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裁判員制度ふたたび

玄侑宗久さん(芥川賞作家、臨済宗僧侶、福島県三春在住)は、昨年4月から月1回、『東京新聞』の「暮らし見つめて」のコーナーに「うゐの奥山」という題でエッセイを書かれている。1441

16回目となる7月6日、裁判員制度の問題について福島の女性が外傷性ストレス傷害になった問題をきっかけに、「ふたたび」制度反対の声をあげるといわれた。タイトルは「裁判員制度ふたたび」である。

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「裁判員制度ふたたび」

急に「ふたたび」と言われてもワケがわからないかもしれない。しかし私にとって裁判員制度は、発足当初から反対しており、反対運動にも名を連ねていた。やはり「ふたたび」反対を言わなくてはと思った次第である。

どうして間が抜けてしまったのかというと、東日本大震災が起きたせいである。こう言っては本当に申し訳ないのだが、実際、頻繁な復興構想会議への参加もあり、お寺の仕事も忙しかったため、とても裁判員制度への反対運動にまで関わる余裕がなかった。忸怩たる思いをもちながらも、見守ることしかできなかったのである。

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そうこうするうちにとうとう危惧したことが起こってしまった。夫婦二人に強盗殺人をはたらいた罪を問われ、今年三月に死刑が言い渡された裁判が福島地裁郡山支部であったのだが、その際に裁判員を務めた六十代の女性が、「急性ストレス傷害」と診断されたのである。

女性は証拠調べの過程で、遺体や傷口のカラー写真を何枚も見せられている。ナイフで十回以上刺したとされる凶行を想像するうちに、具合がおかしくなってしまったのだろう。

もともと彼女は、裁判員選任手続きをした三月一日直後から不眠に悩んでおり、審理中に残忍な写真や凶器のナイフまで見せられ、三月四日の第一回公判以後はふっつり喋らなくなってしまう。肉料理を嫌がり、嘔吐を繰り返し、体重も急激に減少していくのである。

判決言い渡しの際の彼女を、新聞は次のように描いている。
「裁判長が判決文を朗読中、下を向き、被告を凝視することはなかった。自分たちの判断で死刑が宣告される相手を直視できない心的負担がうかがえた」

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この女性は、当時、福祉施設に勤務していたのだが、おそらくこれは、同じような裁判に裁判員として関わる全ての人々に共通する反応ではないだろうか。医師はPTSD(心的外傷後ストレス傷害)への移行を懸念しているが、裁判員として裁判に関わるということは、大なり小なりそのような心的負担を強いられるのは間違いない。忘れたくても忘れられない記憶に、おそらく一生悩みつづけるのではないだろうか。

この国の国民であるだけで、これほど過酷な務めが発生する現状は、どう考えてもおかしい。札幌では女性裁判員が審理中に卒倒し、福岡ではショックのせいか裁判所の廊下をふらふら歩いていた裁判員が目撃されている。しかも郡山の女性が最高裁の「裁判員メンタルヘルスサポート窓口」に連絡すると、東京まで自費で出てこなと対面カウンセリングはできないと告げられている。

もともとこの制度、判決に一般人を加担させて批判を封じ込める卑怯極まりないやり方に思えるが、国民の福利の観点からも抜本的に見直し、是非とも廃止してほしい。HP普通には

 

 

 

 

 

投稿:2013年7月21日