~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
にゃんこ先生のこれまでのお話をまとめますと、Aさんが裁判員の職務を真面目にやりきったために外傷性ストレス障害を発症したと明確に認定しながら、すべての論点について国の主張を受け入れ、裁判員制度は合憲だと言い切った福島地裁判決ということになります。
「国は裁判員をやらないですむ辞退の態勢を整え、選任されてもやめられる機会を工夫してもいたのに、それらの機会を活用せず精神的な負担が多い裁判員の職務に従った。無理があるのならやらなければよく、始めてからもやめずに最後までやった」と。外傷性ストレス障害になってもその責任を国に問うことはできないということは、裁判員を経験して病気になっても国は一切責任を負わないと明言したということだ。
その部分を深く突っつくとですね。辛くて病気になりそうだったらやらなくてよいと言われたら、ほとんどの国民は「私は辛くて病気になりそうだ。裁判所から勧められるのなら早々と遠慮させていただく」と言うに違いないってことです。
Aさんは真面目に裁判員の勤めを果たした。辛くてもそのことを表に出さず、歯を食いしばって我慢した。証人や被告人に積極的に尋ねもし、裁判後の共同記者会見でも感想を吐露した。裁判所はその我慢を生涯にわたって続けろとAさんに言っている。誰がAさんの苦しみを引き継ぐ気になるか。
裁判員を務めるのは無理だと言ったら、その言い分に正当な理由があるかないかはどう判断するのだろう(正当な理由がなければ10万円以下の過料を科されることがある)。30万人の候補者についてその識別をすることは不可能ですよね。
考えても見給え。自分がこれから裁判員になって血の海の写真を見せられたり断末魔の録音テープを聞かされたりするということは事前にはわからないのだ。Aさんもそうだったように、裁判員候補者は裁判員になって経験することの何1つも事前に知らされない。
そっか。呼び出されて裁判所に行って初めて事件のことを知らされるんでしたね。アメリカの陪審では事前に何の事件で呼び出すか知らされていますよね。
事件のことを知ったからと言って、裁判の証拠に何が出されるかまでは分からないし、事件の内容によってはある程度、残酷な証拠が出てくることは予測できても、その証拠に自分が耐えられるかどうかなんてわかないよ。
裁判所に行く前に専門医に相談しても、自分がこれから経験することを何も説明できない裁判員候補者を前にしては、ブラックジャックのような名医でも的確な医学判断はなし得まい。また、人を死刑台に送ったり長期間刑務所に入らせたりする経験が後々その裁判員の心にどのような傷を残すのか、そんな判断ができる専門医などいる訳もない。
つまり、発症の懸念があるから辞退するとか辞任したいとか言えば、そのような発症はあり得ないと断言できる者はいないってことですよね。裁判員をやってストレス障害にでもなられたら裁判所としては絶対に困る。ということは、「私は無理だ」と言えばお・し・ま・いということ。
裁判員法が国会で審議された際に、裁判員としての出頭を国民に義務づける根拠として国が答弁していたのは、「義務づけなければやりたい人たちだけが参加し、国民の意見が平均的に反映されなくなってしまう」ということでしたけど。
今回の判決もそのことについて次のように説明している。実に興味深い論旨だ。
「国民の司法に対する理解や信頼は、ただ誰かが刑事裁判に参加していれば得られるものとはいえない。多用な価値観を有し、さまざまな社会的地位にある国民誰もが裁判員となる資格と可能性を有し、実際に様々な国民が裁判員となって刑事裁判に関与しその判断を示すからこそ、裁判員とはならなかった国民からも、刑事裁判、ひいては司法に対する理解と信頼が得られるものといえる。
これが仮に、一部の価値観を代表する者のみや、偏った社会的地位を持つ国民からのみ裁判員が選ばれるとすれば、そのような刑事裁判が国民全体からの理解と信頼を得られるものとはならないことは明らかである。そのような事態となれば、国民は、司法的手段により自己の権利・利益の実現を図ることを躊躇し、よって裁判員法の目的が失われてしまうことになりかねない。」
さぁ、どうだ。同じ裁判所が言う「万人平等義務づけの必要性」を強調する滔々たる論旨と「無理なら止めろ」という奥歯に物の挟まったような論旨の間には矛盾や不整合を感じないか。前者を強調すればするほど赤紙督促で身柄確保に精を出し、辞退や解任を減らすべきことになる。後者を強調すればするほど出頭拒絶に寛容になり、辞退や解任を幅広く認めることになる。
あちら立てればこちらが立たず、頭押さえりゃ尻上がる、出船に良い風は入船に悪い…
(やれやれヒヨコさんまで…)今年7月、出頭者が候補者の27%しかいなくなったと最高裁自身が報じましたよね。
そうだ。すでに出頭者はしっかり「一部の価値観を代表する者」になり、「国民全体からの理解と信頼を得られ」ない時代に突入している。そう、彼らの言う「裁判員法の目的」がもはや「失われてしまうことにな」っているのだ。
「様々な国民が裁判員となるからこそ、裁判員にならなかった国民から司法に対する理解と信頼が得られる」と言うのなら、「裁判員を無理なくやれる極少の国民=血の海も死刑宣告もさして苦労を感じない人たち」と「裁判員を敬遠する圧倒的多数の国民=そういうことを経験したくないと思う人たち」の間には、もう明らかに深い深い溝ができていますね。
潮見裁判長は、ここのところを何もわかっていないのかな。いや、全部わかってやっているのかな。
もう一つの論点は、弁護人が上告理由に掲げていなかったのに上告理由と見なした11年11月の最高裁大法廷判決に関する判断だ。判決は支離滅裂である。「上告趣意の中には、弁護人が明示した以外の条項(つまり、苦役禁止を言う憲法18条)でも上告理由として主張する趣旨が含まれていると解すべき」とどうして言えるが問題なのだ。
そんな判断が通用するのなら、最高裁が「これも上告趣意だ」と決めつければ何でも上告趣意になってしまう。最高裁の誤りを正す司法機関はないのだ。刑事裁判の現場では、憲法の何条と何条に違反すると主張するのかがチェックされ、あいまいな言い分が通用する場面はない。
最高裁がデタラメの先頭を走り下級審がヒラメよろしく従うかあ。デタラメとヒラメの組み合わせは、この国の司法が自滅の道をひた走っていることを何よりもよく示しているんだ。
Aさんの主張がもともと簡単に通る性質のものでなかったことは言うまでもない。地裁判決はAさんの敗訴だったが、では国は勝ったか。そこがこの判決を考える最後のポイントだ。
「病気になっても国には責任がない、君たちには我慢してもらう」と国民を奈落に突き落としたことで最高裁はいかなる勝利も前進も勝ち得なかった。それどころか地裁の裁判官たちから、最高裁や国は、特急「地獄行き」の切符を渡されてしまった。切符の裏は真っ黒だが、よく見ると「ひいきの引き倒し」と「褒め殺し」という字がびっしり印字されているようだ。
それでは、最高裁の判事諸公やこの国の政府の大臣諸公たち。グリーン車でも何でも使ってさっさと行ってくださいな。道中、せいぜいお楽しみを。
投稿:2014年10月13日