~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
一読者(保護司)
私は地方都市で保護司をしています。投稿「全国犯罪被害者の会に参加し、刑事司法を考える」を興味深く読みました。この会(「あすの会」というのが通称だそうですので、以下はそのように言います)の集会については、このウェヴでも以前に触れられていますが(3月12日: 死刑判決破棄の高裁判決に対し検察が上告断念 弁護士 猪野亨)、私も少し感想を述べたくなりました。
犯罪の被害者が加害者に対して強い非難感情を持つのは当然だと思います。非難感情を持たないとか希薄な感慨しか懐かないとすれば普通ではありません。しかし、被害者の心境・心情を非難感情の一点で整理してしまうのははなはだ不合理です。
ご遺族などが何をおいても懐く思いは、真相を知りたいということです。そして、一様に心の拠り所を強く求められます。どうしてこのような事件が起きたのか説明を受けられないこと、真実を知らされないことの苦痛は例えようがありません。会場では「被告人に罪を直視させ、人間としての良心を思い出させたい」というご遺族の思いが吐露されたそうですが、そこに心の拠り所を見出したいというご遺族の気持ちが表れています。
「壇上のご遺族の話は被告人への処罰感情よりも大切な家族を失った悲哀の方がより強く心に残った」と投稿者は感想を述べています。このことは非常に重要なポイントです。ご遺族の多くは、やり場のない苦しみや悲しみや喪失感にさいなまれています。そして、その心情は「真実を知る」ことによってそれこそほんの少しですが癒されます。
真実を知ることは責任のありかを知ることにつながり、いのちが還らない今自分たちがこれからできることは何かを探る決意にもつながります。悲劇を繰り返させないため遺された者に何ができるかを考えるご遺族は実際少なくありません。
さてそう考える私ですが、この決議を読んで、「あすの会」のみなさんの問題意識に強い違和感を覚えたことを告白します。私は、犯罪被害者が当然に死刑制度を存置する考えに立っているとは思わないし、そういう考えに立つべきだとも思っていません。また犯罪被害者が先例よりも市民感覚を反映した量刑判断を尊重する考え方を当然とっているとも思わないし、そういう考え方をとるべきだとも思いません。
この文章を読まれるみなさんは、犯罪被害者はひたすら加害者に厳罰を求めていると思っているでしょうか。実は圧倒的なご遺族の心境は先にも述べたように「真実を知りたい」であり、「原因を知りたい」です。また、「同種の事件を繰り返させないために自分たちに何ができるか」を考えている方もいます。ひたすら死刑や厳罰を求めるという心情は「真実はどうであれ死刑台に送りたい」とか「細かいことは詮索無用。ひたすら厳罰に」という思考に陥りかねず、むしろ多くの被害者の心情とは思考の方向性が異なるとも言えます。
『朝日新聞』(4月3日)のオピニオン欄に、片山徒有さんのインタビュー記事「厳罰化と償い」を掲載しました。片山さんは、17年前にお子様がダンプカーに轢かれて亡くなった交通事故のご遺族です。当時、事件は「隼君事件」の名で話題になりました。
片山さんは、加害者を憎むよりはほかの人を支援することを考えた方が建設的で自分にも励みになると述べています。被害者はみな加害者への厳罰を望んでいるのではない、厳罰を望まないご遺族も少なくないともおっしゃいます。ご自身、「死刑で命を奪うのは被害者を新たに増やすことになる」と発言したら、「被害者なのに死刑に反対するとは何事か」と猛烈に非難された経験があるそうです。あぁやっぱりと私は思いました。
ここには考え方の大きな分かれ道があります。そして、敢えて言えば、犯罪被害者は犯罪被害者らしく加害者に非難の言葉を徹底的に浴びせ、捜査当局や裁判所などに厳しい刑罰を要求しなければならないという、まことに薄気味悪く恐ろしい社会的な強制力が働いているように感じられます。片山さんは、「亡くなった○○ちゃんは望まないかもしれないけれど、私は加害者の死刑を望まなければいけないのです」と泣かれたご遺族の言葉を紹介しています。
私は、今、極めて意図的に「望ましい被害者像」や「あるべき遺族像」が作られつつあるように思えてなりません。「あすの会」という団体がどのようなバックグラウンドの下にこの運動を進めているのか知りませんが、警戒して見守って行く必要があるのではないかと感じています。
もう一つ。「裁判所は、裁判員裁判における一般市民の感覚を反映した量刑判断を尊重すべきであり、先例をことさらに重視すべきではない」という決議がなされたことについてです。
猪野弁護士さんによれば、「決議」は「従前の裁判例を引き合いに出して無期懲役に減刑したが、これでは裁判員が何時間もかけて慎重に審理を尽くしこの事件は悪質だとして死刑を言い渡した一般市民の判断の重みを軽視することになり、司法の独善や裁判員制度の否認につながりかねない。裁判所は、一般市民の良識ある判断を尊重すべきで軽々にその判断を覆すべきではない」と指摘しているそうです(前掲投稿)。
「何時間もかけ」た程度で「慎重に審理を尽くし」たことになるのかどうか、私にはよくわかりませんが、どうもそうは思えません。また、「一般市民である裁判員が言い渡した死刑の判断は軽視してはならない」などと言い切ってしまうことは、それこそ刑事司法の「重みを軽視することにな」るのではないかという気もします。
市民感覚は必ず厳罰感覚、市民は軽い刑を決して望まないという確信がここにはあるようです。誰かが市民感覚を厳罰指向に方向付けようとしてしている。いや、裁判員裁判という仕組みそのものがそういう市民教育と連動しながら作られたものではないかという印象を私はどうしても持ってしまいます。私の仮説が当たっているとすれば、「ねじ曲げられた被害者像」と「死刑制度存置論」と「裁判員制度堅持論」は深部でつながっているということになりそうです。
投稿:2014年4月17日