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裁判員裁判の死刑判決が高裁で破棄される 

守られるべきは先例ではなく基準 勝手に作られる裁判員制度の意味

弁護士 猪野亨

下記は「弁護士 猪野亨のブログ」3月13日の記事です。
猪野弁護士のご了解の下、転載しております。

先般、裁判員裁判が下した死刑判決が2件、高裁で破棄されました。

ミナミ2人刺殺 二審は無期判決 裁判員裁判の死刑破棄」(東京新聞2017年3月9日)
「大阪の繁華街・ミナミで2012年、通行人2人を無差別に刺殺したとして殺人と銃刀法違反の罪に問われた無職I被告(41)の控訴審判決で、大阪高裁は9日、裁判員裁判で審理された一審大阪地裁の死刑判決を破棄、無期懲役を言い渡した。
中川博之裁判長は被告の完全責任能力を認め、「基本的には身勝手で自己中心的な犯行だが、計画性が低く、精神障害の影響が否定できない。死刑が適用されたこれまでの無差別通り魔殺人とは異なる」と述べた。
一審に続き争点だった犯行時の精神状態については、支援団体などの適切な対処が行われた形跡がないと指摘。「精神障害の全てが自己責任とまでは言えない」として「酌むべき事情があり、死刑の選択がやむを得ないとまでは言えない」と結論付けた。」

女児殺害、二審は無期=裁判員判決の死刑破棄-「計画性ない」・大阪高裁」(時事通信2017年3月10日)
「樋口裕晃裁判長は「計画性がないことは重視すべきで、生命軽視の態度が甚だしく顕著とは言えない」と述べ、死刑とした一審神戸地裁の裁判員裁判判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。」
「一審判決は、動機の身勝手さや殺害方法の残虐性を挙げ、生命軽視の姿勢が甚だしいとして、被害者1人でも死刑が許容されると判断した。
樋口裁判長は、わいせつ目的で誘拐したと認定したが、発覚を免れるため殺害したことは「非難を格段に高めるとは言えない」と判断。殺害方法について「残虐性が極めて高いとした判断に賛同できない」と述べた。
さらに「声を掛けた時点で殺害を具体的に計画していたとは言えない」と指摘。非難の程度は弱まり、死刑が許容されるとは言えないと結論付けた。裁判員裁判の量刑判断を覆したことには「尊重すべきだが是正せざるを得ず、制度の趣旨を損なうものではない」と付言した。」

の刑判決が破棄された事案は、いずれも「先例」とされる永山基準に従えば、今回の死刑判決は重きに過ぎするということになります。
これに対して、ネット界では、裁判員制度なんて無意味だとか、市民感覚が無視されたというようなお決まりの批判が渦巻いています。
私自身は、裁判員制度は有害でしかありませんから廃止すべきとは思いますが、それにしても、未だにこのような「先例」重視なのかという批判がなされていることは憂うべき状況です。特にマスコミがこのような視点から報じるのは問題です。

減刑5例目「裁判員死刑」覆る…”市民感覚とのズレ”浮き彫りに」(産経新聞2017年3月10日)
「神戸市長田区の小1女児殺害事件で、大阪高裁は10日、1審裁判員裁判の死刑判決を覆し、被告に無期懲役を言い渡した。高裁が裁判員裁判の死刑を破棄するのは、前日の心斎橋通り魔事件に続き、これで5例目となる。「国民の常識を刑事裁判に反映させる」というのが裁判員裁判の主眼だったが、「究極の刑罰」の選択にあたって、市民感覚と職業裁判官の考え方が大きく違うことが浮き彫りになった。」

神戸・小1女児殺害 . 判例重視、鮮明に 裁判員判断と乖離 控訴審判決」(毎日新聞2017年3月11日)
「神戸市長田区で2014年、小学1年の女児(当時6歳)が殺害された事件の控訴審で、殺人やわいせつ目的誘拐などの罪に問われた無職、君野康弘被告(50)を無期懲役とした10日の大阪高裁判決は、量刑の判断について、同種事件に関する過去の裁判例の傾向を重視する姿勢を鮮明にした。樋口裕晃裁判長は「先例との公平の観点から死刑の選択が十分許容される事案とは言えない」と述べた。」

永山基準は、「基準」です。ここを取り違えてはなりません。
死刑か無期懲役か、その分水嶺はどこにあるのか、それが基準です。
先例重視は問題だという意味は、基準を無視して、裁判員の感覚で裁いてしまえという発想と全く同じです。

死刑か無期懲役が、裁判員の感覚の違いによって差が出て良いのですか。
出ても良いと言い切るレベルはまさに感情レベルですが、その感情で裁判が行われるとしたら、それは本当に法治国家と言えると思いますか。
裁判員は抽選によって偶然に選ばれる人たちです。その偶然によって選ばれた人たちの哲学(なのか感情なのか…)によって結論が異なる、しかも死刑か無期かで異なるというのは、法治国家では到底、容認し得ない結論です。
だから最高裁は、死刑判決を破棄した高裁判決を是認したのです。
最高裁 裁判員裁判の死刑判決を認めず!

マスコミが未だに「先例」などという言葉で「基準」を曖昧にしようとしていることは問題なのです。ジ

だったら裁判員制度なんかに意味がないではないかというのも、まったくずれています。
もともと裁判員制度は裁判員が裁判官と一緒になって刑事裁判(重大事件)を裁く(参加する)ことに意味があるとして導入されたものであって、「市民感覚の反映」(これも後から作られたキャッチフレーズですが)によって、量刑を裁判員が好きに決めて良いとする制度ではないのです。
マスコミが勝手に作り上げた「市民感覚の反映」はもともと国民を裁判員として裁判所に来てもらうためのものとして多用されてきました。
それ自体、裁判員法にも規定されておらず、審議の過程でも出てきていない全く法的な根拠がないものなのですが、裁判員制度が始まった当初から国民が裁判員になることに否定的だったものだから、何とか裁判員になってもらおうとマスコミが必死になっていたわけです。マスコミは裁判員制度を絶賛していた手前、国民から否定されていたという事実は受け入れがたかったのです。
国政モニターからの裁判員制度に対する疑問 疑問に正面から答えない法務省」裁

国民が裁判員として裁判官とともに裁くことに意味がある、という裁判員制度の目的が無意味というのであれば、当然、廃止されるべきでしょう。
私は意味があると思っていないので、意味付自体はどうでも良いのですが、自分勝手に意味付をして、それに合わないから「意味がないじゃないか」と批判するのは、はっきりと間違っているということです。

ところで、感情の中でも「人を殺したら死刑だ」というのは全く意味が違ってきます。殺人の法定刑を原則死刑にするのであれば、それは立法により法定刑の引き上げがなされなければなりません。
あくまで現行法の殺人罪の法定刑は、「死刑又は無期若しくは5年以上の懲役」と定められているからです。

EPSON MFP image

投稿:2017年4月16日