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裁判員の暴走への歯止めになる? 最高裁 量刑不当を是正

弁護士 猪野 亨

下記は「弁護士 猪野亨のブログ」7月25日の記事です。
猪野弁護士のご了解の下、転載しております。

  最高裁は、大阪地裁の裁判員裁判によって求刑の1.5倍もの懲役刑を科した判決に対し、量刑不当を理由により破棄しました。
最高裁平成26年7月24日判決

幼児を虐待し、その結果、幼児が死亡した事案(但し、暴行と死亡との間の因果関係は争われた)であり、その内容自体は非道そのものといえます。
仮に死亡との間の因果関係がなかったとしても1歳8か月の幼児に暴力を振るうという、とてもではありませんが人としての所業ではありません。
この裁判員裁判を担当した裁判員が何故、傷害致死で殺人ではないのか理解できなかったという感想を述べていますが、この点は私も同感です。
幼児を殴れば死に至る危険性は極めて高い行為であることを考えれば、その行為には客観的には幼児に対する死を招来することを認容している(殺人の故意があるということ)と評価すべきではないかということです。
近時、幼児などを自宅に置き去りにして外出し、餓死させた親に対する刑事責任では、従来であれば保護責任者遺棄致死罪に問われていたものが、死への認容があったということで、殺人罪に問う流れが出てきましたが、それ自体は当然かと思います。
但し、従来の量刑との比較の上で量刑を決めなければ、それはそれで問題があります。
虐待の結果が「致死」なのか?

大阪地裁の裁判員裁判は、求刑懲役10年に対し、懲役15年。
そのときの理由が「児童虐待は大きな社会問題で今まで以上に厳しい刑罰を科すべき」というもので、まさに感情的ともいえる理由で求刑を大幅に超える判決となっていました。
まさにこれこそが裁判員裁判の結論というべきでしょう。
しかも、この間、最高裁は一貫して上級審の審理の在り方としては「裁判員裁判の結論の尊重」という姿勢を示していました。その結果、上記大阪地裁裁判員裁判の上級審であった大阪高裁も被告らの側の控訴を棄却していました。
最高裁は、この量刑判断に一定の歯止めを掛けたものとということになります。
これまでの傾向を変容させる意図を持って量刑を行うことも,裁判員裁判の役割として直ちに否定されるものではない。しかし,そうした量刑判断が公平性の観点からも是認できるものであるためには,従来の量刑の傾向を前提とすべきではない事情の存在について,裁判体の判断が具体的,説得的に判示されるべきである。
原審裁判員裁判では、この「具体的、説得的に判示」されなかったということで破棄されたのですが、よほど「具体的、説得的に判示」しない限りは大幅な重罰化は是認されない、この結論自体は当たり前のものです。

しかし、他方で、最高裁は裁判員裁判の「裁量」のような幅を認めたということでもあります。
本来、同種の犯罪行為に対する刑罰は平等でなければならないし、個々の裁判官の判断においても追求されてきたことでした。現実にはデコボコが生じていたとしても、それで全く問題なし、当然のことだとしていたわけではなく、できるだけデコボコにならないような姿勢が裁判官にはあったのです。
これは当たり前のことです。あたる裁判官によって量刑がバラバラであれば被告人自身が到底、納得できるものではないし、適正手続き(憲法31条)、法の下の平等(憲法14条1項)の観点からも問題だからです。

最高裁は結局、裁判員裁判によってデコボコが生じるような量刑を是認したということになります。
さらには、理屈上の上では、「具体的、説得的に判示」すれば大幅な量刑超過も是認しうる余地を残したということでもあります。

これが死刑判決になると、もっと大きな問題が生じます。
死刑は究極の刑罰であり、その死刑を選択するにあたっては裁量の余地(本来は無期懲役なのに死刑にすること)などあってはならないのです。
最高裁の判断基準「永山基準」はその意味では死刑制度を前提とする限りは、基準としては当たり前のものです。
ところが、現実の裁判員裁判では、過去の前例などものともせず、永山基準など知ったことじゃないとという感想を述べる裁判員が出てきていることも憂慮すべき事態です。
守秘義務があるからそれ以上はいえないことになりますが、このような感想を述べた裁判員が死刑を選択したことは明らかです。
高裁で死刑判決が破棄され、それが確定した事件もあることを考えると、裁判員の判断は、明らかに暴走しつつあります
死刑が究極の刑罰であることを考えれば、どの裁判員に当たるかによって死刑か無期かの差が出ることを是認できるはずもないのです。
それでも今回の最高裁判決は理屈上の上では、裁量による死刑を認めることへの布石にもなりうるものです。
現在、死刑か無期かで最高裁の判断待ちの事件(裁判員裁判では死刑、控訴審が破棄し無期懲役判決)が複数、あります。最高裁の姿勢が問われるところです。

 さて、この最高裁判決に対し、インターネット上では、非難囂々です。
その視点は、裁判員制度の意義を否定している、だったら裁判員制度など廃止してしまえ、という類のものです。
制度の廃止自体には私も異論がありませんが、その理由は暴論そのものです。

 市民感覚といってみたところで、クジでたまたま選ればれたに過ぎない裁判員の「感覚」だけで量刑が決まるようなシステム自体が異常だし、その「感覚」だけの結論でいいんだと言ってしまえること自体が恐ろしいとしか言いようがありません。
これでは人民裁判そのものです。
かつての革命後の中国において、地主などに三角帽子を被せ、「人民」が地主打倒を叫び、処刑していったことと同じ光景にしかなりません。
この被告人は感覚的に悪いやつだから厳罰にしてやれでは、この人民裁判とどこが違うといえるのでしょうか。
現代における法治国家であれば、量刑の引き上げは、立法政策に属するものであって、そこで量刑を審議し、立法政策として行われるべきものです。
自動車事故による厳罰化などは、その一例です。
法治国家日本が、裁判員制度のようなもの(特に量刑判断を素人にさせている点)を実施していること自体、恥と知るべきです。裁判員制度は廃止あるのみです。

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投稿:2014年7月26日