~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
弁護士 猪野亨
下記は「弁護士 猪野亨のブログ」記事です。猪野弁護士のご了解の下、転載しております。
最高裁は、2013年9月3日、福岡高等裁判所が一審(裁判員裁判)の有罪判決を破棄し無罪とした判決(2011年11月2日判決)に対し、上告を棄却しました。
「放火事件、逆転無罪確定へ=裁判員判決を二審破棄―最高裁」(時事通信2013年9月5日)
裁判員裁判で有罪の判決に対し、高裁で破棄、無罪とした事件で最高裁が無罪判決を支持するのは初になります。
2011年10月18日には、同じ福岡高裁で、一審の有罪判決に対し、同じように逆転無罪判決が出ていました。この判決は刑事責任能力がないとして無罪としたもので、検察側は上告を断念し、無罪が確定していました。
立て続けに一審(裁判員裁判)の有罪判決が高裁によって破棄されたことになります。
今回の無罪判決で改めて、裁判員裁判の意義が問われることになります。
一審判決に関与した裁判員が福岡高裁の無罪判決を聞いた上での感想が当時の新聞に報じられていますので、改めて見ておきましょう。
西日本新聞2011年11月3日記事
『一審で裁判員を務めた40代の会社員女性は高裁判決後、取材に応じた。「無罪になるかなと思っていた。状況証拠を重ねても被告が絶対に犯人だとは言えない。疑わしきは被告人の利益に、との刑事裁判の原則からプロの裁判官が判断したのなら仕方ない」と冷静に受け止めた。』
絶対に犯人だとは言えないと言いながら自分が有罪判決に関わったことをどのように考えているのでしょうか。この感想からはこの元裁判員は「有罪」に賛成したように見えます。自分が有罪判決に加わったという自覚と責任をどこまで感じているのか疑問を感じさせる感想です。
もともと、裁判員はお飾りという指摘もあったのですが、刑事裁判を適正化するという観点から裁判員には何らの存在意義も認められません。刑事裁判にとっても国民にとっても弊害があるだけです。
マスコミ報道では、「裁判員は難しい判断を迫られる」という表現を見ることが多々ありますが、実際には裁判員は「難しい判断」などしていないのです。
裁判員は、裁判官の誘導に従い、あるいは自分の思うままに意見あるいは感想を述べているだけであって、責任を自らに帰属させる自覚の基に発言しているわけでありません。極論すれば裁判員は単独で判断などできるはずもないのですから(そうであれば本来は「参考意見」に留まるべきものです。自分で考えたというのであれば、その判決について理路整然と自分の言葉で説明できなければならないのは当然求められることです。)、制度としては欠陥そのものなのです。
判決に責任の所在が裁判員にもあるというのであれば、判決の中に裁判員全員の名前を裁判官と同じように連ねなければなりません。
国家権力を行使するにあたっては責任の所在として担当した者を特定することは当然の要請ですが、裁判員裁判では、この点は見事なまでにブラックになっています。裁判員は責任を負わない制度であり、このような人たちが裁くのが裁判員裁判だということを認識する必要があります。
とはいえ、名前を出すなどということになれば、今以上に国民の裁判員制度への拒否反応は増大することは間違いありません。
もともと裁判員の名前を出さないとしたのは、国民が裁判員裁判を拒否しているという実態を十分に認識していからです。
「名前を出さないからね、誰でもできる判断だからね。」ということで国民を懐柔しようとしたにすぎません。
国民が裁判員になることに拒否反応を示しているのは動かしがたい現実であり、裁判員制度は即刻、廃止すべきものなのです。
投稿:2013年9月6日