~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
ストレス多い裁判に関わっている一弁護士
裁判(員)ゲームを作った大阪の弁護士の話を読んで、その発想のそのルーツと言ってもよい本のことを思い出した。それは『裁判員をたのしもう!』という本である。裁判員制度に関する本をたくさん出している「現代人文社」が、裁判員裁判開始直前の2009年3月に出版したものだ。
「裁判員をたのしむ」と言うのだから、裁判員の楽しみ方を知る人が楽しみ方を(あまり)知らない人たちに教えてくれる本ということになる。だが、山登りを楽しむとか、絵を楽しむとか言えば、門外漢でも多少の想像はつくけれど、たいていの人にとっては「裁判員を楽しむ」と言われても「多少」の想像もつかない。私の周囲の市民は、私が「裁判員」のことに触れると、ナメクジを見たときのような顔をする。
とすると、この本は、多くのみなさんは誤解しているが、裁判員というのはホントはとても楽しいもの、食わず嫌いはもったいないという展開になる必要がある。本の冒頭に山の写真を並べたり、お花畑に立つイーゼルや画材のグラビアを置いたりするように、裁判員ってこんなに楽しいということをリアルに示すことが何よりも大切だろう。
この本は、しかしそんな内容にはまるでなっていない。裁判員をたのしむためのウォーミングアップは、傍聴に行くことと小説・マンガ・映画・ゲームソフトから学ぶことだという。次に、たのしむ「最低限の予備知識」として、裁判員裁判に登場する人物(裁判官や検察官・弁護人のこと)と刑事裁判の全体像(呼び出しから評議までの流れ)を知る必要があるという。そして検察官・弁護人が事前準備することを知りなさいと来る。で、評議には良い評議と悪い評議があるという話になる。それこそ、宮沢賢治の『注文の多い料理店』のようだ。よくよく勉強して自分のからだに塩をすり込んでからでないと裁判員を楽しんではいけないと言っている。で、裁判員をたのしむ最後の予備知識は裁判官の決めぜりふに負けるなということだと。なんのことだ。
裁判傍聴が「とってもオススメ」、よくわからない用語・裁判の流れ・裁判所の雰囲気に慣れておくと評議にも集中できる…。そんな言葉が並ぶが、裁判のリアルを知るとどうして「裁判員をたのしめる」ことになのかという話の本筋がまったく出てこない。知れば知るほど深刻な現実が目の前に広がるばかりではないのか。どうしてそれがたのしい経験に変わってゆくのか。
小説・マンガ・映画・ゲームソフトから楽しみ方を学ぶという物言いもひどく怪しげである。裁判をテーマとする古典的名作があり、不朽の名画も確かにある。私は裁判物の小説や映画は実際大好きだ。だが、それらの作品に目を通すことで裁判員裁判を知るきっかけにしようと言っているのは、つまり現実をドラマ仕立てで見て行こうということなのだろう。
現実の裁判を現実のものとしてではなくドラマのように受けとめればおもしろくなってくると言うのだとすれば、それはとんでもない了見違いである。市民が遠山金四郎や大岡越前になったつもりで本物の裁判に臨んだらおもしろくなるだろうという言い方は、刑事裁判の現実を冒涜するものと言うほかない。お芝居と実際は「100%」世界が違う。
この本は、最後に、「あなたにもできる 裁判員をたのしむための7つのヒント」という章を設けて、次のようなことを言う。
① ファッションにこだわろう 判決日は被告人の運命の瞬間に立ち会うということから、若干ビシッとした感じで。少し固めでキメてみる。自分で作った「法服」を着ると裁判員としても気合いが入るのかも知れません。
② 食堂探検をしよう 裁判所職員のオフ姿を眺めながら食事をするのも楽しい。
③ 仲良しになろう 休憩のときにお茶を飲みながら、皆さんの住んでいるところや家族構成など、軽く聞いたりしてみると、見た目からはわからない情報が引き出せる。
④ 積極的に質問しよう 一見、事件に関係ないかもと思うような質問でも、自分にとって重要だと思うのであれば、思い切って質問して下さい。
⑤ 裁判が終わったら飲みに行こう 判決後は修学旅行の後のような、部活を引退するときのようなアツい連帯感と感動が生まれる可能性も。機会があれば飲み会をするぐらいなノリで、気の合いそうな裁判員を誘おう。
⑥ 報道を見てみよう 事件に関する報道の内容と自身の見聞きした内容が合っているかどうかをチェックしよう。
⑦ 体験記を書こう 裁判官がどのように評議を進行させたか、自分自身がどう考えたかを公表することは何ら問題にならない。
これが裁判員をたのしむためのヒントなのだそうだ。何という空疎さ、何と言う低劣さ。なお一言指摘すれば、「裁判官がどのように評議を進行させたか、自分自身がどう考えたかを公表することは何ら問題にならない」というのは間違いとされるだろう。そのようなことは評議の秘密を直接間接に暴露するものになるはずである。
裁判員として刑事裁判に参加することが現代に生きる市民にとってかつてない深い意味と価値があるのだというのなら、そのことを正面からきちんと言い、そしてその歴史的経験は深い意味で「楽しい」ことではないかと言うべきだろう。
ファッションや食堂探検や飲み会を楽しむレベルでしか、裁判員や裁判員裁判の楽しみを語れないところに、この本の救いがたいくだらなさがある。だが、このことはこの本の製作に関わった人たちの低レベルに起因するのではなく、この制度を推進している勢力の本質的なでたらめさ・退廃に起因していると言うべきだろう。推進している人たちはどう頑張ってもこの程度のものしか作れず、この程度のことしか語れないのである。
その後この本が増刷を重ねているのか、それとも
それっきりになってしまったのか、私は知らない。
投稿:2014年7月3日