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死刑判決破棄の高裁判決に対し検察が上告を断念

裁判員裁判の破綻

弁護士 猪野 亨

下記は「弁護士 猪野亨のブログ」記事です。
猪野弁護士のご了解の下、転載しております。

 裁判員裁判で死刑判決が下され、それが高等裁判所で破棄され無期懲役に減刑された事案で検察が上告を断念したと報じられています。

長野3人強殺で上告断念=裁判員の死刑破棄、無期-東京高検」(時事通信2014年3月12日)

 事件の概要  3人の被告が金銭トラブルから被害者ら(男性62歳、男性30歳、女性26歳)の首をロープで絞めて窒息死させて現金約416万円などを奪った事案。

 長野地裁は、2011年12月17日に裁判員裁判によって死刑判決を下しましたが、東京高裁は本年2月27日に無期懲役に減刑しました。
検察は上告理由が見あたらないという理由で上告を断念したというものです。

 ところで、昨年12月にも裁判員裁判による死刑判決を破棄した東京高裁判決に対し、検察は裁判員裁判の結果を尊重せよという上告理由を挙げました。
しかし、裁判員裁判の結果を尊重せよという主張は、根本的に誤りです。
死刑判決の裁判員裁判を尊重するのは大問題
裁判員裁判の結論を尊重せよということは、死刑判決となるかどうかが、あたる裁判員によって異なる結論になることを正面から是認せよというのと全く同じことになるのです。
クジという偶然で選ばれることになっている裁判員がたまたま死刑に慎重であった場合、逆に死刑に積極的だった場合など偶然の要素によって死刑か無期かが決まるということになるのです。
この結論は明らかに異常です。
とかく裁判員裁判の判決を尊重せよという主張がマスコミや一部の国民から出てくることがありますが、とんでもない暴論だということでもあります。
この点、江川紹子さんがこのようにツイッターでつぶやいていることが話題になっていますが、誠にもってその通りです。
江川紹子氏 裁判員裁判の判断を批判する雰囲気を懸念」(夕刊アメーバニュース)

「裁判員裁判の判断を批判することを遠慮する雰囲気は、なんとかならないものかにゃ」と意見。裁判員裁判だろうと職業裁判員による裁判だろうと、ものすごい権力行使をするわけなので、批判の対象になって当然だと思うけど、メディアも法曹界でも、なぜか腫れ物に触る風潮があるような…」

 裁判員といえども国家権力の行使の一端を担っている以上、糾弾の対象になって当然であるし、本来は実名を示すのが当然です。責任の所在が曖昧な刑事裁判、しかもそれが死刑判決であるならば非常に問題なのです。
 今回、検察は上告を断念しました。裁判員裁判だから尊重せよという論理であれば上告するのが筋でした。上告理由などどうにでもなるし、まさに裁判員裁判だからという理由はその1つです。
それができなかったのは、検察の主張の一端が崩れたということでもあり、むしろ、これこそが当然の結論なのです。
死刑という極刑は、通常の量刑のデコボコ(これも問題ですが)以上に極限的な差があるのですから、裁判員裁判だからなどという理由で死刑判決を是認するのは暴論なのです。

 この点、全国被害者の会(あすの会)が昨年末に上げた決議は非常に問題です。
東京高裁判決(刑事第10部)は国民に対する裏切り!」 以下、抜粋

東京高等裁判所第10刑事部(裁判長:村瀬均)は今年の6月と10月、2件立て続けに裁判員裁判の死刑判決を覆し、無期懲役を言い渡した。同じ裁判官による驚くべき独善である。

被害者が一人だから死刑がやむを得ないとは言えないとはどういうことか。非道な罪を犯した加害者の命の重さが、善良な市民の2名分以上の重さがあるとは、よくぞ言えたものである。こういったところに、裁判官の感覚が市民の感覚からはずれていると批判されてきたのではないか。

平成25年10月16日付産経新聞社説によると、2件の東京高裁の判決の背景には、過去30年間の裁判官裁判による死刑・無期懲役が確定した殺人・強盗殺人事件を調査し、被害者の人数別に先例の傾向を分析した昨年7月に公表された最高裁司法研修所の研究報告があると解説されている。同新聞が言うように、もし、国民の常識よりも、たかだか一研修所の見解を東京高裁が重視したのであれば、国民を見下していると言うほかない。

第13 回 全国犯罪被害者の会( あすの会) 大会決議」(2014年1月25日) 以下、抜粋

東京高裁の2件の判断は、先例に従えば、被害者が一人の強盗殺人の場合、計画性があるか、あるいは仮釈放中の犯罪でないかぎり、死刑にはならないとの従前の裁判例を引き合いに出して、無期懲役に減刑した。これでは、裁判員が何時間もかけて慎重に審理を尽くし、従前の先例も考慮に入れながら、それでもこの事件は悪質であるとして死刑を言い渡した一般市民の判断の重みを軽視することになってしまい、司法の独善、裁判員制度そのものの否認につながりかねない。裁判所は、一般市民の良識ある判断を尊重すべきであり、軽々にその判断を覆すべきではない。

 あまりに感情的な文章だという点は被害者団体だからということから差し引くとしても、この論理・主張はあまりに暴論です。
非道な罪を犯した加害者の命の重さが、善良な市民の2名分以上の重さがあるとは、よくぞ言えたものである。」からは結局のところ、1人殺してもすべて死刑にせよというのと同義であり、自動車事故(故意の無謀な運転)でも死刑相当ということになるでしょう。
根本的には「国民の常識よりも、たかだか一研修所の見解を東京高裁が重視したのであれば、国民を見下していると言うほかない」という点において裁判員制度に対する根本的な誤解がある点はさておくとしても(裁判員は主権の行使ではない、国民と評価するのは誤り)、まさにこれこそが裁判員制度が感情に流されるのではないかという恐ろしさをまざまざと見せつけてくれたというべきでしょう。
裁判員制度は制度として完全に破綻した制度といえます。

 そしてまた裁判員裁判による死刑判決が破棄され、それが確定したという現実は重大なことです。

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投稿:2014年3月12日