~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
前略
いつもホームページを楽しみに読ませていただいております。
にゃんこ先生とインコさんたちの会話は、制度の問題点をとてもわかりやすく説明されていると思います。
急性ストレス障害国賠訴訟のことで、私の考えを聞いていただきたく、この手紙を書きました。
報道によると、Aさんは控訴したけれども、憲法違反という主張を取り下げて、裁判員をやったことによる被害の訴えを中心にするということです。
一審判決は、裁判員を経験したことで急性ストレス障害になったことは認めているので、高裁は和解を勧めてくるのではないでしょうか。国にとっては、裁判員を経験したことでストレス障害になったと判決で確定されるよりは、和解で解決する方がいいからです。
そして原告側は、精神的苦痛を受けたことに対する賠償という訴えをしているのだから和解に応じざるを得ないですよね。精神的苦痛に対するお金を出すと言われて、和解に応じないと言うと、「なぜ?」となるから。和解ではなく、判決で白黒をというのであれば、これまでと同様に制度の問題に踏み込まざるを得ないでしょう。
裁判員経験者の中にはAさんのように苦しみながら泣き寝入りをしている人が多くいると思います。
その人たちの中から、自分も賠償請求しようという人が出てくるかも知れません。なんといっても、これまでのように憲法違反だと訴えるよりは、苦痛を受けたから賠償してくれという裁判の方がハードルが低いので。
あちこちで同様の訴訟が続くことになれば面白いことになると思いますが、いかがでしょうか。
草々
という内容なのですが、にゃんこ先生にご意見を伺いたいと思います。
まず、憲法違反という主張を取り下げ、裁判員をやらされて受けた被害の訴えを中心にするという点についてですが。
確かにそのような報道はあるが、Aさんが憲法違反の主張を本当に取り下げてしまうかどうか。確かなことはよくわからない。「仮に裁判員制度が憲法違反でないとしても、裁判員になって激しい精神的打撃を強く受けたことは間違いない」というように、憲法違反の主張を全部消してしまわずに、「仮に…でないとしても」というように、一歩引いた「控えの主張」として純粋損害賠償請求を言うのかもしれない。こういう主張のことを「予備的主張」というが、その予備的主張をするかも知れないのだ。
わかりました。では、この方がおっしゃる「和解を打診してくる可能性」というのはいかがでしょう。
その可能性もまずないというべきだろうね。ゼロとは断定できないが、仮に高裁が打診しても国が応諾する可能性は極めて低い。また、それも譲って国が万一応じたとしても、Aさんが断るだろう。「和解金を払う」ということは国の責任が不明確なままに終わるということを意味するから、Aさんとしては受け入れがたい話になる。
でも、この読者さんは、精神的苦痛を受けたことに対する賠償という訴えをしているのだからお金を払うという話になれば和解に応じざるを得ないのではとおっしゃっていますが。
金の支払いを求めているのだから、金を払うと言えば受けざるを得なくなるだろうという見方なのだろうけれど、金銭請求はそろばん勘定と直結するものでもない。国に責任があるということを明確にして貰いたいというのがAさんの考えだ、この国の法律は、責任追及は原則として金銭賠償という形でするしかないと決めているから金銭請求をしているだけのことなのだ。だから、金を払えと賠償請求をする人は「金目」だということにはならないし、和解を断る訳にはいかなくなるなどということはまったくない。
つまり、にゃんこ先生は、この事件と和解が結びつかないとお考えなのでしょうか。
1審判決が裁判員を経験したことで急性ストレス障害になったことを認めていてもですか。
そう。裁判員を経験したことで急性ストレス障害になったことを一審判決が認めていることと少しも矛盾しないのだ。
そう言えば、国は、この事件の1審の当初から、Aさんが精神的打撃を受けたという主張をしたのについて、積極的に争ったりしませんでしたね。
そう。それでも1審裁判所は、原告と被告に、和解の勧告など何もしなかったでしょう。原告がどのような主張をしていても、裁判所としては和解がふさわしいと判断すれば、和解を勧告します。だが、1審裁判所はそれをまったくしなかった。
この事件はそもそも「和解になじまない」事件だと裁判関係者のみんなが考えている事件だということになるでしょう。国にとっては「裁判員を経験したことでストレス障害になったと判決で確定されるよりは、和解で解決する方がいい」ということは少しもない。Aさんがストレス障害になったことはもはや否定しようのない事実で、高裁が認めるとか認めないとかいう以前の「社会的に公然の事実」なのだ。
つまり、憲法違反を言うかどうかは別として、いずれにしても国策の是非を論じる裁判に変わりはないということですね。
そのとおり。この事件には、和解論が登場する隙間はまずまったくないと言って良い。金の貸し借りや交通事故の事件と一緒に論じることはできない。
そのことを別の角度から言えば、「裁判員経験者の中にはAさんのような人が多くいて、その人たちの中から自分も賠償請求しようという人が出てくるかも知れない」から、国としては和解に応じることなどできなくなると言ってもよい。
国民の側から見て「面白いことになるような」筋書きを国が演じる訳がない。それが国家というもの。もっとも、原告・控訴人は一介の市民だから、何かの都合というようなひょんな事情がどんなときに飛び出さないとも限らない。それがまた市民というもの。今私が話したことは、あくまで特別なことが起きなければ、という原則論のお話にとどまることは頭においておいてくれ給え。
にゃんこ先生、ありがとうございました。大鷲弁護士からケーキの差し入れを戴きましたので、珈琲をお入れしますね。
あっ、珈琲ならインコが入れますので、ケーキのご相伴にあずかりたく…
投稿:2014年10月19日