~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
こてこての浪速のこいさんこと私インコマネージャーは、5月23日に埼玉会館で開催された「裁判員制度に断固反対する集会」に参加いたしました。ランダム報告と感想めいた一言を。
主催団体「裁判員制度に反対する埼玉市民の会」が、毎回きちんと報告集を出されているので、しゃしゃり出ずに遠慮することにしまして。
集会名称は、ずばり「5.23裁判員制度に断固反対する市民集会」。副題は「まっぴらごめん裁判員」。後援「埼玉弁護士会」。弁護士会が後援しているというのも素敵!
日弁連執行部が裁判員制度推進の旗振りをしていることを考えると、真っ当な弁護士会がまだあったんだと驚きだなぁ。
集会には、現正副会長のほか、歴代の会長さんが並んでましたね。集会は6回目。当日の講師は衆院でただ1人法案成立に抵抗された辻恵さんと、インコのホームページでたびたびお世話になっている札幌弁護士会の猪野亨さん。
猪野さんは『マスコミが伝えない裁判員制度の真相』という共著本を出版された。その共著者は確か新穂正敏さんと立松彰さん。
新穂正敏さんは埼玉弁護士会の会員、立松彰さんは千葉県弁護士会の会員。新穂さんは「市民の会」の代表としてあいさつをされ、同じ埼玉弁護士会の立石雅彦さんが「裁判員制度見直しに関する意見書」(埼玉弁護士会刊。2012年12月発表)の解説をされました。
辻さんの講演。「司法改革は偽物改革」「中坊路線はメチャクチャ」「証拠による裁判を否定する裁判員制度を潰す」との思いで国会に臨んだと。議員の実名を上げてのリアルな話に辻さんの悔しさと奮闘ぶりがにじみ出ました。
それがすっかりダメダメ。日弁連の制度推進論を叩いていた辻さんのところには、議員総当たりのロビー活動を展開していた日弁連も恐れをなしたかあきらめたのか、さすがに来なかったそうですけど。議員の中には、後になってから「反対すべきだった」と反省の思いを辻さんに話した人がいたとか。
辻さんは、今回の盗聴法拡大や司法取引などの刑訴法改悪についても、日弁連執行部が「可視化も一部認められたんだから」と賛成要請のロビー活動を展開していることをあげ、野党議員も「日弁連が賛成しているんだから」とか「専門家が賛成しているんだから」とコロッと納得してしまうと言われた。
議員は立法の責任当事者なのだが、すべての法案に精通してはいない。遺憾なことだけれどもそれが実際の姿だ。それだけに日弁連の罪は万死に値する。
そういうことです。共謀罪の前段のサイバー法案についても、辻さんは、賛成・反対の拮抗情勢の中で、棚上げを追求しようとしていたら、日弁連からカイトとかなんとかいう弁護士が来て「日弁連の提案を受け入れてくれた法務省に感謝する」なんて言ったことで、棚上げを言っているのは辻さんだけということになり、自分は日弁連の立場とは違うということになってしまったと。
民主党政権の崩壊話や法務官僚主導の法律作りなど、国会はまさに魑魅魍魎の世界。彼らは長期的な見通しを立てて様々な法案を用意し、具体化のタイミングを計っていることがよくわかり、あらためて権力の恐ろしさを感じさせられましたね。
猪野さんの報告。マスコミの報道を丁寧に分析された結果については、前掲の本を見ていただくとしましょう。猪野さんは、出頭率の欺瞞をバッサリ。裁判員法は裁判員候補者が裁判所に行くことを「出頭」と規定しているのに、最高裁は公式のデータなどで、そのことを「出席」と言っていることを問題にしました。
猪野さんは、「司法修習は終了か、修了か」と、最高裁、法務省、日弁連に尋ねたら、最高裁からは「裁判所法に規定がない」として回答できないと答えられ、法務省からは「所管でない」ので答えられないと答えられ、日弁連からは「裁判所法に『司法修習を終えた者』とあるから終了だ」と答えられたそうな(この辺りの追及の仕方はインコさんに通じるものがあると思った事は猪野さんに失礼だから黙っていよう)。
みんな根拠や拠り所にこだわっている。ところが、こと裁判員に限っては最高裁は法律にない言葉を使う。「来い」に通じる「出頭」という言葉を使いたくない心情がありありなのだ。法律の規定から外れても「出席」を使ってクラス会風や運動会風を装う。そしてマスコミもそれにならう。
マスコミは裁判員の任務を美談話に仕立てるキーワードに「責任」という言葉を使っていると猪野さんは言われました。
また、最高裁のアンケートに裁判員経験者の9割以上が「良い経験をした」と答えていることについて、裁判官から思わぬ「おもてなし」を受け、一生のうちに見ることのない場所を特別に見せてもらい、到底経験することのない経験をさせていただいたら、答えはおそらく「良い経験」になるだろうと言われました。
インコ一言。5月21日付け『産経新聞』は、「裁判員制度6年 経験者は『参加してよかった』でも辞退率は増加傾向」というタイトルで、次の記事を掲出しました。
「経験者と未経験者の感覚乖離(かいり)が明らかに」として、「最高裁が平成26年に行った経験者アンケートでは、「参加してよかった」と考える裁判員は95.9%、補充裁判員も94.9%とほとんどが肯定的」だが、「最高裁が今年初めに行った国民アンケートでは、『裁判員として参加したい』もしくは『してもよい』とする回答はわずか12.3%。『参加したくない』は87.0%だ。また、裁判員候補者の辞退率は増加傾向で、昨年1年間では64.4%。今年は3月までの3カ月間で67.1%と施行初年に比べて14ポイント上昇」と。
インコはこれまで何度も言っていることなのだが、この「経験者アンケート」というのは、はっきり言ってイカサマアンケートなのです。被告人に判決を言い渡した裁判員たちが異様な興奮状態で控え室に戻り、裁判官たちや裁判所職員たちから「お疲れさまでした」とか「ありがとうございました」とか口々に言われ、裁判所によっては感謝状や記念品が贈られたりする。その場で間髪を入れずアンケート用紙が配られ、短い時間で感想を書かされる。疲れている裁判員たちに長い時間をかけさせることはしない。それがこのアンケート。そして裁判員たちが書いている間、まわりに立っているのは裁判所の職員。日当の支払いはこのアンケートを提出してからのこと。裁判員経験者に後日アンケート用紙を送って書いて貰い送り返させるようなやり方で集めているものではまったくない。
こういう状況は明らかに人間の心理を普通ではないところに追い込みますね。後にPTSDで車の運転ができなくなったり、仕事を辞めざるを得なくなった人たちも、その時は「良い経験をした」と回答しているのじゃないでしょうか。そして、その人たちは、今、アンケートを取ると「悪夢だった」というような感想になっているのでは。消しゴムで消せるものなら、あの経験はなかったことにしたいとか…。
そうさ、百歩譲ってもだ。もしアンケートを取るのなら、落ち着いて経験を考えることができる状態になってからやるべきものだろう。そしてそこには「もう一度経験したいと思うかか」とか「自分が被告人になったら裁判員に裁かれたいと思うか」という質問を加えるべきだろう。それが客観的な調査というものだ。
このほか、猪野さんは、批判されない裁判員、量刑判断で暴走する裁判員、ついに最高裁が裁判員裁判の判決を否定と、この間の裁判員裁判の問題を次々に明らかにされ、最後に裁判員制度に関連した予算について話されました。
2005年が16.6億円、06年106.4億円、07年128.3億円、08年122.5億円、09年103.5億円、10年55.1億円、11年51.9億円、そして今でも年間50億円以上が使われていると。
国民の8割5分以上がやりたくないと言い、刑事裁判をとことん破壊する制度について、これからも毎年50億円以上の国民の税金をぶち込んでゆくのかどうかという問題だ。
「市民の会」の「報告集」ができたら、入手方法等をこのホームページでもご案内いたしますので、ぜひご覧下さい。
おまけ:浦和駅から埼玉会館まで、集会を案内する立て看板があちこちに。
すごい!
写真はインコ応援団の千恵子団長(勝手に団長にしちゃったよん)と猪野さん。
投稿:2015年5月29日
5月2日の産経ウェブニュース【日本の議論】は、裁判員制度の現状を考える特集を組んだ。お題は次のとおり
「『司法は身近か』右肩下がりは“無言の批判”か 裁判員裁判6年、まだ足らない『社会の支援』と『経験の共有』」。
メディアがはやし続けてきた「定着」「安定」論が急速に様相を変えてきたわね。あられもみぞれもない裁判員裁判の姿をさらす見出しですこと。
そりゃあられやみぞれの季節じゃないからね。司法は身近になっていないのでは、参加激減は国民の制度批判か、6年経っても支援が足りぬ、足りぬ足りぬは工夫が足りぬか我慢が足りぬか。経験はみんなのものになっていないって……。
場末の夕暮れを思わせるもの悲しいトホホ物語風ってとこですね。
そこで今回は、この産経ニュースの全文をきちんとご紹介し、その上でインコはバチッとコメントさせていただく!
裁判員裁判の運用に関する意識調査
5月で制度開始から6年を迎える裁判員制度。裁判員らが出した判決を高裁の控訴審が棄却するなど、一部議論となっているケースもあるが、関係者は「国民に制度として定着した」と評価する。その一方で、最高裁が平成21年の制度施行以来、毎年度行っている国民アンケートでは、「裁判所や司法が身近になった」と制度を肯定的に捉える割合が22年度を頂点に後退を続けるという現象も起きている。果たして国民への浸透は行き届いているのか、それとも制度の停滞なのか。識者からは「裁判員の経験を未経験者が共有する仕組みを作る必要がある」との声も上がっている。
「裁判員らが出した判決を高裁の控訴審が棄却するなど、一部議論となっているケースもあるが、関係者は『国民に制度として定着した』と評価する。その一方で…」。うーむ、このわかりにくさ。
つまり、こう言っている。「裁判員らが出した死刑判決を高裁が無期懲役に変えたりして、これじゃ裁判員制度を導入した意味がないではないかという批判を引き起したが、しかし関係者は『制度として定着した』と評価している。だがしかし…」。
わかりやすくしたら妙ちくりんな文章だっていうことがはっきりしたです。
素直に「関係者は定着したったって言うけれど、裁判員裁判の判決はひっくり返るし、制度肯定論もどんどん後退している。実際にも…」って言えばいいんだよ。さて、突然登場する「定着したと評価する『関係者』って誰なんだ。名前を書けよ。あっちもこっちもあいまいに言うのはホントにけしからん(ぷんぷん)。
「果たして国民への浸透は行き届いているのか、それとも制度の停滞なのか。識者からは『裁判員の経験を未経験者が共有する仕組みを作る必要がある』との声も上がっている」。これもおかしい。あれかこれかなんて言わず国民への浸透どころか停滞の極みではって言えばよいこと。ここでまた『識者』なんていうあいまいな言葉が登場する。あちこちの顔色を窺うような雰囲気がただよう。
肯定的意見、22年度が頂点、否定は増加傾
最高裁が裁判員制度施行後、毎年度行っているアンケート。全国の20歳以上の男女2千人前後が対象だ。項目は多岐にわたるが、その中でも制度浸透の指標となり得る複数の質問に対する回答の傾向が、関係者の頭を悩ませている。
まずは、「制度導入後、裁判所や司法が身近になった」とする設問から見てみる。最新の26年度調査では、肯定的に答えている「そう思う」が14.6 %、「ややそう思う」が36.8%で合計すると約半数。「あまりそう思わない」11.5%、「そう思わない」4.0%との否定的な意見を大幅に上回っており、一見、制度の浸透が図られているようにも見える。
だが各年度を比較すると違った側面が見える。初めての調査となった21年度では、「そう思う」が22.0%、「ややそう思う」が42.0%で計6割を超える。22年度は「そう思う」24.6%、「ややそう思う」43.0%とさらに割合は上がった。しかし、22年度を頂点に肯定的意見は減少を続けており、26年度調査は過去最低となった。「そう思わない」「あまりそう思わない」とする否定的意見は、21年度の8.3%に比べて26年度は15.5%まで増加した。
「質問に対する回答の傾向が、関係者の頭を悩ませている」と来ました。
「関係者」というのは、推進派の中心にいる人たち、それもどうやら最高裁事務総局あたりらしい。で、「頭を悩ませている」理由というのは、「裁判所や司法が身近になった」は、平成22年度の約67%から年々下がって、平成26年度は約半数になっちゃったっていうので、焦らざるを得ない数字だ。
一方、定着したなんて思わないという否定意見は、裁判員裁判が始まってから6年間で8.3%から15.5%にほぼ倍増。時間が経つほど定着しなくなるっていう話もおもしろいし、これが最高裁自身が実施したアンケートの結果だっていんだから、そりゃ頭を悩ませるでしょうよ。
こういうデータがあるときは、現状にはかくかくしかじかの問題があるがこれは次のように克服するつもりだとか何とか言うもんだ。しかし最高裁はそういうことを言わないどころか、「頭を悩ませている」とも言わなかった。皆さん、頭抱えてうんうん言っている最高裁長官なんて見たことあったかい?
産経ニュースで国民は初めて「そうか最高裁は頭を悩ませてるんだ」って知らされました。
インコはもちろんとっくに知ってたけどね、つまりこの辺の推進勢力の物言いも、メディアの報道の仕方もむちゃくちゃヘンなことなのさ。
ほかの設問も傾向重なる
同様の傾向は「裁判の結果がより納得できるものになった」「裁判の結果に国民の感覚が反映されやすくなった」という設問にも当てはまる。やはり、肯定的な意見は2年目の22年度がピークで、現在は減少傾向にある。一方で否定的意見は増加傾向だ。
最高裁など司法当局では、これらの結果に対する評価は分かれているという。
あるベテラン刑事裁判官は、21、22年度の高い数値について「導入1、2年目は制度に対する期待感が大きく、さまざまなところで現在よりも多くの報道がなされた。そのため、国民の関心も高く、アンケート結果に表れた」と指摘する。
その一方で、現在の後退傾向を「制度が国民に浸透し、報道も減少したことである種の新鮮さが無くなり、高く評価する回答が後退しているのではないか」とする。ただ、「制度への批判が反映されている可能性がある」との声も根強く、アンケートへの結果は定まっていない。
ベテラン刑事裁判官は「アンケート結果を制度定着と捉えるとしても、次年度調査以降も後退傾向がさらに進むのであれば問題。国民への理解のため、広報活動を考えていく必要があるだろう」としている。
「ほかの設問も傾向重なる」というのは、要するに全体にどうしようもなくなっていっるっていうこと。「納得できるものになった」「国民の感覚が反映されやすくなった」っていう意見もどんどん下がり、その一方で「納得できない」とか「感覚が反映されない」という否定的意見が増加している。
「ベテラン刑事裁判官」は、「導入直後は期待感が大きく報道も多かったため、国民の高い関心がアンケート結果に表れたけれど、制度が国民に浸透し報道も減少したことで新鮮さがなくなり、高評価回答が後退したのでは」と言ったと。
誰だよ! このベテラン君ってのは! 何言ってるんだ。この制度の評価は制度が発足する前から最悪だったのだよ。「導入直後は期待感が大きかった」なんてウソ言うなよっていう話。「国民の高い関心がアンケート結果に表れた」なんてデタラメもいいところ。
だけど、「制度への批判が反映されている可能性がある」との声が根強いって。
それはつまりインコが、いやいや、多くの国民がと申しておきますが、そう言い続けているっていうことさ。「可能性がある」なんて及び腰の言い方するんじゃない。
ベテラン裁判官が、次年度調査以降も後退傾向がさらに進むのなら問題だって。それってどういうことよ。もうしっかりすっかり問題な状況でしょう。どうして突然来年以降の話にしちゃうのさ。この耐え難い軽薄なごまかし方。
短期は大丈夫でも「長期は負担」
国民参加の制度を浸透させるのに必要なのが、参加のハードルをいかに下げていくかだ。裁判員に仕事を休むなど大きな負担を強いる制度のため、拘束期間は常に課題となってきた。
例えば、4月に東京地裁で判決が言い渡された元オウム真理教信者のT被告(57)の裁判員裁判で、裁判員は1月上旬の選任から4カ月近く、従事したことになる。
3月に別の裁判で裁判員を務めた50代の女性は「自分の場合は選任されてから1週間で判決まで終わったので、負担は少なかった。ただ、T被告の裁判のような長期間の審理が可能かと言われれば、かなり難しい」と話す。
裁判員への負担が増す長期間審理になりやすい典型的な例は、T被告の事件のように、複数の事件で起訴されている場合だ。実は、このような場合に負担を軽減すべく、裁判員制度と同時に導入された制度がある。それは「区分審理」だ。
区分審理は事件ごとに異なる裁判員を選んで、それぞれの裁判員が事件ごとに有罪か無罪かを判断。最後の事件を審理する裁判員はその事件の有罪・無罪を判断するとともに、全事件で1つでも有罪があれば、量刑を決めなければならない。
「短期は大丈夫でも『長期は負担』」「『参加のハードル』をどう下げていくか」ですって。
ずれまくりだなぁ。長期も短期もありません。全部ダメ、全然大丈夫じゃない。今や「ハードルを下げる」なんていう生やさしい状況じゃない。記事は急に区分審理の話に入っちゃったけれど、「参加破綻」は、審理が2日で終わるような短期裁判にもおよんでいるんだ。
軽減難しく「耐えてもらうしか」
ただ、運用には常に難しさが伴ってきた。最後の事件を審理する裁判員が、直接審理に加わらなかった事件も踏まえて、最終的に判決を決めなければならなくなる。直接関わっていない事件に裁判員が適切な判断を下せるのか、導入当初から疑問の声が出ていた。
こうした意見を反映するように、区分審理を採用した裁判員裁判は、23年度の20件を頂点に減少傾向で、26年度は9件まで減っている。ある裁判官は「別事件で複数起訴された事件とはいえ、当事者や証拠が重なり、『一連の事件』として捉えなければ、判断を下せない場合が多い。そうしたケースで区分審理を行うことは適当ではない」と運用減少の背景を解説する。
長期間拘束の軽減をめぐっては、政府が3月、裁判員対象事件について「初公判から判決まで長期間にわたると見込まれる場合、裁判官だけで審理できる」ようにする裁判員法改正法を閣議決定した。ただ、この場合の長期は1年を超える裁判が対象になるとみられており、国民参加のハードルを下げるとは言い難い。
ベテラン刑事裁判官は「これまでも数カ月にわたる審理が複数あったが、選任された裁判員が次々に参加できなくなり、裁判を進行できなくなったケースは今まで出ていない。大きな負担だが、選ばれた国民の方に頑張ってもらうしかない」としている。さらに「裁判官や検察官、弁護士が論点を分かりやすく整理するなど、期間短縮に向けた努力をしていくべきだろう」とみる。
A事件とB事件とC事件の審理をほぼ同時的に進行させる。裁判官はA、B、C一緒で、裁判員はA、B、C別々。最後に審理したC事件の裁判員たちは裁判長から聞いたA、B両事件の審理結果に基づいて最終判決を言い渡す。
そう。裁判官たちはみんな直接関わっているから全事件が「わが事件」だけれど、C事件の裁判員たちにとってはA、B事件は全部「人聞き事件」。裁判員に負担をかけないというただそれだけの理由で事件が細分化され、最後の裁判員たちは別事件の判決の内容を決めなくちゃいけない。最後の裁判員にはめちゃくちゃな負担だよ。
区分審理ほど裁判員をバカにし、お飾りに過ぎないことを示す話はないわ。
いかにも現実離れの「机上審理」事件が減ってきたというのは、当たり前だ。だが、区分審理が減るということは複数事件を一組(ひとくみ)の裁判員たちに審理させるケースが増えるということ。ますます裁判員の参加が減り、「軽減難しく『耐えてもらうしか』」なくなり、矛盾は深刻化する。
「ベテラン刑事裁判官は『裁判を進行できなくなったケースは今まで出ていない』としている」と言うけれど、参加する裁判員候補者がどんどん減って拒絶率が高まる、裁判所は呼び出す裁判員候補者をどんどん増やす。だから裁判ができなくなるまでにならないだけなのだ。
蛇口から水がちょろちょろしか出なければ、長い時間水を出し続けるのと同じことね。
そうさ。6人の裁判員と2~4人の補充裁判員を確保するのに、以前は100人の候補者を呼び出していたのを150人、200人、300人と増やすという破滅的対応をしているのだ。
「裁判官や検察官、弁護士が論点を分かりやすく整理するなど、期間短縮に向けた努力をしていくべきだろう」っていうのもまるで分かってない。「論点を分かりやすくする」と審理期間はフツー延びる。審理期間は短くなるかも知れないけど、ベテラン裁判官でないとフツーはわかりにくくなるの。
経験共有の機会増やせ
裁判員制度に関する情報発信を行う「裁判員ネット」代表理事の大城聡弁護士は、「裁判員経験者が経験を語る場が少ないのが、アンケート結果に表れているのではないか。守秘義務を意識する余り、経験者が勤務先や家庭など社会の中で経験を語ることに抵抗感があり、何が行われているかを共有する機会がほとんどない」と指摘する。また、裁判員経験者の周辺にいる未経験者も、守秘義務が壁になり内容を聞くことを避ける傾向にあるという。
大城弁護士は、「制度開始以来、5万人以上が裁判員を経験しながら、内容を社会に還元することができていない。そのせいで、未経験者にとっては、裁判員が何をしているのか不明な点が多く、制度との距離を感じる要因になっているのではないか。経験を社会で共有する仕組みが必要だ」とみている。
また、長期審理に対する負担についても、「区分審理は問題点が多く、限られた事件でしか採用できないだろう。裁判所が審理の短期化を努力するのはもちろんだが、長期審理に参加する裁判員を社会的にバックアップすることが必要だ。そのためには勤務先や家族の理解が重要で、やはり経験の共有はカギになる」としている。
制度推進の組織「裁判員ネット」の代表者は弁護士だ。「裁判員経験者が経験を語る場が少ないことが(制度評価の悪化という)アンケート結果に表れているのではないか。守秘義務を意識し経験を語ることに抵抗感があり、経験が共有化されていない」と言っているらしい。
このお方はよほどのお人好しか、よほどのワルかのどっちかね。「経験が共有されると制度の評価があがる」と思い込んでいるように見える。「みんながおしゃべりを始めたら、もういやだもう絶対にやらないという人が一気に増える」とか「経験が共有されないおかげで制度評価の悪化がこの程度でとどまっている」とは全然考えていないらしい。
大城さんとやら、「経験が共有化されると制度の評価があがる」って、どうしてそう思えるの。パンドラの箱に何が入っているのかあなたはどうしてわかるのかな。
それとも大城さんはこの箱が絶対に開かないことを知っているから、無責任なことが言えているだけなのかしら。
さぁさぁお立ち会いの皆々さま。これが今回の産経ニュースの全部です。裁判員制度6年目。あなたはどこかに「制度の明るい展望」を見つけましたか。どこにも出口がない「鬱々の状況」「絶望の制度」だっていうことになりませんでしたか。
最後にインコは助言します。制度推進の諸君たちはもうそろそろ店じまいの準備に入った方がよいですよ。そしてメディアの皆さんは、今やこの制度について自身の立場をはっきりさせるべきです。皆さんは制度推進の旗を振り、嫌がる国民を強引に国策に引っ張り込んだ。A級だかBC級だか知りませんが、要するに戦犯のお仲間なのです。その皆さんに国民の最終判決が今正に出ようとしている。そのことをよくよく考えなくちゃいけない時が来たのですよ。
投稿:2015年5月24日
5月18日午後、インコと楽しい仲間たちは、最高裁前で抗議行動、その後、渋谷ハチ公前で「裁判員制度即時廃止を」と訴えるビラ配布を行いました。
みなさま、右手に見えますのが最高裁判所、その威容から奇巌城とも呼ばれております。インコは内心では「司法の墓場」と思っております。
警備員さんが出てきたので「テラダ長官にお会いしたい」と言ったけど、「長官はインコに会いたくない」と申しているとか。クチバシで突かれそうで怖いからということだったそうです。
しょうがないなあ~。
ここから入れてくれない。
残念。でも、また来るからね!
帰りは地下鉄に乗りました。階段をよっこらしょっと。
地下街でポスターと同じポーズで踊ってみる。
なぜか、改札口で入れない。パスモのタッチの仕方が悪かったようだ。
駅員さんのいるところへ。
投稿:2015年5月19日
筆者ご紹介:昨年9月に「死刑判決に関わった裁判員たちを解剖する」のタイトルで投稿をいただいた方です。
東京・大学非常勤講師
西野喜一氏の著書『さらば、裁判員制度』の書評を興味深く読んだ。西野氏の切り込みの鋭さは定評があるが、あらためてそのことを感じさせられた。研究者間の真剣な学術上の論戦が少なくなっている。研究者の闘論とはこういうものだと思わされる場面が少なくなかった。
本書の読者の1人として、私も一言述べさせていただく。
多くの国民からこれほど不信を買っているのにその事実を絶対に認めず定着だの安定だのと言い募るものの言い方には、市民生活の経済が良い方向に少しも向かっていないのに良くなっているとか良くなっていくとか強弁するアベノミクス論者の言に通じるものがある。両者は妙に近似している。アベノミクスがはじけ散るのと同じように裁判員制度もはじけ散るのではないかと思わせる。
裁判員制度に関する西野氏の見解,特に先の(下篇)を中心に、若干の所感を述べたい。
まず、この最高裁合憲判決が果たした裁判員制度の定着への効果もしくは影響である。補足意見を完全に排した断固たる判決の体裁が象徴するように、合憲判決にかけた最高裁の思い入れには格別のものがあったと私も思う。しかし、それにもかかわらずこの判決は、制度の定着を促進するどころか制度に距離を置く国民を決定的に増やす根拠を提供したと思うのである。
私がそう考える理由は、裁判への参加を国民の義務とする仕組み(裁判員法第112条一号)を説明するくだりの中に、この義務は参政権にも類するものだという解説を加えたことにある。判旨は次のように言っていた。「裁判員の職務等は,司法権の行使に対する国民の参加という点で参政権と同様の権限を国民に付与するものであり,これを『苦役』ということは必ずしも適切ではない」。
民主主義を国是とする国家においては、司法への国民参加は国民が自らの問題として自発的・意欲的に取り組む課題になり得ると言っているようだ。しかし、参政権同類論は理屈として通らないだろう。なぜなら子女に教育を受けさせる義務(憲法第26条2項)も、勤労の義務(第27条1項)も、納税の義務(第30条)も、おそらく国民が自発的・意欲的に対処することを期待しつつ、国民の義務として規定しているものだからである。権利だとか権利のようなものだと言ってみたところで、その義務性(強制性)は打ち消されない。にこにこ納税して下さいと言っているだけのことだ。
憲法が禁止する苦役に当たらないという最高裁の論は当事者が主張していないのに恣に展開されたものであったという話には正直驚いた。だが、ここでは参政権同類論を特に取り上げて考えてみたい。
権利のようなものならなるほど苦役ではないかも知れない。居住・移転の自由も職業選択の自由も、その気がなければ享受しなければよい。国民は居住場所についても職業についても自身の思うままに実行することができ、国家はその行動に容喙できない。
投票したくなければ有権者は家族に葬式がなくても、別用がなくても投票に行かない。その行動は社会的に論難されることにはなっても処罰されるものではない。大法廷判決は、裁判員参加はそれに類したものという理解を強調し、参政権に対応するのと同じような有権者の対応をあらためて導き出した。裁判員はやりたくなければやらなくてよく、裁判員は強制されるものではないという受け止め方が大きく広がる根拠が示されたのである。
参政権も今や国民から高い評価が与えられていない。各種の選挙の投票率は軒並み低下の傾向にある。参政権同類論は裁判員法の立法段階からくり返し言われてきたことなのだが、裁判員裁判への参加者が激減し、加えて参政権の行使者も漸減の傾向を示している現在、敢えてそのように言うことは、今まで以上に裁判員としての参加を減らすことに強く結びつく。
西野氏は、この判決によって最高裁は、全国の裁判官に以後裁判員裁判はやりたい者だけでやればよく、やりたくない者を強いて裁判所に引っ張り込むなと知らせたのだと推定する。私はそこまではわからないが、この判決がもたらした効果は裁判員参加者のいっそうの減少であったことは明らかだと考える。実際、この判決の後、裁判員参加の減少に歯止めがかからなかったどころか、いっそうの減少傾向を示すことになった。
国民を年齢・境遇・階層・思想などに偏りなく参加させるには、有権者を平均的に参加させる一律の義務づけが欠かせないというのが立法時の政府答弁だった。多くの国民が出頭を拒絶し、平均的参加の基盤が崩壊しているとすれば、制度の定着など期待すべくもない。西野氏の言うように、裁判員裁判はやりたい者だけにやらせることにしたのだとすれば、それだけで裁判員制度にかけた国のもくろみは失敗したことになる。
もう一つ私の感想を述べたい。西野氏は、国民を国家目的に動員する制度として歓迎するとあからさまに主張する「国家主義者」の言を取り上げて厳しく批判している。どこぞの国立大学の名誉教授だというこの「国家主義者」氏は、裁判員の仕事は兵役に就くよりずっと軽く、覚悟を国民に求める裁判員制度を国民が受け入れることは国家と国民の関係を望ましい方向に変化させ、国家は必要な場合には命をかけて闘うことを国民に要求するのがその本質だと言っているという。
裁判員は証拠の全部に目を通す必要がない、当事者が要約した「ポイント」で判断すればよい、裁判員制度は国民の国家に対する意識変革のためにある、などと断じるこの人物の見解について、西野氏は、審議会はこのような理由で裁判員制度を提案したのではなく、国会もこのような理由で立法したのではないと述べる。
「国家主義者」氏の刑事訴訟観に対する西野氏の強い違和感に共鳴しつつ思うのは、しかし裁判員制度の根底にある思想を考えると、審議会や国会や最高裁などの中に「国家主義者」氏の思想に相通じるものを感じない訳にいかないということだ。
公判前整理手続きにまったく関与できない裁判員は、証拠の全部に目を通す必要がないと言われているのと同じであるし、公判審理の中で見たくない証拠は見なくて良いなどと言われたり、捜査官がまとめた「ポイント」要約書面で判断するというのは、それこそ裁判員裁判の現実そのものだ。
私の疑問は司法制度改革審議会の姿勢に行き着く。審議会が政府に提出した意見書は、国民の司法参加の理由付けとして、「自らのうちに公共意識を醸成し、公共的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められている」「司法の分野においても、国民が、自立性と責任感を持ちつつ、広くその運用全般について、多用な形で参加することが期待される」という主張を明確に掲げていた。
「自らのうちに公共意識を醸成する」とは、国民は世の中のために尽くす気持ちを自らはぐくむということだ。「公共的事柄に対する能動的姿勢を強める」とは、進んで裁判員になりたいと思うように努めるということだ。「求められている」とは、言うまでもなく国が国民に求めているということだ。
意見書は、その冒頭で、「本意見書は、内閣に対する意見であると同時に、国民各位に対して当審議会が送るメッセージでもある」とわざわざ述べていた。異様な高ぶりを感じさせる答申である。兵役よりは軽い負担だと言わなかっただけで、裁判員制度の構想の基底には、公共に服務する国民を育成するという強い国家主義的な目的意識が伏在していたことは明らかと言うべきではないか。
西野氏は、2002年に、竹崎博允最高裁事務総長(当時) が、「今後、刑事裁判には被害者サイドの声がさらに強まり、被告人の利益との調整はこれまで以上に深刻になる。キャリア裁判官の詳細な判決だけで国民の信をつなぎとめていけるか」というような内容の非公開の覚書をまとめたと紹介している。02年と言えば、審議会が政府に意見書を出した翌年である。
この覚書は、主に被害者の声の高まりに触れたもので、正面から裁判員制度の意味や位置づけを論じたものではない。私は、竹崎事務総長がこのような見解を表明した背後には、最高裁が裁判員制度に対する明確な賛意表明の決断があると推測している。竹崎事務総長はその前提に立ち、制度実施に伴う配慮事項の1つとしてこのような考え方を示したのであろう。
陪審員不信の最高裁はどこで、また、なぜ裁判員制度推進の立場に立つことにしたのか。西野氏は、「予算上の配慮」や「国民への責任転嫁」や「裁判所の手抜き」や「刑事裁判官の奪権」など諸説を示した。氏の見解は明示されていない。私は率直に言ってこれらの理由付けにはいずれも納得しなかった(そういうことも付随的にはあるかもしれないという程度では理解できたが)。
私見を言えば、審議会が01年6月に政府に意見書を提出する前に、最高裁は司法が国民統制や国家の危機管理役を果たすことを決断したと考えるのが最も合理的だと思う(審議会が裁判員制度を審議したのは01年初頭の時期であり、この時期竹崎氏は最高裁経理局長だった)。
西野氏は、制度発足直後の04年7月、最高裁の「裁判員制度広報に関する懇談会」の第1回会議の場で、最高裁刑事局課長が「裁判所はこの制度自体を当初から支持し、賛成してきた」と発言したことを上げて、「それまでの経緯からすれば信じられないようなこと」と述べている。「それまでの経緯」とは、陪審制に激しく反論していた00年9月当時の審議会での最高裁の発言などを指すのであろう。
しかし、私は、もともと国民(=陪審員)の審判能力に強く疑問を呈してきた最高裁が、審議会に裁判員制度論が登場した01年初頭以降、その種の批判をまったくしなくなったことを重視したい。変節の時は正にこの時期であり、その意味では刑事局課長が「裁判所はこの制度を当初から支持・賛成してきた」と言ったというのはあながち間違っていないように思える。
裁判というものはもろもろの争いごとに裁判官(裁判所)が最後の結論を出すものであり、裁判所はその意味で本来はあまり表に出てこない「奥の院」と言ってもよい存在である。この国の近現代史を振り返ると、司法が社会統治の最前面に躍り出た時というのは体制が危機に直面した時に限られている(近いところで言えば、砂川判決の際の田中耕太郎最高裁長官の動きが好例だ)。
審議会意見書は、「我が国が直面する困難な状況の中で、政治改革、行政改革、地方分権推進、規制緩和等の経済構造改革等の一連の諸改革の『最後のかなめ』」が司法改革だと位置づけていた。「国難の下の最後のかなめ」の役割を司法に担わせることを明確に予定していたのである。そして最高裁はこれを受けとめた。司法改革も裁判員制度も、国難を意識した並々ならぬ国家的で政治的な一大決断だったのではないかと私は考える。
私は、裁判員制度は、国の経済が破綻し、その結果国民統治が破綻ぎりぎりの局面に追い詰められた結果登場した「政治司法」の産物以外のものではないように思う。裁判員制度は「司法の混乱が生んだろくでもない制度」というよりは、「悪らつ極まる国策」として登場したものという評価の方が確実にしっくりくる。
裁判員制度をめぐる問題の根源を考える機会を与えて貰ったことを西野氏に感謝しつつ、所感を述べさせていただいた。
投稿:2015年5月15日
裁判員裁判で検索をかけていたら、『しんぶん赤旗』の記事がヒットしましたわ。なんでも裁判員法の改正案が審議されている衆院法務委員会で、2人の共産党議員が裁判員制度に関する質問をしたとか。
衆院法務委員会のビデオオンデマンドを視聴する3羽。
質問しているのは共産党だけじゃなかった。でも折角のご案内だから、この党の議員の質問を追いかけてみる。4月22日に清水忠史議員が、4月24日の畑野君枝議員が質問している。答弁に立ったのは上川陽子法務大臣、最高裁の平木正洋刑事局長、法務省の林真琴刑事局長。
という訳で今回は共産党がどのような質問をしたのかに絞って報告。
清水議員の質問の中心は「裁判員制度に関する検討会」の報告書です。
ここで簡単に「検討会」の説明をしておきましょう。裁判員法の附則は、施行後3年が経過したら制度の施行状況を検討して必要な見直しをすると定めていた。そして裁判員裁判が始まった直後の2009年の9月から13年6月まで4年近くにわたり、裁判員制度を作った関係者が中心になってその「見直し」問題とやらを検討してきたのです。
検討会座長の井上正仁東大大学院教授(当時)は、裁判員制度の構想を政府に答申した「司法制度改革審議会」(1999~2001年)の委員。その後、政府に設けられた「司法制度改革推進本部」の中で「裁判員制度・刑事検討会」(2001~04年)の座長も務めた。裁判員制度が間違いだったとなれば、「市中引き回しの上獄門打ち首」のA級戦犯。ほかの法曹委員も弁護士委員の四宮啓や前田裕司をはじめ多くが司法改悪の「凶状持ち」。
そこで作られる報告書なんてろくなもんじゃないってことは確実に予想できるけれど、とにかく検討会は13年6月に報告書を政府に提出しました。
そう。報告書は、審理が年単位の、とは明確には言わなかったが、審理が超長期間になる事件は裁判員裁判の対象から外そうとか、大規模災害が起きた地域の住民は裁判員候補者から外そうなどと提案していた。言うも愚か、期待も間抜けという話だけど、制度の本質的な問題点は徹底的に隠蔽して、子ども騙しの「見直し」提案を断行した。
これには推進派のマスコミも拍子抜けの感でしたわね。でも、それが今回の改正法案の骨格になってる。
そう、この検討会報告書について、インコのトピックスは、「法務省『検討会』取りまとめ報告書を読んで-全否定された日弁連の提案 弁護士川村理」(2013年6月25日)の投書を取り上げたり、「法務省検討会-検討してこれですか?」(2013年7月9日)などで厳しく批判したりしている。批判とはこういうものじゃなくちゃっていう見本。
さて、話を本論に戻します。清水議員の質問はこの検討会の報告書を素材に改正案を批判するものだった。問題は批判の基本的な視点だ。「証拠の全面開示などにまったく触れていない」「制度に関わる重大論点を外している」「参加したくない人8割超、辞退者6割超、ドタキャン率3割近いという状況については政府の認識や対応に問題がある」というのだ。
清水議員は、『東京新聞』「こちら特報部」の記事〈選任要請3/4応じず〉(インコのトピックス「『東京新聞』記事 選任要請3/4応じず」でも紹介)を引いて、国民の評価は厳しいとか、その評価も年々さらに厳しくなっているなどと迫ってみせた。でも結局は「国民の不安や疑問を直視してほしい」なんて表面をなぜるくらいで終わったね。
国民が制度に厳しい拒否反応を示しているとか、強く反発しているというような最も重要なポイントには全然触れない。何ひとつ切り結んでいない。それどころか「おおむねうまくいっているからと言って、問題がないことにはならない」などと言ったり、「自分たちも裁判員制度に賛成し真剣に議論していこうとしている」などと言ったりしている。パンチもへったくれもあったもんじゃない。
清水議員は、検討会の報告は証拠の全面開示などにまったく触れていないと非難していますが。
いやいや、触れないのは当たり前過ぎるくらい当たり前のことだよ。この制度は、忙しい国民を動員して、短時間にサクサクチャッチャと結論を出す迅速裁判方式なのです。証拠の全面開示なんて面倒くさくてえん罪が暴露しかねないやり方は、死んでもやるつもりがない。やらせるつもりもない。そのために裁判員制度を導入したって言ってもよい。被告人や被疑者の人権なんてはなから考えてなんかいないんだ。
清水議員は「制度に関わる重大論点を外している」と言う。いいことを言うのかなと気を持たせたが、外された「重大論点」が何なのか全然わからない。完全な拍子抜けです。
やりたくないと思う人や辞退する人が非常に多い。例を挙げて言わせて貰えば、憲法改正にノーと言う人より裁判員制度にノーと言う人の方がはるかに多いってことよ。この事実からこの党はどういう判断を導こうと言うのだろう。
制度をよりよいものにする真剣な議論をしようとしているのだと清水議員は言いました。
冗談じゃありません。誰がどこでそんな議論をしているの。まさかこの検討会がその場だというのではないでしよ。ものごとをあいまいに言ったり、何を言っているのかわからない話をするのはお互いやめましょうよ。
日にち変わって24日の衆院法務委に登場した畑野議員の質問の中心は、裁判員制度を国民が参加しやすいものにせよということだった。現状では国民が安心して参加できる環境が整備されているとはとても言い難いと。
この質問のベースにあるのは、現状の参加状態は深刻で対策を講じなければならない状態に陥っているという危機感ですね。
そう、どうやらそのことはわかっているらしい。しかし同時に、ここには何らかの対策を講じればその困難は克服できるのではという希望がある。だが、それははかない望みだ。選任手続き後の裁判員の職場保障の改善強化とか、保育や介護の強化程度のことで制度の崩壊的危機が克服されると本気で思っているのだろうか。
ほかに言うことが思いつかないから言っているだけなのかも。好きで別れ唄うはずもない、他に知らないから口ずさむ♪、です。
畑野議員は、つぎのように言っています。
改正案は、著しく長期にわたる事件を裁判員裁判から外すと言うが、「著しく長期」の判断基準は不明確だし、その判断をするのは裁判所であって国民自身ではない。
この考え方は結局国民参加の機会を奪うだけだ。裁判員制度の目的は社会的影響の大きな事件を国民自身に審判させることにあるとされているのだから、長期間を要する複雑なケースこそ社会的な影響が強く、裁判員が関わるべきケースになるはずだ。
超長期事件から国民を外してしまえば、その種の事件の審理や判決に裁判員の社会常識や市民感覚が反映されなくなる。それは人を裁くことを決意した国民の真摯な姿勢に誠実に応えるものではない。
ってね。
『しんぶん赤旗』は、さぁ皆さんこれが裁判員制度についての我が党の見解ですと紹介しているが、これらの質問に表われた共産党議員の見方が大問題だ。読者の皆さんはどう受け止められただろうか。読後感を率直に言わせて貰うと、どうにもこうにもお話にならない。破れた金魚すくいの網。すくいようがない、ってね。この政党の裁判員制度に対する見方は根本的にちょうつがいが外れている。
畑野議員の質問に至っては、それこそ驚き、桃の木、山椒の木。議員は司法への国民参加の機会を奪うなって言うけれど、奪うなって言ってるのは誰ですか。やりたくないやりたくないって言ってるのは人民。やれよやれよとけしかけ追い立てているのは国家権力じゃないですか。インコは「人民」とか「国家権力」なんて言葉は使いつけないけれど、皆さんは結構使うんでしょ。それとも皆さんももう使わなくなっちゃったのかな。
やりたくないと思ったり言ったりする国民は非国民ということになったりして。
あ~ぁそうか。ちょうつがいがはずれているとか、すくいようがないって言っている意味がようやくわかってきました。
超長期複雑事件こそ裁判員参加事件であるべきで、これを外せば裁判員の社会常識や市民感覚が判決に反映されなくなるというけれど、現在行われている3~4日程度の短期裁判でも裁判所に出かけて行く国民はもうしっかり偏った人たちになっていますよ。超長期事件になればその偏りはいっそう極端になる。そのことは目に見えていることじゃないですか。
それでもやりたい人はいるって畑野議員は言ったが、裁判所に半年も1年も通い続けられる人たちがどういう境遇や傾向の人たちかということをこの政党の中心にいる人たちは本当に考えているのでしょうか。お得意のブラックをはじめ、零細企業や非正規で働いている人たちはもちろんのこと、そうでなくても毎日の生活に追われている人たちは裁判員どころじゃないのですよ。
この政党は生活に苦労している人たちの味方の政党じゃないんですかね。
ほとんどのフツーの人たちから見放され、特異な人たちによってやっとこすっとこ支えられている裁判員裁判の世界は、フツーの「社会常識や市民感覚」が反映するところじゃない。この党の常識欠如は完全に重症だな。
制度の趣旨から言えば重厚長大裁判こそ国民参加にふさわしい、どうしてこれを外すのだという議員の追及は興味深いですね。
そう、政府法務省は、そんなこと言われなくてもわかっている、本当は重厚長大裁判をこそやらせたいのだけれどみんなやりたくないって言ってるんだから仕方がないじゃんという立場なんだよ。
国民みんなのやりたくないという思いがついに政府を「背に腹は代えられない」という敗北方針に追い込んだのですね。追い込まれた政府は身体全体に壊死状態が広がる前に壊死部分を切除してしまおうと言っている訳ね。
「人を裁くことを決意した国民の真摯な姿勢に国は応えるべき」という畑野議員の言は極めつきだね。この国の国民は自分の隣人を裁く「真摯な」決意をしたと言う。誰がそんなことを決意しているのか。
国会がほぼ全会一致で成立させたと言っても、清水議員が紹介したとおり、国民の圧倒的多数はいやでいやでたまらないでいる。そういう話はそれこそいやになるほど聞く。けれども、議員が言うような「真摯な」決意をした人なんてインコの周りには1人もいません。議員の周りにたくさんいるとしたらあなた方は変な人たちに囲まれ、感覚がおかしくなっているとインコは断言します。
2004年、共産党は、清水議員が言うとおり、裁判員法の成立にもろ手を挙げて賛成した。あなた方は、激辛の料理を作ることに賛成しながら、できあがった料理が甘くないとか辛いとか言って文句を付けているのさ。11年前に自身がとった態度をちゃんと反省するところから「見直し」をしないとどうにもなりません。
「国民の不安や疑問」を直視しなければならないのはまずこの党ですね。
それともだ。異論反論がどんなに多くてもこの制度を維持したいというのが共産党の本音なのかも知れない。良い覚悟だ。ただしそうならその理由はちゃんと言って貰おうじゃないか。
ハハン、両議員とも自由法曹団という法律家団体の名前を上げていた。これは自由法曹団の要人も知らなかった事実だから皆さんもおそらくご存じないだろうが、この制度が始まってから刑事裁判の無罪率は下がり、重罰化の傾向がどんどん進んでいるんですよ。
議員のみなさん、よく知っておいて下さい。この関係のトピックスとして、「裁判員裁判はえん罪を確実に増やす」(2014年6月17日)や「裁判員制度は死刑判決を激減させたという『スクープ』のウソ」(2014年8月10日)で詳しく論じています。自由法曹団の弁護士も登場して恥をかいています。
いろいろ紹介しながらつくづく思うけど、共産党の人たちって勉強が足らなさ過ぎるんじゃないかしら。インコは今日ふとそう思ってしまいました、マル。
裁判員制度について、インコさんに質問してくる方の中に『しんぶん赤旗』の読者もいるでしょうね。
おっしゃらない。おっしゃらない。逆です。その人たちの多くが「共産党は裁判員制度に反対しているはずだ」と言います。「実は共産党はこの制度の推進派なのです」と説明すると、たいていの方はインコのように目を丸くして驚きます。観察するところ、この政党の中枢と一般の党員や機関紙の読者の間には大きな溝があるように見えますね。
この政党が「国民の理解と支持」を気にするのなら、いえ、この言葉がお気に召さないのなら意識するのならと言い直しましょう。インコさんの助言に耳を傾けなさい。いま国民の圧倒的多数が裁判員制度に反対し、反発しています。女性の90%以上が裁判員になりたくないと言っています。共産党が裁判員制度廃止と言えば、あなた方の党に対する国民の理解と支持は強まります。そう、来年は参院選ですよ。
この政党が、制度実施1年前の2008年8月、時期尚早を理由に実施延期を正式に提言していたことをインコは忘れていません。つまり、あんまり定見がないんだね、あなたたちは。ふらふらしていると、女性だけでなく男性も含めて、国民の大半が裁判員制度に対するこの党の見解をきっかけに共産党への信頼を失っていくだろうね。御身大切にと申し上げておきましょうか。
投稿:2015年5月11日
お待たせしました。西野喜一さんの『さらば、裁判員制度』の第3部「最高裁判所と裁判員制度-変節の悲劇」でーす。
ここは西野さんの法律実務家の感覚と法律学者としての見識の結集点となっていますね。
はい、とっても深いパート。だいたい長さも長し蛇のふんどし。第1部が30頁、第2部が85頁、第3部が113頁とくるんだよ。だんだん厚くなる西野の太鼓って言うでしょっ。
大きな柱の第1は、もともと国民の司法参加に強く反対していた最高裁がいつからどうして裁判員制度の旗を振るようになったのかということ。そして柱の第2は、最高裁が裁判員制度は合憲だと判断した東日本大震災の年2011年11月16日の大法廷判決の途方もないデタラメさと憲法違反論。もっと柱はあるかもしれないけど、この2つがわかれば裁判員制度廃止の知識としては満点だと思いま~す。
第1の柱は「最高裁の変節」。最高裁は、もともと国民参加が必要だなんてまったく考えてなかった。国民の司法参加はこの国の司法をおかしくするとさえ考えていた。裁判員制度が法律上誕生したのは2004年でした。ア・レ・は・さんねん・まえっ♪
もとい4年まえだ。そう、司法制度改革審議会が司法への国民参加をめぐって激論を続けていた2000年9月の審議会。この日のヒアリングに登場したのが当時最高裁の総務局長だった中山隆夫判事。この人、福岡高裁長官を最後に去年定年で退官したね。西野さんは武士の情けで名前を書いてないけど、インコは武士じゃないから、全部言っちゃう。
審議会の委員は13人。最高裁や法務省や日弁連などの「事実上の利益代表」はいたし、日本経団連とか労働組合とかの代表格もいた。
13人のうち、法律家は6人でしたけど、そのうち3人は法廷経験がなく、また、あと1人も民事が専門で刑事の経験がないという構成でしたね。
そう言えば、作家の曾野綾子委員は2年間ほとんど完全に欠席して、なんで引き受けたのかとめっちゃ批判されました。
よく知っていたましね。けれど、委員の意見はあくまでも個人の意見、審議会はこの日初めて最高裁の見解を公式に質す緊張の局面になったのです。
中山総務局長は言いました。「参審制について、憲法上の疑義を生じさせないためには、評決権を持たない参審制という独自の制度が考えられる」。
インコは4月1日以外はウソを申しません。最高裁は国民参加に消極、国民参加は違憲の疑い、少なくとも評決権は与えるなって言ったんですよ、ねぇ西野さん。
インコさんが議事録を調べた結果を付け加えると…。この時の中山局長の陳述は次のようなものでした。
「陪審員の判断が不安定で予測可能性に乏しく、高い比率で誤判が生じていることを裏付ける多くの研究結果もございます」「陪審制は裁判によって真相を解明するという機能を構造的に持っていないということがいえるのではないか」「真実解明という司法の機能を大きく後退させることは否定できず、誤判の恐れは現行制度より小さくなることはないという点も十分に考慮する必要があるのではないか」「参審員は意見表明はできるけれども、評決権は持たないものとするのが無難ではないかと思われます」「最高裁判所として提案するものとしては、評決権がないものとしたらどうかというところでは大方の裁判官の一致を見たところでございます」。
さぁ、どうなんさ。これが「国民の皆さま」の判断能力に関する最高裁の大方のご意見なんだぞーっ。陪審員の能力を低く見るってことは、つまり国民の判断能力を低く見るってことさ。
いやいやそういう言い方は正確ではございません。正確にはそれが「司法審までの最高裁の見方」だった。それがその後に変わった。
この国の人々は、最高裁の裁判官たちにバカにされたことで一念発起、お勉強に励んだ。そして、打てば不思議や一寸法師、一打ち毎に背が伸びて、今は立派な大男…じゃなかった、ついについにものごとがよくわかる賢い人間になったらしい。
なに、勉強してないって? インコがまじめにしゃべってる時に混ぜっ返すなよ。
すみません。2004年、裁判員法成立間もない時期に、最高裁が開いた「裁判員制度広報に関する懇談会」で、刑事局第一課長の今崎幸彦判事は「裁判所は当初からこの制度を支持し賛成してきた」と明言したんだよ。当初からなんてウソ灰だらけだよね。この人、その後最高裁の刑事局長になった。
確か、今崎さんてこの3月10日に事故死された方? インコ先輩が4月1日の「スクープ! 制度存続の偽装工作が暴かれた」で死なせちゃった人ですよね・・・。
ふふふ。西野さんは紳士だからこの人の名前も出さないけど、インコはこれもついついしゃべっちゃうんだなぁ。
なにか言った? また、西野さんによれば、中山総務局長はその後現場の裁判官に戻って、2010年12月には東京高裁判事として言い渡した判決の中で、「裁判員制度は憲法に違反しない」と明言したっていうんだぜ。へっ。
中山判事は、最高裁を代表して、「国民参加は違憲の疑い、少なくとも評決権はもたせるな」って言ったんだったら、裁判員制度には違憲判決を出さなきゃおかしい・・・。
そのとおりさ。さぁ、わが西野さんは、敢然このウソ灰だらけに迫る。最高裁はどこで変わり、どうして変わったのか。名探偵西野の答えは、ジャーン、北風吹きすさぶ萬代橋の袂、浪荒い信濃川を背景についに明らかにされるっ。
(この方がいくら新潟大学の先生だったって、火サス並みのシチュエーションには無理があるでしょ)
時は司法審が裁判員制度を政府に答申してから1年後の2002年、登場するのは当時最高裁の事務総長だったあのタケサキくん。彼は「これからの刑事裁判は裁判官による詳細な判決だけで国民の信頼をつなぎ止めていけなくなる」という覚書を非公開で幹部に渡したんですと。
じゃぁ、司法審での中山総務局長の「大方の裁判官の一致を見たところでございます」はどうなっちゃっんですか。
「大方の裁判官」というのは「最高裁裁判官会議の結論」のぼかし表現だ。
では、聞き直します。「国民には意見は言わせるだけで評決の権限は与えるな」という裁判官会議の結論はどこにすっ飛んでいったの?
お母さん、裁判官会議の結論、どうしたでせうね? ええ、夏、国民の司法参加はやめとけって決めた最高裁裁判官会議の結論ですよ、母さん、あれは大変な結論でしたよ。
穏やかな紳士西野は「意見は変えてもいい。だが変えたことについてはちゃんと説明すべきだ」と言う。だが、嘴がとんがっているインコは簡単に承服しない。 最高裁はごまかしちゃいかんのだよ。ごまかしてるってどうして言えるのかだって? それは次のことで明らかさ。
2007年秋に雑誌『論座』に登場した最高裁事務総長大谷剛彦判事(その後2010年に最高裁裁判官になった)は、「(中山総務局長のその言及は)憲法上の疑義を生じせしめないと考えられる一つの参加形態として述べたもの」と言ってるんだよ。
わかりにくいよね。そう、わかりにくさは騙しの一歩ってね。つまり、一つの意見に過ぎんのだからあんまり大げさに捉えないでちょうだいって言ってるんだ。
さすが紳士の西野さんも噛みついた。「これは国民軽視のすさまじい話だ、この言い方が通るのなら、今後最高裁の判決も裁判官会議の結論も『考えられる一つの意見』程度のものと受け取られる恐れがあるって。
でも、この大谷発言は、最高裁方針の大転換があったればこその話なんじゃないのかしら。
マネージャー、冴えてるぞ。インコはここに確実に「意図」を感じます。最高裁は、この「総転向」についてなし崩しにその方向に寄せ、改説の理由や事情はほおかむりをしてやり過ごす「ばっくれ方針」を高いレベルできちっと確認した。そうでなければこの「変節」の不透明が続いている状況は理解できない。
そうでなきゃ、中山裁判官だって恥ずかしくてこんな転向判決を書けないでしょうし。
さらにさらにだ。西野探偵はしつこく「変節」の理由・事情に迫る旅を続ける。
旅を続けるって、「いつ」を詰めれば、「なぜ」に進むのは当然でしょ(インコさん、5W1Hの授業の時、寝ていたんだわ、きっと)
第1に考えられる変節の理由は「予算上の根拠」。何やかやと司法予算の増額を求める根拠に裁判員制度の施行を使うんだ。裁判所所管の歳出予算はこのところ年間3千億円ちょっと。国家予算の僅か3.5%さ。少ないもんだ。そう言えば、全国の主要裁判所で法廷が増え人員も多少は増えたから、もう裁判員制度は終わりにしてもなんて話も実際に出ているらしい。
でも、司法予算は総額で見ると法成立前後でいくらも変わっていません。裁判員に予算をつぎ込んだ分、他の司法予算が削られているとも言える。予算動機論はいかがなものでしょうか。
第2は国民の納得に関する責任転嫁と動員だ。誤判やえん罪が出ても裁判員が参加していたからだって言えば裁判所としては多少とも非難をしのげる。タケサキ覚書にあるように、皆さんの代表が加わって出した結論だからと国民を納得させる材料になる。
第3は怠け者省力論。この制度は手抜きに活用できると考えたのだという。裁判の間違いやズレまくりは裁判員の責任、裁判員を誤らせたのは検察官や弁護人の責任、裁判官は日向でのーんびりって方針だったんだと。
高裁も最高裁もすべて裁判員の思し召しのとおりって判決で行くと。
西野さん、かなりの皮肉を込めて展開しているようにも見えるが、最高裁の2012年2月13日の判決なんか、そう見られても仕方がないものだった。西野さんは、「ある程度の幅を持った認定が許されるべきだ」と言う補足意見を引用して、「ありていに言えば、裁判員裁判の認定は相当おかしなものでも構わない」と言っているのだと紹介、これでは三審制はオシマイだとおっしゃった。この補足意見の裁判官は斯界で有名なあの白木勇判事。
今年2月に定年退官されましたね。この判決については、「あてどもなく荒野をさまよう最高裁」を見て下さいね。
最高裁が裁判員制度の支持推進に変わったさらに壮絶な理由についても、西野さんは触れています。それは何かって。へっへっ。インコそこまでしゃべっちゃうとみんな西野さんの本を読まなくなっちゃう。気遣いのインコとしては、ここは読んでのお楽しみっていうことにさせて下さい。ほら、推理小説だって種明かしはしないのが書評の仁義でしょうが。『その女アレックス』の種を明かさないのに近い話だと思ってね。
(言いたいことをしゃべりまくるのは、書評の範囲をこえていないか)
さて顧みまするに、インコはこのパートの大きな柱の第1のところで根が生えたように止まって、延々とおしゃべりしてしまいました、私としたことがお恥ずかしく存じます。でも、どうしてこんな仕組みができたのかとか、策謀の裏話もしくは裏話風のお話というのは、いろんな理屈の説明よりおもしろいもんね。いや、おもしろいという言い方が悪かったら言い直しましょう、興味深いですもんね。
第2の柱はすっとびご紹介ということで走ります。これは、裁判員制度は憲法に適合している、つまり憲法違反ではない と判断した最高裁大法廷の2011年11月16日の判決の徹底執拗批判、もとい徹底必要批判です。西野さんは、裁判員制度は日本国憲法の次の条項に違反すると断じます。
裁判員にさせられた国民の自由及び幸福追求権を侵害するから第13条違反。重い義務をくじで選ばれた者だけに負わせるのは法の下の平等に反するので第14条違反。 裁判員にさせられた国民に意に反する苦役を強いるから第18条違反。裁判員にさせられた国民の意思及び良心の自由を侵害するので第19条違反。裁判所の裁判を受ける被告人の権利を侵害するから第32条違反。公平な裁判所の裁判を受ける被告人の権利を侵害するので第37条違反。裁判員制度は裁判官の独立を侵害するから第76条違反。憲法は裁判員制度のような参審制を最初から予定していなかったので第78条・第80条違反。証拠の採否と証拠調べの内容を事前の非公開の公判前整理手続きで決めるのは裁判の公開の原則を定めた第82条違反。
あ~ぁ、ため息がでちゃう、ホント10階建ての違憲のデパートだぁ。
ところでこの大法廷判決は、まず国民が何らかの形で司法に直接参加すること自体は憲法に違反しないかという論点から入って憲法に違反しないという結論を導き、次に裁判員制度というシステムは憲法に違反しないかという論点をとり上げこれも違反しないとし、そして最後に制度が裁判員に労苦を強いるのは憲法違反にならないかという論点を立ててこれも違反しないとし、結論としてこの制度がすぐれた制度として社会に定着するためその運営に関与するすべての者による不断の努力が求められると言った。
関与するすべての者による不断の努力ねぇ。そう言われたら国民みんなの責任っていうことでしょ。国民にそんなことを要求したんですねぇ。
西野さんは、この判決について、とんでもない「決意表明判決」「国民教化判決」だと斬って捨て、何だこの力みかえりはと批判し、たいていは付いている個別意見がこの大法廷判決にはまったくないという点でも異様で不気味だと指摘した。
当事者の言い分について判断するのが裁判の本質なんじゃないの。最高裁が国民にあんたにも責任があるって言うなんて、全然おかしいよ。
西野さんは最高裁判決の論理の粗雑さと乱暴に驚き、中身以前の問題として、当事者が判断してくれと申し立てていないことについて敢えて判断をしたことを重視した。問題は最高裁が「18条の苦役の禁止」に踏み込んだことだ。
事件は刑事事件だから、この制度が裁判員にどんなに過酷であっても、被告人や弁護人にとってはとりあえず重大な問題ではありません。それは裁判員自身に言って貰おうということですね。
実際、弁護人は上告趣意書の中で、憲法第80条と第31条と第76条の違反しか指摘しなかった。
ところが最高裁は、この判決文の中で、裁判員制度は裁判員に過大な負担をかけるものではなく、18条が禁じる苦役の禁止に当たらないっていうことを延々と論じた。西野さんはこれを「入り口から違法な判決」と言う。ぶっ倒れ寸前と言ってもよい前のめり判断の動機はいったいなんなんだろう。
名探偵西野は考える。最高裁勘違い論、そう上告趣意に苦役禁止違反の主張が入っていると思い込んだか。まさか最高裁もそれほどおバカさんではなかろう。では、この際合法と言っておかねばと焦っての暴走か。それなら憲法違反の根拠として専門家がかねがね指摘してきた「思想良心の自由の侵害」を論じるのが先ではないか。しばし首をかしげていた西野探偵! にわかにはったとかなたを睨み、おのれの小膝をはっしと叩いたっ。うーむ。
ばばん、ばんばんっ(机を叩くインコ)。
西野さんが到達した結論は「やりたくなければやらなくてよい」ということをさりげなく全国の裁判官に知らせる「隠密伝達作戦」だったということだ。 実際、この判決の中でタケサキくんたちは、柔軟な辞退制度もあるがな、ほな無理せんでもよろしおますがな、って言ってはる。
いや、言うてるのとちぃとも変わらん。やりたない者にはやらんでもええと言えば言うほど現場じゃ制裁発動はできなくなる。それでええってタケサキくんたちは言うとる。現場の裁判官たちもこれで心底ほっとするんや。ま、ま、余計なことはよろし。福井県出身の西野さんは「全国の裁判官はすぐにその意とするところを悟っただろう」と言う。
裁判官経験者の言葉には、実に説得力があるなぁ。さて、当事者が主張していないことについて最高裁がわざわざ触れて判断するのは完全な間違いで、こんな判決には最高裁の判決として先例価値がないと宣言したのは、福島のストレス国賠で元裁判員の代理人を務めた織田信夫先生だ。
このことについては「ストレス国賠訴訟」シリーズで触れています。特に「ストレス国賠訴訟第3回口頭弁論の経過」などで詳しく解説させてもらってますので、読者の皆さんはぜひそちらにも目を通してくだしゃんせ。
この大法廷判決の中身について、西野さんは、そもそも国民の司法参加は日本国憲法の解釈上不可能のはずだとし、裁判員法は憲法違反の法律だと断じ、国民の途方もない負担をまったく考えない最高裁を厳しく批判する。
「誤解」に胚胎し、「妥協」で生まれ、「権力争い」で維持されている裁判員制度(この「権力争い」の意味はこの本でね)を叩く西野さんは、最後にマスコミの腐敗をひっぱたいてこの書を閉じる。西野さんが指摘するのは、裁判員制度が社是の『朝日』さ。大法廷判決直後の11月19日の社説。「合憲違憲の争いに決着がついた」「制度は憲法に合うように作られた」「先人の見識と知恵に敬服する」「この国の主人公は1人1人の国民である。判決はその思いを新たにする契機になった」と。この文章を書いた人は、おそらく御用学者の合憲御用論文以外は読んでおらず、憲法とこの判決を本当に読み込んだのか疑問だと。
さあさあお立ち会い。ご用もあればお急ぎでもあったのに、長々とおつきあいをさせちゃってごめんね。で、皆さん、ごめんついでにもう一言。ここまで読んだ方は、きっと西野さんのこのご本を書店でも通販でもいいからちゃんと買って下さい。えへん、いくらインコの説明が上手だからといって・・・。
これで読んでしまったような気分にならないで下さいね。インコ、西野さんに叱られますから。
あらためてご紹介します。
「さらば、裁判員制度-司法の混乱がもたらした悲劇-」ミネルヴァ書房刊 定価本体2000円+税
ではでは、皆々さま、すみからすみまでずずいーっとお健やかにっ。
投稿:2015年5月6日
西野さんのご著書『さらば、裁判員制度』ご紹介の途中ではございますが、3日の新聞各紙朝刊に、最高裁長官が御簾の蔭からお姿を現され、私たちのためにいーいこと言ってくれたという記事が出ましたので、それについてお話しをしたいと思います。
つまり、最高裁長官が毎年5月2日に行う記者会見報道ってことですね。
インコは、今年も『朝日』『読売』『毎日』『日経』『産経』『東京』をしっかり読みましたよ。この記者会見って各社1名しか出席させないとかわかんない決まりがごちゃごちゃあるらしくって、会見風景全体も撮影されず、いつもおもしろくもない長官のどアップ顔が出てくる。
あんまりつまらない写真のためだろうね、長官就任後初めての去年5月の憲法記念日記者会見で写真を掲載したのは『産経』1紙だけだった。そのことに去年インコが触れたせいで今年は掲載紙は3紙に。「昇格」したテラダくん、おめでとう。
でも、実はおめでたくはないんだ。去年とは様変わり、裁判員制度に関する記事がベタ減りなの。見出しに裁判員のことを出したのは『読売』だけ。記事量に至っちゃそれこそアリのおしっこくらいになっちゃった。
インコは勇猛果敢に決断、裁判員に関する6紙の記事全文をすみからすみまで紹介する。なんちゃって要するにほんのちょっとしかないんだよ。
『朝日』
裁判員裁判は「定着しつつある」と評価。裁判員らが導いた1審の死刑判決を2審が破棄した事例で、「市民感覚の反映」と「刑の公平性」のバランスを問われると「難しい問題。1審の結論が百%維持されるものではないことを、裁判員にも十分理解してもらう努力が必要」と述べた。
『読売』
「裁判員の判断 高裁は尊重 死刑破棄判決 最高裁長官が見解」という見出しをつけ、本文は次のとおり。裁判員裁判の死刑判決が2審で破棄されて最高裁で確定したケースが2月に相次いだことについて、「裁判員の判断を高裁が尊重していないということはない」と述べ、市民感覚の軽視という批判は当たらないとの考えを示した。その根拠として、裁判開始から昨年末までの1審破棄の割合は7.6%にとどまり、開始前の17.6%より大幅に低下したと指摘。今月で施行6年となる裁判員制度は「おおむね円滑に運営されている」とも語ったが、「裁判員裁判を担当する裁判官の努力が十分ではなかったとの指摘も一部にあった。審理の在り方になお工夫が必要だ」と、課題にも言及した。
『毎日』
今月21日で施行6年を迎える裁判員制度については「刑事手続きの標準として定着しつつある」と評価した。
『日経』
6年目を迎える裁判員裁判については「審理がわかりやすいかなど、本質的な問題が浮かび上がってきた」と指摘。
『産経』
5月で施行6年を迎える裁判員裁判の結論を破棄した判断が昨年、最高裁で相次いで確定したことについては、「裁判員裁判の控訴審での破棄率は約7%で、制度導入前の破棄率約17%の半分以下。裁判員裁判を尊重していないわけではない」とみる。一方で、「裁判員裁判の審理が十分ではないと指摘された事案もあり、審理の在り方に工夫が必要」と指摘した。
『東京』
21日に施行から6年を迎える裁判員裁判は「国民の協力により円滑に運営されている」と評価。一方で「裁判官と裁判員の議論が的確に反映された分かりやすい判決になっているかを考えなければならない」と改善に意欲を示した。裁判員裁判の死刑判決を破棄して無期懲役とした高裁判決が今年2月に最高裁で確定したことについては「難しい問題だが、裁判員裁判の結論が必ず維持されるわけではないことは、裁判員に理解してもらうことが必要」と述べた。
これでホントに全部。会見の多くは改憲問題や家族間紛争などに使われていて、裁判員制度は隅っこにちょっと登場という感じなの。
「裁判員やりたくない」派が去年からまた増えて、もう90%に手が届く水準になった、女性に限ればずっと90%超という恐るべき数字が出ているのにね。
高さ5メートルの長官室に水がどっと流れ込んで、残された空間が天井まであと50センチになり、長官が水没しかかっている図を想像しました。
ところがガーン、ここでまたまた「円滑運営・定着しつつある論」が復活したのだ。
去年は、「中長期的な視点での改善が必要だ」とか「支えてくれる市民の方々への働きかけを強める必要がある」とか「参加意識を強めるため改めて制度の周知を強める」なんて、ひたすら深刻強調モードでしたのにね。
でもその円滑定着言説はいかにも言い訳めいていたためか、紹介していない新聞もあった。いくらなんでも恥ずかしくてということかも知れない。それとも去年の「もっぱら改善決意」論には内部から批判が出たのかも知れない。
そういうこと。だから今年は一転、「円滑運営・定着しつつある論」に舞い戻ったのかも。
それにしてもこの「円滑運営・定着しつつある論」、共同通信配信アンケートの「『定着したと思う』が3%しかいない」っていうデータとの対比の美がまたまた燦然と輝くでしょう。
このアンケートにご関心の皆さまは「これぞ天の声 制度定着論が吹っ飛んだ! 」をご覧下さい。
少し気になると言うより、ひどく気になることがある。それは『毎日』が紹介している「刑事手続きの標準として定着しつつある」という言葉のこと。他社の記者たちは聞き落としただけで、テラダくんは、正確には「制度の定着」ではなく「刑事手続きの標準としての定着」と言ったのかも知れない。紹介しなかったけど、実は『共同通信』も『毎日』と完全に同じ言い回しで配信している。
なるほど、ずいぶん意味が違いますね。刑事手続きの標準と言うなら、さらに問題があるような。
そう。インコはそこが気になる。テラダくんは僅か2%台の裁判員裁判をきっかけに大半の一般事件の刑事手続きでも裁判員裁判と同様に超簡略・超短時間の裁判が多くなったと言っているように読める。この説明のとおりならね。
それこそが最高裁や政府が15年も前から狙ってきたことなのでは。
政府は裁判員裁判をきっかけに刑事裁判全体の簡易化を追求している。それが実を結びつつあると言っているようにも読めるってことを、インコさんは言いたい訳。
テラダ君がこんなところでついぽろりとホンネを漏らしたとすれば、聞き捨てならない話になる。そう、こちら側としては、裁判員制度の廃止を通してこの国の刑事司法の改悪を絶対に許さないという姿勢があらためて求められるってことだろうね。
裁判所職員の歌に「この制度 刑事司法の 野辺送り 上る煙に 落ちる涙よ」というのがありました。
さて、各社にほぼ共通するのは、裁判員死刑判決をひっくり返した最高裁の弁明。これが最高裁にとって目下最大の鬼門だということがよくわかる。だけれど、「市民感覚」と「刑の公平」のバランスどりが難しいなんて言われると、何言ってるんだかと言いたくなるね。そういう対比を変えようというのがこの制度の狙いだたんじゃないかって聞かれているんだよ。
そう、「刑の公平の判断にも市民感覚を反映させる」っていうことだったんでしょと言われているの。
そんなことはないというのなら、難しい問題だなんてごまかさないで、そうじゃないとはっきり言いなってことよ。
それにインコ一言言わせて貰おう。裁判員裁判の導入後、1審判決が高裁で破棄される率が17%から7%に「大幅に減った」なんていうけれど、それは言い換えれば1審のままでよいっていう判決が83%から93%に増えたってことでしょ。どこが大幅かっていう評価も当然あるよ。
元々控訴審は1審の判決をやけに尊重している、そのままでよいと言っている訳。それが何ポイントか上がったっていうだけのこと。
でもインコは断言するが、このテラダくんの弁明で「じゃあ私は裁判所に行かないことにする」っていう人がまた増えたね。どうキミ。ますます息が苦し苦しくなってきたでしょ。
そう言えば、去年は会見の後、最高裁は裁判員制度の「出前講義」の大号令を発し、全国の裁判官を御用聞きよろしく街中に出張らせたはずよね。それ結局どうなったのかしら。
テラダくんはそのことに一言も触れていないぜ。円滑だの定着だのと言うのならまずその結果報告をすべきだろう。出前は押すな押すなの大人気、注文半年待ちですなんて言ってみろってんだ。
折りしも日本銀行が4月30日に発表した「展望リポート」は「物価上昇率が目標の2%に達する時期は16年度前半頃にずれ込む」と明示しながら、記者会見の場で黒田総裁は「2年程度で2%」目標を維持する姿勢を崩さなかったね。
それについて、『読売』5月1日は、「黒田日銀 強気崩さず」の見出しを掲げる一方、「記者会見の途中でうつむく黒田総裁」というキャプション付きのうつむき大写し顔写真を掲げました。
「2年程度で2%の物価上昇を目指す異次元緩和」は黒田総裁の金看板。市場には、黒田総裁の言うことを信じる者なんかほとんどいないだろうが、カレは依然として「16年度前半頃も2年程度の範囲内」と強弁した。でもさぁ、キミがこれを言ったのは13年4月だぜ。もう3年目に入ってるんよ。
これこそウソはどこまでもつき続けろっていうことかも。1年は18か月ですとかね。『読売』も笑うわ。
テラダくん、「円滑に運営している」って言うのなら、裁判が長引いていることやべらぼうな人数を呼び出さないと必要な人数が集まらないことをどう見るのかきちんと言えよ。「定着しつつある」と言うのなら、やりたくないという人が時々刻々増えていてもそう言える理由をきちんと説明してみろよ。
正直のところ、インコは、テラダが総裁でクロダが長官なのか、テラダが長官でクロダが総裁なのか、あれっホントに何が何だかわからなくなっちゃった。もう完全にダブルイメージ。でもね、経済の話なら口先で市況を変えるのも常識の範囲内だよ。仕手株提灯買いってのもある。議場の時計が夜中の12時前で止まってしまえば国会の日付けは変わらないし。政治や経済の世界はウソも織り込み済みってことよ。だから、司法の世界も政治や経済の世界と同じようにウソ織り込みってことなのか。
裁判所の世界がデタラメづくしの仕手株並や政界並みになったら、これ最悪の悲惨司法じゃないですか。
裁判所ってとこは誰かのために提灯判決出したりするとこなんですかね。クロダ君、テラダ君、どっちでもいいけど…。
投稿:2015年5月5日
インコさん、いつまでもコーヒーブレイクしてないで、西野喜一さんの『さらば、裁判員制度』の話の続きをしてね。
いやいや、ものごとには心の準備という大事なものがあるんよ。さて、この本の第2部は、裁判員裁判を始めて見たらどんなに変なことになってしまったか、というパート。変なものがもっと変になったという七変化物語、題して「制度運用の悲劇」。このパートは裁判員制度の惨憺たる現状を説明する部分だから、インコとしてもいちばん得意の部分。
西野さんは、お化け話の先導役を務めたマスコミの悪どさに冒頭で触れている。例えばという形でやり玉に挙がっているのは、木村晋介監修『激論!「裁判員」問題』(朝日新書)。
その本は、私も読みましたわ。どこにもホントの「激論」なんてありませんでした。
そう言わんと。進行役にはいかにも中立風を装わせながら結局賛成論に寄せて行く手法をとらせる。この監修者って元左翼・元消費者弁護士で日弁連執行部派だった人でしょ。
消費者弁護士だったのにサラ金業者の代理人をやるようになってひんしゅくを買った人では。
出版社が『朝日』系とくれば、結論は見えている。「中立」「中立」って自分から言い立てる言説っていうのはえてして怪しいもの。そうさ、葉っぱに表と裏しかないように、裁判員制度には賛成と反対しかないんよ。
今、マスコミ裁判員論を論じるとすれば、腐りきったマスコミもとうとう本当のことをちらちらとは報道し始めたというところでしょうね。マスコミも現場にはまともな記者さんが残っていたと言っておきましょうか。
そういえば、原発の住民勝訴で「司法は死なず」なんてプラカードもありました。
裁判員制度の最大の破綻は、裁判自体がまともに行われず、そして何よりも裁判員を担わせる国民が逃げ出してしまったところにある。西野さんは、まずその「裁判員の逃走」に目を向け、詳細に論じる。「逃走」という言葉、インコは使ったことはないけど、これは言い得て妙です。そう言えば、『暁の脱走』って東宝の戦争映画があったね。田村泰次郎の『春婦伝』の映画化作品。そう、従軍慰安婦は今になってたいへんじゃない。
はいはいすいません。真面目に言いますが、昔「逃散」というのがありましたよ。
違う、逃れ散るで「ちょうさん」。広辞苑を引いたら、「中世および近世、農民が領主の誅求に対する反抗手段として他領に逃亡すること」とあります。あまりにもあくどい年貢の取り立てにお百姓さんたちが故郷を捨てて逃げ出すことをいうのですね。インコは西野さんの「逃走」でこれを思い出しました。
実際にはほとんど辞退できないことになっている「本来の辞退」、思想表現の自由を侵害する「政令の辞退」、世の中に現に起きている「居直り辞退」…。
しかし、現代の逃散は処罰もされない。いや、したくてもできない。
この国の権威・権力は中世、近世の権力者よりはるかに低いレベルに落ちていることの証かと。
さて、なんと申したらよいのかわかりませんが、ちょっとおもしろい話。西野さんはこうおっしゃってる。
「裁判員制度はいらない! 大運動」という団体の刊行物『裁判員制度はいらない! 全国情報』の2013年前半43号までの記事は情報として有用だが、この団体は同年初夏に運動方針をめぐって分裂したようで、『全国情報』の形態も内容もそれ以前とはそれ以降とでは顕著な差異があります、
とね。実際、西野さんは、43号までの『全国情報』からはたくさん引用もしている。かつては使えるものだったって。
そうなんだね。でも、この団体のホームページを見ると、「トピックス」とか「最新情報」とかいろいろタイトルは並んでいるけれど、更新されているのは要するに『全国情報』の発行紹介だけ。それなのに、いやそれですら、去年12月から更新されていない。ほとんど開店休業って感じ。
それじゃあ、読みたくなる人はいなくなるでしょうね。それともホームページなんか誰も訪問してくれなくて結構ってことかしら?
でもインコの元にはまだそんなタイトルのリーフレット風のものが届いているんだ。薄っぺらいものだけどね、ほらっこれよ。
どれどれ、あらっ、これはビラじゃないの? それともリーフレット?
西野さんの文章はまだ続きます。「他方、裁判員制度に反対するウェブサイトはいくつもありますが、私が時々見ているのは、情報量が多くて本書でも時々引用している『裁判員制度はいらないインコのウェヴ大運動』です」と。
インコ、西野さん、大好き ♡! そう、そうこなくっちゃ、こなくっちゃ。読者の皆さん、西野さんは本書の中でたくさんインコの「トピックス」や「インコつつく」の記事を引用してくれてはります。西野さん、時々と言わず、しょっちゅう見てくだしゃんせ。
(そのためにはしっかり更新しなさいよね。最近少し怠けてないか・・・)
インコの「トピックス」や「裁判情報」の更新はハンパやないからね。「インコのウェヴ大運動」の訪問者の数を教えてあげたいくらい。人が読みたくなるものを書けっていうことさ。
と、まぁ、私事・私見はこのくらいにして、本論にもどりまひょ。
現状に関する第2の問題は、裁判制度自体の崩壊のこと。思い上がり裁判員による重罰化の加速。公判前整理の手続から排除される裁判員のあほらしさ。事件処理の滞留現象が時々刻々ひどくなっていること。結局、証拠によらない裁判に堕していること。西野さんらしい緻密さとしつこさで徹底的に論じます。
「裁判員裁判の下ではこれまでよりも刑が軽くなるのではないか」と言っていた弁護士を西野さんは笑います。笑われているのは高野隆という人。このお方は「裁判員は重罰化に拍車をかけるのかといえば、そんなことはないと考えている、裁判員が被告人を間近に見れば、同情も生じてくるから、職業裁判官よりも普通の人の方が重罰化に躊躇するだろう」と言っていると紹介してね(前出『朝日新書』)。
高野さんとやら。どっかの大学の先生もしているとか聞いたけど、ホントに何もわかってない。「被告人を間近に見て同情する人」なんか裁判所に来ないの、行かないの。
そうさ。きょうび、裁判所にいそいそと出かけて行くのは、思い上がりの暇人だったり正義より日当が大事な人たちばっかり。
そんなことも予測できないで、よく弁護士や法律学の先生をやっていられるね。
西野さんの追究は、制度に期待した勢力や人々の夢や思惑に進みます。が、最高裁の思惑については第3部で集中的に論じるとしてここでは割愛されました。検察庁・法務省がこの制度に賛成した理由の中には、国民を信用したというような理由はなかったろうと推測されますが、よくわからないというのが結論です。
弁護士は、司法への国民参加が誤判・えん罪を防ぐと無邪気に信じ込んでいたと断定します。司法制度改革審議会委員の中坊公平弁護士が盛んにそのことを強調したことを上げている。現に誤判・えん罪を防ぐ効果が認められない以上、無邪気な弁護士たちは潔く前言を撤回して制度反対に回れというのが、西野さんの主張になんだろうね。
中坊弁護士といえばかつて日弁連会長までやった人。後に詐欺事件を起こして弁護士を辞職し、死亡した人ですよね。そうか、結局はそんな程度の制度なのですかね・・・。
第2部は内容豊富で紹介しきれません。ただし、インコが「トピックス」や「つつく」で言いまくり、つつきまくっているリアルな話にかぶるところが多く、読んでいて決して飽きさせません。第2部はインコが大衆版なら、西野さんは何と言っても高級版の差がありますがね。
さぁ、第2部はここまで。第3部「最高裁判所と裁判員制度-変節の悲劇」のご紹介はこの次に。これこそ西野本の真骨頂。よう、大統領ってとこよ。お楽しみに!
投稿:2015年5月1日