~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
弁護士 猪野亨
下記は「弁護士 猪野亨のブログ」9月17日の記事です。
猪野弁護士のご了解の下、転載しております。
裁判員に対する声掛けを行った工藤会組員が起訴され、その裁判が始まりました。
罪状認否では、1人は否認し、1人は認めています。
裁判員に対する声掛けは、基本的には接触自体が禁止されています。
裁判員法73条
何人も、被告事件に関し、当該被告事件の裁判員又は補充裁判員に接触してはならない。
2 何人も、裁判員又は補充裁判員が職務上知り得た秘密を知る目的で、裁判員又は補充裁判員の職にあった者に接触してはならない。
罰則は78条ですが、ここでは単なる接触ではなく威迫した場合になります。
裁判員法78条
被告事件に関し、当該被告事件の裁判員若しくは補充裁判員若しくはこれらの職にあった者又はその親族に対し、面会、文書の送付、電話をかけることその他のいかなる方法をもってするかを問わず、威迫の行為をした者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。
2 被告事件に関し、当該被告事件の裁判員候補者又はその親族に対し、面会、文書の送付、電話をかけることその他のいかなる方法をもってするかを問わず、威迫の行為をした者も、前項と同様とする。
裁判員に接触を禁止することは非常に問題があります。かつて読売新聞の記者が接触したことがあり、読売新聞が自己批判するに至っていますが、取材の自由すら制限してしまうもので民主国家ではあるまじき規制なのです。
もっとも威迫ということになると、裁判員でなくとも問題になりうるものです。裁判官に対して威迫すれば公務執行妨害の容疑にもなります。
工藤会の組員というだけで通常は声を掛けられれば、その目的(意図)はわかりすぎるくらいわかりますから、誰であっても怖くなるのは当たり前です。
暴力団であるが故にそれを誇示すること(相手が認識していることを含む)だけで震え上がるのは当然です。
従って声を掛けただけという被告人の主張には大分、無理があるように思います。
もっとも裁判員法が憲法違反であれば守られる法益はなくなるかといえば、単なる脅迫罪の適用もあり得ることですから、裁判員法=違憲=無罪にはなりません。
さて、この事件を契機に検察側は、工藤会の事件はすべて裁判員裁判の適用除外を請求する方針を固めたそうです。
裁判員裁判ではなくなる、職業裁判官のみの裁判になることが「決定」しました。もともと暴力団犯罪のようなものについては、選ばれる国民が拒否するであろうからという理由で適用除外が制度化されたものです。
刑事裁判のために必要だから導入されたものではなく、あくまで国民「参加」のための制度だからです。
朝日新聞には識者として元裁判官の森炎(ほのお)弁護士のコメントが掲載されています。
「裁判員声かけ、元組員が無罪主張「脅迫の意図なかった」」(朝日新聞2016年9月16日)
「裁判員の安全をどう確保するかは制度導入時から想定されており、課題として認識していたはずだが、実際に事件が起きた。裁判所は十分な体制をとっていなかったと言われても仕方ない。裁判員の安全確保は裁判所の責任だ。
一方で、暴力団が関わる裁判を安易に裁判員裁判の対象から外すのは、司法の民主化に逆行する。裁判所が所内の警備や帰宅時の送迎などの安全策をきちんと講じるとともに、今回のような違反者を厳正に処罰することを通じて、再発を防ぐべきだ。」
裁判所が体制を取らなかったのが問題だという意見ですが、具体的に裁判所がどのような対応が取れたというのでしょうか。
敷地内であれば可能でしょうが、敷地を出てしまえば、裁判所としてはどうしようもなくなります。
先般、私はこの裁判所の安全体制について文書開示請求を行ったところ、「裁判員等の送迎」の項目があり、送迎も1つの方法として検討されていることがわかります。但し、具体的な方法については「裁判員等の安全確保に関する事務の適正な遂行に支障を及ぼすおそれがある情報(裁判員等の送迎方法等)が記載されており」としてこの部分が一部不開示になりました。
( )の部分が不開示ですが、大したことは書いていないでしょう
とはいえ、この送迎で安全が確保できるかといえば、そうは行かないでしょうし、送迎も一部の裁判員裁判に限定されるでしょうから、送迎から除外された裁判員には不満(不安)が募ることになります。
実際にこのような安全確保など無理な話です。過去には被告人(組関係ではありません)が裁判員にお前の顔を覚えておくと言った事件もありました。
裁判員にとっては暴力団関係者以上に怖いだろうし、そのような声に出して言わなくても、実は被告人の逆恨みを買っているかもしれません。
それでいて裁判員制度の意議なるものを強調して、「安易」に対象から外すのは問題という主張も、呼びつけられる国民からすればたまったものではありません。
「裁判員が顔を見られないようにするなどできるのだろうか いびつな刑事裁判」
この適用対象からの除外することについては、制度が始まる前から、裁判員制度に反対する立場からの批判がありました。
「暴力団関係者の事件に「市民感覚」は反映されなくていいのですか。」
この批判は、裁判所や検察庁などの国に対する批判としては実は的外れです。
国民をして統治機構の一員に動員し、統治に対する責任を果たせというのが制度趣旨ですから、工藤会を除外していくという検察の方針は、決して制度趣旨に反しているわけではないからです。
「国政モニターからの裁判員制度に対する疑問 疑問に正面から答えない法務省」
誰に向けられた批判かといえば、裁判員制度は「市民感覚」の反映とか「民主化」だなどと後から勝手に制度理由を作り上げたマスコミや刑事法学者たちに対する批判です。
マスコミや刑事法学者(特に現状の刑事裁判に批判的な「進歩的」な刑事法学者)は、統治責任論は組みすることは出来ません。
そこで、「市民感覚」の反映とか言って、マスコミは国民動員を正当化しようとし(本来の制度趣旨では国民が動員に納得しないのは明らかだから)、刑事法学者は、刑事裁判の改革(えん罪防止)として位置付け、裁判員制度に賛成することを合理化しようとしたのです。
従って、上記のような批判(暴力団事件には「市民感覚」は反映しなくてよいのか)には相当、悔しい思いをしているのです。だから「制度趣旨が~」と声高に叫び、適用対象から外すことを批判し、裁判員の身の安全確保について裁判所を非難しているのです。員
上記の朝日新聞のコメントについては批判として筋違いであり、マスコミや刑事法学者たちの裁判員制度に対する位置付け(刑事裁判の改革によるえん罪防止)には無理があったということを認めるべきでしょう。
投稿:2016年9月29日
9月6日、『読売新聞』のコーナー「気流」に、「裁判員務め達成感」と題する投稿が掲載された。
「嫌悪感投稿」は問答無用に不採用でしょうが、「達成感投稿」というのも最近は珍しいですね。
投稿者は東京都練馬区に住む59歳の主婦野口紀子さん。記事を貼り付けます。
終わった後は「一つのことを成し遂げたすがすがしさを感じて貴重な体験になった」ですか。うーん。
際限もなく毎日同じことを繰り返し、家族からはやって当たり前と見られているような人たちからすれば、「達成感」とか「すがすがしさ」とか「貴重な体験」もわかるような気がします。
主婦一般をそのように断じるのはちょっと問題だがね。裁判員はやりたくないという主婦はものすごく多い。そのこともちゃんと頭においておかねばならない。
それはそうですけどね。この方どう思っていたか知りませんが、現実の裁判にはテレビドラマのような華々しさはもちろんありません。行うのは緻密な作業そのものです。ただし以前ならこの作業が何ヶ月にもわたって行われるのが当たり前でした。今はそれがほんの数日だけです。野口さんにわかってほしいのは、たった数日、表面をなぜるような審理をすることを「緻密な作業」とは言わないということです。
厳しいと言えば厳しいがそれは真実だ。経験したことのない経験をした、実態をありていに言えば、自分には日ごろ経験しない特別の世界だったという程度のことなんだな。
非日常を味わえ、裁判長からは丁重にねぎらわれて大いに満足したのでしょう。
裁判所などという「おそろしいところ」に出かけていったら、裁判長から「それぞれのお仕事を横に置いて裁判という国家の大事に関わって下さったことに心からお礼を申し上げる」なんて頭を下げて言われた。「皆さんが裁判に関わられた意味を私たち裁判官は肝に銘じてこれからの仕事に活かさせていただきます」なんてそれこそ気持ちをくすぐる言葉が裁判長の口から滝のように流れ出た。生まれて初めての褒め言葉で疲れ切った神経を癒そうというもくろみ。そのように言えと最高裁が事細かに指示しているのだ。
この裁判長ご挨拶の直後に裁判員たちの「アンケート調査」が行われるんでしょ。そこで裁判員たちに変な回答を書かれたら、裁判長の指導成績に×が付きますよね。
そうさ、裁判長も必死さ。ここで裁判員たちのご機嫌をとっておかねばと、歯の浮くような言葉を恥ずかし気もなくかけまくる。
「一つのことをやり遂げた達成感」は、主婦にとっては特別な体験でしょう。おまけに日当も出る。小遣い稼ぎにもなる。主婦が家を空けることを快く思わない夫や家族がいても、「お上の御用」で外出の堂々たる名目もできる。うっとうしい毎日から少しは解放される。
なるほど、そういうのをいけずと言うんですか。でもその解放感やら達成感やらは、犠牲にされる被告人にとっては、ふざけるなっていう話じゃないでしょうか。
キミも結構いけずだぞ。ところで、マネージャーは京女やなくて難波のこいさんやろ。きつねが狸に化けたらうどんが蕎麦に…、でも京都のたぬきは餡かけで…
本題に戻りましょう。刑事裁判の目的は何かです。何度も言ってますが、刑事裁判は市民の社会見学の場でも主婦に異体験をさせる場でもありません。どうしてもというのならば、司法アミューズメントセンターを作るとか各地のAM施設に裁判ゲームなんかを設置させたらよろしおます。
気になるのは、「裁判所が一般市民の感覚による司法判断を求めている」というところです。裁判官は、法的な解釈などわかりづらいこと、難しいところを丁寧に説明しなければなりませんが、裁判員の理解力もそれぞれでしょうし。正直言って現場の裁判官が素人感覚の司法判断を本気で裁判員に求めているとか、裁判員の意見を参考にしているとはとても思えません。この話にはどこかにウソがあるような。
この方はとても素直な方なのでしょう。目の前にいるプロの裁判官から「あなたの判断が必要」とやさしく言われても疑うことを知らないお人好しです。裁判官にすれば、最高裁が制度を推進している以上、お客様の裁判員にはそう思って貰うしかない。野口さんはとても満足しているらしいので、この事件の裁判官たちは最高裁から覚えめでたいでしょう。
「意見はしっかり伝えたつもり」とありますが、それが判決に反映されたかどうかは書かれていないです。
「つもり」って言ったって伝わったかどうかわからないでしょ。「つもり」には前もっての計算や前もっての考えという意味もありますが、「実際はそうでないのに、そうであるかのような気持ちになる」っていう意味もあります。つまり自己満足っていうことです。
しっかり伝えたつもりでどうなったのか。裁判官にしっかり伝わって採用されたのか。伝わったはずが伝わらなかったのか。
この間、東京地裁には裁判員裁判の無罪判決はないように思います。野口さんが参加した裁判も判決は有罪だったのではないでしょうか。そうだとすると、「伝えたつもり」の意味は極めてシリアスな話になってきます。
「意見はしっかり伝えたつもり」というのは、被告人が有罪になることを前提に、あなたはこのように更生したらどうかなど、自分の意見を伝えた「つもり」という話になるのではないでしょうか。そうだとしたらそれこそ上から目線の生き方指導ですよね。
こういう人は、死刑判決を言い渡すような事件でも、「あなたはやっぱり死んでお詫びして貰うしかない方ですね」なんて、案外平気で言えてしまうかも知れません。
何にせよ、裁判官にすれば、裁判員に「私の意見を取り入れて貰えた」と思わせて帰らせれば良いだけだからな。
いえいえ、私はしっかり反映されたと思いますえ。何と言うても、裁判官の方々が丁寧に説明してくれはったことで導き出された貴重な意見どすぇ。裁判官たちにとっては自分の意見を反芻して市民の言葉として言ってくれたってなりますやろ。
同じ日の新聞に、5日付けで大阪高裁長官から最高裁判事にご栄転の菅野博之さんの抱負が載っています。「裁判には人の人生や会社の命運がかかっている。一つひとつを誠実に見ていきたい」
ほう、そうかね。人の人生、いや命さえかかっている刑事裁判を「素人の貴重な体験の場」に提供しておいて、「誠実にみていきたい」もないだろうが。
私はある意味、これは正直な回答だと思います。「見ていきたい」とは単なる希望、「見ていく」と断言した訳ではないですから。
見ていってどうするんだ、見てるだけかとも言えますね。とかくこういう話には中身がないってことっすね。
そう。今でも最高裁は、裁判員制度で刑事司法が壊れていき、現場の裁判官が疲弊していくのを「見ているだけ」です。これからも「見ていくだけのつもり」なのでしょうね。
「つもり」には、酒宴最後の酌という意味もあるらしい。今日はいつになくマネージャーが激しいというか元気だった。その記念をかねてわれわれは制度終焉の前祝の宴と行こう。
投稿:2016年9月11日
弁護士 猪野亨
下記は「弁護士 猪野亨のブログ」8月30日の記事です。
猪野弁護士のご了解の下、転載しております。
国政モニターの方からの裁判員制度の疑問とそれに対する法務省の回答です。
裁判員制度について(回答:法務省)平成28年8月29日掲載
法務省の回答は、見事にお役所回答です。
これが回答の根幹部分です。
「約7年にわたる裁判員制度の運用により、広く国民が裁判の過程に参加し、その感覚が裁判内容に反映されることによって、司法への国民の理解や支持が深まり、司法がより強固な国民的基盤を得ることになるという制度に期待された効果が実現しつつあると認識しています。」
制度に期待された効果とは、どのような形で実現されてきたのでしょう。
東京高裁の死刑判決破棄を最高裁は是認しましたが、マスコミからも最高裁批判が飛び出しました。
「最高裁 裁判員裁判の死刑判決を認めず!」
オウム元信者に対する東京高裁の無罪判決などもそうですが、モニターの方が提示した質問には全く答えていません。モニターの方の趣旨は、裁判員の感覚(意見)が反映されているというのであれば、それに従った判決(結論)にならなければおかしい、ということです。
法務省の回答は、はっきりとずらしています。
もっとも法務省には正面から答えることはできません。今さらながらに裁判員制度の本質を示すことになってしまうからです。
法務省の回答の意味は、国民が裁判員として裁判官とともに評議を行い、国民を関与させた、そういったことで司法が直接、国民に依拠している体裁を作り出し、権力側に立つという自覚をしろというものです。それをわかりにくくして回答すると上記のような回答になるのです。
もともと裁判員制度を提唱した司法審意見書では次のように述べられています。
「21世紀の我が国社会において、国民は、これまでの統治客体意識に伴う国家への過度の依存体質から脱却し、自らのうちに公共意識を醸成し、公共的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められている。国民主権に基づく統治構造の一翼を担う司法の分野においても、国民が、自律性と責任感を持ちつつ、広くその運用全般について、多様な形で参加することが期待される。」
このような内容で法務省が回答できるはずもないので、官僚答弁のような回答になったということです。
この視点から回答すれば、次のようになります。
【法務省が本来回答すべき内容】
裁判員の身の安全については、ご自身で守って頂くよりありません。裁判所の敷地を出れば裁判所(国)の責任ではありませんし、国家の一員としての責務ですからその自覚を持つことが求められています。
裁判官が従来の判決を下すということについては、地裁では評議によって裁判官だけでなく裁判員がともに考えて出した結論ということになります。それが従前の量刑と変わらないとしても、評議に参加した裁判官、裁判員によって出された結論であることに自信を持って下さい。その裁判員は国民を代表して参加したのですから、参加していない国民も同様に共感してください。
高裁、最高裁で裁判員が関与した判決が破棄されることもありますが、だからといって裁判員が関わった判決の意義が失われることは全くありません。裁判員も時にはその判断が間違うことがあるのも仕方ないことであり、むしろ国家の一員として関与したのですから、そこに自信を持つことが大事なことです。
裁判員となることは国民としての義務ですから、その点はご理解ください。
報酬についても相応の基準となっていることをご理解ください。
裁判官の批判をかわすことが目的ではなく、あくまで裁判員とともに結論を出すことについてご理解ください。
このような感じになりますが、この程度の回答が何故、できないのか不思議です。
制度についても、相変わらず裁判員の辞退率は65%前後、出頭率は25%を切っていて、瀕死の状態です。
「裁判員制度に関する速報値(2016年6月) 工藤会による影響の有無は?」
だから法務省は「安心して裁判に参加していただけるような環境を整えることが重要」と述べているのですが、もう後がないからです。
投稿:2016年9月10日