~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
第3弾は、候補者名簿記載通知に同封されている悪名高い「調査票」です。
調査票は、A3横置き2つ折り4頁構成です。開けば左が4頁、右が1頁。裏側の左が2頁、右が3頁。1頁と2頁が調査票の書き方の説明で、3頁と4頁が調査票。真ん中で切り取って3頁と4頁の裏表を返送させる仕組みになっています。
ところで、この「調査票」は最高裁が勝手にはじめた個人情報把握のシステムだっていうことをご存じですか? 地裁の事務手続きの手助けだなんて強弁していますが、法的根拠もなく国民を「調査」するというのですから恐れ入谷の鬼子母神。しかも調査票の発送・集約・整理・報告のすべてをトッパン・フォームズだの共同印刷だのに丸投げしているのですからビックリ下谷の広徳寺。
では、実際の「調査票」を見ながら、全ポイントを完全解説していきます。赤線と赤数字はインコが入れました。赤数字が説明文頭の数字と対応しています。
まず、①頁です。
1 ここにバーコードが入っています。「共通番号(マイナンバー)制度」の先取りですね。
2 「抽選の結果に基づいて名簿に記載されました」とあるけど、いつどこでだれがどんな「抽選」をしたのか。どうやって選んだのか「お知らせ」したらどうですか?! それに「記載された」んじゃなくて、「記載した」んだよね! 取り澄ました「現代の赤紙」
3 「現段階では名簿に記載されただけ」。今は来なくてよいっていうのは、しばらくしたら呼び出すぞってことですよね。動員予告で早々と待機モードに追い込む悪辣不穏の仕掛け。
4 最高裁の名前で届いた通知に書いてある「裁判員候補者専用コールセンター」だから当然、裁判所の職員が対応するのだろうと思ったら大間違い。最高裁が委託した民間のオペレータが出てくる。個人情報が管理されて「徴兵」逃れがチェックされ、どこかに通報されるのがオチだろうね。
5 「刑事訟廷裁判員係」だったり、「刑事訟廷事務室 裁判員係」だったり、「刑事訟廷事務室裁判員係」だったりと、ぐらぐらの制度にふさわしく、担当係もぐらぐらと定まりませぬ。
つぎに、②頁。
6 「裁判員候補者の方の事情を早期に把握するため」とか言い訳しても、調査票は最高裁が勝手にはじめた個人情報把握システム以外のなにものでもない。個々の事情を考えるなら、呼び出さないのが一番。
「なぜ見ぬか 民の竈に立つ煙 余りし余裕 どこにかあらん」
7 建前としては「明らかに辞退が認められる場合」なんてほとんどない。だいたい、「場合等」ってなに? 「明らかに」という制限語と「等」という拡張語は結びつかない。「明らかに辞退が認められる場合」という規定が実際問題としてはもう崩壊していることがこんなところにも見えてくる。
8 以前は「できる限りA4サイズ」なんて言ってなかったけれど。送り方までうるさく言うのはいかにもお役所風だ。
9 何度も言うけど電話に出てくれるのは民間企業のオペレータです。一番他人に知られたくない悩み事をなんでも話してね!
10 「やめさせてほしい」といくら言われても返事はしないと言う。どんなにやりたくないと言ってもその訴えを認めてやるかどうかについて、最高裁は教えてくれないよん。「お前たちはハ・ダ・カ、俺たちの方針はヒ・ミ・ツ」
11 はあ~? 「はい、そうですか。それは安心」とだれが信用するか? 警察が嘘の調書を作り、検察が証拠を偽造し、役所が個人情報をだだ漏れさせている時代ですよ。それも今に始まったこっちゃないけどね。
12 2009年は、「東日本大震災の被害を受けられた皆さまへ」という文章があり、「心からお見舞い申し上げます。今後、実際の事件で裁判員に選ばれた際に改めてうかがいます」と言っていた。けれど1年でそのお見舞いはなくなった。大震災も原発事故も過去の話というのが彼らの本音。もっとも最初から大震災の被害者のことなんて、てんで頭になかったのが最高裁。そうでなきゃ3月11日の大震災からたった2週間しか経っていない25日に、「3月28日から被災地でも裁判員裁判を再開せよ」なんて号令なんかかけられなかったよね。
ここから、③頁。
13 返送期限【必着】だとさ。一般社会ではこちらの都合で相手方に面倒をかけるときには「お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」とか言うんだよ。
14 秘だってさ。「お前たちは秘密を守れ」と言っているのか、「最高裁は秘密を守ります」と言っているのか、どっちなんですかね?
15 当初は、ここに「提出されたデータは裁判の資料に使う」って書いてあったけど、少し前から「以下の事由にあてはまらなければ提出の必要なし」になったよ。辞退できる理由がある者などだけに提出を求め、辞退を求めない者をなるだけ増やそうとした。年々の不出頭増加に焦る最高裁の動揺ぶりがこんなところにも出ている。
16 年齢? ちゃんと把握済みだから証明はいらないよん。
17 「資料不要」? そんな資料もともとありゃせんがな。「去年、裁判員を務めたことを証明して」と裁判所に申請してごらん。必ず断られる。たくさんの国民が「もう裁判員をやった」とウソをついていることも覚えておきましょう!
18 1年間を通じて「重い病気やケガで裁判参加が困難」で、しかも簡易に診断書を手に入ることができなければ良いんです! 現在の症状の書き方は工夫のしどころ。できるだけリアルに書きましょう。「公判期日接近性強迫神経症」とか「裁判所移動性高血圧」とか…
19 ア~ツの職業の人は「なることができなせん」とあるけど、インコが分類すると、裁判員に「ならなくて良い人たち」と「なることができない人たち」になるね。
ならなくて良い人たちは、国会議員、国務大臣、国の行政機関の幹部職員の中でも高級幹部、法務省の職員、裁判官及び元裁判官、検察官及び元検察官、裁判所の職員、都道府県知事及び市町村の長など。
なることができない人たちは、弁護士及び元弁護士、弁理士、司法書士、大学・大学院の法律学の教授及び准教授、司法修習生など。
つまり、権力により近い人たちはならなくても良くて、法律知識を持っている人たちはなれないってこと。
ここから、④頁。
20 裁判員をやれない月を2つしか言わせない。1月「仕事上の事情」、2月「重要な用事・予定」で辞退希望なら3月は「出産予定」でも辞退希望は書けないんだよ。1月に出産して2月は育児だったら3月からは子どもを放っておけってさ。非情というか残酷というか…。
21 理由は「仕事上の事情」から「育児」までの6つ以外は認めない。やりたくないなんて書いても全然ダメ。普通のアンケート調査ならほとんどが最後にその他の項目があるのに、そんな項目は絶対に作らないとはさすが最高裁。
22 「具体的事情」って最高度の個人情報だけどね。それをきちんと書かないとその言い分を信用しないぞってか。
投稿:2014年12月30日
毎年何十万部も印刷されながら、一般書店ではお目にかかれない謎のベストセラー本! それがDVD付き『よくわかる!裁判制度Q&A』である。
前年と中身はほとんど変わらない。反対の声がどんどん多くなろうと出頭率が激減していようとお構いなしです。
裁判で遺体などの写真を証拠として提示する時には、裁判員の選任手続きの段階で候補者に説明することになったなんてことにもまったく触れていません。
触れちゃうと、「呼び出さないのが一番の配慮でしょ」となって制度廃止しろに進んじゃうからね。激動と激変の現実を覆い隠し、何食わぬ顔で裁判員候補者に「裁判員の心得」を教え込もうって訳。でもその手は桑名の焼きはまぐり。
さて、この『Q&A』ですが、制作は「TREND-PRO」、作画は「ヤマダリツコ」となっています。TREND-PROのサイトを見ると、マンガ制作実績のところに官公庁や地方自治体、有名企業がずらずらずらーっと並んでいます。コースも有名漫画家とか連載漫画家とか作者によってお値段いろいろのようですが、最高裁が依頼したのは「プロ漫画家コース」
基本制作費用(8ページ)は240,000円~560,000円 オプションとしてカラー原稿+10,000円/ページ、表紙デザイン+50,000円~となっています。ちなみに『Q&A』はオールカラー63ページ。
作画のヤマダリツコさんも検索してみました。ヤマダリツコのペイント画集というのがヒットしたのでクリック。「阿修羅王」とか「寒山さんと拾得さん」とか「鍾馗さん」の絵は琴線に触れる。インコ結構好きだなぁ~(笑)。『Q&A』は作者自身苦しみながら描いているんじゃないかとふと思っちゃったね。本当は楽しい絵の人なのかも…。話がそれましたね。
それでは、インコが30問答の代表的なものをつつきます。
Q どのような事件を扱うのですか?
A 対象事件は一定の重大な犯罪。具体的には①人を殺した、②強盗が人にケガをさせ、あるいは死亡させた、③人にけがをさせ、その結果、死亡させた、④ひどく酒に酔った状態で、自動車を運転して人をひき、死亡させた、⑤人が住んでいる家に放火した、⑥身代金を取る目的で人を誘拐した、⑦子どもに食事を与えず、放置して、死亡させた、⑧財産上の利益を得る目的で覚せい剤を密輸入した
インコ:奥さんの言葉にもあるように「素人なんだから簡単な事件」ではなぜないのか。なぜこのような重大犯罪を裁かせるのかという説明は一切なし。まずは、どうしてそんなに重大事件を素人に裁かせるの?っていう基本的な疑問に答えてよ。
Q 裁判員等(裁判員と補充裁判員)に選ばれる確率はどれくらいですか?
A だいたい9,500人に1人程度です。平成25年に裁判員等に選ばれた人は、裁判員は7,937人、補充裁判員は2,622人。
インコ:あのね、みんなが知りたいのは「裁判員に選ばれる」確率じゃなく「裁判所に呼び出される確率」だよ。これってずいぶん意味が違うの。実際には選ばれた人の多くが呼び出されていないんだ。
でも、通知をもらった人は、今度はいつ呼出状が来るかドキドキしてるんだから、こんな数字聞いたって何の慰めにもなりゃしない。
それにしてもこのマンガは何を言いたいのか。「みんな嫌がったり怖がったりしているけど、大丈夫。選ばれるのは交通事故で死ぬ確率より低いよ」ってことかな。で、ひきつった顔で「ラッキー」と言われてもね。
Q 裁判員を辞退することはできないのですか?
A 基本的にはできません。法律等で認められた事情がある場合は辞退することができます。70歳以上の人、学生・生徒、妊娠中・出産の日から8週間以内、重い病気やケガ、親族同居人の通院等の付き添いや養育・介護など、裁判所がこれらの事情にあたると認めれば辞退できる。
インコ:「原則として辞退できない」って笑いながら言うところがすごいね。だから「ぶーっ」です。一見すると辞退できる理由がいろいろと書いてあるようだけど、もう1度読んでご覧。たいていの人はどれにも当てはまらないでしょ。
やっぱり辞退できないんだ。ガ━━Σ(゚◇゚|||)━━ン!!
問答無用の圧殺台詞は「裁判所がこれらの事情にあたると認めれば」ってヤツよ。裁判所が認めなければダメ。
いつ認めてくれるかって? それは裁判所に呼び出されて裁判長と面接した時。「当日はともかく裁判所に出頭しろ。裁判長の前で必死に弁明してみろ。事情によっちゃ勘弁してやるかもしれない」って訳さ。
でも、ここで福島地裁郡山支部で裁判員を経験させられ急性ストレス障害になったAさんの影響がどこにも見えないところがもっとすごいね。最高裁長官が問題を深刻に受け止めて対策を指令したっていうのに、春風駘蕩だ。
イヤ違うな。何も言わないところに真実がある。どういう場合に辞退できるのかについて、文章にすることもできない状態に最高裁が追い込まれているということなんだね。
Q 仕事が忙しいという理由で辞退はできますか?
A ご自身の不在により著しい損害が生じる可能性があると認められれば、辞退可能です。仕事が忙しいというだけの理由では、辞退はできない。ただし、とても重要な仕事があり、自分が処理しなければ、事業に著しい損害が生じると裁判所が認めたとか、裁判員になると自分や周囲の人たちに経済上重大な不利益が生じると裁判所が認めた場合は、辞退が認められる。
インコ:君の仕事よりお国が呼び出す裁判の方がはるかに重要。「事業に著しい損害」とか「とても重要な仕事」とか「経済上重大な不利益」とかってどんな基準で判断するの? どうせ「『著しい損害』とまでは言えない」とか「『とても重要』とまでは言えない」とか「『重大な不利益』とまでは言えない」と言われちゃったりするのでしょうが。マンガのおじさんも「何言ってんだ」って顔してるよ。
Q 自宅に要介護者や養育が必要な子どもがいる場合、辞退できますか?
A 裁判所が介護や養育に支障を生じると認めた場合は辞退が認められます。介護や養育を行う必要があれば、辞退の申立が可能です。介護や養育はどの程度必要なのか、代わりに介護や養育を行う人がいるかなどの事情を考慮し、裁判所が個々のケースごとに、具体的に辞退を認めるかどうか判断する。
インコ:「辞退が認められます」の後に続く文章が「辞退の申立が可能」。認めるかどうか別にして「申し立てはできる」って。ふざけたことを言ってんじゃないよ。「必要性や代われる人を個々に判断する」って言っているけど、どういう場合に辞退を認めるかという一番大事なことには何も答えていない。
それに「個々に判断」って、裁判長はどうやって判断するの? 介護や養育の個々の事情なんて、何の予備知識も判断材料もない裁判長にわかる訳がない。「大変だったら来なくていいですよ」って言っているのとどこが違う。超厳格な法規制と超ザル運用の異様なコラボ。
お母さん、「アドレス帳」を開いて、スーパーで走り回る小さな子どもの面倒を見てくれる人を探すよりも「そんな人はいません」と言って出頭しない方が良いですよ。あなたがもし、裁判員に選ばれてPTSDになったりしたら、あなただけでなくお子さんも被害者になります。
Q 育児中に裁判に参加する場合、どうすればいいでしょうか?
A 一時保育等の保育サービスをご利用できます。保育所における一時保育等の保育サービスを利用して、お子さんを保育所に預けて、裁判に参加することができる。
インコ:そりゃできるでしょうよ。そんなことくらい言われなくったってわかる。問題は裁判所がそれをサポートするかどうかでしょ。
みなさん、驚かないでくださいね。裁判所は保育サービスをしません。斡旋なども一切しません。あなが自分で探しなさいと言っているだけです。
「保育サービス」にかかる経費もすべてあなた自身の負担です。どうすればもこうすればもない「窮&A」です。
Q 交通費や昼食代などは支給されますか?
A 日当、交通費、宿泊料は必要に応じて支払われます。裁判員候補者には1日あたり8000円以内、裁判員及び補充裁判員に選ばれると1日あたり1万円以内。
インコ:「我と来て 裁けや職の ない大人」ですか。普通電車では間に合わないので特急で行ったら特急料金は自腹という話もありました。
そもそも日当や交通費、宿泊料は税金から支払われます。高い給与を払っている裁判官が素人に助けてもらわなければ裁判やれないのなら、以前と同じ俸給をもらうのもおかしいでしょ。それにしても庶民性をアピールするためか、裁判長が学食でおかめそばを食べている・・・なんか全部ヘン。
Q 裁判員は何日ぐらい裁判に参加するのですか?
A 裁判員裁判の多くは5日以内で終わっています。ポイントを絞ったスピーディな裁判が行われるように、事件の争点や証拠を整理し、審理計画を明確にするための手続(公判前整理手続)が行われます。
インコ:一昨年の『Q&A』は3、4日程度だった。それが昨年は4日前後に延びた。そして今年は5日以内になった。マンガのお嬢さんも「意外と短いわね!」じゃなく「意外と長くなってきたわね!」ってと言わなきゃいけませんね。公判期間が年々長くなっていることを最高裁も認めない訳にはいかない。
「ポイントを絞る」とか「スピーディな裁判」とか言ってるけど、状況は年々確実に変わってきた。裁判はどんどん長くなっている。考えてみれば、短ければ良いというものではないのは当たり前のことでしょ。刑事裁判で一番重要なことは裁判員の参加のしやすさなのですか?
Q 法律の知識がなくても大丈夫ですか?
A 大丈夫です。日常生活で行っている判断をしてください。有罪か無罪かの判断の前提として法律知識が必要な場合は、裁判官が分かりやすく説明する。
インコ:裁判に法律の知識が必要ないなら、裁判官はなんのために難しい司法試験の勉強をしたんですか?
ここで裁判官が言っている「裁判官がきちんと説明」っていうのがトンでもないカラクリ。裁判官は丁寧に説明して裁判員たちにわかったような気にさせて、実際には自分たちの思うとおりの判決に賛成させるだけ。
Q 議論を尽くしても、全員の意見が一致しなかったらどうなるのですか?
A 多数決で結論を出します。この場合、被告人が有罪か無罪か、有罪の場合にどのような刑にするかについて裁判員は裁判官と同じ重みを持つ。
インコ:陪審制の裁判は全員一致が原則。12人の陪審員の1人でも有罪に疑問だと言えば評決は不能。1人でも疑問を持つってことは「疑わしきは罰せず」ってこと。
ところが、裁判員裁判では多数決で決めてしまう。無罪を主張した4人の意見を吹っ飛ばして有罪にし、5人が賛成すれば死刑判決もOK。
それにしても、心ならずも有罪判決を言い渡す仲間に組み込まれ、心ならずも重罰を言い渡す立場に追い込まれるつらさを考えてください。これを憲法の禁止する苦役と言わずしてなんというか。
さて、マンガの裁判官は「もう少し議論を」なんて言っていますが、実際には分刻みで決められたスケジュールなので、時間がくれば強行採決です。 多数決方式の背景には、裁判官が結論を出すという考え方が根強くあります。マンガの裁判員たちだって裁判官が結論を出すと思っている。
言うことを聞かない裁判員がいても大丈夫。3人の裁判官が2人の素人を味方につければよい。いくら言っても聞かない裁判員なら「不公平な裁判をするおそれがある」として解任だってできる。
そういえば、Q&Aには「解任」に関するコーナーがありません。実際には10件に1人くらいの割合で解任されている。理由は公表されないので不明。触れられたくないことは徹底して無視します。
Q 見聞きした事実について、話をしてもよいのですか?
A 法廷で見聞きしたことや裁判員を務めた感想は、話をしてもかまいません。漏らしてはいけない秘密は、評議の秘密と裁判員としての職務を行う際に知った秘密。「評議の秘密」とは議論の過程とかどのような意見があったとか、その意見を支持した者の数や反対した者の数、評決の多数決の人数など。
インコ:この質問の背後には「なぜ守秘義務があるのか」という疑問が潜んでいるはずです。人は珍しい経験をすれば人に喋りたくなる。ところが、夫婦の間でも喋るな、墓場まで持って行けと言うのです。
Q&Aは「義務に違反した場合、刑罰が科せられることがあります」とさらっと書いているだけだけど、裁判員法は「秘密を漏らせば6月以下の懲役」と決めているんです。「本当は恐ろしい最高裁の裁判員童話」。
「裁判員 うっかり喋って 被告人」
ひどいのは基準のわかりにくさです。「参加した感想」は話をしても、「過程や意見の賛否など評議の秘密は漏らすな」って? わからなきゃ何から何まで黙ってろってことですね。知りたくもないことを知れと強制し、知ったことは喋るなって強制する。これは根本的に国民を愚弄する制度です。
最後のマンガ と裏表紙
インコ:裁判員を経験した人は、「いい勉強になったな」とか「めったにできる経験じゃないですしねぇ」などと言ってるが、本当に喜んでいるんだろうか。つらい体験で急性ストレス障害になり、国賠訴訟を起こした例がある。大半の人たちは早く裁判のことなぞ忘れたいと思うだけだろう。
はっきり言えることは、最高裁は嬉しそうな感想を漏らす人たちを「好ましい裁判員」「好ましい国民」と考えているということ。人を処罰することは確かに「めったにできない経験」だが、何の勉強になるのだろう。隣人を処罰することに喜びを感じる国民を作り出す恐ろしさをインコは感じる。
断言できることは、この国に住む人々のほとんどが最高裁のご教訓を拒絶しているという厳粛な事実! ざまぁみろってことよ。
私の視点、私の感覚、私の言葉で拒否します 。
投稿:2014年12月29日
最高裁は、11月12日、全国23万4000人弱に「候補者名簿記載通知」を送りました。
実際に発送作業を行ったのは共同印刷という民間企業ですけどね。
この封筒が届くのは全国平均440人に1人くらいの割合(地域差あります)となるそうですが…
まずは「封筒」。
封筒の大きさは、
横23.3㌢、縦16.7㌢、厚さ0.8㌢ 実物写真がこちら↓
「必ず開け」とあります。ただし「親展」だから本人以外は開いちゃダメ!
曲解違った折り曲げも絶対ダメだ。ただの禁止じゃないんだぞ!。
なんたって発信者は、日本の司法に君臨する最高裁であるぞ。
頭が高い。頭が高い!
てなとこですかね。
実は、この記載通知は法的根拠がないものなんです。
でも、最高裁の「権威」に、国民は「恐れいりました、もし地裁から呼出状が届いたら、ちゃんと出頭します」と言うだろうと思っているんでしょうね。
実際にはそんな「権威」なんかまるでないってことが、もうはっきりしちゃっているのにね(笑)。
あっ、「最高裁判所」の字の下にある「このお知らせに関するお問い合わせ先」に電話をするとお話相手をしてくれるのはトランスコスモスという民間会社のオペレーター(もしかするとアルバイト?)で、最高裁の職員じゃありませんからね。最高裁の職員は偉いので、下々からの問い合わせにいちいち応対しているヒマはない…のかな。
次に「説明書」。
「裁判員候補者名簿に登録されたことを公にしないで下さい。」
ギョッ。調査票の説明書冒頭に大きく掲げられ、読んだ人の目に飛び込んでくる言葉です。裁判員制度の世界の特定秘密保護法。「名簿に登録されたことを公にするのは法律上禁止。『公にする』とは、インターネット上で公表するなど、不特定多数の人が知り得る状態にすること」。「家族や上司に話すこと」は許すと。家族とはどの範囲なのか、上司とはどの範囲なのかはわかりません。これを読んだ人は、一挙に不安の世界に叩き込まれます。
このことを決めているのは裁判員法。
妻が夫に話す。夫は自分の親に話す。親は兄弟に話す。兄弟は子どもに話す。子どもは自分の配偶者に話す。配偶者は…こうして無限に広がる拒絶の輪。 わははは。
さて、ここには最高裁宛の封筒も同封されています。これは必要事項を書き込んだ調査票を最高裁に「返送」するのに使ってくれという封筒です。
封筒の表には「最高裁判所 調査票担当 行」と宛名が印刷されています。しかし、最高裁判所にはそんな担当部課はありません。全国から返送されてくる返信封筒は全部一括りにされて共同印刷にポンと転送されるのです。
封筒の裏には偉そうに次の言葉が書かれています。
チェック1 □調査票を入れましたか。
チェック2 □調査票に記入漏れはありませんか。
チェック3 □調査用とあわせて提出する資料がある場合は、資料にバーコードシールを貼りましたか。
平成26年11月28日(金)までの提出にご協力をお願いします。
とあります。2週間で返事を送ってこいと要求しているのですね。人の都合なんて何も考えていない最高裁っていうのがよくわかる話。
投稿:2014年12月28日
先日、「遺体イラスト問題」(「裁判」から「裁判のようなもの」へ)をインコさんが論じましたね。この問題についてはマスコミでもさまざまな立場から議論されていて、深刻さがあらためてうかがい知れます。このテーマをもう少し深掘りして考えてみましょう。
「遺体の写真は出ません。ご安心下さい」。9月に死刑が言い渡された東京地裁の強盗殺人事件の公判では、検事が裁判員にくりかえし声をかけたそうです。検察は被害者夫婦の遺体写真を調べてほしいと言ったけれども裁判所に認めてもらえず、仕方なくイラストを使ったって訳。判決後の共同記者会見で、裁判員たちは「イラストでも十分残虐」とか「イラストはリアルではない」などと感想を語ったという話です(10月27日『毎日』)。
日常の市民生活の中には「血の海の茶の間」や「天井まで吹き上げた血潮」や「切り裂かれた胴体」は存在しない。市井の人々がその光景を普通の神経で受け入れられないのは当たり前だ。人の生死に関わる刑事事件の壮絶な現実は、日常生活の延長線上にない異界の話さ。
「ご安心下さい」という検察官の言葉は、その日常と非日常の間に橋を架けようとする検察官の工夫の産物。実際の裁判は、遺体の写真を見るのを不安に思い、遺体の写真が出てこないことに安堵する人たちによって裁かれている。
イラストのリアリティーは写真よりはるかに低い。それでもよい理由は何か。リアルでない方がよいというのはどういうことか。もともと写真を取り調べる必要などなかったのに延々と無用な証拠調べをしてきた。それを裁判員裁判の実施を機会に正常な証拠調べに戻した。そういうことなら一応は納得がゆく。
そう言いたくなるよね。しかし実際はそうではない。イラストが正しいのだったらこれまでは何だったんだということにもなるだろうし。正直言えば写真を調べてほしいのだ。だが裁判員が嫌がるので出さないことにした。それだけのことだ。本当は「写真は出ないから安心せよ」ですむ話ではない。
まさに「視覚証拠の決定的な退行」で裁判が行われていることになる。
9月の死刑事件は否認事案ではなかったけれど、被告人が犯行を争っていたらイラストじゃダメということになっていたかも知れない。その可能性は十分ある。厳密で正確な写真証拠が示されなければ、被告人はきちんと争うことができないし、作られた証拠で犯罪が成立することにもなりかねないからだ。
ベテラン裁判官は「遺体写真が立証や量刑判断に本当に必要なのかを考え、裁判所がより厳密に制限するようになった」と話したとありますね(前掲『毎日』)。
本当か。そんな当たり前のことを今ごろになって言うのもひどく変な話だ。裁判所が「厳密な制限」を課す結果、裁判の場に真実が登場する機会が減ることは間違いないだろう。
11月4日の『読売』の社説は興味深いものでしたよ。「イラストでも負担が大きい」とした東京地裁の判断は「首をひねらざるを得ない」「裁判所の過剰配慮」と断じたの。「証拠を直視すべき時もある」という見出しの社説だった。
社説は、犯行状況や殺害方法を示す証拠としては加工したイラストより写真の方が望ましい、裁判所には衝撃的であっても不可欠の証拠は採用するという毅然とした姿勢が求められると言った。「裁判員の選任手続きの際、凄惨な写真を見せることを裁判員候補者に説明し、不安を訴える人の辞任を柔軟に認めるというきめ細かな対応も欠かせない」というのが社説の結論だ。
でも、この考え方に立てば、裁判員裁判は、凄惨なシーンだって少しも気にならないとか、マンガやゲームの感覚で人を裁いてみたいとか、どんなことになっても裁判員裁判に参加したい気持ちを押さえられないというような「特異な傾向」の持ち主によって辛くも支えられることになるわね。
その徴候はもうはっきりと見えていると思います。それを推し進めよというのが『読売』ということかと。
そうだ。最高裁は、裁判員をやりたくないと考える人々がどんどん増えていることに強い危機感を懐き、裁判員候補者の「拒絶志向」を押しとどめようと血眼になっている。不出頭処罰の規定を慎重に封印し、辞退や解任の件数を減らすことを必死に追求し、全地裁のホームページで「出前講義」の広報を打ち出させた。恥と外聞は皇居のお堀に捨てたようだ。
そう言えば、このあいだお堀で浮いているようなものを見かけましたよ。
(無視して)『読売』路線と最高裁の方針は明らかにベクトルが逆向きね。ハムレット顔負けの悩ましい局面という訳ね。
裁判の体をなさなくなることを覚悟して裁判員の参加確保をめざすのか、それとも裁判の体をなさなくなるのを懸念して裁判員の参加確保をどこかであきらめるのか。参加拒絶激増を前に推進勢力の内部混乱は収拾不能に陥りつつある。
10月11日の『大分合同新聞』はこのテーマに果敢に切り込んでますね。「福島地裁の判決は裁判員を務めて何かあっても補償しないと宣言したようなもの。裁判員になるのを拒否する権利を認め、やりたい人だけがやる制度にすべきだ」という声が県内の弁護士から上がっていると紹介したわ。
そういう意見が、それも法曹の中から出てくること自体が制度の破滅を示している。「やりたい者だけでやる」のでは制度の目的が否定されるというのが政府・最高裁の立場だからね。
制度の目的は普通の市民にこの国の司法の正統性を信じさせ、我こそこの国を守るという気概を持たせることさ。
破滅とは何かってか? 裁判員制度が登場する前からこの国を守るのは私だって思っていた数少ない人たちしか裁判員裁判のまわりに集まってこないことだ。
社説によると、県内の弁護士有志が裁判員裁判が始まった2009年に設立した「裁判員支援センター」が「過料の制裁を速やかに撤廃し、拒否権を明確に認めるべきだ」と訴えていると。代表は鈴木宗厳さんとの紹介も。
「やりたくないことを強制する」のは憲法違反だという考え方がいかに弁護士の間に強いか、参政権のようなものだから苦役の禁止にあたらないという最高裁の判決や今回の福島判決がいかに説得力を欠くものかということがわかる。
やりたくないのに罰則付きでやらせるのはどう考えても苦役です。
そうだ。もう一つ言えば、このような声が「裁判員を支援する」運動の中からわき上がってきたことに注目したい。秋(とき)は来た。「支援から是正意見」への流れは、断崖絶壁に追い込まれた政府・最高裁の拒絶の壁にぶつかり、今度は「是正意見から廃止要求」への流れに変わらざるを得ないだろう。
インコは、大分の弁護士さんたちに、敬意を込めて次のメッセージを送りたい。
「皆さん。もともとやりたいと思っていた人たちは皆さんから支援を受けなくてもやりたいと言います。皆さんはやりたくない人には拒否権を与えよとおっしゃっていますが、最高裁はやりたくない人たちはやめて結構と言っていますから、皆さんの支援活動は、『やりたくないなら出頭をどんどん断ろう』という運動に進めてはどうでしょうか。これからの裁判員支援は不出頭支援が軸になると思います」。
「イヤだなぁの気持ち」から「この制度は許さないぞ」に進もう!!
投稿:2014年12月17日
今から説明するよ。
福島地裁が裁判員を体験して外傷性ストレス障害が発生したことを認める判決を言い渡したのが9月末。その直後、東京地裁は、10月末に始まる予定の裁判員裁判を前に、検察が求めた被害者遺体のイラストの証拠調べを認めず、検察の異議申し立ても却下したんだ。
インコさんが話をする前に事件経過を説明しましょうね。
39歳の男性が64歳の母親の背中を殴るなどして死亡させ、傷害致死の責任を問われた。彼は介護疲れのストレスが理由だと弁明していた。当時、入退院を繰り返していた母親はかなり痩せていたらしい。検察は遺体写真の証拠調べに裁判所から難色を示され、それではと遺体のイラストを提出しようとして、これも裁判所に拒絶されたのよ。
被告人は犯行について争っていなかった。イラスト提出の目的は、犯行の凄惨さや被告人の残虐性を立証することにあったのだろう。被告人の残忍さを印象づけたいという検察のもくろみが裁判所に打ち破られたというだけのことなら単純な話だが、問題はそんなに簡単なことではなかった。
裁判所がイラストを採用しなかったのは「イラストでも裁判員の負担は大きい」という理由だったの(10月21日『読売』) 。でも、「負担を小さくしなければいけない」というのは、「負担を小さくしても構わない」ということを当然の前提にするわね。
「裁判員の負担の大小」と「真実発見の必要性の高低」を天秤にかけ、負担を減らすことを上に置いたことになる。真実発見がおろそかになっても良いとまでは言われていないが、リクツとしてはそういうことにならざるを得ない。
別の言い方をすれば、「裁判員裁判における真実とは、裁判員に過度の負担がかからない証拠によって発見される真実」と言っていることにもなるわね。
ここで、一言言っておきたい。警察が被害者の遺体を撮影したのは、どこに暴行の痕跡がありどこにはないとか、加害者の暴行に対抗する体力が乏しかったことを示すというような客観的な判断資料を残すためだ。それ以外に目的はない。
加害者が犯行を自白していてもいなくても、客観的な材料を揃えておくのは警察の基本的な仕事だ。
その写真を、後になって検察が「事件の凄惨さ」とか「被告人の残虐さ」とかの情状立証に使おうと考え出したとすれば、まっそのように見て間違いないと思うが、それは一種の「目的外使用」と言うべきだろう。
裁判長が「ちょっとそれはやり過ぎでしょ」とか「それでは裁判員に予断を与えることになるでしょ」と考えたことは十分予想できる。
問題は、そうならそうと言えばよいものを、裁判長が「イラストでも裁判員の負担は大きい」という言い方をしたこと。この事件では、写真だのイラストだので証明しなければならない問題は特になかったのに、裁判員の負担の大きさの問題をわざわざ持ち出してしてしまったことだ。
「裁判員の負担」問題が裁判官たちの頭を占領していたせいでしょう。また、こういう言い方をすれば、検察官も抵抗しにくいだろうという読みもあったでしょうね。
でも、裁判長のこの言い方は、「立証には裁判員の負担を考えるべし」という議論の扉を開けてしまった。そこのところを押さえた上で、「裁判員に過度の負担がかからない証拠」とは何かの話に入ろう。
確か、証拠の採否がいちばん論議されるのは「写真証拠」だったかと。
そう、だからここでは捜査資料としての写真を中心に考えることにする。
捜査に写真が登場したのは外国では1800年代かららしい。我が国では、銭形の親分も大岡越前もカメラは使っていなかった…と思う。だいたい写真機は20世紀に入るまでは一般人には手の届かない超高級の精密機械装置だった。近代戦での軍事利用の流れに乗って広く使われるようになり、事件現場に持ち込んでパチパチ撮りまくる「必須の捜査ツール」になったのは第2次大戦後のことだ。
現場の再現は、「刑事の手描きの絵図」によっていた。それが次第に「フィルム写真」に変わり、カメラやレンズの性能が向上して、撮影写真もレベルの低いものから精度の高い写真になり、仕上がりもモノクロからカラーに進んだ。そして今やデジタル真っ盛り。「動画」もフィルムからデジタルに変わった。捜査現場の視覚資料も時代によって大きく変わっている。
捜査に貫かれてきた考え方は言うまでもなく常に「よりリアルに」だった。「手描き絵図」より「写真」が、それも「カラー写真」が、それも「動画」が「よりリアルに」事実を再現できる。だからどんどん再現性のよいものにとって代わられてきたのだ。全国の都道府県警の鑑識担当部局に「写真係」が設けられたのもその流れの中のことだ。
写真こそ真実に肉薄する決定的な手法ってわけ。犯罪事実そのものも犯罪周辺の事実も写真を通して明らかにされるし、事実を争うのも写真の解釈を批判する形で行われる。再審請求事件で写真解析論が登場しないケースは珍しいくらい。
とりわけ無罪を争う事案では、写真が存在しなければ覆したくてもそのきっかけがないケースが多い。無罪を争わない情状事件だったらイラストでもいいのかと言えば、そんなことはない。イラストで被害者の痩せ方をリアルに描くことは本当に可能か。残虐さを意図的に強調することにはならないか。
何も疑うことなく「よりリアルに」と突き進んできた「刑事捜査の科学化」が、裁判員裁判の登場で、突如、「裁判に関わる人々にあまり負担をかけない限度での科学化」という絞りをかけられることになった。それは刑事捜査の歴史にかつてなかった制約。どんな刑事訴訟法の教科書にも載っていない新基準だ。
裁判員裁判の世界では、もう「カラー写真」から「モノクロ写真」への撤退が始まっているわ。イラストつまり「手描き絵図」への移行も現実になってきた。それは刑事捜査と刑事裁判の世界の「視覚証拠の決定的な退行現象」と言うべきでしょうね。
これからの裁判員裁判は、犯罪の成立に争いのない事件では、情状の良し悪しを判断するのに刺激的な証拠をどんどん排除してしてよいことにし、争いがある事件では刺激に耐えられない気弱な裁判員を事前に徹底的に排除してゆくことになるだろう。
その判決は「刺激の少ない証拠によれば次のように認定することができる」とか、「心臓が強い裁判員によれば次のように認定することができる」なんていう内容になるってことね。
でも、「真実発見よりも負担軽減を上に置く」考え方が裁判所の中で大手を振って歩くということは、刑事裁判の自殺宣言以外のなにものでもないです。
そのとおりだ。福島ストレス訴訟は、裁判員裁判の現場に絶体絶命の大穴を開けた。刑事裁判を「まがいもの裁判」に変え、「社会から平均的に集めた人たちによって行われる常識裁判」とされていた裁判員裁判を「一定の傾向を持つ人たちによって行われる特異な裁判」にしてしまった。
まがいもの裁判、つまり「裁判のようなもの」になっていく訳ですね。
へえい、できますものは、民事、家事、一般刑事、重罪事件は裁判のようなもの、お後がよろしいようで。
投稿:2014年12月14日
福岡で11月23日午後1時30分から同4時30分までの間、「裁判員制度はいらない福岡の弁護士有志の会」が主催して裁判員制度に反対する市民集会「“裁判員”という苦役からの自由を」が開催されました。 集会は、司会あいさつ、主催者あいさつ&論点説明、織田信夫弁護士による報告「福島ストレス障害国賠訴訟判決批判」、織田弁護士と李弁護士による論点討論&会場からの発言という議事進行で行われました。 最終回は、織田信夫弁護士と李博盛弁護士による論点討論及び会場からの発言をお送りいたします。
“裁判員”という苦役からの自由を
司会: 後半部を始めます。後半は織田弁護士と李弁護士の対話、いろいろな問題について対話を通じて論点を深めてもらい、途中からみなさんからのご質問などを織り交ぜていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。 いろいろな論点についてはちょっとしたレジメをお配りしておりますが、これを全部、網羅的にやるという意味ではありません。その中からピックアップしてもらいます。 進行役が最初の質問、口火を切るというのもおかしな話なのですが、ちょっと私、聞いておりまして分からなかったのが、2011年11月16日の最高裁大法廷判決がこの福島判決の構造を非常に複雑化して分かり難くしている、分かり難いのは私だけかな、その中で出てきた2011年裁判の上告人の上告趣意書が憲法76条1項と2項、80条1項しか主張していないのにということでした。 ここに条文があるのですが、官として下級裁判官が司法権を行使するというあたりについて、素人である裁判員が混じると裁判所の構成が変わってしまうのではないか、質的に転換するのではないかと思いました。 憲法76条1項と2項、80条1項を簡単に説明いただきながら、口火を切ってもらってよろしいでしょうか。
憲法80条1項には「下級裁判所の裁判官は最高裁判所の指名した者の名簿によって内閣でこれを任命する。その裁判官は任期を10年とし、再任されることはできる。ただし法律の定める年齢に達したときには退官する」とこう書いてあります。 76条1項と2項には、「すべての司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。特別裁判所はこれを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行うことができない」と規定されております。 小清水さんは、「下級裁判所の裁判官というのは、任命権者が内閣である者だけであり、その者だけが裁判の仕事を担当することができるのであって、素人が裁判に関与するのは憲法が定めている裁判所ではないので、これだけでも裁判員制度は憲法違反である」ということと、「仮にそうでないとしても、特別裁判所に該当するので、特別裁判所はこれを設置することができないという76条の規定に違反する」という主張をなさっておりました。 この主張だけを原審の高等裁判所でもしましたし、最高裁判所へ上告した後でも同様のことを言っております。「上告趣意はそれだけである」とわざわざ、「それだけ」という言葉を使って、それ以外は上告趣意に含めないのだということを明言されていたのです。 それに対して、最高裁判所は「小清水弁護人の上告趣意は多岐にわたる」と自分で上告趣意を作り上げてしまっている。 そのことに対して、私の方では「上告趣意のねつ造だ」という言葉を使った訳です。
私の方からもその点を補充しまして、小清水弁護人の上告趣意が手元にありますので正確に読みます。 正規の裁判官は憲法80条1項本文前段の規定により、最高裁判所の指名した者の名簿による。内閣でこれを任命することとされている一方、裁判員は市町村の衆議院議員選挙人名簿に登載されている者の中からクジによって全くの偶然で選ばれるにすぎない。その権限は正規裁判官と対等、場合によってはより強いものである。裁判員の存在を認める条文は憲法のどこにも存しない。裁判員の参加する合議体は憲法32条に定める裁判所ではない。司法権を持たないかかる合議体が刑罰を科すことは憲法31条に違反する。裁判員違法は最高法規憲法に違反する無効な法律であり、裁判員の参加する合議体は非合法にして珍奇珍妙な根無し草であり、宙に浮いた幽霊にすぎない。被告人に裁判員裁判を受けない権利は認められていない。正規裁判官に不当評決是正の道はない。また、裁判員の参加する合議体が仮に裁判所であるとしても、予備的にそれは憲法76条2項前段の特別裁判所に該当し、憲法違反である。 これが上告趣意です。 で、その部分が出ましたが、私の方から織田先生が先に述べられた立法事実がない部分、ここはとても重要で「裁判員制度を今廃止してもだれも困る人はいない。それは立法事実がないことの証左だ」。これは非常にわかりやすい論証だなと思いました。 裁判所がまず、「憲法が国民の司法参加を許容している」として、司法への国民参加を許容した点ですが、司法への国民参加、これは憲法が許容しているのでしょうか。
それについて私は、国民参加というのがどういう形かということになると思います。このように一般国民に網をかけてそれを全員に対して義務化するという国民参加は、憲法は予定していないと思います。 ただし、国民参加にもいろいろなスタイルがある訳ですよね。先ほども言いましたが、調停員とか司法員とか専門員とか司法への参加の形態があります。 80条1項には「下級裁判所の裁判官は最高裁判所の指名した者の名簿によって内閣でこれを任命する」と書いてある。では最高裁判所の裁判官についてはどう書いてあるかというと、「最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する」と書いてある。 最高裁判所大法廷の理屈というよりは、裁判員裁判推進派の意見は、「最高裁判所の裁判官というのは限られた任命形式というか人である。下級裁判所の裁判官というのは最高裁判所の指名した者の名簿によって任命すると書いてあるだけで、素人を排除するとは書いていない」と説明しています。 私は、それはそれで良いと思うんです先ほど言いましたが、宮沢先生は「80条1項の下級裁判所の裁判官というのは、これは何も裁判所法に乗っている裁判官ではない。これを例えば、昔は天皇が任命したものは官と言った。新憲法になってからはそのように限定する必要はない。これを裁判員と使ってもかまわない」というように仰っている。 要するに任命形式が内閣であって任期が10年、身分保障もあるということであれば、素人の人がそのような地位についたってかまわないと私は思います。 参審員とか参与員とか、どのような名称にするかは別にして、裁判所法で定めて裁判官を補助するような能力のある人を選んで、裁判に関与させて実質的に判断権も与えるという形式を取るならば、それは決して憲法違反だとは思いません。 しかし、全国民に対して網をかけて義務化することを原則としていることは80条では全く予定してないことであり、そういう意味で小清水さんが言われることは正当だと思います。憲法は確かに素人が裁判官であってはいけないとはいっていないけれども、民主的正統性は保たれなければならないというのが私の考えです。
すると国民が司法に参加することは、憲法は許容しているとところが、福島の裁判所は一歩踏み越えて、論理をすっ飛ばして負担や義務の問題にまで言い及んでいると。そこは民主的正統性において問題であると。 さて、その民主的正統性なんですが、裁判員制度推進論者には「国民参加は民主主義と直結している。なぜなら民主主義は討論を経る。裁判員は裁判官と討論を一定の結論に至る。これはまさに民主主義ではないか」という意見がありますが、この点はいかがなんでしょうか。
裁判制度推進派の論で「参政権同様論」よりは幾らか説得力があるのはこの「討議民主主義」ということなんですね。これはアメリカの学者の方が言い始めたことなんです。 ただ、それには立法、行政と司法とを混同していることだと思います。国民の代表かどうかは別にして、単に国民が意見を述べる機会が与えられる内容であれば、それは司法という特殊な分野には通用しないこと。司法の分野というのは、そういう意味において任命形式は別にして、立法、行政と結論を出す過程においては、民主主義には馴染まないと。これは金子肇さんが『裁判法』という本で、その司法が結論を出すということにおいて民主的であると言うことは望ましくないと書かれておりますね。民主主義というのは司法にとっては一つのジレンマだという言葉も使われております。そのように考えている方は結構多いと思います。というよりは、司法制度改革審議会でもそのあたりのことは最終的には了承されていた。当初は「国民参加の民主主義」というように言っていましたが、最終的には「民主主義を基本にする考え方は間違っている」といって、「理解の増進、信頼の向上」という言葉で修正されたというのが正しい言葉ではないかなと思います。
要するに民主主義の正統性であるところの、討議をして一定の結論を得るというところは立法、行政では結論に正当性を根拠づける上では意味のあることだと。しかし、司法ではジレンマのあるところだというお話ですね。 現在、裁判員制度は民主主義と直結するものではないという考えが了解されていることとお考えですね。
織田:すべての人が了解しているとは思いませんが、司法制度改革審議会の多数意見はそのように、民主主義に基づくものではないという考え方で立法がなされたというように理解しております。
李:司法への国民参加が民主主義に必ずしも直結するものではないけれども、この裁判員制度は国民に義務づけることが容認されていることについて、推進派の人たちは何だと言っているんでしょう。強制することができる理由について。
織田:これは福島の裁判で、被告側、つまり国側が言ったことですけれども、簡単に言えば「義務づけなければ人は集まらない」ということなんですね。明確にそう言っています。だからこそ義務づけるんだと言っているんです。 問題は、そのようにすることが正当なのかどうか、憲法上、個人の尊重ということもありますし、司法の民主的正統性について果たして容認されるのかどうかということの検討を怠って、集まらせるために義務づけるんだと言っている訳なんですね。 それ以外に理由のつけようがなかったんじゃないかと思います。福島の判決も同じようなことをいっています。
李:要するに義務づけをしなければ参加しないだろうと、制度自体が成り立たないということですね。
ちょっとその点ですね、国民に、司法への参加を求める参審員というのですか、そういう制度を取っている国はフランスやドイツにあります。フランスは日本に似て義務づけや制裁が定められているそうなんですね。ドイツはそうではない。ドイツは本人の了承はもちろん、参加する国民について議会の承認を得るそうなんですね。本人の了承を得るというドイツでは義務づけられていないと聞いています。 私は準備書面の中でも書いたのですが、「クジで選ぶというよりは、国民の中から私は裁判員としてその職務を担当したいと手を挙げたとする。手を挙げたらだれでも良いかというのではなく、本当にその人が裁判に参加する適正があるかどうか、能力があるのかどうか、そういうのを慎重にチェックする。クジで選ぶよりははるかに良い裁判ができるのではないか」と。 ですから、国民の参加と義務が当然に結び付くものではないと思います。
参加=即義務化というのは異議ありというのは分かりました。推進派というか容認派の方は義務づけなければ制度自体が成り立たないという消極的な理由ですが、積極的な理由として制度ができるときの議論の中で、「規制緩和社会の中での治安維持のための国民の意識改革が必要。このためには、無理やりにでも参加させて国民を教育しなければならない」とこのように言われた方がおられます。その点はいかがでしょう。
これは『法律のひろば』という雑誌の中で、司法制度改革推進本部の山崎潮さん、その後、千葉地方裁判所の所長さんになって間もなく亡くなられた方なんですけれども、その方が堂々と述べていることなんですね。 国民の意識を変える。今の社会というのは国民に参加してもらわないと治安が成り立たないんだと、意識改革をしてもらうんだと堂々と言っているんですね。 私はその『法律のひろば』を読んだときには、「まあ、よくここまで明け透けにいうな」と。山崎さんというのは個人的にちょっと知っている人で、お人柄がとても良い人なんでつい本音を言ったんだなと。これを読んで、裁判を良くすることではないんだと。彼らも分かっていたし、本音を言ってくれたんだなと思いました。 審議の過程でもそれらしきことはちょいちょい言っているんですよね。「素人が入って裁判が良くなるということはない。しかし、幾らか社会秩序のためには良いのではないか」というようなことは言っております。
李:今の点は確認ですが、山崎さんは裁判官だったんですね。
織田:はい、仙台におられたこともありますし、東京高裁では民事の裁判官でしたね。民事訴訟法の改正にも関与されましたね。そういう意味では行政的な手腕のある裁判官で、スポーツマンでしたね。余計なことですが。
山崎さんは裁判官が本職であって、内閣の司法制度改革推進本部の牽引役である事務局長となって先ほど言った「治安維持のための国民の意識改革」ということを公に発言されていたということですね。 そこが裁判員制度義務化の理由の一つだという風に理解できます。 では、憲法上、あるいは日本の法制上、何らかの義務化をしているものはあるんですが、勤労の義務、納税の義務、義務教育とかありますけれども、参議院や衆議院では、国民は証人として呼び出されれば出頭の義務があります。これと比べてどうなんでしょう。
織田:証人義務のことについてはよく引き合いに出して言われますが、これは逆の規定の仕方ですね。証人としてだれでも呼ぶことができ、これを拒否することはできないということなので、国民にはそのような義務があるということですね。憲法に全く根拠のないことではない。その他、災害防止法とかでも国民の義務が定められているという京都大学の教授もいます。これについては罰則規定があるのかなと調べてみると、真摯な協力を要請するというものでした。
李:推進論者や容認論者の人たちは、「他の先進国も推進しているじゃないですか、フランスにも罰則規定があるじゃないですか、先進国の仲間入りという意味でも参加を義務づければ良いじゃないですか」という乱暴な話もありますが、その点はいかがですか。
私が福島の裁判で「立法事実がない」と言いましたときに、国の方で「立法事実がある」ということの根拠をいろいろと言ってきました。 国は立法事実として、「国民の司法参加によって司法の国民的基盤、民主的正当性がより強固になることに加え、刑事裁判がより迅速に進みよりわかりやすい内容になることが期待される」と言ったのですが、これは立法事実とは言えず、立法目的ですね。 そして今言われた「欧米では以前から、陪審制や参審制など刑事司法に国民が参加している制度が確立している」と言いました。
私の方ではそのことについて、こう言いました。 被告が言いたいことは、『G8などにおいて司法に国民参加がないのは我が国だけ。G8のあり方は民主主義の在り方のように思われる。我が国だけが国民参加がないのは民主主義の在り方としておかしい』ということだと思います。他国がやっていることをやっていないからやるというのは、全く非論理的で根拠のないことである。各国にはそれぞれ歴史的事情、社会的背景があるから制度として存在しているのであって、他国で行われている制度だから我が国でも必要だとは当然になるはずもない。他国で行われているというのであれば、他国にある制度の成り立ち、その歴史的変化、その原因、つまり立法事実を明確にしなければならない。また、その制度を模倣しようというのであれば、現時点での制度の問題点、国民の受け止め方など広範かつ緻密な検討が必要であろう。司法審でも国会でもそれを行った形跡はない。おざなりの調査が司法審でなされただけである。国民参加の先進国であり、憲法に陪審の規定がある民主主義国の旗幟を自称するアメリカは憲法第2修正で人民が武器を保有し、又は携帯する権利はこれを侵してはならないと定める。被告の論理からすれば、我が国でも国民に武器を持たせるべきだということになるのだろうか。アメリカではこの武器の所持権が憲法に明記されていることによって多くの深刻な殺傷事件が頻繁に発生していることであり、現在の我が国でこの制度を導入しようと考える者は一人もいまい。ジュローム・フランクは『裁かれる裁判所』という本の中で「よく訓練された誠実な事実審裁判官が陪審をつけずに行う審理に比べればはるかに望ましくないと考えるものである」と述べて、陪審裁判を批判している。福島県民新聞の記事、地元の新聞ですが、これは証拠に出しました、アメリカに研修に行った法務省関係者がアメリカ人に「日本でも陪審制度のような新制度を導入する」と話したら、一人の例外もなく全員が「どうしてそんなバカなことを」と驚いた。「すでに陪審制度の限界は明らかになっている。それがこちらの常識。今からでも遅くない。止めた方が良いと言った」と。県民新聞に堂々と載っています。司法制度改革審議会は審議の過程で海外調査を行っています。イギリスのバリスタ教会では何と言ったかというと、「多民族国家の英国において、少数民族に属する者の権利を保護するなどの見地から適正に社会の構成を反映しうる陪審は社会の団結を維持・強化する上で有益である。裁判官は多くの場合、中流階級出身の白人の男性である」と述べていることが明らかにされています。我が国は多民族国家であろうか。少数民族の保護のため裁判員制度を取り入れる必要があろうか。またイギリスにおいては、陪審制度は最終的にはほとんど利用されなくなるかもしれないという予測もあります。イギリスにおいては陪審員の判断の精度において誤判率は6%と高いと報告されている。ドイツの参審裁判所では、プロの意見と異なる素人の意見は判決になかなか影響しないと言われている。また、フランスの陪審員の場合、陪審候補者として召還されても、仕事を休むより罰金を払った方が経済的だと人が少なくないと言われている。このことは『ジュリスト』の中で詳細に紹介されております。最高裁は司法審の第30回会議で「陪審制度においては誤判率が高い」と述べ、今朝の新聞でしたか、誤判のことが載っていましたね。強姦か何かで10年拘束された人が釈放されたと書いてありました。
諸外国で採用されている、あるいはG8の中でこういう制度を取っていないのは我が国だけという考え方は、司法審も国会もあるいはチェックしていたであろうけれども、思い込みが強すぎて、その他への慎重な配慮を欠くに至ったとも考えられる。 だから、大切なことは他国にあるからおかしな制度ではないなどと飛躍して考えるのではなくて、刑事裁判を変革しようとするならば、真に刑事裁判として望ましいものであるか否かを慎重に検討し、結論を出すことではないだろうか。
まあ、これはさらに余計なことなんですが、「諸外国にあるからというならば、我が国では憲法上、陸海空軍は存在しない。徴兵制もない。しかし、そのような国はどこにもないであろう。被告の言い分からすれば我が国でも軍隊を持ち、徴兵制を定めるとは当然であろうとなるだろう。G8の中で強大国が揃って核兵器を持つ。我が国が世界第3位の経済大国であれば、それに倣って核兵器を持つことは当然許されることになるという理屈にもつながる。この被告の主張は苦し紛れの主張だ」と反論をしました。 ちょっと長くなりました。
ものすごく極めて説得的な反論のように思います。 国策として推進するところは、冒頭に述べましたとおり、行き着くところは憲法の括弧つき改正したいという流れの中に、この司法制度改革が位置づけられており、結局、他の先進国にあるような戦争を含めた徴兵を念頭に置いて、裁判員制度の義務化があるやに思えます。 それで、じゃあ日本の司法制度、刑事裁判を担ってきた職業裁判官は、歴史上、職業裁判官にそもそも民主的な基盤は薄かった、あるいはなかったのかあったのか、その点はどうなんでしょう。
私もその一人でちょっと言い難いんですが、実は裁判所を辞めて弁護士になったとき、いわゆる雛壇に並ぶ裁判官を見て、この人は本当に裁判をする資格があるだろうかと、自分のことを振り返って思いました。自分が7年間、裁判官をやってきて、いわゆる望ましい裁判をしてきただろうかということを大いに反省させられました。 裁判は、国民が寄ってたかって文殊の知恵で何とかするというのは好ましくない。憲法も法律も知らない人が寄ってたかって裁判をすれば感情的な裁判、直感的な裁判となり、冷静な判断ではないことは明らかです。だからといって、裁判をする人が単に官僚、生え抜きの人間で良いのかということになると大いに疑問で、自分のことを考えてもやはり法曹一元、少なくとも裁判官になる人は社会的に経験が豊富な人がなることが望ましいと思います。
社会的な経験が豊富であれば、法律や憲法を知らなくても良いのかということにもなりますので、そうなると訓練された弁護士からなるということが、少なくとも絶対に良いということではなくても、相対的には今よりもはるかに良いのではないかと。 現実的な問題として、下級審裁判官の中でも地方裁判所や簡易裁判所の裁判官をすぐに弁護士から全員をというのは不可能だと思います。
実は、新潟大学名誉教授の西野喜一先生に「法曹一元化が残された道ではないかと思う」と言ったところ、西野先生は「北海道で裁判官になる人は居なくなるじゃないか」と言われて反対されましたけれども。 それはやり方によると思いますけれどね。金銭面で特別に保障をするとかです。
まず、高等裁判所の裁判官から始める。そこには非常勤の裁判官もいいのではないか。職業裁判官が1人のところへある一定の弁護士が入る、又は弁護士だけで担当するとかですね、そういう法曹一元の在り方が良いのではないか。そこから改革をしていくということがまず日本では現実的な法曹一元の取り方ではないかなと思っています。
私も一弁護士ですが、法曹一元化を少しでも実現するというのが司法制度改革の当初の目標でありました。実際のところは、弁護士からの裁判官への任官は非常に少ない。志望する人も少なければ門戸も限られているのが実情のようです。 さて、その裁判官ですけれども、裁判員制度が実施される前から裁判官にあった問題とは、司法官僚という点です。裁判官だった時、あるいは弁護士になってから見た司法官僚という問題についてありましたらお話してください。
私個人を振り返って、裁く力があったのかなと本当に思いますけれども、私が裁判官担ったときには、左陪席、まだ一人前の裁判のできる資格がないときでも、自分が裁判長になった気持ちでと自分に言い聞かせてきました。議論の中でも、右陪席や裁判長から言われたことで疑問があるときには、資料室でいろいろな資料を調べて自分の意見を述べるということを心掛けてきました。 先日、福井の裁判所で原発差し止めの判決がありました。近代まれに見る良い判決だなと思いました。だから、司法官僚だからいけないということもないと思います。 大津事件の例もありますし、まあ、あれはいろいろと批判もありますが、あのように政治に対して毅然とした態度を取って刑事の判断をするという方もおられますし、裁判員制度反対運動をしておられる元裁判官の方なんかも本当に独立の気概を持った人ですし、問題は選択の問題ではないかなと思います。
国家権力、司法権力を行使して国民の財産や身体の自由、生命にまで影響を及ぼすのが、裁判なんで、裁判官、あるいは司法の独立をどれだけ確保できるかという選択、どういった人を選ぶかという選択の重要性は、今お聞きした中でもわかりましたし、今まで裁判官として任務を担わせようとしてこれまで日本の中では選択し実践されてきた。 司法の独立、具体的には裁判官は良心に従って独立して憲法と法律のみに拘束されることが義務づけられる、そういった重たい重たい責務を課せられている。裁判員はそれと同じような権力行使ができる。その問題性について、先生はどういう風に捉えられておられますか。
76条3項と80条の問題ではないかなと思います。76条3項は「すべて裁判官はその良心に従い、独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」という風に規定されています。この裁判官というのは、最高裁判所もおそらく下級裁判所もそうだと思いますけれども、裁判所法に定める裁判官という風に限定して考えていると思うんです。 私はそうではないと思います。これは裁判を担当する人という意味だと思います。先ほど、素人でもなれない訳ではないと言いました。素人でも裁判を担当する者はこの76条3項の裁判官の独立、司法権の独立といった気概を持った人であるべきで、そうでない人を選んではいけないし、なってはいけないと思っています。
李:クジで選ばれた人の中からというと、その気概を持っているかどうか判断しようがないですね。
織田:そうです。
また、刑事訴訟規則の55条で、刑事裁判にあたっては、名前を明らかにして裁判をしなければならないし、その判断については責任の所在を名前を明らかにすることで明確にしなければならないとなっており、これが日本の刑事司法上手続き、法令上の枠ですね。 ところが、裁判員は名前が出ないので、この枠の中に入らないじゃないですか。 いかがですか。
結局、先ほどの司法権力を、司法だけでなくて権力を行使するためには、民主的な正統性が必要だと私は言いました。 権力を行使する場合、ただ任命者がいれば良いというだけではなくて、国民のすべてに対して責任を負うということです。 判決は、個々の原告と被告人に対して、あるいは被告人と検察官に対して出される訳ですけれども、これは体制的といいますか、国家的な意思決定として影響を与えます。ですから国民に対して説明責任を果たしてもらわなければならないと思うんですね。 やっぱり、今回の福島裁判所の判決も、本当に国民に対して説得力があるものと言えるのかと言うと、とても言えるものではない。やはり、国民全体に対して、裁く者は自分の裁く理由、理由付けといいますか、それが必要だと思います。 みなさんはどう思われるかわかりませんが、私は陪審制度にも反対です。陪審制度というのはご存じのように事実認定のみを担当すると。刑の量刑には関与しないというのが陪審の在り方ですよね。陪審はその事実認定に至った経過については説明をしません。国民に対する説明責任というのは陪審制度では果たせないんですね。 裁判官もその陪審の結論だけをとって量刑を決めんですが、これもそういうお国柄であると言えばそれまでですが、説明責任を果たしていないと思います。国家的な意思決定についての説明責任を果たしていないということで許されないことだと思っています。
先生のお書きになっている中で、「国民主権の実質化の観点から見たら、NOを言える制度こそ国民主権の実質化、すなわち裁判員制度への参加を強制されることに対して、手を挙げる、声をあげるこということこそが国民主権の実質化ではないか」というようなことを仰っていますが、そのことをもう少し説明していただけますか。
憲法学者の意見も聞きたいと思うくらいですよ。 国民が民主主義国家でもって主権者だということはどういう意味なのかということだと思います。これは先ほどから言いましたように、「権力を行使する代表者を選任する」ということであって、一人ひとりが「主権者だから俺は偉いんだ」とか、「俺は意思決定ができるんだ」ということではない。これは『新しい憲法の話』という文部省が作成した本に出てきます。そういうことを書いているのはこの本だけではないかと思いますが、「国民主権というのは、あなた方一人ひとりが主権を持っているんじゃありませんよ。みんなが全体として持っているんです」ということを書いている。これはすごいなと思います。
それは国家意思の国家意思の決定に関与する、これは国民が全体の意思として、投票なら投票で選ばれた人によって、そのような形でもって権力を行使する。しかし、国民はそんな権力の行使の仕方について一人ひとりが行使することはできませんが、利益は享受するということも書いてある。
結局、利益を享受する主体であるのが国民主権ということです。
裁判員なんていうのは利益を行使するのではなくて、司法の意思決定に自らが関与するということですが、これは民主的に選ばれた人でなければ関与できないはずなんです。 裁判官も国民ですからね。民主的に選ばれているという意味では民主的正統性がありますけども、先ほどから言っているように裁判員というのはクジで選ばれた人にすぎない。任命系統に民主的正統性がないとなれば、裁判員という権力の行使の仕方はいけない。しかし、裁判を受ける権利、裁判によって自分の基本的な人権を擁護してもらう、被告人であれば正当に裁かれるという権利は、被告人も国民として国家主権者としてあるということになります。 この点について、憲法学者の意見も聞きたいと思いますし、みなさんの意見も聞きたいと思います。
司会:お二人に対する質問とか、それに拘らず自分のご意見なども出していただきたい。
女性: 福島地裁の裁判の話をインコのウェブで見て思ったことなんですけれど。潮見裁判長は裁判員裁判を知らないのではないか。織田先生が立法事実をと言われたとき、国側は最初、そんなことはやる必要がないと言った。潮見さんが「違憲判断をする上で立法事実は重要。立法時には刑事裁判の在り方への批判があってこの法律ができたはず。当時の刑事裁判の状況について議論してもらわないと違憲かどうか判断できない」というようなことを言われたと。そんなことはあったのかと。裁判員法ができたとき、「これまでの裁判は正統に行われてきた。だから司法への理解と信頼の向上のためだ」と言われていたはずです。こんな基本的なことが分かっていない裁判長がこの判断、裁判をやることに疑問を持ちました。
後、刑事被告人にとって、裁判員が苦役かどうかは関係ないと思います。だから敢えて上告趣意書にされなかったのではないでしょうか。そんなことも大法廷も福島地裁もわからなかったのか、疑問はすごくあります。 裁判記録をずっと読んでいて潮見裁判長にはいろいろと疑問がありますが、判決を読んだ最大の疑問は、裁判員が職業でないということです。それは、徴兵よりひどい話になるのではないかと。職業軍人がいて、徴兵制があるとすると、徴兵されると帝国軍人なら軍人としての公の地位を与えられて、人を殺す権利を与えられるというか、人を殺すことを認められる。 しかし、職業でないとなると、死刑だとか、懲役30年とか、1年でも2年でもいいですけど、職業的裏付けがない人が公権力を行使するというのが良いんでしょうか。
今、仰ったように、潮見裁判長は裁判員制度のことを知らない、私は最初から知らないと思っていました。まあ、無理もないというか、まず民事の裁判官ですから刑事のことは知らないでしょう。裁判員制度について裁判所の中で真剣に検討している裁判官なんていうのはまずいないと思います。自分の日々の仕事に追われているということもあるかも知れませんが、本当に裁判員制度というのは日本の司法制度にとってどういうことなのかという問題意識を持ちながら、日々仕事をしている人は刑事裁判官でもいないんじゃないかと思います。 法律がこうしている、最高裁判所がこうしているということで日々過ごしているんではないかと。 元裁判官で学者になっている瀬木比呂志さんは「今の裁判所でもって裁判員制度反対などと言ったら身の置き所がない」と言っていますね。まあ、そういうことで裁判員制度のことは考えないようにしているんじゃないかと。潮見さんも悪意であのような判決をしたとは思わない。ともかく最高裁判所の言うとおり、それに従うということで判決をしたのだと思います。 もし、本当に国民のことを思うなら、Aさんの苦渋を真剣に考えるならば、国会で何を審議したのか、司法制度改革審議会で何を審議したのか、推進本部で何を検討したのか、検討すべきで、私は検討してもらうための資料は素人の書いたものから専門家の書いたものまで全部出しました。それでもやはり、そこまで気を回すことができなかった。やはり裁判員制度を批判すること、それを推進する最高裁の裁判官を批判することは下級裁判所の裁判官にはできなかったのかなという風に思います。 私は、潮見裁判長は裁判員制度を知らないということを前提にして本当にいろいろな立証、細かい主張もしました。できるだけのことはしたと思っています。
男性A: 私は裁判員制度というのは、司法における非正規、派遣、使い捨てだとこのように考えております。お二方はどう思われていますか。
先ほどから出ておりますが、本来、職業としてあるべき立場なのに、職業ですらない。ですから、非正規、使い捨て、派遣、言えばもっとそれよりも酷いのかなと。一応、日当、旅費は出ますけれども、断ると罰せられるということで、より酷いものだと思います。
織田: ただいまの答弁を引用します。
司会: 弁護士の岩本さんはいかがですか。
弁護士:岩本 私は裁判員制度には反対をしてきたんですが、どこか引っかかる部分がありました。織田先生のお話を伺って、基本的には法律家としての考え方として「こうなるはずだよな」ということが自分なりに整理させていただいて、良かったと思います。
司会: 私も非常に充実した内容で、嬉しくここに立たせていただいております。
男性B: 来月の10日に施行されることになっている秘密保護法なんですが、これとの兼ね合いがどうなっていくのかというのがあって、それこそ秘密保護法の別表で定めている4類型に該当する秘密を漏らした場合には罰せられることになっていますけれども、もし、そうやって罰せられる人を刑事裁判で裁くことになったら、裁判員は罰せられる人の罪がどういう罪であるのか、もしかしたら知ることができないのかなと思ったりしています。 知ることができないまま裁かせられるということは、心の負担というのが今の普通の裁判員としての仕事よりもさらに重いものになっていくような気がして。 悪法同士がお互いに邪魔をしあって、結局、どこからか自滅していくんじゃないかなと思っているんですけれど、こういう見方は楽観的過ぎるんでしょうか。
特定秘密保護法の罰則が裁判員裁判の対象事件になるかどうか、まだ私、把握できていないんですけれども、万が一、死刑もあり得るような事件で、特定秘密保護法で対象となっている特定秘密に関わるようなものが証拠となるような事件があり得るとしたら、裁判員も当然、秘密のベールになったもので証拠として判断しなければならない。裁判官も含めてですが。秘密の部分が増えると。 ただでさえ、裁判員裁判は、裁判員の心理的負担を軽減するために、証拠については生の写真ではなくてイラストにしようとか、どんどん事実から遠ざけられたり証拠から遠ざけられたりしていく中で、秘密ということが出てくると、なおさら判断は難しいし、本当にこれでこの人に対して懲役だとか死刑だとか言っていいんだろうかという悩みを、裁判員、裁判官もですけれども、当然抱える場面は確実に増えていくと思います。
男性C: 私も裁判員制度絶対反対なんですけれども、今日の話を聞いてつくづく思ったのは、いわば素人の裁判員に裁かれることをマイナス200とすると、職業裁判官に裁かれるマイナス100と、マイナス200が良いのかマイナス100が良いのか、選択肢が絶望的であると気がするんですよね。 確かに裁判員制度とは非常にひどい制度だと思うんですけれども、司法官僚といいますか、職業裁判官のこれまでの在り方、刑事事件での被告の裁かれる側から言いますと絶望的な選択肢しかないような気がしておりまして、その意味でいうと、職業裁判官の在り方、先ほどもありましたが、良心に従って裁いているとは思えない。 重たい天秤を全く別の重たい天秤で、真実かどうかとか良心に従っているかどうかとは別の天秤にかけて判決を言っているという気がするんですけれども。 まあ、そのことを余り言っても仕方がないんですが、裁判員裁判を導入することによって裁判官の意識とか、仕事の内容とかはどうなっていくんでしょうか。システムの問題ではなく、裁判官が裁く裁判も引きずられて影響してくるということはあるんでしょうか。
まず、裁判員と一緒に裁判を担当する裁判官について、非常に裁判員のご機嫌を取るというか、裁判員というのはお客様というか、裁判員の評議での発言はできるだけ尊重しようとか、そういう風な気持ちになって、現実にそういう風な判決が出された。それが特に量刑の問題などでは最高裁判所では破棄されたりと。 要するに、これは最高裁判所がいけないんだろうと思いますが、裁判員の意見は国民の意見なので重視しなければならないと。国民主権ということをはき違えているのだと思いますが、国民の意見だから尊重しなければならないと、なっているんじゃないかなと思います。本来は、間違っていると思いますけれども、これが一つの流れですね。 現実にコリンP.A.ジョーンズさんというアメリカの弁護士で日本で教授をしている人は著書の中で「裁判員裁判をやって一番喜ぶのはだれか。これは裁判所ではないか」と書かれていますね。それは「誤判をしてもそれは裁判員の所為にできる。私しゃ知らんよ」と。 それと結び付くかどうか分かりませんけれども、最高裁判所がここまでして、上告趣意をねつ造してまで裁判員制度推進の御託を並べるというのはなぜかということなんですね。 それは裁判所に都合が良いからだと思うんですね。
第一には、彼らが嫌がっている陪審制度というそういうものは採用しなくて済みます。裁判員法の33項には刑事事件について陪審を採用することは構わないという趣旨のことが書いてありますが、これは永久に没です。 そして、先ほど言いましたように、裁判の結果を裁判員の所為にできるという利点がありますね。 もう一つ、ある人の意見ですけれども、経済的にも裁判所は裁判員制度にとって潤おうと。例えば、留学とかなんとかに派遣できる裁判官も増えるとかね。 要するに、裁判員制度というのは裁判所にとって美味しい制度であるといわれています。
それから控訴審の裁判官の意識はどうかと言いますと、千葉地裁が麻薬取締法違反の事件で無罪の判決をしたことに、東京高裁のある裁判官が逆転有罪、それも重刑、無罪から一転、懲役10年と罰金700万とかという判決をしました。気骨があるというのか、裁判員裁判何者ぞという対応をする裁判官もおります。 しかし、大阪地裁で求刑の1.5倍の判決をした裁判官がおりました。これは自分の子どもを虐待死させた事件でしたが、地裁の1.5倍判決を高裁はそのまま引用しました。さすがに最高裁判所は慌てましたよね。これは先ほど言いました千葉の事件でもってなるべく裁判員の意見を尊重しなければならないといった同じ部が担当することになりました。
結局は、1.5倍はやり過ぎだということで自判をしました。被告人は2人いたんですけれども、そのうちの1人に対しては求刑どおり、もう1人は奥さんですが、求刑より2年低い判決を言い渡しました。 高等裁判所まで毒されているというとなんですけれども、裁判員裁判の判決は尊重しなければならないんじゃないかなという風潮が出ていたことは間違いないんですが、最高裁判所はやり過ぎだと破棄しました。
裁判官にも裁判員制度で揺らいでいる人とそうでない人がいるということではないかなと思います。
まだ尽きせぬご意見とか質問がありそうな雰囲気ですが、会場の都合もありますので、これで一応閉めさせていただきます。 長時間のご報告ありがとうございました。 まとめというのは力が及びませんので、私が感じたことを一言だけ言わせていただいてまとめに替えさせていただきます。 福島裁判の判決書きを読んだときには、正直言って、一読ではよく分からなかったんですよね。そのような複雑な構成になった原因が2011年11月16日の最高裁大法廷の無茶苦茶な判決にあることがかなりはっきりしました。その最高裁判決の問題点が上告趣意を歪曲してまで裁判員制度への批判を封じる政治的な判決を出していること、それが今の司法の危機を象徴的に示していると思います。 今も織田先生が触れられた、被告人の選択権拒否の問題2011年1月13日、それから事実認定について裁判員神話とも言うべき2012年2月13日の判決、とにかく、批判が相次ぐ裁判員制度にお墨付きを与えていると。福島の裁判もそうですよね。 ここに治安立法的な性格というのが示して余りあると思います。
これまで福岡ではちょっとご紹介がありましたが、「追求する会」で裁判員制度はいらないということで運動を進め、司法と民主化の問題、改憲と足並みを揃えて進展していることへの問題、被告人の立場や弁護人の立場からの問題などかなり深めて参りましたが、具体的に裁判員としての苦役を強制されている一人ひとりの国民の立場の問題についてはこれまで議論を深める機会は得られませんでした。 今日はかなり実りの多い集会となりました。
最後に、裁判員制度は合憲だという最高裁の無茶苦茶なお墨付きが出てしまった、これを実務的にひっくり返していくのは簡単ではありませんし、難しいと思います。私たちもどう運動を進めるかと言うときに呆然とするような思いもよくしますが、やはり廃止のための鍵、キーポイントというのは、「裁判員が参加しなければこの制度は壊れる」ということです。 そこに鍵があると思いますので、この制度の危険性、矛盾を暴いていくことで、一人の拒否からみんなの拒否へ、今、織田先生が仰った「NOこそ国民主権の実質化だ」という言葉を噛みしめながら、運動を進めていきたいと思います。 本日はありがとうございました。
投稿:2014年12月7日
福岡で11月23日午後1時30分から同4時30分までの間、「裁判員制度はいらない福岡の弁護士有志の会」が主催して裁判員制度に反対する市民集会「“裁判員”という苦役からの自由を」が開催されました。
集会は、司会あいさつ、主催者あいさつ&論点説明、織田信夫弁護士による報告「福島ストレス障害国賠訴訟判決批判」、織田弁護士と李弁護士による論点討論&会場からの発言という議事進行で行われました。
今日は、織田信夫弁護士による報告「福島ストレス障害国賠訴訟判決批判」をお送りいたします。
“裁判員”という苦役からの自由を
報告「福島ストレス障害国賠訴訟判決批判:織田信夫弁護士
私は、7年ほど裁判官をやっておりました。
その初任地が福岡で、福岡には3年住んでおりました。室見の官舎に3年、非常に快適に過ごさせていただき、長男も福岡で生まれております。非常に懐かしいですが、すでに50年も前の話ですので、今とは環境は全然変わっておりますが、懐かしいという思いをもって今日は参りました。
私は非常に話が下手で、今日一緒にお話をしていただく予定だった高山先生のように弁舌さわやかとはいきませんが、訥々とでも私が経験したこと、あるいは思うことをお話したいと思います。
今日お話することは福島国賠訴訟のことなんですが、李先生からご紹介がありましたので、しかも核心をついたものでしたが、一応、判決を読んだ者としてお話したいと思います。
福島国賠訴訟は、今年の9月30日判決となりました。結論は原告の請求を棄却する、つまり原告の負けということでした。
私ともう一人、女性の弁護士が訴訟の代理人を務めました。
この事件は先ほど、ご紹介がありましたように、裁判員として強盗殺人事件に関与して、殺人現場の生々しい証拠写真を見たり、被害者が死亡直前、消防署に救いを求める断末魔の叫びといいますか、そういう録音を聞いたことによって、急性ストレス障害になった女性、Aさんが国に対して損害賠償を請求したものです。
福島県郡山の方がなぜ私のところに来たかというと、私が「裁判員制度はいらない大運動」の呼び掛け人の一人になっておりますので、インターネットか何かでご覧になってお出でになった訳です。
自分の辛い思いを他の人にさせたくないので、なんとかこれを実現する方策はないものだろうかということでした。ソフトなやり方をするならば、「裁判員制度はいらない大運動」の機関紙などにいろいろなご意見やご感想を登載するということもありますが、強いやり方ならば国家賠償請求をするという方法もありますと説明しました。
国家賠償請求をするということは窮極的にはお金を請求するということになりますよとお話したところ、「私はお金の問題ではない。お金を請求するとお金をほしがっていると誤解される」と最初に言われました。私は方法としてはそれが国に対するインパクトが一番強いやり方なので、「お金の問題ではない」ということは記者会見などでお話されればいいのではないかと言いまして納得していただきました。
ところが、実際に着手してみますと、憲法問題ということで進めたものですから、Aさんにとってはご不満があったようで、心的外傷に対するケアを中心に要求するというようなことにできないだろうかという話になってきて、それは最初の話と違うということで、一度は辞任という話まで出ました。最終的には「憲法問題でやりたい」ということに同意していただきまして、憲法問題中心の国賠訴訟ということで提起しました。
第1回弁論の際、裁判長から「憲法問題以外で賠償請求は考えられないか」という釈明要求があったのですが、「そういうことは考えない」と答弁しました。
憲法問題として、はじめに何を取り上げたかと言いますと、立法事実がないということです。
立法事実というのは、新聞等でも書かれる言葉ではないので、ご理解するのは難しいかもしれませんが、簡単に言うと、立法する社会的・経済的な背景事実、法律とはむやみやたらと作るものではなく必要性があって作るものです。必要性がなく、しかもそれによって国民の権利を侵害するというのは憲法違反であるという考え方があります。これはどちらかというとアメリカで生まれた意見ですが、日本でも最高裁判所がそういう考え方を取り入れた判決があります。
後、もう一つ、もっとも大きな争点で、中心にお話することになると思いますが、国民に対して裁判員になることを過料の制裁を科してまで強制することは憲法18条後段の苦役からの自由に反する、第21条1項の職業選択の自由に違反する、個人の尊重を規定した13条違反だということを指摘しまして、このような憲法違反の立法を行った国会議員には過失があるので、国は国家賠償法上、Aさんに賠償する責任があるという組み立てを行いました。
裁判所は我々の請求に対し、その判断の冒頭で、先ほど李さんが言われました平成23年11月16日の大法廷判決をそのまま引用してこう言いました。
憲法は一般的に刑事裁判への国民参加を許容している。憲法自体が国民の司法参加を容認していると解される以上、その実現のために国民に一定の負担が課されることは憲法が予定するところである。その必要性が認められ、かつその負担が合理的な範囲に留まる限り、憲法18条後段には違反しない。
この判示は、大法廷判決の「裁判員となることは苦役ではなく参政権と同様の権利を与えるものである」との「参政権同様論」とは異なって、頭から「裁判員義務容認論」を打ち出したもので、これが非常に特徴的です。この判決の中では特に重視されなければならないもので、真っ向から裁判員制度に取り組んだという形には見えます。
しかし、その結論自体は非常に納得しがたい。それは憲法が国民の司法参加を容認していると解されることと、それがなぜ国民に負担が課せられるということに結びつくのか、それはつながらないんですね。現在も、調停員とか参加の制度はあります。負担という言葉を裁判所がどのように使ったのかは分かりませんが、これは強制されたものではないので、負担という言葉には馴染まないと思います。自ら同意して、あるいは進んでそのような職務を担当する訳ですから負担とは言えないと思います。
司法参加が容認されているからといって負担も憲法が認めているとは当然、絶対にならないと思います。しかし、その説明は全くありません。
憲法が国民の司法参加を容認しているということ、負担を当然予定しているということの理由、説明は全くなく独断でした。
判決はそのようなことを大前提にいった後で、司法制度改革審議会、あるいは国会審議における法務大臣の発言、司法制度改革推進本部事務局長の発言を引用して、その内容を一切検討することなく、丸ごとこれを肯定して裁判員制度の必要性について次のようにいかにも分かったように述べております。
社会経済構造が国民の自己責任の原則の下に自己の権利・利益の実現を図る社会へと変変革するであろうとの予測の下で、司法の新たな役割が求められる。そのためには司法の国民的基盤の強化が必要であり、その手段として国民の司法参加が必要である。
これは最高裁判所の判決の書き写しなんですが、この結論はいかなる道筋で社会経済構造が今後変革するというのか、それが何故に予測されるのか、それと司法がどう結び付くのか、司法の国民的基盤の強化が必要だというならば、ここが問題ですが、現在の司法の現状についてどういう認識を持っているのか、その国民的基盤は弱体だと言うのか、基盤強化が国民の参加になぜ結び付くのか、これらの疑問に対して十分な説明がなされるべきだったのに、その説明はどこにも見当たりません。
ただ、結論をボンと出しているだけです。司法審や国会、推進本部の事務局長がああいった、こういった、あるいは最高裁がこう判示したという結論に到達しているだけでは、本来、独立に事件に向き合わなければならない裁判所の国民に対する説明責任について果たしたことにはならないのではないかと思います。
判決はさらに国民の司法参加の具体的方策について、今問題になっている裁判員制度が選択された理由について述べております。
刑事裁判は国民の関心も高い司法の機能であることから、司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上を効率的に図ることが可能になると考えられたからにほかならない。この制度が憲法の基本原則である国民主権の理念に沿って司法の国民的基盤の強化を図るものであることに照らせば、立法目的は正当であり、必要性も肯定できる。
抽象的な言葉が並んでいるわけですが、裁判員制度が国民主権の理念に何故に沿うのか、裁判員法がこの国民主権という用語をあえて避けて、理解の増進と信頼の向上という用語を選択した経緯があるのです。つまり、国民参加は民主主義とか国民主権とは関係ないことを示すために、このような曖昧な言葉が選択されたということを柳瀬昇さんという学者の方が「裁判員法の立法過程」の中で何度も明確に言われている。
では、国民参加が民主主義と関係があるとなるとどういう問題が生じるかと言いますと、裁判員裁判というのは日本の裁判の中の0.01%、ほんのわずかですね。ほとんどの裁判は官僚裁判官がやっているわけです。そうなるとそちらの方は民主的ではないのかということになります。ですから、国民参加が民主的だといってはいけないということになってしまったのです。
労働組合代表の司法制度改革審議会委員は「民主制から出てくるもので、国民主権の表れだ」とか、日弁連も「国民主権の実質化だ」という言葉まで使っておりますけれども、やはり研究者の考え方からしますと、民主主義や国民主権とは関係がないんだということになります。
福島の裁判所はそういうことはもちろん研究していないんでしょうね。国民的基盤の強化を図るという結論を出してしまいました。
やはり、国民の権利や利益に密接な関係を持つ立法をしようとする場合において、将来、起きるかどうかも分からない、だれも予測がつかない変革に備えて立法をなすことは何なのかということを全く理解していないのだと思います。
国民の基本的人権に関わる立法事実というのは、どうしても今、国民の権利を制限し義務を課さなければこの国がおかしくなる、あるいは国民の利益が害されるという事態を言うのであって、将来どうなるのか予測のつかないことは立法事実とは言いません。
「司法は今は順調にいっている」ということは当時の法務大臣も司法審の委員も口を揃えていっているので、そこには立法事実はないということになります。
東京大学教授のダニエル・H・フットさんが書かれた『名もない顔もない司法』という本の中で、「裁判員制度には明確で具体的な立法事実は存在しない」と明言し、その理由を詳細に説明しております。
私は準備書面の中で立法事実がないということについて、「例えば裁判員制度がこの国から突然消えたとする。誰か困る人がいますか。だれも困らない。むしろ裁判員として呼び出されなくて済むと喜ぶ人はいるでしょう」と書きました。裁判員裁判のために庁舎にお金をかけましたので、それは無駄になるということは言えるかもしれませんが、困る人はだれもいません。このことは、裁判員制度はなくても良いということが証明されているということです。
判決は、国民の参加義務づけについて被告の主張をそのまま利用しました。
多様な価値観を有し、様々な社会的地位にある国民誰もが裁判員となる資格と可能性を有し、刑事裁判に関与することになるから司法に対する理解と信頼が得られるのだといえる。
裁判所が言いたいのは、裁判員制度を採用する以上は裁判員が一部に偏ったものであってはいけないということであるかも知れません。しかし、これは裁判員制度ありきの議論です。本来はまず、一般に広く国民の中から裁判員を選択しようとする、また裁判員となることを義務づけることの正当性があるのかどうかということを慎重に検討し、それが肯定されて初めてこのような制度が成り立つのです。はじめから制度があるのだから、その参加は平等でなければならないというのは、論理は逆であろうと思います。
先ほども述べましたが、判決は「その負担に必要性が認められ、且つ、その負担が合理的な範囲に留まる限り、憲法18条後段には違反しない」と判示しております。
そもそも、合意的とは何か。私は理解できないのですが、国民の負担が合理的な範囲とはいかなる範囲か。合理的範囲を超えるという一切の基準がなくて、本件Aさんの負担が合理的範囲を超えるか否かを判断することはできません。基準という大前提があって初めて本件の事実が基準を超えるものか否かの判断されるはずです。
ところがその基準を何も示さないで、Aさんの負担が合理的範囲を超えないというのは、判決としては、裁判所の判断としては完全に手法、手順を誤ったというしかないと思います。
判決はさらに、裁判員の担う職務が相当に重い精神的負担を強いることになるであろうことは予想されると判示しております。
その負担が制度として合理的範囲に留まっていると結論づける理由は次のようなものです。
裁判員法第16条は裁判員となることを辞退できる者を類型的に規定している、同条8号及び辞退事由政令において、裁判員候補者として呼び出しを受けた者の個別的な事情を考慮して、やむを得ない事由がある場合には、出頭することについて辞退が認められていること、特に、辞退事由政令6号には、裁判員としての職務を行うことにより、自己又は第三者に身体上、精神上または経済上の重大な不利益を生ずると認めるに足りる相当の理由があることも辞退事由として定めている、凄惨な内容の証拠資料に触れることによって、心理的、精神的に重大な負担になることが予想される場合には、辞退を弾力的に認めることができると解される。選任後でも、上記辞退事由に該当するに至った場合には、辞任の申立をして解任される道も用意されている。
附則3条は裁判員としての参加のための環境整備を定め、検察官及び裁判官による精神的負担の軽減への工夫も含まれている。
これは私たちが訴えを起こしたから始まった訳で、それまではこういうことはありませんでしたね。
旅費、日当及び宿泊料も支給することが定められている。
これは最高裁判決が述べています。今、言った最後の2つを除いては、国民に対して無理矢理裁判員を務めさせようとしているのではないと、辞退は柔軟に認めていると、裁判員として参加してどうも自分は具合が悪くなりそうだと言えば辞退も認められる程度の負担に過ぎないから、そのような負担は合理的な範囲を超えないということのようです。
しかし、一般国民が裁判に関わることは一生のうちで何回あるかということです。傍聴することだってそんなにないですね。ましてや裁く行為、それに関与することはほとんどないです。死刑や無期懲役になるような事件で裁く立場になるなど絶無といっても良いでしょう。そのような想像もつかないような職務を担当する前に、そのような職務に着いて証拠調べに立ち会い、死刑や無期を言い渡したら自分がどのような精神状態になるか、肉体的状態になるかなんて分かりません。
本件のAさんもとても真面目な人で、私には断る理由がないからと。本当は断りたかったんですね。Aさんは8年くらい介護の仕事をされていて、勤務先に対し「過料は10万円と書いてあるから、過料を払ってくれないか」と申し出たら、勤め先は「過料は出せないが休暇はあげる」と言ったと。Aさんはやりたくないが、断る理由がないので出頭したら、クジに当たってしまったと。不運が重なって裁判員になった。
自分が凄惨な証拠調べに立ち会って頭がおかしくなると予想が付くんならはじめから断りますよね。だれも予想がつかないことを、はじめから「おかしくなるから断ります」とは言いませんよね。
でも、このような福島裁判所の考えからすれば、「私は裁判員になったらどうなるかわからないから、裁判員にはなりません」と言えば、裁判所の方ではそれを断る理由がないとなります。まず、嘘ではないですから、過料の制裁もなくても済みます。
ところが、この判決は別のところではこのように言っています。
国民の司法の理解や信頼は、ただ誰かが刑事裁判に参加して得られるものではない。国民だれしもが裁判員となる可能性と資格を有する制度としなければ実効性は保てない。辞退事由がない限り、選任を拒絶できない制度とすることによって、制度の目的を達し得る。
ここでは、そう簡単に辞退の自由を認めたら制度の目的が達せられないと言っています。簡単に辞退を認めたらいけないと。そうなると前に言っていることと、ここで言っていることは矛盾します。矛盾とはどういう意味かという典型になると思います。
本来、人集めのために過料の制裁を科してまで国民に対して裁判員になることを義務づけている制度であるものを、辞退が柔軟にできる、イヤだと言う人はならなくても済むからその負担は合理的だというのは不合理そのものと言っていいと思います。
この判決はまたですね、次のように言っています。
Aさんの急性ストレス障害は辞退事由の弾力的運用や審理手続き上の工夫などで回避し得た可能性は否定し得ない。他方、Aさんの審理に臨む真摯な姿勢からすれば急性ストレス障害を発症する事態を回避し得なかった可能性も否定し得ない。すべての回避措置を行使したとしても発症したかもしれない。しかし、精神的、経済的負担の軽減が図られている以上、そのような事態になることが直ちに国民の負担が合理的範囲を超えることを示すものと断じることはできない。
要するに裁判員制度はそのように国民を痛めつけても実現しなければならない制度だと言っているのです。そうであるならば、辞退について柔軟な態度を取っているから負担は合理的範囲に留まっているとか、何も個別に凄惨な写真を見ても大丈夫ですかなどと聞く必要はないのです。具合が悪くなっても国民にとっては甘受しなければならないことであると言えば良いだけのことです。
しかし、頭からそのように言ってしまえば、裁判員は苦役だということになりますから、屁理屈を並べてこのように言っているのだと思います。
裁判員制度の実現という国家目的の達成のためには、証拠を見て精神的に障害を負うことがあっても、国民は甘受、我慢すべきだと、傷害を負えば慰謝料までは払わないが、公務災害で治してあげるから、心配しないで裁判員を務めてほしいと。戦時中によく使われた「滅私奉公」、「尽忠報国」です。私は子どもの頃よく聞かされました。己を殺して公のために捧げる、忠義を尽くして国のために報いるという言葉ですが、まさにそれをしてほしいということですね。
判決は個人の尊厳に対する13条違反の問題について、このように言っています。
憲法13条によって保護されている利益であっても、公共の福祉による制約を受けることは免れないところ、裁判員制度を含む裁判員法には合理的な立法目的と立法の必要性が認められるのであるから、公共の福祉によるやむを得ない制約である。
このようなことを堂々と言っている。この判示は「滅私奉公」、「尽忠報国」を是認するものです。
憲法13条に規定する公共の福祉とはどういうことか。基本的人権を各人に平等に与えるために、人権の衝突の可能性が生じる場合の調整の概念です。裁判員制度という国家目的、国家的利益を指すものではありません。公共の福祉とは簡単に言えば、みんなの幸せということです。憲法13条の主旨は、己の利益の他の人の幸せを犠牲にしてはならないということです。裁判員にならないことがどうしてみんなの幸せを害することになるのか。みんなの幸せのために国民は自分を犠牲にしても裁判員にならなければならないとどうして言えるのか。福島判決というのはとんでもない考え違いをしている。
むしろ、そのような国家目的の上に犠牲にしてはならないが個人の尊重であり、憲法13条が保障している基本的人権であります。
国家存立の基礎である国民一人ひとりに、国家目的を掲げたあの戦争の悲惨な思いを味合わせることがないようにしたのが憲法13条なんですね。
判決の判示というのは、日本国憲法を捨てて、戦前の体制に回帰させようという時代錯誤そのものというべきです。
私は、提訴後にこのようなことを知りました。
大法廷判決は、小清水弁護人が敢えて上告趣意から外した憲法18条後段部分、76条3項違反の件について、ことさらに上告趣意として、つまり上告趣意をねつ造して判断していたのです。私は、この上告趣意ねつ造に関与した裁判官15名による裁判員制度定着のための積極的不法行為であるとしてこれを請求原因に追加しました。
これについて福島判決はなんと判断したかと言いますと。
当該弁護人は、裁判員法は違憲無効であるから被告人は無罪であると主張していたものである。
しかし、小清水弁護人はそうは言っていません。抽象的に裁判員法は違憲無効だと言っているのではなくて、憲法76条2項と80条に違反すると言っているだけです。また、被告人は無罪とは主張していません。減刑を求めているんです。その前提として憲法違反のことを言っていますが、無罪などと主張していないのですから、福島の裁判所は判例集を見ていない。頭の中で適当に作り上げて、このような判示をしているとしか思えません。
当該弁護人は、裁判員法は違憲無効であるから被告人は無罪であると主張していたものである。裁判員法は手続き法であり、仮にこれが違憲無効であれば、適正手続きの保障の下、そのような違憲な法律に基づいて被告人が刑罰に科せられることはないのであるから、裁判員法が違憲無効であるため被告人は無罪であるとの上告趣意の中には、弁護人が明示に指摘した憲法の条項以外の条項であっても、それに裁判員法が違反すると判断するのであれば、その旨も主張するという趣旨が含まれていると解するのが相当である。
ごちゃごちゃしていますが、どういうことかというと、違憲無効と言っているということは個別の条項をあげていっているのとはちょっと違うと。裁判員法は違法な手続きによって裁判をすることを認めるような法律になっているから、そうであればすべての制度自体が違憲無効と言っているのと同じこと、だから一いち、憲法何条に違反するなどと言わなくても、違反すると思われる条項について判示しても構いませんというのが、福島の裁判所の判決です。
ところが、弁護人が言っている憲法76条1項及び同2項と80条1項に違反するというのは無罪と言っているのではないのです。量刑不当を主張しているだけなんですが、裁判所としては、なんとしても最高裁判所の裁判官を守りたいために屁理屈を述べた以外には考えられない。
小清水弁護人は原審でも80条と76条2項のみを主張しているんですね。当然、原審も当然のことながらそのことだけを判断しております。18条の問題や76条3項のことは言っていないのです。また、検察官というのは被告人の方から上告されますと、通常、答弁書を出しますが、答弁書もその点についてのみ答弁しています。
最高裁判所の大法廷は、昭和39年11月18日、これは私の誕生日ですが、原審と控訴審で主張・判断し経なかった事項に関し、答申について新たに意見を言う主張は適合な上告事由に当たらないとこういう風に判示しています。この判示からすれば、原審の判断していない事項、上告人が明示した以外の主張というのは上告理由にはならない、判断を要しないんですね。それをわざわざ取り上げているんですね。
また、福島地裁の論理でいけば、原審で憲法違反だとさえ言っておけば、最高裁は独自に違憲の疑いがあると思われる論点を拾い上げて、すべて合憲判断を示すことができるということになります。
警察予備隊の違憲訴訟において、最高裁判所大法廷は「違憲法令審査権は具体的紛争のためにのみなされる」と判決を出しました。つまり、「最高裁は憲法裁判所ではない」と判決しているのです。
このように福島の裁判所というのは、今までの憲法判断に対する最高裁のあり方について検討しないというか、検討すると要するに私たちの主張を認めざるを得なくなるから、頬被りをして判断してしまったとしか考えられません。
憲法学者で宮沢俊義さんという方がおられました。この方の『コンメンタール全訂日本国憲法』にはこのあたりを実に詳細に書いています。これくらい詳細に書かれている憲法の教科書はないのではないかと思うのですが、要するに最高裁判所は何でも拾い上げて憲法判断、合憲判断をしてはいけない、何も言わなければ合憲なんだと。取り上げてもいないことを合憲判断したということは判例としての価値はないということを明言しておられる。そのことは福島の裁判所、最高裁判所が分かっていたかはわかりません。
最高裁判所は、先ほど、李さんがスライドで示されましたけれども、裁判員制度についての効用書きみたいなことを言っていますね。あれは全く蛇足と言いますか、本当は小清水さんがやった事件、麻薬取締法の事件なんですが、それについては全く無用な判断、不必要な判断なんですね。本来ならば上告趣意になっていないからと簡単に刎ねるのに、上告趣意として取り上げていないものを取り上げ、しかもあのようなご託を並べると。全くこれは政治的な行為で、裁判員制度を推進させよう、裁判員制度を根付かせようということのみで、あのような蛇足判決をしている。本当に許し難い大法廷判決だと思います。
そういう怒りも込めて15人の裁判官の不法行為と言ったのです。
それが効いたのかどうかはわかりませんが、竹崎最高裁長官は任期3か月前に辞任しちゃった。因果関係はわかりませんよ。前から体の調子が悪かったということを言っていたという話もありますが。
私は、何となくそうじゃないかなと。私が不法行為だと、張本人だと言ったので、最後まで任期を全うすることができなかったのではないかなという風に推測しています。
それから職業選択の自由の判断についてですが、これは被告の主張をそのまま認めました。要するに「生活の主として行うのが職業であって、このような裁判員の仕事は職業ではない」と。裁判官の仕事は職業だが、短期で非常勤でやるのは職業とは言えないというのが福島の裁判所の判決です。これもまた、最高裁と違って独自の判断です。
裁判員というのは特別職公務員です。これは最高裁のリーフレットにもきちんと書かれています。ですから公務災害の適用を受けるんだということです。立派な社会的仕事であり、私は主婦の仕事も職業だと思っています。
短期、長期、有償無償を問わず、公務員という職業につくことを強制されるいわれはないというのが私たちの考えです。
現在従事している仕事を一時的にせよ、強制的に離れさせられるということは職業選択の自由に対する侵害であることも明らかだと。ですからそういう点においても、福島の裁判所の判断は誤っていると思います。
福島の裁判所の判決について、非常に大まかな批判をしてきました。
私は、一審を担当し今のような判断を受けたのですが、控訴審は、Aさんは私以外の弁護士に依頼されました。真意はよく分からないのですが、全く金銭的な補償がなかったということについて、あるいは憲法問題の陰に自分たちの苦しみは隠れてしまったということについてご不満があったのかどうかわかりませんけれども、郡山の弁護士に頼まれました。
私は今、ざっと述べましたように、福島の判決については非常に不満を持っています。実はこの判決をもらうまでは、裁判長は潮見さんというのですが、仙台にいたことがあり、私も知っているのです。気骨のある人と思っておりましたので、最高裁大法廷があのような判決をしても、思い切った判断をするのではないかと思っておりました。
高山先生には、「勝敗五分五分だ」と言っておりましたので落胆しましたし、判決の理由については非常な憤りを感じておりました。
判決文を読みまして、控訴したときにはこのような点について控訴理由について述べようと思っていたことがありましたので、それができなくなったことについて不満です。今も何となく煮え切らない気持ちがあります。しかし、弁護士は依頼者があっての弁護士ですので、いずれこれは何か別の形で表現するしかないかなと思います。
これは論ずれば、もっともっと控訴審で言ってみたかったなと残念に思っております。
この福島の判決について一言で言えば、憲法76条3項に定める裁判官の独立を放棄した余りにも粗雑な論理による国策追従、基本的人権無視の判決に尽きるのではないかなと思っております。
ある会社が従業員に対し、「命令に背いたら解雇だ」と脅して、本来の職務以外のことを強制的にやらせたら、現在の社会はその会社に対してどのような判断を下すでしょうか。
ましてやその従業員がそのために精神的におかしくなったとなれば、どういうことになるでしょうか。
これはパワーハラスメントだと判断され、その会社は社会的に糾弾されて、多額の損害賠償を負うことになるでしょう。
契約関係があって、ある程度の負担を承認した者でさえそうであるのに、国家として最大の尊重をしなければならない主権者である一般国民に対し、国家がその権力の行使として制裁を科して国家行為に荷担させることは、国家による国民に対するパワーハラスメント以外の何者でもないと思います。
裁判所は、本来、憲法の番人として多数者による少数者に対する不当な権利侵害から少数者を守ることにある。国民のための憲法の番人ですね。仮に、そのような任務を放棄したこのような判決がまかり通るならば、裁判員法が謳う国民の信頼の向上はおろか、信頼の失墜になることは明らかだと確信しています。
大まかな批判は以上ですが、私はこの判決をもらうちょっと前にですね、結審後に思いついたことがありまして、あるウェブサイトに投稿しました。それは憲法の前文に関わることなんですが、民主主義社会において権力というのは、どういうものかということですね。
これは憲法に書いてある。権力というのは国民の代表者がこれを行使する。国民の民意からの正統性がなければなければならない。行政や立法とは違うかも知れませんが、司法もやはり民主的正統性が必要です。
民主的正統性はどうやって保つのかということですが、やはり任命形式だと思います。
内閣総理大臣は国民の民意を受けた国会議員から選ばれるということにおいて、内閣総理大臣としての正統性を持っている訳です。
裁判官も内閣総理大臣から任命される。最高裁判官は天皇から任命される。
そのような任命形式を憲法はそれぞれの権力者に対して定めている訳です。これはすごく意味のあることなんですね。
裁判員というのは誰によって選ばれるのか。内閣総理大臣ではありませんね。クジで選ばれるのです。形の上では裁判官が選ぶのですが、裁判官もクジで選ぶのです。任命形式は国民の民意に基づくものではないということは明らかなんですね。そうなると、民意に基づかないものが司法権力を実質的に握るんですよ。これは裁判員法の規定がそうなっています。裁判官の意思に反しても、もちろん、1人の裁判官が賛同すればよろしいとなっていますけれども、裁判官裁判、裁判官3人の裁判とは違う結論が裁判員裁判では出せるという仕組みになっています。
これは明らかに司法権力を民意に基づかないもの、民主的正統性のないが結論を出すと言うことなんです。
少なくとも被告人は、民主的正統性のある人によって裁かれる権利がある訳です。そういうことからしても選択権を与えないということは絶対的に憲法違反だと思っています。
ですが今すぐに裁判員制度を廃止するというのは非常に困難かも知れません。
今度の3年目見直しの閣議決定も非常にお粗末なものです。長期を要するものは裁判員裁判の対象から外すとか、あるいは性的被害者の個人情報を明らかにしないとか、そのようなホンの僅かなところに手を入れているだけで、本質的な問題には手を入れていません。
そんなお粗末なことでお茶を濁そうとしているのが、今の政府の裁判員制度に臨む態度です。
私はやはり最低限、被告人に選択権を与えるという運動を国会議員に働き掛けていくことが、裁判員制度を廃止させる近道だと思います。
与謝野馨さんという議員がおられました。衆議院の法務委員会の委員でしたが、あの方は「私が裁判を受けるならば、裁判員が参加する裁判では裁かれたくない」と言っているんですね。裁判官に裁かれたいと。大臣経験者ですら、そういっている。
これは不自然なことではなくて、国民の直感なんですね。裁判員というのはやはり裁判官ではないという考え方なんです。
これからの運動の形として、民主的正統性のある裁判官による裁判、被告人に選択権を認めよと言う運動をすることを提案していきたいなと思っています。
今日は、福島地裁の判決を批判するということで依頼されましたので、強制の問題についてのみお話しましたが、裁判員制度というのは根本的にいろいろ考えることがあります。裁判員制度について何か良いところはないかと、何度も反芻しておりました。良いところがあれば、残していきたいなという気持ちがない訳ではなかったのですが、どう考えても問題だと。
そして、福島地裁のような判決を下す裁判所、どうしてこのような判断をしてしまったのかという根本を考える必要があるだろうと思います。これは福島の裁判所がどこを向いて裁判をしたのかということです。結局は国民のための裁判所ではなくて、裁判官のための裁判、あるいは最高裁判所のための裁判という、余計なことを考えたために、間違った判断をしてしまったと。
仙台でもちょっとお話したんですが、これは本気じゃありません。冗談なんですが、このような裁判をなくすために裁判員裁判は必要かなと、そんな風にさえ申し上げます。
やはり最高裁判所を頂点とするこういう官僚裁判官制度というのはなんとしても改めていかなければならない。
これはいろいろ意見があり、反対もされるのですけれども、法曹一元です。日弁連が一度旗をあげました。先ほど、李先生がスライドで示されたように、弁護士経験者、それも10年や15年じゃなくて、できるだけ長く市民と接した弁護士、あるいは裁判官から最も毛嫌いされるような弁護士が裁判官になることが最も大切なのではないかなと思っています。
この後は李先生と対談する機会があるそうですので、私の話はちょうど1時間になりましたし、終わらせていただきます。
投稿:2014年12月3日