~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
弁護士 三ノ窓
本年1月29日の読売新聞では、1面トップで、検察官の求刑を超える判決が裁判員裁判で急増していると報じられました。従来の裁判では年平均2〜3件であったものが、裁判員裁判では既に50件というのですから、確かに、ただ事ではありません。早速、全国の各地裁では量刑評議のあり方に関する検証が始まったと言われます。
ところで検察官の行う「求刑」ですが、もともと刑事訴訟法にそのような制度が直接定められていたわけではありません。求刑とは、刑事訴訟法293条に「証拠調べが終わった後、検察官は、事実および法律の適用について意見を陳述しなければならない」とあり、ここで言う「意見」の一環として慣例的になされてきたものでして、従来から、裁判官は求刑に縛られるものではなく、求刑を超える判決も違法ではないという最高裁判例は1950年代に早くも登場しています。
「求刑」がその程度のものであるならば、「求刑」を超える判決があったとしても、別にあまり問題ないのでは、と思われるかもしれません。しかしながら、従来の実務上、「求刑」は、量刑の上限を画する機能を長きにわたり担ってきました。筆者の弁護例では、検察官が求刑のミス(法定刑を超える求刑であったり、罰金を併合するのを忘れていたり…)をしたため、裁判官がその訂正を求める、という場面を何回か経験したことがあります。このような、裁判官による訂正要求など、訴訟法のうえでは全く不要のはずですが、裁判官の心理としても、「求刑」は「量刑の上限」という意識があってこそ、かかる措置に出ていたのでしょう。
このような経過もあり、裁判員制度実施前は求刑超えの判決というのは、レアケース中のレアケースで、むしろそのような判決は刑事訴訟法の当事者主義に反するのではないかという議論もあったと思います。
ところで、裁判員裁判ですが、制度設計の段階から、裁判員の量刑関与の是非は議論の一つでした。制度反対論者は、裁判員の当たり外れで被告人の量刑に不公平が生じる点を懸念していました。
結局、立法の段階では、健全な国民常識を直截的に司法に反映させる以上、量刑にも裁判員を関与させるべきだということになりました。量刑の不安定性に不安はあるものの、「裁判員裁判においては、量刑にも国民の視点や感覚が反映されることになる結果、最終的な量刑は従来より重い方にも軽い方にも広がることが当然に想定される」として、量刑のバラツキは裁判員裁判ではやむを得ないものとして、最高裁もこの点はいったん開き直ったのです。
こうした開き直りにも関わらず、裁判所は、制度実施前時になるや、従来の判例から導かれる「量刑データベース」なるものを作成します。こうした最高裁の動きに対しては、「オイオイ、国民の感覚の反映ではないのかよ」との皮肉も聞かれました。
そして2009年5月の制度実施。やはり始めてみると、裁判員裁判の量刑はバラバラです。「軽の上限を画する」機能を果たすべき「求刑」超えの判決も多数出てきました。こうなると、どうしても黙っていられないのが最高裁。2013年10月20日には、司法研修所から「裁判員裁判における量刑評議の在り方について」(法曹会)との本を出させました。この本の趣旨は、「量刑を決めるのが裁判員であるとしても、『量刑の本質』に関する判断はあくまでも裁判官の専権事項であり、この点はむしろ裁判官から裁判員に一方的な説明をしてもよい」、というところにあります。つまり、裁判員に一応は量刑判断をさせてやるのだが、その基本となる考え方は官の方で決めますよ、というもの。
そこまで言うのなら最初から裁判員に量刑判断をさせる意味はないのでは?と考えるのは筆者のみではないでしょうが、最高裁は、ともかくも、このような考え方を全国の裁判所に周知せしめたはずです。
にもかかわらず、やはり減らない求刑超えの判決。「あんな本まで作って配っているのにオマエら何をやっておるか」との最高裁の号令のもと、全国の地裁で検証を実施することになった…というのが冒頭の読売記事の実態と思われます。
「国民の視点や感覚を」と言ってみたり、「量刑の本質に関することは官が決める」と言ってみたり、迷走を続ける最高裁はいったい何をしたいのでしょうか。
裁判員裁判により国民に参加してもらった形は整えたい、しかし、従来の枠組みを壊すような判決がぽこぽこ出てきては困る、では評議で国民をうまく説得できるようにスキルを磨こう…そんなところなのでしょうか。
まさに形だけ、参加したことにさせられている国民はたまったものではありません。もちろん、裁かれる被告人も。
投稿:2014年2月1日