トピックス

トップ > トピックス > 「裁判員制度と死刑」のなんだかよくわからないお話

「裁判員制度と死刑」のなんだかよくわからないお話

 8月30日と31日、京都府亀岡市の大本教みろく会館において、「第24回死刑廃止運動全国合宿」が開催された。この合宿は、死刑廃止運動に関わっている人、死刑廃止に関心のある人が一堂に集まって、ディスカッションを行うというもので、毎年1回秋(今年は特別早かったらしい)に行われている。もみじ上

 例年、初日の午後は一般公開の集会、夕食をはさんで18時半から全体会、分科会とその後に徹夜組も出る交流会、翌日午前中に分科会報告と全体会が行われ、正午で解散
 
インコのマネージャーは毎年参加している。

 今年の公開集会のテーマは「裁判員制度と死刑-裁判員経験者からの提言」、田口真義氏(裁判員経験者によるコミュニティ発起人)と堀和幸弁護士がそれぞれの立場で発言し、4つの分科会のうち1つがやはり「裁判員制度と死刑」というテーマだったらしい。

 マネージャーの報告では突っ込みどころ満載。ということで、田口氏の講演をインコ突く(青字が田口氏発言、インコは黒太字)。もみじ中 

「執行は非常にショック。退任直前執行に憤慨する。抗議文が激しすぎると支援者に評された」←廃止ではなく一時執行停止を主張しているのだなどと強調しているが、「非常にショックで憤慨している」のになぜ死刑即刻廃止要求を主張の柱にしないのか。

「自身が裁判員裁判に関わって被告人席をみたとき、自分もいつでも被告人になる可能性があると感じ、被告人に同化した。寛容な社会への取り組みを模索している」←裁判員裁判の評価という基本的な問題からどうして目をそらすのか。修復的司法はいま論題ではない。

「2010年12月、最高裁に同じ事件の裁判員経験者同士の連絡先斡旋を申し入れて実現してもらった」←そのもくろみが実現したこと自体、田口氏の行動を最高裁が歓迎し、協力したことを示している。そして田口氏はそのことも意に介していない。立ち猫mi

「裁判員は年間1万人くらい選ばれるので、50年くらい経てばたいていの人は裁判員に何らかの形で関わることになる。裁判員になる可能性は死刑に関わる可能性とほとんどイコールではないか」←1万人×50年は50万人、日本の人口って何人でしたっけ? で、裁判員裁判で死刑判決が出たのは21人なので、21人×9人(裁判員+補充裁判員)=189人。経験者約5万人のうちの約0.4%。それでどうして裁判員になる可能性と死刑に関わる可能性がほとんどイコールになるのか? 

「死刑について裁判員は何も知らないし、裁判官も知らない。それは恐ろしいことだ」←田口氏は「死刑を知る」ということの意味も、「死刑を知った」先に何があるのかも説明しない。死刑の執行の仕方についてマスコミにしか公開しないなどと仰るが、そうすると、「知る」とは執行方法を知るという程度のことかも知れない。また、死刑を知った結果、死刑制度賛成になるのならそれもよしというのなら、それは単なる情報開示論ではないか。立ち猫

「死刑判断をした裁判員には苦悩が窺えた。知らないから悩んでいると考え、執行停止の署名協力を求めたら協力して貰えた」←情報開示を求めることが苦悩からの解放の鍵になるのなら、死刑に関して詳細な知識を持てば安心して死刑判決に関わるだろうということになりそうだ。それでよいのか。

「裁判員裁判で政治家は裁判員になれないことになり、一般市民が死刑を考えなければならないことになった」←政治家は裁判官裁判の時代から判決に直接関わってなどいない。また、直接関わるとと死刑を考えることになり、直接関わらないと死刑を考えないことになるという理屈の途方もないおかしさ。

「要請書では、死刑の執行停止、情報公開、国民的議論を求めている。廃止ではなく停止を求めているのである。車もいきなりエンジンを切ったらかえって危ない」←田口氏は直ちに廃止という論はむしろ危険だと仰る。即刻廃止論に反対までしているのだから、死刑廃止論の亜流でさえないだろう。

「裁判員制度が始まって5年目でやや低調、それほどトピックスにならなくなった。流されやすさがあり風化している。裁判員にも死刑にも国民は意識が低い」←何に関する意識が欠けているのか。国民は裁判員や死刑について、いったい何が足りないというのか。裁判員制度に対して言えば、流されやすく風化などしていない。それどころか「イヤだ」と意思表示をする人がどんどん増えている。立ち猫mi

「アメリカでは死刑に関して情報公開がなされて国民が死刑を支持している。これが本来の民意、民主主義だ。執行前の告知や面会保障もあり、人権尊重の死刑になっている」←これを聞いたとき、田口氏は、徹頭徹尾死刑廃止論者などではまったくなく、文字どおり単なる情報開示請求論者に過ぎないと確信した。こういう人は死刑廃止運動にとって敵になることはあっても味方になることは決してないだろう。

「学生は、死刑は被害者の感情を考えると必要だというが、感情論ではないか」←では田口氏はどうなのか。死刑廃止論は言わず、廃止論を急ぐのは危険だとまで言うのだから、学生の論と大した違いはないというのが正しいだろう。

「死刑執行の命令書に署名をする谷垣法務大臣を許さないが、許そう。許すのは完璧な復讐だ。6月の執行も昨日の執行も許せないが、乗り越えるために許したい」←なんのこっちゃ。

「裁判官に、被告人の服役中から社会復帰まで彼を見守りたいがどうしたらよいかと聞いたら、ここは人を裁く場所でその人の今後を考える場所ではないと言われた。これが裁判官の考えなのだと痛感し、私は裁判が終われば一般市民としてそのことができると思った」←「裁判官は被告人のその後を考えないけど、被告人のことをこれだけ考えている僕ってすごいでしょう」という自画自賛ですかね
 でも、裁判官は保護司ではないという意味では裁判官の言は完全に正しいですね。裁判員制度は民間保護司制度として作られたのではない。本当に社会復帰まで収容者や刑余者を見守りたいのなら保護司やそのボランテイアを目指せばよい
 そもそも裁判員制度について何を言いたいのかさっぱりわからない
 また、氏は、分科会でも「この被告人を収監中から支えるために文通とかできることはないか尋ねたが」と同じようなことを話していたらしいが、インコが被告人なら、「お前は○年刑務所に行ってろ」と言った人と文通したいなんて絶対に思わないし、ましてや支えてもらいたいとは死んでも思わないね
 「善導ってやつかね。なに上から目線でモノ言ってるんだよ」くらいに反発するね。善意の押しつけはまっぴらごめんだ。もみじ中

 死刑制度に反対しながら裁判員制度に賛成するというのは、インコに言わせりゃ基本的に矛盾である
 「市民が死刑判決を出しているのだから、大臣が執行をためらうようなことがあってはならない」。これが法務官僚の言葉だ
 自民党の中からは裁判員裁判での求刑超え判決に対する最高裁の見直しに対する批判が噴出しているという。市民は、死刑や重刑に体よく利用されていると言っていいだろう。

 田口氏は「裁判員制度には肯定も否定もしないという立場だ」と言う
しかし、やっていることは最高裁のお粗末なお先棒担ぎであり、薄っぺらな制度推進論者以外の何者でもないと断じておく。氏は、死刑についても廃止を言わない
 田口氏は「いきなり廃止は危険だ」という奇妙な論理を持ち出し、アメリカの死刑執行は情報開示が行われており、民主的だなどと、死刑執行をある意味で賛美するような発言を行っている。

死刑の情報開示がなされて、それでも国民が死刑を支持したらそれでよいと氏は言うのか。窮極の情報公開といえば、公開処刑になるが、それで良いのか。

 情報公開でどんなに苦しんで死んだかと言い募っても、被害者のことを持ち出されて一蹴されるのがオチだろう。死に至るまで20分はかかりましたと開示されたとしよう。被害者遺族から「私の息子は絶命させられるまで半日いたぶられた。20分は短い」と言われたらどうなるか。国民が報復感情を募らせたらどうなる
せいぜい、「憲法は残虐な刑を禁止していますから、即時、痛みを感じさせないようにしなければならないのです」というのが精一杯だろう。立ち猫

 もう一つ、合宿では死刑の全員一致を求めるということも議論されたというが、全員一致で出された判決なら良いという訳ではないだろう。

 こういうと、「全員一致でなければ死刑判決が出せないとなると、1つでも死刑判決が減るだろう」という反論があるかもしれない。しかし、「あなたはこんなひどい罪を犯した人をどうして庇うのか。被害者のことを考えろ」などと詰め寄られたら、一体どれだけの人がこの圧力に抗しきれるだろうか。

 そして、裁判官が公判や評議・評決の邪魔となると見なせばその裁判員は解任できるのだ。裁判長がどうしても死刑判決を出したいと思えば、死刑判決に反対する裁判員は解任すれば良い。解任理由を開示する必要もない。

 ましてやいま、国民の8割以上がイヤだと言っている裁判員裁判に参加して人を裁いてみたいという人がどういう人かを考えたとき、おのずから結論は明らかと言うべきだろう。
 結局、裁判員制度を廃止しなければ死刑廃止もできないのだ。089214

投稿:2014年9月11日