トピックス

トップ > トピックス > 菊池事件と裁判員裁判

菊池事件と裁判員裁判

神戸学院大学  内田 博文

  国によると、裁判員制度を導入する理由として、刑事裁判に対する「国民の理解と信頼の向上」及びこれを通じた「国民の統治主体意識の涵養」が掲げられた。ここに「統治主体意識」というのは、次のような意味ではないかと想像される。

  国民は、国の統治の主体であって、統治の客体(単なる受益者、被保護者)ではないのであるから、国の統治について傍観者として振る舞うことは許されないのであって、主体としての自覚に基づいた行動と役割が求められる。それは刑事裁判についても同様である。

  国は、この裁判員制度に対する「国民の理解と支持」を得るために、多額の税金を使い、マス・メディアを最大限に利用した「裁判員裁判は素晴らしい制度ですよ。」「皆さん方も是非、裁判員になりましょう。」キャンペーン等を展開した。この国の目論みは、ある意味では、成功したといえないこともない。最高裁が2013年1月に実施し、「裁判員制度の運用に関する意識調査」と題してまとめられた調査結果によると、アンケートに対する回答には、マス・メディアの強い影響が認められるからである。

  裁判員制度を知っている人に、何から知ったかをたずねたところ、「テレビ報道」をあげた者の割合が最も高く95.1%、次いで「新聞報道」が67.2%で、以下、「家族・友人・知人等の話」(15.1%)、「インターネット」(12.6%)、「ラジオ報道」(12.0%)となっているからである。現在実施されている裁判員制度について前述の印象を持つことになった原因を聞いたところ、「テレビ報道」が88.9%と最も高く、次いで「新聞報道」が64.5%で、以下、「インターネット」(13.5%)、「家族・友人・知人等の話」(12.0%)、「ラジオ報道」(11.1%)となっている

  マス・メディアが裁判員制度について「国策報道」の役割を担っていることからすれば、このような「模範解答」も容易に了解し得るところであろう。

 しかし、この「国策報道」が効果を発揮すればするほど、国の言いなりになる、すなわち、「統治客体意識」を持った国民・市民が醸成され、自分の頭で刑事裁判を考えようとする国民・市民は逆に減少する。現に、最高裁が実施した意識調査ではそのような結果になっている。国の真の目的は、「統治主体意識の涵養」ではなく「統治客体意識の涵養」ではなかったのかというような疑いさえも生ずる。

 ここで脳裏に浮かぶのは、国連憲章、世界人権宣言、そして、各種の国際人権規約などが一致してその再発の防止に努めているファシズムの問題である。国連憲章は、ファシズムとそれによる戦争の防止が国連の最大の目的であると謳っている。日本国憲法やサンフランシスコ講和条約も、このような立場に立っている。

 しかし、国の側だけではファシズムは成立しない。ファシズムの成立には、国民・市民の動員も不可欠である。全体主義国家の構築のために国と国民・市民が一致協力する。それによって「法の支配」を超えた統治を実現させる。「障害物」はすべて除去していく。そのためには、マス・メディアの統制がキーとなる。国民・市民の動員にはマス・メディアが欠かせないからである。「国民世論」をでっち上げ、この鋳型の中に国民・市民を押し込んでいく。押し込めない者は「非国民」扱いし、排除する。統制されたマス・メディアはファシズムの「生みの親」ともいえる。ナチス・ドイツでは、国家宣伝と国民指導を目的とする「国民啓発・宣伝省」が置かれたことが、そして、ファシズム日本でも、戦争に向けた世論形成と思想取締り及び国家宣伝の強化等を目的として「情報局」が置かれたことが想起される。

 ちなみに、朝日新聞の主筆を務め、朝日新聞を退社後、小磯内閣の下で国務大臣兼情報局総裁として入閣した緒方竹虎は、戦後、次のように述懐したという。

  「日本の大新聞が、満州事変直後からでも、筆を揃えて軍の無軌道を警め、その横暴と戦っていたら、太平洋戦争はあるいは防ぎ得たのではないかと考える」

  玉音放送の際の情報局総裁も、朝日新聞で専務・副社長を歴任し、日本放送協会会長も務めた下村宏であった。国によって統制されたマス・メディアは、マス・メディアを統制し、国民を指導する側に回ったのである。

 ファシズムのおそれは、決して過去のことではない。菊池事件(「菊池事件の再審をすすめる会」のHP)等を参照。)では、日本国憲法下にもかかわらず、国の誤ったハンセン病強制隔離政策を強行するための官民一体の「無らい県運動」が展開される中で、被告人がハンセン病患者だという理由で、裁判官、検察官、そして弁護人も協力して、何ら有罪証拠らしい証拠がないにもかかわらず、憲法違反だらけの刑事裁判を強行し、有罪とし、それも量刑相場を著しく踏み外して、死刑を言渡した。上訴審も、これを何らとがめることなく、維持し、マス・メディアもこれを黙示し、国民・市民もこれを傍観した。そして、同裁判が社会問題化するのを防止するために、間もなく死刑が執行された。この菊池事件で見られたのは、まさに「司法におけるファシズム体制」ともいうべき構図であった。

 国の誤った強制隔離政策のために醸成され拡大されたハンセン病差別・偏見のために、「法の支配」を大きく逸脱する国家機関。「基本的人権の擁護」を使命とするにもかかわらず、この逸脱に協力する弁護士。そして、ハンセン病強制隔離政策とそのための「無らい県運動」に関して「国策報道」を繰り広げ、ハンセン病差別・偏見の拡大に貢献し、菊池事件の死刑判決についても支持に回ったマス・メディア。「無らい県運動」の一翼を担い、患者・家族を国・自治体に密告し、社会から排除する役割を受け持ち、マス・メディア同様、菊池事件の死刑判決を支持した国民・市民。それは、戦後の日本でもファシズム体制の構図が温存されていることを如実に示すものであった。

 ファシズムのおそれは、今の日本では、減少するどころか、むしろ高まっているとさえいえる。公然とファシズム体制の良さが語られるような状況が現出しつつある。アメリカの研究によると、「決められる政治」、「もっとも効率的な政治」とはファシズムだと結論されている。今の日本のマス・メディアも、ナチス・ドイツ下の、あるいはファシズム日本下のそれに近づいていると言ったら言い過ぎであろうか。外国のマス・メディアから「権力の番犬」といわれるような状況にある。緒方の述懐は今のマス・メディアにもあてはまる。

 それでは、ファシズム体制という観点から裁判員裁判を見た場合、どのように映るのであろうか。裁判員裁判における「法の支配」からの逸脱。すなわち、日本国憲法や国際人権規約等が「法の支配」の貫徹をもっとも強く求める刑事訴訟法の原理・原則からの逸脱。そして、これを「国民世論」の名で正当化し、国民・市民を裁判員裁判に動員する。さらに、国策に沿って「国民世論」を創り上げるマス・メディアの存在。如何であろうか。ファシズム体制に見られる、国―マス・メディア-国民・市民という「トライアングル」の構図は、裁判員制度においてもより顕著となっているといえないであろうか。

003565

投稿:2013年8月14日