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漢詩「止裁判員法」インコは「止酒」を命じられΣ(@◇@)))

某高官が飲みながら詠んだとされる漢詩を手に入れました。
本音が吐露された良い詩ですねぇΣ(^◇^)

平生不止法 今まで裁判員法はやめられんかったんや

止法無改司 止めてしもうたら司法制度改革できへんやん

前止不安寝 制度が始まる前は不安で寝られへんし

後止不能力 制度が始まったら全然うまいこといかへん

日日欲止之 今日は止めるでぇ明日は廃止しょと思てるねんけど

我保止廃止 我が保身のために廃止できへん

国民苦不止 国民の苦しみは止まらへんし

未信止利己 止めることがええことやなんて気がつかへんかった踊る

始覚止為善 やっと止めることがええことやなんて気がついて

今朝眞止矣 今日からはほんまに止めるねん

 

で、下は陶淵明さんの「止酒」
制度廃止はもちろん、こちらもインコの気持ちにピッタリです\(^◇^)/

平生不止酒 今まで酒止められへんかったんや
止酒情無喜 酒止めてしもたらなんも楽しいことあらへんやん
暮止不安寝 晩酌せえへんかったら寝られへんし
晨止不能起 朝飲まんかったら調子でえへんやん
日日欲止之 今日や止めるでぇ明日は止めとこ思うてるねんけど
営衛止不理 酒止めたら血の巡りが悪なって体にええことあらへん
徒知止不楽 止めたら楽しみなくなるんちゃあうかと思うやん

なんですと?この詩にはまだ続きがあるだろうって…
まあそれはそのーハイ、そういうことです A・◇・;)

 

投稿:2013年6月30日

 「裁判員制度 注視を」  『東京新聞』

6月6日付け『東京新聞』読者からの投稿面の「ミラー」欄に掲載された投稿を紹介します。

「裁判員制度 注視を」
        NGO(非政府組織)勤務 越智信一朗 32 (東京都小金井市)

なんぼ聞いても1鳴り物入りで始められた裁判員制度は、多くの影響を国民に与え始めている。
5月21日付け社説は、裁判員に対する精神的ケアの拡充や国民がより参加しやすくすべきだと提案している。この考えは私には、国民の犠牲を必要とする制度への追従とも見えた。
一方、4月19日付け特報面「裁判員に心のケアを」では、裁判員が審理過程で事件当時の記録などを見せられ不快になった例が掲載されていた。
5月には、裁判員だった女性が「急性ストレス傷害」と診断され、国を提訴した。これらは氷山の一角にすぎない。

どんなにケアを拡充させても、精神的な場合では人の心を完全に元の状態に戻すことはできない。そのため、この裁判員制度は、常に国民に犠牲を強いるシステムといえる。なぜ国民に不人気だったものが開始されたのか。制度の目的は、国民が裁判に参加することによって司法への理解を促すことだ。
その背景には近年、警察・検察で多くの不祥事や冤罪が生まれたこと。あるいは判決の量刑に国民から強い疑念が注がれるようになったことが考えられる。そして、国は司法の信頼が崩壊する前に、国民を司法側に抱きこみ、それを担保にしようとしたのではないかとの懸念もある。

同時に、死刑判決も含めた判断を裁判員に担わせることで、もし冤罪と判明しても、その責任は私たちも共有する、一種の共犯関係になるということだ。国民はより注意深く、このシステムを見ていくべきである。HPそれでええやん

 

投稿:2013年6月29日

死刑…世界の潮流と日本の現状

 6月26日、大阪地裁堺支部は無罪を主張していた46歳の男性に死刑判決を言い渡した。
状況証拠しかなく、被告人は別に実行犯2人がいると訴えていた。しかも大阪府警は失踪当時に夫婦宅で採取していた毛髪や血痕などを紛失(また!)していた。
裁判員裁判での死刑判決はすでに19件(うち1件は本年6月20日東京高裁で無期懲役に)。 

昨年3月29日、小川敏夫法務大臣(当時)は就任後わずか2ヶ月で、3人の死刑を執行した。その際、「裁判員も死刑を支持している」と言い、世論調査を持ち出し「世論の85%が死刑存置だ」と言った。この85%は「将来廃止しても」とか「条件によっては廃止」などを含む数字。世論の支持で結論を決めるなら84%が「イヤだ」「やりたくない」と言っている裁判員制度は即刻廃止すべきだろう。

そして今年2月 21 日、 谷垣禎一法務大臣も就任か らわずか2ヶ月足らず で 3人の死刑を執行。さらに4月26日2度目の死刑執行。 谷垣大臣の執行に関しても、法務省内には「裁判員裁判で死刑判決が相次いでいる。市民も参加した判断に行政が待ったをかけるのはおかしい」との声があったという。

裁判員裁判の死刑判決を政府が死刑執行の口実にしている。
しかし、世界の潮流は死刑廃止である。
「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」が本年6月30日に発行した機関紙『FORUM90』VOL.129の記事を掲載する。

2012年の死刑判決と死刑執行HP私の責任HP

アムネスティ・インターナショナル報告書より

※死刑廃止へ向かう世界の動向

○G8国で死刑執行したのは、日本と米国のみ

○国連加盟国193ヵ国のうち174ヵ国で死刑執行なし

○米国は、南北アメリカで唯一の死刑執行国

○ベラルーシは、ヨーロッパと中央アジアで唯一の死刑執行国

○アフリカ連合54ヵ国中死刑執行は5ヵ国のみ、37ヵ国は法律上or事実上死刑を廃止

○アラブ連合21加盟国のうち7ヵ国で死刑を執行

○ASEANでは10加盟国のうちのいずれも死刑執行はなし

アムネスティの調べでは、2012年に死刑を執行した国は21ヵ国、件数は682件であった。これは2011年(21ヵ国、680件)とほぼ同数である。この682件には、中国の数千件にのぼると言われる死刑執行は含まれていない。確認されている死刑執行数では、イラン、イラク、サウジアラビアの3ヵ国で総数の4分の3に達している。

2012年に58ヵ国で少なくとも1722人が死刑宣告を受けた模様だ。これはアムネスティが確認できた最小推定値だが、世界63ヵ国で少なくとも1923人が死刑宣告を受けた2011年に比べ大幅な減少である。2012年末時点で世界中に少なくとも2万3386人の死刑囚がいる。これはアムネスティが各国から入手した数字を基にした最小推定値である。

死刑廃止に向けた前進は世界の全地域で見られた。米国は南北アメリカで唯一の死刑執行国だが、州単位で見ると2011年には13州で執行があったのに、2012年には9州に減少した。コネチカット州は4月に17番目の死刑廃止州となった。また、全米で宣告された死刑判決は12州であった。2013年にはメリーランド州が18番目の死刑廃止州になる。

南アジアでは、日本、台湾など数ヵ国で死刑執行再開などの退行的な動きがあったが、一方ベトナムでは死刑判決をくださず、シンガポールも死刑の法律の改正をしているため執行停止を順守している。

サハラ以南のアフリカでは死刑廃止へのさらなる進展があった。ベナンでは、死刑関連の条項を撤廃する立法的措置を取った。ガーナでは、新憲法で死刑を廃止する計画だ。シエラレオネでは、ついに死刑囚がいなくなった。

死刑執行には以下の方法が使用された。

・斬首:サウジアラビア

・絞首:日本、アフガニスタン、バングラデシュ、ボツワナ、インド、イラク、イラン、パキスタン、パレスチナ自治政府、南スーダン、スーダン

・致死薬注射:米国、中国

・銃殺:ベラルーシ、中国、ガンビア、朝鮮民主主義人民共和国、パレスチナ自治政府、ソマリア、台湾、アラブ首長国連邦、イエメン

※東アジア(大韓民国・台湾・日本)の情勢について

[大韓民国]

大韓民国では2つの死刑宣告がなされ、年末までに63人が死刑囚として残った。5月に国会が休会したことで、2008年、2009年、2010年に国会で導入された死刑廃止3法案の期限が切れた。10月25日の国連の普遍的定期審査で、韓国政府は刑事訴訟法の修正に関する特別文化委員会(法務大臣の諮問機関)を通じて、死刑を含む法律を改正する必要性を検討すると述べた。そのため、死刑廃止条約(国際規約第2選択議定書)の批准が困難であるとも述べた。

 [台湾]

 台湾では12月21日に6人の死刑執行が行われ、7件の死刑判決が出た。年末の時点で120人の死刑囚のうち55人の上告の道が途絶え、刑が執行される可能性が高まった。家族は死刑執行の前に知らされることはなく、執行された事実は遺体安置所から遺体を引き取るときに初めてわかる。台湾総統の死刑廃止の約束を守るよう国内外が要請していることに対して、林永楽外交部長は台湾の台北タイムズに対し、政府はそのような言質を与えたことはないと述べた。

[日本]

日本では20ヵ月間なかった死刑の執行が2012年3月29日に再開され、3人が処刑された。当時の小川敏夫法務大臣は、死刑の執行は法相の「職責」だと述べ、執行に踏み切った。2012年中に男性6人と女性1人の死刑が執行され、新たに3人が死刑判決を受けた。2012年末の確定死刑囚は133人だった。

2012年10月31日、国連人権理事会による普遍的定期審査で、日本政府は、「国民の大多数が極めて凶悪な犯罪に対しては死刑もやむを得ないと考えており、こうした犯罪があとを絶たないため死刑を直ちに廃止することは適当ではない」と述べた。「死刑囚を24時間独房に拘禁することは法の定める人権侵害には当たらず、この処遇は本人の情緒の安定を確保するための措置である」と述べた。人権理事会から日本に対してなされた勧告は、死刑廃止条約(国際規約第2選択議定書)の批准、各利害関係者の意見を踏まえた死刑制度に関する国民的議論の促進、死刑の廃止または死刑執行の停止(モラトリアム)、自由を奪われた被拘禁者に対する「代用監獄制度」(警察が囚人の身柄を最長23日間拘束できる制度)の見直し、等だ。日本政府は、これらの勧告内容を検討し、2013年3月の第22回会期までに受け入れるか否かを表明することに同意した。

〈日本は3月、国連人権理事会に対して「人権侵害救済機関」(国内人権機関)の設置勧告を受け入れた以外、他のこと全て(死刑制度に関すること、代用監獄に関すること等)に関して受け入れを拒否した〉

(可知亮)

投稿:2013年6月28日

法務省「検討会」取りまとめ報告書を読んで 

―全否定された日弁連の「提案」  

弁護士  川 村  理

 裁判員制度の見直しに関し、昨年12月、最高裁事務総局は「裁判員裁判実施状況の検証報告書」をすでに公表済みだが、これに引き続き、法務省の「裁判員制度に関する検討会」は、本年6月、同会の「取りまとめ報告書」を公表した。

報告書の内容は、報道のとおり、「公判期間が年単位」に及ぶ事件のみを裁判員裁判から除外する以外は「大幅な見直しはない」というものである。もともとこの「検討会」自体、制度策定の中心人物・井上正仁が座長を詰めるなど、制度自体の見直しなどハナから念頭にはないことは明らかであったから、こうした結果は概ね予測されたことではある。

しかしながら大手メディアが報じないこの報告書の最大の特徴点を指摘しておきたい。それは、この「検討会」にも日弁連執行部を代表する弁護士が2名参加し、その提案を強く述べたにもかかわらず、日弁連執行部の提案は、この報告書において、全面的に否定されてしまったということである。

このことは、本年5月1日付日弁連の「裁判員本部ニュース」において、同本部副本部長の前田裕司氏(同氏は、法務省検討会のメンバーでもある)自身が、「結論としては、日弁連提案はいずれも受け入れられなかった」と述べるところから、日弁連執行部自身も自認するところなのであろう。

ちなみに、日弁連の「提案」内容とは、①裁判員対象事件の拡大、②公判前整理手続きの拡大、③証拠開示の拡充、④裁判長による法39条の説明の義務化、⑤事実と量刑の手続二分論、⑥死刑事件の評決の全員一致制、⑦裁判員の負担軽減措置の法制化、⑧守秘義務の緩和、であり、それ自体とんでもない中身を含むものであるが、にもかかわらず、こうした日弁連「提案」は、「検討会」にて、歯牙にもかけられなかったわけである。HP日弁連2

そもそもかつて日弁連は、2004年の裁判員法の成立に際し、

1、裁判員の数は9人以上とし,裁判官の数は1人または2人とすること

2、評決は全員一致を原則とし,有罪の評決は,一定の要件(一定時間経過後又は評議と投票を数回繰り返しても意見の一致をみないとき)の下で3分の2以上の多数決制とすること

3、 直接主義,口頭主義の原則に忠実な証拠調べとすること

4、 取調べの適正化に加えて,裁判員に分かりやすい証拠調べという観点からも取調べの可視化(取調べ全過程の録音・録画)を実現すること

5、 連日的開廷を実施するためにも,完全な証拠開示と十分な準備期間を確保すること

6、 身体拘束制度を抜本的に改革すること

等の点をもって「制度実施の不可欠の前提条件」などと称していた。しかしながら、これらの懸案がひとつも実現されていないのに、日弁連執行部は、裁判員制度が実施されるや、その推進の先頭に立ったのである。

日弁連執行部は、最高裁の検証報告書においては、一方で、「審理長期化の主たる原因は弁護体制の不十分さにある」と最大限にけなされ、他方で、「刑事司法では久しくみられなかった、法曹三者の協力の機運が高まった」とおほめにあずかり(?)、にもかかわらず、特にこれにたいして怒るでもなかったようである。

ということは、今回の「検討会」にて、自己の提案が全否定されたとしても、日弁連執行部の制度推進姿勢に変わりはあるまい。やはり、こうした日弁連執行部の姿勢転換抜きには、制度の廃止もあり得ないということである。3HP日弁連

 

 

 

 

投稿:2013年6月25日

「弁護士 猪野亨のブログ」で紹介されました

6月20日、「弁護士 猪野亨のブログ」でインコのホームページが紹介されました。

リンク先にもありますが、「弁護士 猪野亨のブログ」はこちらからもどうぞ! 裁判員制度廃止のため制度の問題点を様々な角度から取り上げられています。

そのブログで、「見栄えのするきれいなサイト」と褒められました。嬉しいなo(^◇^)o 褒められるとどこまでも舞い上がるインコです。

みなさまもご紹介よろしくね。Σ(^◇^)

投稿:2013年6月24日

有識者会議=有害者会議?!

法務省の有識者検討会(座長・井上正仁早稲田大大学院教授)は、6月21日、裁判員制度に関する検討会第18回会議を開催。その内容をマスコミ発表した。
同発表によると、裁判員の精神的ケアの充実が取りまとめられたほか、前回の会議(3月15日)の見直し案を了承したという。

裁判員の精神的ケアの充実とは
・ 裁判所のメンタルヘルスサポート窓口の充実
・ 裁判終了後一定期間のアフターケアの実施
・ 「凄惨(せいさん)なカラー写真に代わる白黒写真やコンピューターグラフィックス(CG)の利用
・ 裁判官による積極的な声掛け
・ 同じ事件を担当した裁判官と裁判員が集まる機会の設定
などらしい。HP見たくない

そもそもだけど、どうしてメンタルエルスケアが必要な制度に国民を巻き込むのか。裁判官、検察官、弁護士は凄惨な写真でもなんでも見て裁くという覚悟を持っている(はず)。市民にはそんな覚悟はないし、必要もなかった。それがいきなりくじ引きで選ばれたのだから同様の覚悟を持てということ自体がおかしいでしょう。

カラー写真より白黒写真、さらにCGの活用?
検察がそんなに信用できるのか。冤罪を争っている事件で、白黒写真で出されていた証拠品をカラー写真で見直したら色が違っていた(現場になかった品)ということもあったし。CGなどどう加工されるかわかったもんじゃない。まったく何を言っているのか。これ以上、検察・警察によるでっち上げ、都合良い加工の証拠による冤罪を市民にお墨付きを与えろというのか!

しかも 二度とやりたくない経験をした裁判員経験者が同じ事件を担当した裁判官と裁判員が集まりに参加したいかなぁ。インコなら二度と顔を合わせたくないね。こんな小手先対応しか考えられない有識者会議って何と思うね。

前回の会議(3月15日)の見直し案を了承したともいう。法務省のH.P.に掲載された見直し案を見てみるが、その前にマスコミが端的にまとめたものによると
(1) 裁判員の在任期間が1年以上になるような超長期化裁判を対象から外した。
(2) 規模災害の被災地では、裁判員候補者を呼び出さない措置を取れる
(3) 裁判員選任手続きで性犯罪被害者の氏名を匿名化できる
ですと。

この見直し案、そこはプロの法律家に後日、突っ込んでいただく(全面お任せ)するとして、インコが笑ったとこね。

……裁判員制度は施行以来大変うまく運用されているとの意見が多く示される一方で,制度の基本的骨格自体に変更を加えるべきとの意見はなく,裁判員制度の運用状況はおおむね順調であるとの評価が共通認識……

「順調」ではなく、「おおむね順調」と言わざるを得ないのは苦しいですね。しかもこの歪んだ認識からスタートするから後は歪みっぱなしA^◇^;)

 ……さいたま地裁で行われた職務従事期間100日の裁判員裁判では,選定された候補者は330名,辞退が認められた候補者は255名(約77%),鳥取地裁で行われた職務従事期間75日の裁判員裁判では,選定された候補者は700名,辞退が認められた候補者は609名(約87%),大阪地裁で行われた職務従事期間60日の裁判員裁判では,選定された候補者は160名,辞退が認められた候補者は102名(約63%),さいたま地裁で行われた職務従事期間56日の裁判員裁判では,選定された候補者は170名,辞退が認められた候補者は132名(約78%)……

だからここまで辞退があっても(この辞退も最小に見える数字だけど)、「数年に一度あるかどうかというレベルで,裁判員がどのようにがんばっても裁判に関与し続けることが無理な事案があり得るのではないか」で1年以上裁判がかかるものについて対象外にすると。100日くらいなら「前科」があるから大丈夫なんだって。

 そして笑うのが次の文章

……裁判官が議論を誘導してしまわないよう留意しながら,裁判体の構成員の1人として,意見を述べるように努めている。同時に,裁判員が意見を言う前に裁判官が積極的に自説を述べるようなことはせず,こういう面はどうでしょうか,といった問題提起の形で発言をするなどの工夫……

わかりやすく翻訳すると
裁判官が議論を誘導しているというように裁判員に思われることなく、裁判体の構成員の1人として、意見を述べるよう務めている。構成員の1人としての発言でもプロの発言は重たい。そうでなければプロである意味がない。プロの意見に萎縮させずに裁判員に意見を述べさせることは大切だが、ちゃっちゃと裁判を終わらせるためにも裁判長が「こういう面はどうでしょう」と言えば、素人は従うよってね。

さらに爆笑したのが次の文章HP秘密を漏らした

……人には,のぞき見的な高揚感があるため,注目されている事件に関わったことを他人に話したいという心理が働くことがあると思う。そのため,他人から評議の秘密等について尋ねられたときでも,守秘義務があるから話せない旨対応することができることは,裁判員にとって楽な側面もあるのではないか……

下々の者は、「スキャンダラスな事件にワクワク」するから、特に注目された事件については話したくてウズウズするんだと。そりゃ当然でしょ。滅多にできない貴重な経験で、これまでの自分とは違う自分になる(裁判員啓蒙ポスター)のだから、生まれ変わった自分の話を聞いて欲しいよね。

でも、話したい言いたいを罰則付きで禁止しておいて、法律で禁止されているから話ができないということにしておけば精神的負担はないって、本気で思っている?

いや、この人たちは禁止されたら唯々諾々と従うのでという精神構造でそうかもしれないけど、普通の市民感覚ではそう単純に納得できますか。

検討会のおかしな報告書(案)はこちらから

「裁判員制度に関する検討会」取りまとめ報告書(案)

HPきっぱり

投稿:2013年6月22日

勤務先から解雇通知 福島・裁判員でストレス障害の女性

河北新報 記事 6月21日

 裁判員を務めたことで深刻な精神的損害を受け、急性ストレス障害と診断されたとして、国に慰謝料などを求めて提訴した福島県内の60代女性が、勤務先から7月末限りでの解雇を通知されたことが20日、分かった。女性側は「国のために裁判員を務めて具合が悪くなった揚げ句、解雇されるのはおかしい」と憤り、21日に解雇の取り消しを郡山労基署に申し立てる。
女性は2005年からヘルパーとして郡山市内の介護施設に勤務。60歳以降はパートとして定期的に契約更新していた。  女性側によると、通知は18日付。施設の運営会社から書留郵便が届き、「契約更新については病状を考慮し、7月31日で契約終了とさせて頂きたい」「お体を万全にして頂き、確認できた時点で再契約したい」などと文書で告げられた。

 女性は3月、福島地裁郡山支部で裁判員裁判に携わった。遺体のカラー写真を見たり、消防に助けを求める被害者の音声を聞いたりした影響で、心身に不調を来した。裁判の期間だけでなく、判決後も有休を取得した。

福島県内の病院で3月22日、急性ストレス障害と診断され、休養が必要とされた。集中力が減退して仕事を忘れるなどしたため、会社側とも相談し、通院しながら5月中旬まで仕事を続けたという。  女性は5月中旬以降休養し、今月14日に診察を受けた。体調は回復しつつあり、休養は今月いっぱいと診断された。職場復帰が可能となる旨の診断書を会社に送ったわずか数日後、契約打ち切り通知が届いた。  女性は「会社は再契約の話など体裁のいいことを言っているだけ。裁判員裁判は企業側にも協力する責任があるはずだ」と嘆く。

会社側は河北新報社の取材に「担当者が不在で答えられない」としている。

HPいらないHP

 

 

 

投稿:2013年6月21日

寄稿「一審死刑判決高裁破棄事件」

東京高裁は、6月20日、強盗殺人罪などの罪名で一審東京地裁の裁判員裁判が死刑を言い渡した被告人について、原判決を破棄して無期懲役とする判決を言い渡した。被害者は一人。裁判員裁判の死刑判決が高裁で破棄されたのは初めて(裁判長村瀬均)。

被告人は1988年に妻子を殺害している(懲役20年服役済み)が、「夫婦げんかの末の無理心中と強盗殺人は類型が違う。更生の可能性がないとも言えない」。判決は、前科を今回の事件の量刑判定の事情に使うことに合理的な根拠がないと断定した。

被告人は捜査段階から一貫して黙秘し、一審審理中も黙秘を貫徹していた。そしてその主張は無罪ときたHP死刑判決。服役が済んだと言ってもとにかく人殺しの前科者だ。警察にも検察にも協力せず、裁判所でも黙りこくってひたすら無罪を求める気持ちの悪い男。そういう風にしか見なかったであろう薄っぺらな裁判員たちと一審東京地裁の無能裁判官たち。

「少しホッとした」(元裁判員。50歳代女性)。それで済まされる話(読売)では絶対にない。高裁判決前に「一審の結論に自信がある」と言っていたこれも女性の元裁判員は、「混乱している。複雑な気持ち」と(朝日)。もっともっと混乱しろ、そして少しは世の中のことを複雑に考える人間になってみろ。

元裁判員たちにわらわらと襲いかかる前に、「2人の生命を奪った前科がありながら、強盗目的で被害者の生命を奪ったことは刑を決める上で特に重視すべき」という判決文を書いた一審裁判長にマスコミはなぜ取材の申し入れをしないのか。申し入れたが断られたなんていう報道さえどこにもない。

今回の「一審死刑の高裁破棄」判決は、裁判員・裁判官・マスコミを通じて裁判員制度をめぐる根本的な間違いを一気に暴露した「事件」だ。裁判員裁判はもう腐りきっている。冷蔵庫で保存しても変な臭いが部屋中にこもり始めている。夏も近づく。早く捨てよう。

投稿:2013年6月21日

東京高裁の死刑判決破棄を受けて 黙秘権を思う

今日(6月20日)、東京高裁は、飲食店経営者が刺殺された事件で、強盗殺人罪などに問われた62歳の被告人を死刑とした1審・東京地裁の判決を破棄、無期懲役を言い渡した。

1審裁判で被告人は一貫して黙秘、弁護人は1、2審とも「被告と犯行を結びつける直接証拠はない」などと無罪を主張していたが、高裁判決は防犯カメラの映像などの状況証拠から被告人の犯行と認定。

 被告人の前科について

1審の裁判員裁判での判決は、「出所して半年で冷酷非情な犯行に及んだ。刑を決める上で前科を特に重視すべきだ」とした。

しかし、高裁の村瀬裁判長は、「被害者が1人で死刑とされた過去の強盗殺人罪の被告は、似たような前科で無期懲役とされ仮出所中の場合などだ」と指摘、「夫婦間の口論の末の無理心中であり、強盗殺人事件との類似性はなく、更生の可能性がないとは言い難い」と判断。「死刑の選択が予想されない被害者1人の今回の事件について、前科を重視して死刑とすることには疑問がある」と述べた。

 インコが思うこと

被告人は妻子殺害事件で懲役20年を受けて満期出所しているが、そのときの裁判で裁判自体に不信感を持ったのではないか。「何を言っても無駄」

それが今回の裁判員裁判での黙秘、控訴審出頭せずにつながっているのでは。

 インコの危惧「黙秘問題」

1審で被告人が黙秘したことで、裁判員の心証が悪くなって死刑判決につながったということはないのだろうか?

鳥取地裁での死刑判決。この裁判でも被告人は、初公判の罪状認否と最終意見陳述での「私はやっていません」のみしか発しなかった。

裁判終了後、記者会見に臨んだ裁判員は「自分がやっていないというなら、その根拠を言ってほしかった」とか「無実なら黙秘はダメだ」などと述べた。

これでは、黙秘したから不利な心証形成をしたと言っているようなものであり、鳥取地裁の裁判員たちは憲法38条1項で保障された権利を否定したのも同然である。

これと同じようなことがこの東京地裁でも起きていたのではないか。そしてこれからも「市民感覚」で裁く限り、同じようなことが起きるだろう。HP感覚で裁く

日本の刑事裁判においては、第一回公判で人定質問を終え、起訴状朗読が終わった際に、必ず裁判官は被告人に対し以下のように黙秘権の告知を行う。(刑事訴訟法第291条第3項)

「これから、今朗読された事実についての審理を行いますが、審理に先立ち被告人に注意しておきます。被告人には黙秘権があります。従って、被告人は答えたくない質問に対しては答えを拒むことができるし、また、初めから終わりまで黙っていることもできます。もちろん、質問に答えたいときには答えても構いませんが、被告人がこの法廷で述べたことは、被告人に有利・不利を問わず証拠として用いられることがありますので、それを念頭に置いて答えて下さい」

投稿:2013年6月20日

毎度おなじみのあいさつ…最高裁長官

全国の高等裁判所長官と地裁・家裁の所長が司法行政の課題を話し合う「高裁長官、地・家裁所長会同」が6月19日から最高裁判所で始まった(会同は20日までの2日間)。

同会同の中で、竹崎博允・最高裁長官は裁判員制度について、「書面に依存した審理が増えて分かりやすさが低下している」などの課題を挙げ、「制度の原点に立ち返って謙虚な運用を心掛けていくことが望まれる」と言った。

この記事を見てデジャブ(既視感)に囚われたのはインコだけだろうか?

2012年6月13日の会同発言:制度検証の時期が来た。課題が少なくない。国民の理解を基に運営される原点に立ち返り、改善に努めることが大切だ。

2011年6月9日の会同発言:書面の利用が増え、制度が理想とした口頭での直接審理とは言い難い運用が広がりつつある。裁判員経験者らのアンケートでも理解のしやすさは低下している。

言い方を変えて、問題がある、課題が少なくないって毎年言っているんだね。制度止めたら言い回しに苦労しなくても済むのにね。

焦る最高裁image1

 

 

 

投稿:2013年6月20日

裁判員ストレス障害 福島地裁で裁判に

6月18日付け『河北新報』の記事

裁判員ストレス障害 福島地裁に訴訟を移送 仙台地裁決定

裁判員を務めたことで深刻な精神的損害を受け、急性ストレス障害と診断されたとして、裁判員経験者の福島県内の60代女性が国に200万円の損害賠償を求めた訴訟で、仙台地裁は17日、訴訟を福島地裁に移送する決定をした。

民事訴訟法によると、今回の管轄裁判所は国を代表する法相の所在地の東京地裁か、不法行為などがあったとされる場所の福島地裁となる。女性側は法相と仙台法務局が一体だとして仙台地裁に提訴したが、国は同意せず、今月5日に移送を申し立てていた。

決定は、仙台地裁に管轄があることを否定。女性側の要望などを踏まえ、福島地裁に移送するとした。女性側の代理人は「即時抗告はせず、福島地裁で争う」と話した。  決定内容は仙台地裁が記者会見で公表したが、こうした対応は異例。地裁総務課の担当者は「社会的関心が高く、正しく理解してもらいたかった」と話している。

投稿:2013年6月18日

裁判員経験者による国賠訴訟の提起について

弁護士 織田信夫(仙台弁護士会)

 福島地裁郡山支部の元裁判員が国を相手取り損害賠償請求を起こした事件。
この提訴を受任された織田信夫弁護士から投稿をいただいたのでご紹介いたします。 

 今年(2013年)3月,福島地方裁判所郡山支部で行われた強盗殺人事件の裁判員裁判で,裁判員をつとめた62歳の女性がその後急性ストレス障害と診断され,それまで勤めていた介護施設での介護の仕事を休職せざるを得なくなってしまうという事件が発生した。裁判員として裁判に関与して気分が悪くなった,精神的に不安定になったという方の感想のようなものが新聞で時折みかけることはあったが,このように明確に急性ストレス障害と診断された例はこれまでなかったのではないかと思われる。

 その方のご主人は行政書士をしておられ,私の名前をインターネットで知ったということで,当初は私に福島県内の弁護士で裁判員制度の問題を扱っている方を知らないかと電話で尋ねられた。私には心当たりがなかったので,そう答えたところ,私に直接会ってお話したいということで,仙台までお出で頂くことになった。最初の電話では奥さんの病状からご主人がお一人で見えるとのことだったが,意外にお二人でお見えになった。もちろんお二人でお出で頂いた方が間違いのない対応ができるので,私にとっては有難いことであった。

 その裁判時の証拠調べの経過,それによって食後トイレに駆けこんで嘔吐したこと,その後の期日でも同様の状態であったことなどをその女性は詳細に話され,「2度と私と同じ思いを他の人に味あわせたくない」との強い思いを語られた。ご主人も「これは本当に赤紙ですね」と言われた。

来なかったら処罰する( その女性はこの事件で裁判員候補者として呼出しを受けたとき,裁判員にはなりたくないということで,勤 務先の上司に過料の10万円を施設で負担しては頂けないかと尋ねたら,施設では,休暇はやるが10万円を負担することはできないと断られたとのことであった。

 根が真面目な彼女は,出頭を拒否せず,裁判所に出向いたところ,くじで裁判員に選ばれてしまった。裁判員という仕事がこんなに大変なことであるのなら当初からなぜ断らなかったんだろう,夫は,何故妻に断らせなかったんだろうと思ったと,私の前でご夫婦は非常に残念がっておられた。

 他の人に同じ思いはさせたくないという思いを実現するにはどうしたら良いか,それが私への相談の趣旨であった。私は,穏やかに世間に訴えるということであれば,例えば私たちが行っている「裁判員制度はいらない!大運動」の機関紙の全国情報にその経過と思いを掲載して世間に訴えるという方法がある,その方が経費も余りかけず心理的負担も小さくて済む,しかし強く訴えたいというのであれば,やはり国家賠償訴訟を起こすことになる,そのときは勢い制度の憲法問題を取り上げることになると説明した。ご夫婦は当初,その訴えを起こすと,さも自分たちはお金が欲しいと思われそうで嫌だとお話しされたが,私は,もしマスコミ等に説明する機会があればそこでお金が目的ではないことをお話しされれば良いのではないかと話したところ,納得して下さり,お二人はその場で国家賠償訴訟を起こすことを決意された。その訴訟ではいつも私たちの運動に協力してくれている仙台弁護士会の佐久間敬子弁護士にも代理人になって頂きたいと思っていると話したところ,お二人はそのことを了解して下さった。

 その後間もなく,そのご夫婦と以前から接触のあった某新聞社にお二人のこの意向が伝わるや,「裁判員経験者国家賠償訴訟提起の意向!」と全国の新聞やテレビに大きく報道され,ご当人らはこのような大事になるとは予想していなかったので面食らったらしく,訴訟の進め方について憲法問題ではない方策はないものかと改めて私に打診して来た。私たちは改めてお二人と面会し,裁判員裁判における証拠調べの方法が裁判官裁判と異なることは,本来の刑事裁判の目的である事案の真相を明らかにするものではなく,その証拠調べの方法が裁判官裁判と異ならないことの過失を問うことはあってはならない,また,裁判所に対し単にメンタルヘルスケアの充実を求めるような考えは,裁判員裁判においては裁判員にメンタル面への障害を与えても構わない,ケアさえしっかりしていれば良いという考えに通じるものであり,それは到底私たちの受け入れられるものではない,問題は一般の国民を強制してかかる裁判員という辛い仕事に無理に参加させることになっている裁判員制度そのものにあるとご夫婦に説明し,ご夫婦もそのことを十分に理解され,改めてその趣旨の国賠訴訟に踏み切る決意を固められた。

悪夢(小)

 私たちのこの訴訟の目的は,この国民強制の制度が憲法違反であり,かかる憲法違反の制度をまともな審議をしないで成立させてしまった国会議員に重大な過失があったとしてその責任を問うものである。

 裁判員強制は,現実問題として裁判員制度存続には不可欠な制度であることは良く分かっている。今もなお4割超の国民が制裁があっても参加しないと言い,4割超が制裁があるのであればやむを得ず参加するという,つまり約8割5分の国民が否定的意向を持っている以上,強制を外せば残り15%のやってみたい物好き派,或いは日当稼ぎの暇人しか集まらなくなる。これでは司法に対する国民の理解の増進と信頼の向上という裁判員制度の前提たる仮説が脆くも崩壊する,適正な刑事裁判でなくなることは火を見るよりも明らかである。

 強制しなければ裁判員制度は成り立たない。国民にどんな苦しみ、不利益を与えても、裁判員制度は続けなければならない。そのようなことは民主国家として認められることでないことは明らかであろう。つまり,この裁判員強制の違憲を裁判所に認めさせることは,裁判員制度を崩壊させることに繋がる。

 2011年11月26日の最高裁大法廷判決は,裁判員裁判を受けた刑事被告人からの裁判員制度は憲法18条違反であるとの主張に対し,本来はそれが適法な上告理由には当たらないのに,敢えて「苦役ということは必ずしも適切ではない」と判示した。その理由がまたふるっている。裁判員となることは参政権と同様の権限を付与するものだ,国民の辞退にも柔軟な制度を設けている,旅費日当も支払われることになっているからだという。

 今回の原告は,事件後3か月を経てもなお精神的不安定は消えず,夜中に,死刑を言い渡された被告人がボロボロの背広を着て玄関先に立っている夢を見たという。そして,自分が死刑を言い渡したからこんな病気になってしまったのだろうかと悩むという。

今回の私らへの依頼者の苦痛を,最高裁いや全ての裁判所は何と捉えるであろうか。これでも裁判員の職務は苦役でないと強弁するのであろうか。

 この裁判で裁かれるのは,その事件を裁く裁判所自体であると考えている。裁判員制度はこの強制の問題以外にも,刑事裁判の崩壊を招くものであり,被告人の裁判員裁判強制,つまり被告人に選択権を与えないことの違憲性などの問題山積の悪制度だが,まず今回の裁判を突破口にして,裁判員制度について国の考え方を根本から改めさせたい,そういう意気込みでこの裁判に臨みたいと思っている。

 この訴について裁判をするものは,「裁判員ともに!」などと今も構内に大きい看板を掲げて裁判員制度を推進しようとしている裁判所である。前記最高裁大法廷判決がその末尾で力説している制度推進にかける情熱を思うと,本来政治的に中立であるべき裁判所が極めて強力に政治的になっていることの怖さ,一体国民は究極的に誰に救いを求めたら良いのであろうかとの不安や,空しさ,戸惑いを隠すことができない。誠に悲しく残念なことである。

 先に,裁かれるものは裁判所自体だと記した。裁判所は何を裁かれるのか。それは憲法76条3項に定める裁判官の良心の有無,その裁判所が真に独立であるか否かということである。制度普及時から現在までの裁判所の動き、最高裁の態度からすれば、極めて期待し難いことではあるが、私たちは僅かな希望を一部の裁判官には残っているだろう良心と勇気に賭けたい。

2013.6.11ご投稿

ヒヒヒ(小)

 

 

 

 

 

投稿:2013年6月15日

日本は刑事司法の先進国だ www 笑うな!シャラップ

5月21日と22日、ジュネーブの国連拷問禁止委員会において、第2回日本政府報告書審査が行われた。
マスコミ報道は、従軍慰安婦制度に焦点を当てたものがほとんどであったが、実際には、代用監獄や長時間取り調べ、刑事施設の被収容者の処遇、死刑制度、精神医療など多岐にわたる日本の人権問題が取り上げられている。
各委員からの質問について、日本政府団はのらりくらり答弁(これは官僚の伝統芸か?)に終始したことから、モーリシャスのDomah委員が厳しい指摘を行った。

「弁護人が取り調べに立ち会わない。そのような制度では真実ではないことを真実として公的記録に残るのではないか。弁護人が立ち会うと干渉されるというのは納得できない」
「有罪判決と無罪判決の比率が10対1になっている」 えーっと、実際は100対1なんですが、委員にはあまりにも信じられないことなので言い間違えちゃったのかも。
「自白に頼りすぎているからではないか。これは中世の名残である。このような制度から離れなければならない。日本の刑事手続きを国際水準に合わせる必要がある」
どひゃー言われちゃったよ。

さすがの日本政府団も赤面したかというと…
最後に政府を代表してあいさつにたった上田人権人道大使が、「先ほど、『中世のようだ』という発言があったが、日本は刑事司法の分野では最も先進的な国のひとつだ」と宣った。
これには会場内から冷笑・失笑が広がった。そりゃそうだろう、代用監獄、長時間の取り調べや自白偏重、弁護士の立ち会いも認めないと批判されているのに、最も先進的な国のひとつだって、聞いたインコは失笑ではなく爆笑したよ。

上田人道人権大使「なぜ笑うんだ。笑うな。シャラップ、シャラップ」と叫んだ(「なぜ~笑うな」も英語で言ったけどね)。
その後、「この分野では、最も先進的な国のひとつだ」と繰り返して「それは、もちろん、私たちの誇りだ」とまで言い切った(関心のある方はユーチューブで見てね)。

6月5日付け『東京新聞』は、「『シャラップ』は『てめえ、黙りやがれ』という強いニュアンスがあり、知的な表現とは言えない。公式の場の発言としては不適切に違いない」と報道したが、どうして他のマスコミはこれを報道しないのかなぁ。

それにしても傲慢というか傲岸不遜というか…。
会議にオブザーバー参加したインコの友人は、「国連の専門委員会は、問題解決に向けてよりよい討議、意見交換を行う場。上田大使はそのことが分かっていないのか。日本政府の人道人権感覚とはこのようなものなのか。国際社会の人権感覚とはあまりにもかけ離れている。最も先進的な国のひとつだなんて…」と嘆息していた。

司法への信頼を求めるなら、まずは世界の人権スタンダードにあわせて人権後進国から脱却するのが先だよね。

拷問禁止委員会の第2回政府報告書審査の概要や問題などについては、NPO法人 監獄人権センターの声明が詳しいです!

-拷問禁止委員会の第2回政府報告書審査を受けて-
被拘禁者の人権状況の改善と死刑制度・死刑確定者処遇の見直しを求める声明

監獄人権センターのホームページ「声明」はこちらからどうぞ

投稿:2013年6月14日

6月6日付け『東奥日報』社説

 6月6日付け『東奥日報』社説「正しい刑事司法か検証を/裁判員制度見直し」は、久々にまともな記事。

 マスコミは、裁判員制度を批判するときはどこか腰が退けていた(裁判員制度宣伝の広告を出してもらってことを恩義に感じてかな?もちろん多額の宣伝費は税金です)。

     「裁判員制度の意義は認めるが……」

     「市民が参加するという意義を生かしつつ……」

     「よりよい制度に向けて……」

  しかし、この記事では問題を指摘した後、がつんと言っている。

「裁判員制度の定着ありきの論議では不十分。本当に目指すべきは、より良い裁判員制度ではなく、より良い刑事司法なのだ」

 まさに仰せのとおり!!

  社説  正しい刑事司法か検証を/裁判員制度見直し

  裁判員法施行から先月21日で丸4年が経過し、法務省の有識者検討会は今月中に、制度見直し意見を取りまとめた報告書を提出する。しかし、内容はあくまでも裁判員制度定着に向けた改善点を示すものとなる。果たしてそれで十分だろうか。

  裁判員制度によって実際に司法が国民のものになったのか。さらには、裁判員制度が刑事司法として正しく、有用な制度なのか。それこそが検証すべき優先事項ではないか。

  裁判員法は、3年経過後に検討を加えて必要な措置を講ずるよう付則に定めている。有識者検討会の検討はそれに基づくもの。3月に出された報告書案では、超長期化裁判は対象から外す、大規模災害の被災地住民は裁判員候補者としない-などを改善事項として挙げた。いずれも裁判員の負担軽減が狙いだ。

  今年4月、死刑判決をめぐり、裁判員を務めた福島県の女性がストレス障害になったとして損害賠償を求め国を提訴した。この一例を見ても、裁判員の負担軽減が必要なことは確かだ。

  だが、裁判員の負担抑制と交換に多くを犠牲にしたことの方がもっと問題だ。

  例えば、審理期間の短縮化へ、裁判官、検察官、弁護人が協議して証拠や争点を絞り込む公判前整理手続を導入し、特別の理由がない限り新たな証拠請求などはできない制限ができた。事前に決めた審理日程も基本的には変更しない。

  忘れてはならないのは、刑事裁判の主役は裁判員ではなく、被告人、被害者であるという大原則だ。

  当事者にとっては当該の裁判の行方が全て。えん罪は無論、不当な量刑は決して許されない。裁判員の負担の軽重よりも、裁判員制度で、法の下、公正で平等な裁判が実現しているかが問われなければならない。

  ところが裁判員制度は、誤判防止を目的には作られていない。報復や嫌がらせを防ぐため、裁判員経験者には厳重な守秘義務が課され、家族にすら生涯にわたって裁判の中身を話したりできない。したがって、評議などの妥当性を外部検証しようとしても不可能だ。 ある意味、刑事司法はかえって密室化した。

  国民参加と言いながら、国民が司法のあり方に責任を持つことができない。主権者として能動的に司法権を行使しているのではなく、裁判に動員されているのが実態だ。

  それでなくても私たち日本人は、沈黙は金、出るくいは打たれる、という精神文化の中にある。子どもの頃から法律に触れ、自律的に判断する訓練を積むよう教育制度を改めない限り、裁判員裁判は真に国民の意見を反映したものにはならないだろう。

  裁判員制度は欧米の陪審制、参審制とは異なる日本独自の制度だ。だからこそ原点に返り、裁判員裁判でよいのか一から考えるべきだ。裁判員制度の定着ありきの論議では不十分。本当に目指すべきは、より良い裁判員制度ではなく、より良い刑事司法なのだ。

懲りない人達HP

投稿:2013年6月12日

「改憲と裁判員制度」 

 斎藤文男・九州大学名誉教授

九州大学名誉教授・斎藤文男先生の「改憲と裁判員制度」をお送りいたします。 これは5月22日に東京・霞ヶ関の弁護士会館で開催された「改憲阻止そして裁判員制度廃止」の集会での講演草稿に加筆していただいたものです。

1.裁判員制度は改憲の地ならし
     ――司法の治安機構化・民営化――                               
2. 憲法をどう変えるのか
     ――9条改正、非常事態権限、人権停止――
3. 危機国家体制の構築
     ――法の支配から権力の支配へ――
4. しのび寄るファシズム
     ――ワイマール憲法の崩壊から学べ――

 

1.裁判員制度は改憲の地ならし

  ――司法の治安機構化・民営化――      

 私が裁判員制度に反対するのは、この制度が憲法違反であり、憲法改正への一歩、地ならしだと考えるからです。

 裁判員制度は、たんなる刑事裁判の改革ではありません。それは実質改憲です。この認識が、裁判員制度に反対する人たちにさえ共有されていない。そこに、裁判員制度反対運動の問題点、はっきりいえば弱点があります。

 では、裁判員制度はなぜ違憲か。理由は3つあります。1つ、裁判員の義務は、憲法に根拠がないこと。2つ、公権力(国家権力といってもよい。国家の強制力)をもたない民間人に公権力を行使させていること。3つ、司法の独立と法の支配の原理に反すること、です。

 まず第1。憲法に裁判員の義務はありません。憲法が定める国民の義務は、納税の義務、勤労の義務、教育の義務だけです。しかも、これらはいずれも、参政権、勤労権、教育を受ける権利と表裏一体をなしています。一方的な国民の義務ではありません。

 むろん、憲法制定当時、裁判員制度など予想もしませんでしたから、明文で裁判員の義務が定められていないのは当然です。しかし、いやしくも国民に義務を課す以上、その根拠は憲法になければなりません。ところが、その根拠がどこを捜しても見つからないのです。だから、違憲です。

 違憲の第2の理由は、裁判員制度が民間人に公権力の行使を義務づけたことです。裁判員は、必要とあれば死刑判決で人の命を奪う権限と義務を負わされました。公権力をもたない民間人に、民間人のまま、文字どおり生殺与奪の権限を行使させることは、公法の法理に反します。

 裁判員制度に反対するみなさんは、これは現代の「赤紙」だ、と非難なさる。が、裁判員制度は徴兵制より、もっとタチが悪い。赤紙で召集された民間人は、軍隊に配属されたその日から、大日本帝国軍人として、公権力を付与された。だから、敵を殺しても、殺人罪に問われない。けれども、裁判員は民間人のまま、裁判官と同席して、死刑判決を下す。民間人のまま、合法的な国家殺人に手を貸すのです。これは、公権力をもたない民間人の公権力行使であって、法理に反します。裁判員法で定めたからといって、許されるものではありません。裁判員法が法理に反しているからです。

 どうして法律家のみなさんが、この点を問題にしないのか、私は不思議でなりません。数年前まで、行政法が司法試験の必須科目でなかったからでしょうか。

 違憲の第3の理由は、裁判員制度が司法の独立、法の支配の原理に反するからです。これは、民主主義と自由主義の根本的理解にもかかわる問題なので、少し説明が必要でしょう。

 そもそも、民主主義と自由主義は対立する思想です。そして、民主主義は立法府と行政府に制度化され、自由主義は司法府に制度化されています。つまり、政府の立法・行政部門(政治部門という)と、司法部門(非政治部門)は、依って立つ思想原理が違うのです。

 民主主義と自由主義のイロハから、改めて考えてみてください。

 まず、民主主義とは何か。一言でいえば、人民の自己統制(self-government)のことでしょう。だから、国民が代表者を選挙し、国民の代表機関である議会が法律を制定して、行政機関がこれを執行するという仕組みは、民主主義の思想にもとづいています。

 ところが、元来、民主主義は、何が正統な権力かを問い、正統な統治の根拠を人民の同意におく思想です。したがって、民意にもとづく権力は強いほどよろしい。それだけ、民意がよく実現されるからです。しかし、民意はしょせん多数決で測るしかない。とすると、民主主義とは多数者支配のことであり、多数の専制に陥ることは避けられません。

 これに対して、自由主義は、個人の自由に価値をおき、これに干渉する国家権力をできるだけ制限しようという思想です。そして、この自由主義から、統治を憲法に従わせる立憲主義、国家権力を分割し相互に牽制・均衡させて権力の乱用を防ぐ権力分立制、司法の政治からの独立――ひとことで言えば、「権力の支配」に抗する「法の支配」の原理が生まれてきます。民主主義は、人民による権力支配を求めますが、自由主義は、多数者支配によって少数者の人権が侵されないように、「法の支配」を守ろうとします。そして、その「法の番人」「人権の砦」の役割を司法が担うわけです。

 法の支配は、正しくは「人の支配ではなく、法の支配」(rule of law,not of man)といいます。この場合の「人」とは、君主や立法・行政権者だけでなく、人民をも含んでいます。つまり、民意や世論、国民感情や市民感覚からの独立を意味します。だから司法は、多数者支配の民主主義原理を排除し、民意や世論、国民感情からも独立でなければなりません。さもなければ、公正な裁判は期待できず、少数者の人権は奪われてしまうからです。

 それゆえ、司法は民主化してはなりません。国民の司法参加で司法を民主化するなど、とんでもないことです。それは民主主義と自由主義の違い、司法の役割についての無知ゆえの誤解か、知ってのうえなら悪質な欺瞞・デマゴギーです。

 私は、裁判員制度は司法の民主化だ、国民の司法参加で「国民の健全な社会常識」や「市民感覚」が刑事裁判に反映されるのは大いに結構という人たちに反問したい。そんなに裁判を民主化したければ、いっそ職業裁判官は全員クビにして、人民裁判をすればよい。――いや、冗談をいっているのではありません。民主主義は人民の自己統治、人民による統治でしょ。その論理を裁判にも徹底すれば、人民による裁判が理想でしょう。古代ギリシャの共和国は、人民裁判だった。おかげで、ソクラテスをまんまと死刑にできた。――というと、いくらなんでも、それは無茶だ、とおっしゃる。ならば、裁判官も国会議員並みに、選挙で民主的に選ぶことにしてはどうか。フランス革命で生まれた急進民主主義の1791年憲法、95年憲法では、裁判官はすべて人民が選挙し、任期も短く限られていた。――というと、いやいや、一般市民には裁判官の能力・資質はとうてい判断できない、とおっしゃる。じゃあ、なぜ、それほど裁判に無知無能なズブの素人を裁判員にしたのか。

 裁判員制度には、理論的根拠も、実際的効用もありません。

 ありていにいえば、裁判員制度は、誤判や再審無罪などで裁判への不信と不満が高まったので、“ガスぬき”のためにつくられたのが実情でしょう。しかし、この制度の政治的ねらいはそれだけではない。お上の治安意識を国民に共有させ、司法を治安機構化し、民間人にその片棒を担がせて、刑事司法を民営化することにあります。これは、現代版の国家総動員法、人民が人民の首を絞める自虐立法です。

 でも、なぜ、裁判員制度が、憲法改正の地ならしなのか。

 それは、裁判員制度の発想と憲法改正の発想が同じだからです。いずれも、憲法を人権保障のためではなく、権力者の統治のための法とみなし、人権よりも国家への服従義務を優先させているからです。

 先だって5月16日の衆院憲法審査会で、自民党の保岡興治議員は、公務員の憲法尊重擁護義務を定めた99条を改正して、これに国民を加えるべきだ、と主張しました。この発言はバカバカしさを通り越して、噴飯ものです。憲法は国家権力を縛るものだから、公務員に憲法尊重義務を課しているのであって、憲法は国民を縛るものではありません。国民に義務を課すための法ではありません。国民を統治するための法でもありません。国民の人権を保障するために、国家権力を拘束するのが憲法であり、統治は憲法に従うべきだというのが立憲主義なのです。

憲法とは何か、立憲主義が何か、がまるでわかっていない。こんな無知蒙昧な徒に、憲法改正を言い出す資格はありません。国民は、はなはだ迷惑です。

そこで、この迷惑な連中の主張する迷惑な改憲論に話を移します。

2.憲法をどう変えるのか

  ーー9条改正、非常事態権限、人権停止ーー

 改憲の論点は、いまでは多岐にわたりますが、最大の政治的争点は、やはり9条の改正です。それともう一つ、3.11以後、急速にクローズアップしてきた非常事態条項の新設があります。この2つは、じつはメダルの表裏です。その他は、憲法改正の行きがけの駄賃か、せいぜい敵は本能寺の目くらましでしょう。

 9条改正の政治的ねらいが、集団的自衛権の行使を容認して、日米同盟を強化することにあるのは、いまさら説明の要もないでしょう。ただ、注意すべきなのは、9条改正論の主流が、かつての「戸締まり論」、つまり日本の独立と安全のためから、対米協力、ひいては国際貢献、国際安全保障への参加に代わっていることです。

 そのため、日米安保協力とともに、あるいはこれを隠すために、国際協力や国連協力を9条に明文化する改正論が強まっています。たとえば、自民党の改憲案では「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動」に自衛隊、いや国防軍が参加できるとして、日米軍事協力をカムフラージュしています。

 もうひとつ注意すべきことは、9条改正の手法です。安倍首相は、かねて9条の条文改正を公言していますが、これは長期戦略であって、短期的には、むしろ解釈改憲、立法改憲、行政改憲といった、いわゆる実質改憲、なしくずし改憲の手法を駆使してくるでしょう。現在、首相の諮問機関である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」で検討中の9条解釈の変更や、安全保障基本法の制定、ガイドライン(日米防衛協力の指針)の改定、防衛大綱の改定、NSC(国家安全保障会議)の設置などがそうです。条文改憲には年月を要し、当面の政治的対応の間に合わないし、なしくずし改憲なら国会の過半数の賛成か、閣議決定だけで可能だからです。

 現に、集団的自衛権の行使は、すでに周辺事態法をはじめ、3.11のトモダチ作戦、北朝鮮ミサイルの防衛、武器輸出3原則の緩和、海賊対処法や自衛隊法の改正などで、着々と進んでいるではありませんか。改憲問題は、条文改憲だけに目を奪われてはなりません。足元をすくわれます。

 しかし、改憲勢力にとってどうしても条文改憲が必要なのが、非常事態条項です。これだけは、なしくずし改憲というわけにはいきません。その意味で、これは9条以上に重要な改憲項目ともいえるでしょう。

 5月3日付の読売新聞は、改憲問題について3党(自民、民主、維新の会)の座談会を掲載しました。そのなかで自民党の中谷元議員が、96条が改正されたら、まず、どの条項の改正に着手するか、との司会者の問いにこう答えています。「まず、非常事態条項の創設。2番目は9条だ」。

 中谷氏は自民党の憲法改正推進本部事務局長、元防衛長官です。防衛長官だった人が、9条改正よりも非常事態条項の新設を優先、重視していることは見逃せません。

 非常事態条項の必要論は、3.11の東日本大震災と原発事故の直後から、にわかに高まった感があります。しかし、じつは決してそうではありません。1957年にスタートした憲法調査会でも、改正すべき点の一つとして論議されたのです。調査会では改憲・護憲の意見が割れ、両論併記の報告書が1964年に政府に提出されましたが、多数派の意見はこう述べています。

 「現行憲法の一大欠陥の一つは、国家の非常事態に対する処置がまったく講ぜられていない点である。……『不測の非常事態』としては戦争(外国からの侵略)、内乱ないし大暴動、経済大恐慌、天災(台風、水害、地震、大火、伝染病その他)などがあげられる。……憲法その他の諸立法でせっかく周到に保障された国民の基本的人権をこれらの事態に際して正しくまもるためにも、ぜひ非常事態ないし緊急事態に対する対策を憲法上明記しておくべきである」

  みなさんもお気づきでしょうが、この議論には次のような問題があります。

 まず第1に、そもそも非常事態条項がないのは憲法の欠陥か。設ける必要があるのか。

 第2に、非常事態の要件も、とりうる措置も、あらかじめ具体的に法定できない。いいかえれば、非常事態の認定も、とるべき措置も、行政のトップに白紙委任せざるをえないこと。

 第3に、非常事態権限とは元来、憲法の一時停止、人権の一時停止の権限をいうから、これが人権を守るためというのは、サギをカラスと言いくるめる真っ赤なウソであること。

 第4に、非常事態を戦争、内乱のほか、自然災害や経済恐慌にまで広げていること。最近は、テロまで含めている。

  旧憲法には、むろん非常事態条項がありました。旧憲法は、「天皇ハ……統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」(4条)として、天皇主権ではあるが立憲主義を定めています。立憲君主制です。しかし、31条で

「本章〔第2章臣民権利義務〕ニ掲ケタル条規ハ戦争又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」

と定めていました。天皇の非常大権と呼ばれるものです。さらに14条には

「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」「戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」

とあります。これは、天皇の戒厳大権と呼ばれるものです。

 このように、非常事態権限(国家緊急権ともいう)とは、「国家の存在が危機にさらされるような非常時において、憲法の一部を一時停止するなど、国家の法的枠組みを一時的に取り払うことにより、その非常事態に対処しうる権限」をいいます。どんな法律辞典にも、そう定義されています。ちなみに、憲法の停止とは、憲法の効力が停止されることで、憲法が廃止されるわけではありません。

 また、戒厳とは、「戦争などの非常事態の際に、行政権ないし司法権の行使を軍の機関に委ねること」と定義されます。これは、非常時における軍の作戦行動を円滑化し、住民に軍への協力を義務づけるためで、治安維持のための自衛隊の治安出動とは異なります。戒厳の宣告権も、非常事態権限に当然含まれます。

 これで、非常事態条項とはどんなものか、おわかりいただけたでしょう。要するに、旧憲法の「天皇」が、「内閣総理大臣」に代わるだけです。君主主権だろうと、国民主権だろうと、非常事態権限はいささかも異なるところがないからです。たとえ一時的にせよ、これは憲法の“心肺停止”、戒厳が敷かれれば軍部独裁を認めることです。

 そして日清、日露戦争で、戒厳令が早々に適用されました。次いで、日比谷焼き打ち事件、関東大震災、2.26事件では、“脱法的”手口で、事実上の戒厳が敷かれました。脱法的というのは、これら3事件は旧憲法14条によらずに、8条の緊急勅令(公共の安全を保持するため、議会閉会中のときは、緊急の必要により法律に代えて天皇が発する勅令)で、戒厳の実施を認めたからです。もともと、関東大震災も、2.26事件も、戦争や内乱ではありませんから、旧憲法14条の正式の戒厳が宣告できません。そこで、緊急勅令によって戒厳を敷くというコソクな便法を使ったのです。これを「真正戒厳」に対して、「行政戒厳」とか、「平時戒厳」といいます。このように、戒厳制は、いったん出来てしまうと、かならず拡大運用されます。「必要は発明の母」ならぬ、「必要は脱法の母」「拡大運用の母」なのです。

ですから、非常事態条項の新設は、憲法に“自爆装置”をセットするようなものです。スイッチを入れるのは時の首相。その独断と専権で憲法の呼吸をとめ、立憲主義の衣をかなぐり捨てて、裸の独裁を合法的に敷く以外のなにものでもありません。

3.危機国家体制の構築

  ――法の支配から権力の支配へ――

 独裁を合法化し、ナチスのイデオローグとなったのは、ドイツの憲法学者、カール・シュミットです。

 かれは、こう書いています。

   「主権者とは、例外状況にかんして決定を下す者をいう」

「主権者は、現に極度の急迫状態であるか否かを決定すると同時に、これを除去するために何をな すべきかをも決定する。……主権者は、平時の現行法秩序の外に立ちながら、しかも、憲法を一時停止するか否かを決定する権限をもつ」

「この決定は、いかなる規範的拘束からも免れ、本来の意味で絶対化される。例外事例において、国家は、いわば自己保存の権利によって法を停止する」

「独裁には、いかなる法的形式、いかなる自己拘束もありえない。独裁は、法律のない全権、法なき権力である」

「真の独裁は、あらゆる合法的状態の一時停止という点にのみ存する」

 このように、シュミットは、非常時に憲法を停止する権限を持つ者こそ主権者だとして、国民主権を真っ向から否定しました。同時に、この非常事態権限はいっさいの法的拘束を受けないとして、憲法と立憲主義を完璧に否定しました。「法の支配」を裸の「権力の支配」に代えたのです。

 シュミットがこう論じた当時のドイツは、第1次大戦の敗北で帝政が崩壊し、世界でもっとも民主的なワイマール共和制が発足したものの、巨額の賠償責任を負わされ、極右・極左による体制転覆の動乱が絶えず、国家は不安定で例外状況、非常事態が慢性化していました。その危機を突破するための、これはシュミットのあからさまな政治的主張でした。かれは、のちにナチに入党し、ヒトラー政権の法的助言者の役割を務めます。そして戦後、戦争犯罪に問われましたが、訴追は免れました。

 独裁はいったん確立されると、シュミットがいうように一時的な例外では終わりません。ナチス独裁は、第2次大戦の敗北とヒトラーの自殺まで12年間つづきました。

 しかも、ナチス独裁は合法的に成立したことを、私たちは決して忘れてはなりません。ナチ党は選挙で政権を握り、党首のヒトラーが宰相、のち総統となり、独裁制を固めました。合法的に成立した無法な独裁体制です。

 その扉を開いたのは、ワイマール憲法の非常事態条項でした。その48条はこう定めています。

「もしドイツ国家において、公共の安全と秩序がいちじるしく攪乱され、または脅かされた場合には、大統領は、公共の安全と秩序を回復するため必要な措置を講じ、必要とあれば武力を用いて干渉することができる。この目的を達するため、大統領は〔このあと、人身の自由、表現の自由、結社の自由、財産権の保障など、7つの人権規定を列挙して〕これら基本的人権の全部または一部を一時的に停止することができる」

 これがワイマール憲法の命取りになり、世界でもっとも民主的で、もっとも進んだ福祉国家憲法はあっけなく崩壊したのです。

 日本国憲法を改正して非常事態条項を設ければどうなるか、これでおわかりいただけるでしょう。

 けれども、人権制限は、非常事態の場合だけではありません。非常事態でなくても、平素から人権を制限できるようにしたいというのが、改憲論者たちの主張です。自民党の改憲案では、人権保障の総則規定を改正して、「国民は、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」と変えています。これは、国民の「権利」を「義務」にスリ替えるものです。

 現行憲法では、基本的人権は「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」(13条)と定められています。この「公共の福祉」と、自民党案の「公益及び公の秩序」とは、まったく異なる概念です。公共の福祉とは、個々人の権利自由の衝突を調整する原理なのに対して、「公益」や「公の秩序」は、国家的見地から人権を制限する大義名分なのです。

 公益の最たるものは「国益」でしょう。政治家は、ふたこと目には「国益、国益」とおっしゃる。むろん、何が国益かを決めるのは権力者です。平たくいえば、お国のためなら権利自由の行使は我慢しろ、というわけです。

 「公の秩序」にいたっては、これはまさしく警察概念です。治安の維持に当たるのは警察であり、治安とは「公の秩序」の維持のことです。警察法1条は、警察の目的を「公共の安全と秩序を維持するため」と定めています。つまり、国家安全保障の対内面を担うのが警察であり、対外面を担うのが自衛隊です。もっとも、先ほどお話ししたとおり、戒厳となると自衛隊の銃は国民に向けられますが。いえ、いまだって警察力で抑えが効かなければ、自衛隊が治安出動するのですから。

 要するに、自民党案のように憲法を改正して、人権の一般的な制限規定――いや、国民の責務規定を設けておけば、あえて非常事態条項を新設しなくても、同様の人権規制と国家への服従義務はいつでも可能だという人さえいます。これは、治安国家体づくりの一環にほかなりません。

 さて、ここで、憲法96条の改正問題について、一言しておかねばなりません。これも、いまお話しした立憲主義の破壊以外のなにものでもないからです。

 96条改正は、もとはといえば、日本維新の会が言い出したものです。安倍首相がこれに便乗し、96条改正の先行をもくろんだのは、維新の会やみんなの党と連携して、改憲発議に必要な衆参両院で3分の2議席を確保し、あわせて民主党の分裂と野党の分断をさそう政治的意図であることは明らかです。もっとも、最近では安倍首相も、国民投票では否決されそうだとみて、トーンダウンしていますが、96条が新たな改憲項目としてクローズアップしたことは確かです。首相も7月参院選の争点にするといっています。

 野党の某政治家は、これは「メニューもなしに、レストランに入れ」というようなものと非難しました。ある憲法学者は、改憲の「裏口入学」と評しました。しかし、私はこう言いたい。これは、ドロボーが「お宅の玄関のカギを外しておいてくれ」というようなものだ、と。家人が「盗みに入るつもりか?」と問うと、ドロボーは言った。「何を、いつ盗むかはオレが決める。ツベコベぬかすな!」

 そもそも、民定憲法では、憲法改正権は、憲法制定権をもつ国民にしかありません。国民が憲法を制定しておいて、改正は誰かに任せるのは理に反するからです。憲法改正を国民投票にかけるのは、そのためです。

 では、改憲の発議に、衆参両院の議員の3分の2以上の賛成を要件としているのはなぜか。それは、国民の代表機関たる国会に改憲の発議権を与え、十分な審議のうえで改憲案を作成し、国民に提案するよう義務づけたのです。この改憲発議権は、立法権と別のものです。だから、法案可決の単純多数決ではなく、3分の2以上の特別多数決によることとしているのです。

 その趣旨が、憲法の普遍的原則を維持し、安易な改正を許さないためであることはいうまでもありません。

  96条の発議要件の緩和は、あきらかに立憲主義の破壊であり、その行為自体が違憲なのです。

 

 

4.しのび寄るファシズム

  ――ワイマール憲法の崩壊から学べ――

 ところで、21世紀は、「戦時」と「平時」の区別がない時代です。戦時が平時化し、平時が戦時化しました。対テロ戦争は「外なる敵」と「内なる敵」とを区別しません。9.11のアルカイダも、先だってのボストン・テロの米国青年も「国家の敵」です。

 そして、「外なる敵」に対しては、たとえそれが自国の安全を直接脅かすものでなくても、国際安全保障のために武力を行使して殲滅せよ。「内なる敵」、つまり重大な犯罪者は、手っ取り早く社会から隔離し、抹殺せよ。これが今日の臨戦国家、危機国家の戦略です。

 だから、現代国家は、外に対しては戦争国家、内に対しては治安国家たらざるをえません。戦争や非常事態を想定した危機国家体制づくりを急がざるをえない。それには、憲法と立憲主義の止め金を外して、権力を集中し人権を抑圧する「権力の支配」体制を築く必要があります。これはまさしくファシズムです。

 ファシズムはしかし、戦争と革命に伴うものとは限りません。かつて、ドイツのナチズムやイタリアのファシズムは、ロシアの社会主義革命の脅威と第1次大戦の戦後処理への不満、加えて世界大恐慌の経済破綻から生じました。しかし、今日のファシズムは、平時に、もの静かに、しのび寄ります。しかも、合法性の、ときには民主主義の仮面をかぶって。

 昨今の日本で危惧されるのは、「決められない政治」に苛立った世論が、決断主義的指導者のイメージが“売り”の政治家を人気者にしていることです。いまや、民主政治は世論政治と誤解され、衆愚政治に堕しています。そして、独裁的指導者を待望する兆しさえ見受けられます。

 昨年の総選挙では、「誰それは、何党はダメだから、落とせ」というだけのバッ点選挙、懲罰選挙、うっぷん晴らし選挙で、安倍晋三を首相に返り咲かせました。そして再び、憲法改正が政治日程に上がっているのです。

 私は、憲法改正に反対します。条文改憲だけではなく、実質改憲、なしくずし改憲にも反対します。だから、なしくずし改憲である裁判員制度は即刻、廃止に追い込むべきだ、と考えます。

 改憲も、裁判員制度も、日本のファッショ化にほかなりません。

 みなさん、裁判員制度を廃止させ、憲法改正を阻止しましょう。

flower0975

 

 

 

 

投稿:2013年6月12日