が「1年1万人なら、1億人になるには1万年かかる計算だが」と質問。事務総長は「人口減少情勢を考えるともう少し早く国民皆裁判員が実現するのでは」と答弁。失笑とため息が広がった。
『日経』の記者が「官房長官から裁判員の自殺の話が出たが、裁判官の自殺は出ていないのか」と質問。事務総長は「裁判官の自殺は裁判員制度が始まってから10人だ。しかし、裁判員裁判のために自死したと言い切れる例はない」と答弁。記者は「言い切れる例とは」と再質問すると、「その趣旨の遺書があったというようなことだ」と答えた。『TBS』の記者が「きちんとした調査はしていないのか」と聞くと、「きちんとしたとはどういうことか」などと答え、またため息が広がった。
「このところ高浜原発の再稼働容認とか、伊方原発の差し止め却下など、司法が行政にすり寄る判断が続いている。裁判員制度も内閣が止めるというので最高裁も追随しているということでは」と『日本テレビ』の記者が質問。今崎事務総長は「司法の行政追従が指摘されるが、裁判員制度はいずれ終わるということは私たちの世界ではかねてから考えられていた」と答えた。これには記者は「先ほどは人口減少を考えれば1万年もかからないとか何とか言っていたではないか」と尋ねたが、事務総長は答えなかった。
竹崎前最高裁長官は
『NHK』の記者が竹崎博允前最高裁長官の私宅を深夜直撃訪問。政府・最高裁の記者会見の模様を伝えて意見を聞くと、前長官は情報を事前に知らされていたようで、落ち着いて次のように語った。「この制度はそんなに長く続けられるものとも続けるべきものとも思っていなかった。だいたい、私はもともと国民が裁判に参加することに意味があるとは考えていない」。
驚いた記者が「ですが、竹崎さんは制度推進の旗を振って最高裁長官になられた」と聞くと、竹崎氏は「まあね」と答え、続けて「ただ、ボクはもともと市民の司法参加には意味がないと言っていた。当時、鳩山邦夫法務大臣はサイバンインコのゆるキャラなんかに扮してうれしそうにしていたが、後に実は私も反対だったなんて言っていた。私は正統派の消極論者で自分の意見を以前からはっきり言っていた」と語った。
記者が「そういうのを変節と言うのでは」と聞くと、竹崎氏はかすれただみ声で「まあね」とまた答えた。どうやらこの言葉はこの人の癖らしい。
記者が「裁判員を経験した市民がほとんど良い経験をしたと言ってるという話でしたが」と聞くと、竹崎氏はにやっと笑って、「感想は日当を貰う前に聞かれるんだよ。つまりそういうことさ」と答えた。
かくして、制度構想から16年、実施から8年。この制度はついに幕を下ろす方向が確定した。
=読者の皆さまへ=
昨年の4月1日の当欄で、寺田逸郎最高裁長官が死亡していたことを報じましたが、その後、寺田長官と酷似する人物が長官として執務をしているとの報道に接しました。影武者ダミーであるかどうか判然としませんが、裁判員いらないインコは引き続き真相究明に向けて鋭意調査いたします。新事実が明らかになった時はあらためてお知らせいたします。
投稿:2017年4月1日
東京都 中学校社会科の元教員 山田 将
読売新聞に掲載された投書について私が感じたことをお伝えしたい。きみへの返書のつもりである。投書のタイトルは「人生背負う裁判員の決断」。投稿したのは東京都練馬区にお住まいの田代健人君という15歳の中学生。内容は次のとおりだ。
「裁判で陪審員らが意見を決めることの難しさを描いた映画を、授業で見た。優勢な『有罪』側を最後は『無実』側が説得したのだが、現実はこううまくはいかないと思った。話し合っての満場一致は少なく、多数決が多い。有罪か無罪かを決断することは容易ではないであろう。
裁判員制度で自分が決断する時がくるかもしれない。しっかり事実を見て真実へと判断できるのか。多数決で決まるかもしれない。でも、最後まで被告の人生を背負っているつもりで、考えられるようになりたい。」
なかなかしっかりした中学生と感心した。「陪審員」という言葉を使っているから、きみたちは陪審員裁判の歴史的名作『評決』を見たのかもしれない。ちなみに、裁判員制度を宣伝する最高裁作成の映画は、教材資料として私の学校に何本も送られてきたが、優勢な「有罪」側を最後は「無実」側が説得するという仕立ての物はまったくなかった。陪審員物を教材に使った先生の考えはどこにあったのだろう。陪審制と裁判員制度の最大の違いは裁判員裁判には裁判官が3人も参加していることだ。有罪・無罪の判断が全面的に素人に任されていること、そして量刑の判断に陪審員が加わらないことが大きなポイントである。
実際の評議を考えると、きみも想定しているように最後まで陪審員の意見が一つにまとまるのはとても難しいだろう。けれども、陪審員の評議を分析した専門家の研究を見ると、同調圧力がものすごく働いて異論を押さえるという。裁判員裁判にはプロの裁判官が3人も加わるのだから、裁判官の意見が結論を決める決定的な力になるのは目に見えている。裁判官を含む多数が有罪を主張し、無罪を言う裁判員が多数意見に押しつぶされる。きみ自身言うが、「有罪か無罪かを決断すること」は途方もなく難しい。
裁判員制度で自分が決断する時がくるかもしれないと言う。きみは裁判所から呼び出されたら出頭するつもりなのだろうか。裁判員制度が今や風前の灯火の状態にあることをきみは知っているか。不出頭率は今年1月79.1%になり、無断で不出頭を決め込む人の率は39.1%に増えたという。
東日本大震災・東電原発事故があり(2011年3月)、「急性ストレス障害になりたくないのなら引き受けなければよい」と言い放った福島地裁、仙台高裁、最高裁の一連の元裁判員敗訴判決があった(最高裁判決は16年10月)だ。今や、裁判員裁判は、人を裁き処罰したがるごく一部の人たちや日当を稼ぎたいと思う暇な人たちによって支えられている瀕死状態にあるのだ。
政府・最高裁は、素人の感覚や感情でやれると宣伝したが、その一方、国民を裁判所に呼び出す目的はこの国の司法が長く適切に行われてきたことを教えることにあると言っていた。裁判所の判断は従来の裁判官の判断の枠を基本的に踏み外させないことにしたのだった。読売新聞だけではなく全メディアが飛び跳ねて喜び、大政翼賛会を彷彿させる応援団の勢いを背景に全国の学校に裁判員裁判の宣伝ポスターが配られ、私の中学校でも掲示板に、野球少年が裁判員になる日の決意を語るポスターが貼られた。宣伝映画のCDも最高裁からたくさん送られてきた。でも結果はこういうことだ。そのことをきみはどう考えるだろうか。
起訴されていない画像投稿を起訴されたようにみなし殺人と合わせて有罪と認定し、懲役22年の判決を出した東京地裁立川支部の裁判員判決(三鷹女子高生殺害事件)は高裁で破棄され差し戻された。検察は2度目の裁判員裁判で画像投稿も起訴したが量刑は最初と同じ懲役22年だった。検察は控訴したが、2度目の高裁は2度目の裁判員裁判の結論でよいとした。裁判員裁判のでたらめと決着のでたらめだけが目立った。
相次いで裁判員の判断が高裁で覆されているので紹介する。一つは通行人2人を刺殺した事件だ。殺人等の罪に問われた被告人について、大阪高裁は、「計画性が低く精神障害の影響も否定できない」と一審大阪地裁の死刑判決を破棄した(3月9日)。もう一つは小1の女児を殺害した事件だ。殺人等の罪に問われた被告人について、同じ大阪高裁の別の部だが、「生命軽視の姿勢を過大評価している」と一審神戸地裁の死刑判決をこれも破棄した(3月10日)。どちらの裁判員裁判も「公平の観点」の考慮に欠けると高裁に指摘されている。
「公平の観点」の考慮に欠けるというのはどういう意味かきみは分かるだろうか。同じような事件についてこれまで裁判所が行ってきた量刑の判断とかけ離れた判断をしているということだ。「これまでの裁判所の量刑判断」と言われても裁判員には普通は分からない話だ。無理な相談と言った方がよい。実際には裁判長が判例一覧表のようなものを見せて、これが実例だと説明するらしいが、被告人の責任がそんなに簡単に比較できるはずもない。せいぜいで1人殺害なら多くは無期懲役、2人以上なら死刑が多いという程度だろう。
そういうデータを見せられても、自分たちの考えで判断してよいと言われて裁判所に来た裁判員たちの中には、「私はこのように考える」と頑強に言う人もいよう。きみもきっとその口だろう。その勢いがよほど強ければ裁判官たちもそれで行こうと言うかもしれない。何しろ裁判員の受けが悪い裁判官は裁判所の世界ではダメ判事とされるらしい。それを高裁は高裁で「公平の観点」の考慮に欠けると言って打ち消す。「裁判官はつらいよ」の世界なのだ。
裁判員は尊重されるのかされないのか。高裁・最高裁で裁判員裁判の結論が簡単にひっくり返されれば誰しも裁判員をやりたくなくなる。きみのように自分の責任でしっかり対応しようと決意する人は「いちやーめた」とおさらばする。処罰に異様な関心を寄せる人たちも高裁・最高裁に否定されて「なぁーんだ」と鼻白む。そういう話を聞いた市民たちは呼ばれても裁判所には行かないという気持ちをどんどん強める。日当を貰えれ何でもよいという人たちだけが裁判所に出かけて行く。裁判所は今ハローワーク裁判員だけが残る方向に向かっているのだ。
理知的なきみには裁判員制度の現実がそんなものになっているということを知って貰いたい。そしてそのきみには、「一般市民に被告の人生を背負わさせる」この制度の存在理由をしっかりと考えて貰いたい。
もう一度言う。裁判員制度は陪審制とはまるで違う。
きみの先生が陪審制の映画を生徒に見せたのはなぜだろう。裁判員制度もこれと似たようなものだという考えによるのだったら、先生の考えは間違っているというほかない。裁判員制度が陪審制とは違うということを考えるきっかけにしようという趣旨だったら、それは深い考えに基づくと言える。きみは私の文章を読んだら、明日学校で先生にそのことを聞いて確かめることをお勧めする。そこから本当の裁判員学習が始まるだろう。
投稿:2017年3月27日
4年前、東京・三鷹市で女子高校生が殺害され、元交際相手の男性が殺人や画像投稿いわゆるリベンジポルノに及んだとされた事件がありました。
3年前に東京地裁立川支部で裁判員裁判の判決が出て、その後控訴審東京高裁の判決も出ました。
この事件については、以前も取り上げた(三鷹ストーカー高裁判決が示す制度の末路)。
今年2月、東京高裁で懲役22年の判決が出て、検察側も被告人側も上告しなかったので、これで裁判が確定したと報道されています。
元の裁判員裁判、その控訴審裁判、差し戻し裁判員裁判、そして今度4回目の控訴審裁判。どうしてこんなことになったのでしょうか。
この裁判、なんか怪しげな経過があったんじゃなかったでしたっけ。
最初の裁判員裁判では、罪に問われていなかった画像投稿を罪に問われているのと同視して懲役22年を言い渡したんですよね。
画像投稿が起訴されていれば有罪か無罪か、有罪なら責任の程度を判定しなければならなくなります。起訴されなかった時は有罪か否かを判定することはできないし、有罪と断定することももちろんできませんね。
この事件の裁判員裁判は、そんな原則はお構いなしに、「ひっでぇ奴だ、リベンジポルノまでしたんだってね」ってみんなでおしゃべりしたんですね。
おしゃべりしただけではない。裁判官が3人もいたというのに、判決の中でもリベンジポルノがあったと断定して、懲役22年と言い切ってしまった。
東京高裁はそりゃおかしいとして原判決を破棄、地裁に差し戻した。結果は裁判員裁判のやり直しだ。
元の裁判員裁判の裁判官たちは恥ずかしくないんでしょうか。自分たちのミスでおかしな判決を出し、審理が長引くことになったんですから。
ミスと気付かなかったかも知れないな。裁判官としての能力不足と重罰要求の裁判員への迎合が重なっていたのだろう。「まっ、いいか」ぐらいのいい加減裁判だったと思う。
画像投稿を外すとなると、刑は前よりも軽くしなければおかしいことになりますね。あれだけ騒がれたリベンジポルノ殺人事件の刑が、なんやかんや言ってるうちに元の判決より軽くなったというのはどうにもまずいでしょうけれど。
画像投稿を俎上に載せるのは忍びないと告訴を見送っていた女子高校生の遺族に検察は何とか協力してほしい、これでお嬢さんの恨みを果たしましょう、と申し入れた。
今度は間違いのない厳罰判決を出させようという一念で突っ走ったのでしょう。
はしょって言おう。やり直し裁判員判決の刑は前と同じ懲役22年だった。
起訴されてなくても22年、起訴されても22年。どっちでも結論は同じと。
今度はもっと重くしたら、元の裁判員裁判は間違いだったと宣言することになる。手続きミスを除けば前の判決で実質的に間違いはなかったというのなら前と同じ量刑にする。その後者を選んだのだろう。
でも、遺族にすれば良い面の皮ですよね。むりむり画像投稿を問題にして裁判を求めたのに、結果の量刑は同じということになると。
検察とすれば、画像投稿を正式に問題にして有罪になったのに、量刑判断に全然反映しないのはおかしいという理屈だろう。一方、被告人側にすれば、画像投稿は元の裁判員裁判の時からしっかり議論されていて、織り込み済みの22年。これ以上重い判決を下す理由はないということだろう。
懲役22年は元々決まっていた。元の高裁判決は、手続きにミスがあったからやり直せと言ったのであって、量刑判断の問題は付け足しのようなものだった。リベンジポルノは起訴されていないのに、起訴されたのと事実上同視した一審判決に対しては、それはちょっとまずいと言わざるを得ない。でも内容そのものにとんでもない間違いがあるわけではないと考えた。それだけのことだ。
この事件の審理から私たちは何を受け止めればよいのでしょうか。
元の一審裁判員裁判は、理屈もへったくれもなく重罰志向で突っ走る裁判員裁判のでたらめさを浮き彫りにした。
追起訴させるという手続きをあらためてとらせたが、結論は前から出ていた。
お飾り裁判さ。裁判官たちにとっては、裁判員たちは単に説得の対象。黙って従ってくれというお客様に過ぎない。
裁判員裁判の重罰暴走とお飾り性と。その2つが今回の裁判の結論ですか。
裁判員裁判にみんな振り回され、やれやれといいながら後始末に追われている感じですね。
そう、この事件ははしなくも裁判員制度の惨憺たる現状を示したと言ってよかろう。
私たちこそもうこの制度にリベンジしなければいけないということですか。
推進勢力の七転八倒がすべてです。君まで、そんなに無理して語呂合わせをしなくてもよろしい。
投稿:2017年2月28日