~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
「法と心理学会」の一古参会員
私は法と心理学会の創立当初の時期からの会員です。「心理学者は何のために分析に精を出すのか」を興味深く読みました。学会の機関誌「法と心理」第13巻第1号には、この論考のほかに、「有罪・無罪判断と批判的思考態度との関連」というタイトルの論文が掲載されています。関西学院大学大学院文学研究科応用心理学研究センターの社会心理学の博士研究員や文学部の社会心理学の教授が執筆したものとのことです。考えさせられました。ご紹介しながら私の感想を申し上げます。
一般市民の多くは制度に消極的であることがいくつかの調査結果に出ているとし、2005年の調査で70%が裁判に参加することに否定的であり、施行が近づくにつれこの傾向はさらに強まったとしています。そして消極の理由は、「被告人の運命を決めるのは責任が重い」が75%、「素人には不安」が64%、「判断が難しそう」が46%などと高位に並んだと報告し、研究者が一般市民を対象に実施した裁判員制度に関する意識調査では「制度そのものに対する消極」がトップを占め、教育を受けた年数が短いほど自身の能力・資質に関する不安が高くなることもわかったと報告しています。
論者は、陪審制のもとで行われている「陪審員はどのような意識で裁判や評議に関わっているか」という研究を下敷きに分析をしているようです。裁判員の個人特性が評決の判断に及ぼす影響に焦点をあてたいが、わが国にはデータがほとんどないので意思決定の実験を踏まえた分析を行ったと説明しています。
論者は、妥当な判断を下すことに関連する個人要因として、「批判的思考態度」を取り上げます。それは証拠の分析、問題解決、意思決定などの高次の論理的思考で、自身の推論の過程を意識的に吟味し、「信念」で結論を固めてしまわない柔軟な姿勢を言うものらしい。市民1500人を相手に批判的思考態度を測定したところ、高学歴の人ほど得点が高かったという別の学者の報告をも踏まえ、論者は批判的思考態度が刑事裁判の妥当な判断に大きく関連すると推論し、また、情報の取り入れ方の個人差として、ストーリーを追うものと証人や被告人などの人自体によるものとがあり、前者の方が適切な評議を導くのに効果的だという陪審評議研究を引いています。
この分析を前提として、論者は批判的思考態度が高い人は公判で得られる情報をストーリーで自身のものにする一方、批判的思考態度が低い人は公判で得られる情報を人を見て判断する傾向が強いという仮説を立て、大学生144名を対象とする公判シナリオを使った実験でその仮説を検証します。
覚せい剤密輸の事案で、怪しげな人たちの怪しげな行動が続くが、しかし確かな証拠が乏しいという事件のシナリオを読ませて有罪・無罪の判断を求めたところ、有罪が67名、無罪が77名だった。詳しい説明は省略するがおおむね仮説が支持され、無罪とした人の方が有罪とした人よりも批判的思考態度が高い傾向があり、バイアスのかかった情報に流されずに妥当な判断を行うには、論理的な思考への自覚や客観性を重視する態度が重要だということになりました。
論者はまた、論理的思考や心理学的知識に加えて法的知識も欠かせない要素だと指摘し、裁判官が法律に関する説示を丁寧に行い最低限必要な知識を裁判員に伝えた上で評議を開始するような工夫が求められるとしています。
さらに、批判的思考態度の得点が低く有罪判断をした人の判断理由には「おかしい」「不自然」といった主観的な表現が多く、それが妥当な判断を妨げているとした上で、しかし最高裁は「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します」というような「司法への主観の持ち込み」を認めているとし、客観的判断と主観的判断の相互関係について制度設計に関わる法曹界と心理学などの関係分野の専門家が議論を深める必要を指摘しています。
論者のまとめは「有罪・無罪の判断に影響を及ぼす個人要因として批判的思考態度に注目し、批判的思考態度と有罪・無罪判断の組み合わせによって判断理由の特徴が異なることを示した。法曹にとっても一般市民にとってもこのような特徴を知ることは有意義であろう」というものです。そして今後の展望として、裁判官と裁判員の評議により評決が下される裁判員制度の特徴を考えると、裁判官と裁判員の関係性(影響)を検討してゆく必要が大きいとも指摘しています。
私の不十分なご紹介はこれで終わりです。裁判員制度についてよく理解できていませんし、その良し悪しもはっきり言えない私ですが、読後感をひとことで言うと、心理学者の皆さんはどうして裁判員制度の表層部で考えるのだろうということです。
論者は、「一般市民が抱く不安を低減し、制度が受け入れられる土壌づくりを進める必要がある」と言います。一般市民はなぜ裁判員制度に不安を持ち厳しい評価をするのかという点に、専門家としての関心をどうして向けないのでしょうか。心理学という学問は、ものごとの本質を考えることよりも、ある方針が示されるとその方針の実現のためにどうするかを考える科学なのだと言ってしまえば身も蓋もありませんが、こういう論文を読んでいるとついそんな感想をいだいてしまいます。
論者の指摘を私なりに整理すると、「裁判員裁判では批判的思考態度が求められる。それが低いと有罪に流れる危険がある」というものです。それはきっとそうなのでしょう。しかし、実際の裁判員たちは無作為に選ばれた市民によって構成されていますから、批判的思考態度の高い人も低い人も社会的分布の実情に比例して参加することになります。それが裁判員制度の本質的特徴の筈です。制度を作った法務省や最高裁などがそれでよいと言っていることを論者はどう考えるのか、そこに焦点をあてないのが私には不思議で仕方がありません。
法律知識を相応に持ち批判的思考態度が高いと思われる一定の職業の人々について裁判員法は裁判員になることを禁じる一方、「私の感覚」での参加を推奨していることからすると、この制度のもとでは批判的思考態度なるものは、重視されていないか相対的に軽視してよい要素とされていると見た方がよいでしょう。
心理学者の皆さんには、裁判員制度の現実に即し、そして何よりも検討することに意味のある議論をしてもらいたいものだと思います。
投稿:2013年12月5日