~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
季節は真夏になったが、鸚哥大学の研究室の中はまだ夏休みに入っていないようで…
先輩、先輩。「超えるか超えぬか 最高裁はどこに行く」で、求刑1.5倍の下級審判決を最高裁が見直すっていうことになりましたよね。「『いま、最高裁は語りはじめます』ってか?!」から続いてきた「天城超え」じゃなかった、「求刑超え」見直し判決。とうとう最高裁の判決が出たんですね。
裁判員裁判が始まった翌年の2010年、1歳の娘さんに暴行を加えて死亡させたとして、傷害致死の疑いで両親が逮捕・起訴された事件。30歳の父親が娘さんの頭を叩くなどして死亡させ、実行行為に加わっていない母親も同罪だとされた事件ね。
うん。1審大阪地裁は、「暴行は殺人と傷害致死の境界線に近い」と認定、「虐待事件には今まで以上に厳しい罰を科すことが児童の生命を尊重しようとする社会情勢に適合する」と厳しい理由を付けて、検察官の求刑懲役10年を5割超える懲役15年の判決を言い渡した。実行行為に加わっていない母親も15年だった。
判決後の共同記者会見に臨んだ裁判員が厳しい処断は当然と言い切ったことが注目されたんでしたっけ。
そうそう。そして 両親は控訴したけれど、大阪高裁は地裁の判断を妥当だと言って控訴を棄却。納得しない2人は最高裁に上告して、今回の判決になった。
この事件、両親とも、もともと量刑不当の以前に事実認定そのものに誤認があるとして無罪を主張していたんでしたよね。
そうなんだ。マスコミはほとんどそのことを紹介してないけれど、この事件はもともと無罪が争われた事件だった。量刑の問題は「仮に有罪だとしても刑が重すぎる」っていう、被告人・弁護側とすれば、いわばつけたしの論争だったんだ。しかも、最高裁では父親は自分は暴行を加えていないという主張しかせず、量刑不当は主張もしなかったようだ。
そこって気になります。その点について裁判所はどのような姿勢を取ったんですか。
一審も控訴審も無罪主張を一蹴したね。最高裁ももちろんそうさ。もちろんというのもおかしいがね。
さぁ、裁判員裁判の求刑超えの量刑判断に関する最高裁の判断を説明して下さい。できるだけ裁判員の判断を尊重しろって言っていた最高裁は今度はどう言ったんすか。
いや、この間聞いた言ったばかりっす。裁判員の判断を尊重しなければならない制度推進側の姿勢としては、重い判決を求める裁判員たちの要求を簡単に切り捨てる訳にもいかず、かと言ってなんでもかんでも天の声と持ち上げる訳にもいかないって。
そう。最高裁自身、「よほど不合理でない限り、裁判員裁判の判断を尊重すべし」と言った(2012年)その年のうちに「裁判の結果は総体としてみればこれまでの裁判と極端に異なっているわけでもない」と報告したりしている(裁判員制度実施状況検証報告書)そんなありさまだからね。
国民参加を実現しようとして無理無理言った言葉と、国民動員政策というホンネのはざまで揺れまくってるっていう感じかしら。
最高裁は、5人の裁判官全員一致で、原判決(つまり控訴審判決)と一審判決を破棄した。理由を簡単に言おう。「量刑判断はこれまでの量刑傾向を視野に入れて判断することが大切であり、それは裁判員裁判でも同じこと。裁判員制度の導入でこれまでの傾向が変わることはあり得るが、他の裁判の結果との公平性が保たれていなければならず、評議の出発点はあくまでも過去の量刑傾向」。
「よほど不合理でない限り」って言ったけど、実際には過去の判断が結構硬い基準なんですね。
そう、続けるよ。「判断を変える時は変えるべき事情を具体的、説得的に示さなければならない。本件の一審裁判員裁判は、検察官の求刑を大幅に超える量刑について具体的で説得的な根拠を示しておらず、その量刑判断は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」。
うへーっ。「具体的で説得的でなければならぬ」なんて言われたら、たいていの裁判員は「それ無理です。私、直感派だもん」なんてなるんじゃ…。
「量刑判断は甚だしく不当」とか「破棄しなければ著しく正義に反する」なんて言われたら、「怖い、怖い。結構です、私もうやりません」っていっせいに言い出すかもね。
父親は懲役10年。母親は実行行為に関わっていないとして懲役8年。白木勇裁判長が補足意見を書いている。これも裁判員に極めて厳しい。「量刑は裁判体の直感で決めてはいけない。客観的な合理性が必要」。
あちゃー、裁判体かプリン体か知らんが、裁判員としてはやってられんわ。いくら1万円くらいも貰えたって、甚だしく不当とか著しく正義に反するとか、叱られるために裁判所に行くんじゃ、やってられません。
白木裁判長は、裁判官にも厳しいメッセージを突きつけている。いや、「裁判官にも」なんていう言い方は生ぬるい。この判決は裁判官に対する通告判決とも言うべきものなんだ。「裁判員裁判を担当する裁判官は、量刑の判例や文献を参考に評議の在り方を日頃から研究して考えを深め、個別の事案に即して裁判員に丁寧に説明し、その理解を得る必要がある」ってね。
そうさ、白木裁判長はまだ言う。「同種事案の量刑傾向を考慮に入れることの重要性は裁判員裁判でもまったく同じ。そうしなければ量刑の評議は、合理的な指針のないまま直感による意見の交換になってしまう」「評議の適切な運営は裁判官の重要な職責である」。
わちゃーっ。これって、裁判員裁判の在り方を大きく変えろって言ってるのと同じでは。
それは違う。裁判員裁判はもともと、そうもともとだよ。こういうものとして設計されていたのです。でも国民の関心を引きつけようとして、「国民の視点」だの「あなたの感覚」だのと、とってつけたような飾り言葉を使いまくった。つまりデコレーションさ。
でも、最高裁は、この制度が政府の審議会で確定するまでの間、一貫して国民の判断能力の低さを強調し、仮に判断を言わせることにしても評決権は与えるべきではないなどと言いまくっていた。その最高裁が突然裁判員制度に賛成した。豹変の背景には、裁判官が裁判員を正しく指導することにより、この制度を国民の司法教育の機会に使えるという、まったく新しい発想に急転換したことがある。
直感で判断する国民が多いだろうということは、最高裁ははじめから十分計算していた。そして裁判官が判断能力の乏しい国民を善導するっていうことをはじめから予定していた。「裁判官が3人いるだろ、6人の国民を指導することはできるはずだ」ってね。ここで「指導できる」っていうのは、「指導しなければならぬ」というのとあまり違いがないんだけど。なんてったって、自分たちは三宅坂。現場で苦労するのは兵隊の裁判官たちだからね。
たいへんですよ。でもこれがもともとの姿。少しも驚くようなことじゃござんせん。驚いているのは最高裁のホンネを聞き漏らしてデコレーション言葉を真に受けた人たち。あわてているのはホンネを聞いていたのに聞いていなかったようなふりをしている人たち。
新聞をみると「元裁判員 不満の声」とか、「市民感覚との調和必要」とか、「市民感覚どう生かす」とか、今回の最高裁判決にうろたえ、とまどうマスコミの姿勢がにじみ出ているようね。7月28日の『読売』の社説なんて、あっちも大事、こっちも大事、みんな大事なんて、なに言ってんだかっていう内容でしたよ。
そう言えば、26日の『朝日』には、「裁判員判決の見直しはおかしい」っていう投書(福岡県主婦57歳)が載ってました。「制度に関心があって、勉強会や模擬裁判に何度も参加してきた。幼い娘への両親の傷害致死には重罰が与えられるべき。国民視点を生かすこの制度は何のためにあるのか」。
制度の提灯を担いだマスコミやこの制度で私も一言なんて気張った向きの人たちとしては、そりゃそうだろう。でも本当のことを言うと、おかしな話だけどいちばん困っているのは最高裁と政府だよ。
最高裁や政府は量刑問題で国民がこんなに重罰指向に走るとは思っていなかったんだろうね。国民は暴走してしまった。そりゃ、普通の国民はもう裁判所に容易に近づかない。正確に言えば暴走するような人たちだけが残ってしまった。自分こそが悪者を成敗してやるなんて突っ走る手合いが多くなってしまったんだよ。
ここはやはり手綱を締めないと司法内部が大混乱する。いゃ、もうしっかり混乱しているが。ここは何としても裁判員制度の狙いを現場の裁判官にきちんと伝えざるをえない。先例重視の高裁裁判官たちは冗談じゃないと怒っているし、地裁で裁判員に向かい合っている裁判官たちは彼らに迎合して暴走を押さえられないでいる。恰好なんかつけていられない。
でも、この手綱引き締め策は、確実に裁判員参加の意欲を大きく減殺させる。やりたくなかった人たちはますますやりたくなくなる。これまでやったろかと気負い込んでいた人たちもどうせひっくり返されるなら、もうやらんとなる。インコは、今回の判決で、参加したくない派が5%増え、参加してもよい派が5%減ったと断言する。
あのー、先輩。何%って今おっしゃいましたが、参加したい派はもういくらも残りがないんすが…。
そう、それこそ残り時間が本当になくなってきたということだな。さぁ、どうだった、インコの量刑超え物語の連続3話は。羽をふるって皆さまのご期待を超える分析をしたつもりだが、さてインコの労を労ってお茶にしますか。
投稿:2014年7月28日