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「市民感覚」ってなんだろう

マネージャーが新聞のスクラップを整理しながらため息をついている。「ため息つけば幸せが逃げるって言うよ」というと、「ため息つけばそれで済む♪という歌もあったわよ」と切り返してくる。まったく…何を見ているのかと見出しをのぞくと「裁判員裁判 死刑 市民感覚か判例か 2審で無期相次ぐ」(5月15日付け『毎日新聞』)。読書うさぎ
やれやれ、またもや市民感覚ですか・・・

開かれた法廷:裁判員5年 死刑、市民感覚か判例か 2審で「無期」相次ぐ
 毎日新聞 2014年05月15日 東京朝刊
◇遺族「バランス重視、おかしい」
 裁判員裁判で出された死刑判決を、裁判官だけの2審判決で無期懲役に減刑する。そんなケースが、昨年から今年にかけて3 件相次いだ。被害者遺族からは「市民の判断を尊重すべきだ」との声が上がり、検察もうち2 件について死刑を求めて上告した。悩み抜いた末に市民が下した極刑の判断を、どこまで尊重すべきか。司法に根源的な問いが突き付けられている
「本当に日本の司法はこれでいいのか、一緒に考えてほしい」。3 月29日夜、兵庫県明石市で開かれた講演会。約120人の参加者を前に、Oさん(61)が悲痛な声で訴えた。千葉大4年生だった長女(当時21歳)は、2009年10月、千葉県松戸市のマンションの部屋に侵入した男に刺されて命を奪われた
事件は裁判員裁判で審理された。強盗殺人罪などに問われたK被告(53)に対し、千葉地裁は11年6月の判決で「犯行は執拗(しつよう)で冷酷非情。殺害被害者が1人でも死刑が相当」と極刑を選択した。だが、2審・東京高裁は昨年10月、判断を覆し「殺害被害者は1人で、計画性もなかった」と減刑した
死刑か無期かの判断は「究極の選択」と言われる。裁判員制度導入に際しても「市民に極限の判断をさせていいのか」との議論があったが、「市民が加わった判断だからこそ説得力がある」との意見が勝った
最高裁は1983年に「永山基準」と呼ばれる死刑の判断基準を示している。被害者の数を重視し、殺害された被害者が1人の場合は死刑が回避される傾向にあった。だが、K被告の裁判を担当した裁判員は判決後の記者会見で「永山基準にはこだわらなかった」と明かした。「これで良かったのか」と男性が自問する一方で、女性は「悔いはない」と言い切った
裁判員の死刑判断が減刑された例は他にもある。殺人罪で服役し出所半年後に東京・南青山で男性を殺害した罪に問われたI被告(63)、長野市で一家3人が殺害された事件で起訴された被告(38)=弁護側が上告=のケースだ。K被告とI被告のケースで上告した検察は、「裁判員の健全な社会常識が反映された意見が尊重されるべきだ」と強調する。最高裁も12年2月に「高裁は裁判員の判断を尊重すべきだ」との判断を示しているが、ベテラン刑事裁判官の中には「被告の生死を左右する判断は、判例とのバランスも重視せざるを得ない」との声もある
oさんは講演で「裁判員は友花里の無念と私たちの心情を分かってくれた。しかし2審はたった1回で結審し、判例との均衡を理由に減刑した。被害者が1人で計画性がなければ死刑にならないという判例自体がおかしい」と問いかけた
重視すべきは市民感覚か、判例か。被害者遺族や裁判員経験者らが、最高裁の判断を注視している。【伊藤一郎】

記事は「重視すべきは市民感覚か、判例か。被害者遺族や裁判員経験者らが、最高裁の判断を注視している」という言葉で結ばれていますが、さて….067826

極刑を求めるご遺族が死刑を回避した控訴審を非難する。その心情についてここで論評するつもりはありません。ご遺族のつらさや苦しさは当事者でなければわからないものがあるでしょう。考えたいのは、「市民感覚」という言い方や見方についてです。

裁判員制度は市民感覚を司法に導き入れるものだとやたらに言われました。しかし最高裁はそのようなことはまったく言っていません。最高裁は「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します」っていう公募標語をあちこちで使っていますが、最高裁発のメッセージのどこにも「市民」は登場しない。法務省も同じです。ウソだと思うなら最高裁や法務省のホームページをご覧ください。「市民」も「市民感覚」もひとことだって出てきませんよ。

こういう説明を大展開したのは、マスコミ・革新政党労働組合・そして日弁連です。「市民参加乾杯」だの「市民感覚万歳」だのとはしゃぎまくり、お祭り騒ぎをしました。その結果、裁判員制度は「市民による市民のための市民の裁判」みたいな空気が作られた。それこそ完全な虚妄、アベノミクスならぬサイバノミクスですね。最高裁・政府は「しめしめこれで行けるぞ」って思ったでしょう(実際にはそうは問屋がおろさなかったけどね)。

で、みんなが「市民感覚」の舞台の上で踊り出すことになった。踊りの列がどこに向かったかと言えば、皆さまご承知のとおり一気に厳罰化の流れです。よってたかって重罰要求の嵐。法廷で「その言い方が気に入らない」と被告人にくってかかる裁判員や「死刑判決に関われてよかった」などと感想をのたまう裁判員も登場した。「市民」によって支えられている裁判員裁判のこれが実相です。マスコミや革新政党や日弁連の責任はそれこそ罪万死に値する。「決まっちゃったものを批判しても仕方がない」って言ったと籾井さんとやらを批判するマスコミがいるけれど、裁判員制度について皆さん自身そう言ってるじゃないですか。どうです『朝日』さん、何か言うことありませんか。

話を戻します。「市民感覚」っていったい何でしょう。みんなが「あいつは悪いやっちゃー」って大騒ぎする感覚のことですか。ネットを見たら、市民感覚というのは「犯罪名がつくと途端に悪と捉え、貴重な税金を使っていることを忘れ、一部の勢力に利用されて結論に責任を持たず、目前の事象にとらわれ一部の局面で物を判断し、一方周りの意見に左右されやすい」ものだというような説明がありました。なるほど。0678261

市民感覚を考えるときにどうしても触れたいのは、再審無罪判決や再審決定などが続く最近の動きを「市民感覚」の勝利などと言う人たちが今でもいるということです。警察・検察の証拠隠しや証拠ねつ造が国民から厳しく批判され、裁判所の有罪推定と捜査擁護の思想が国民から糾弾され、ごまかしきれずに無罪が言い渡されるようになった(国家権力とたたかう国民が勝ち取るようになった)。それが真実のすべてなのに、「市民感覚」を積極的に評価する言葉でこの動きを飾り立てる。それでは正しい裁判批判や刑事司法批判に決してならない、刑事司法の根本的な悪らつさを覆い隠すものだと思います。

整理すると次のとおりです。「市民感覚」はとんでもないお先棒担ぎの民製用語である。「市民感覚」の実際はひたすら厳罰を要求する「特異の市民の感覚」である。だから、『毎日』のむすび「重視すべきは市民感覚か、判例か。被害者遺族や裁判員経験者らが、最高裁の判断を注視している」は、正しくは次のように言い換えられなければならない。「重視すべきは重罰を求める感覚か、さまざまな要素を総合的に判断する見方か。多くの国民が、最高裁の判断を注視している」。どうですか、記者の伊藤さん。013293

 

投稿:2014年5月18日