トピックス

トップ > トピックス > 福岡集会報告 “裁判員”という苦役からの自由を(2)

福岡集会報告 “裁判員”という苦役からの自由を(2)

福岡で11月23日午後1時30分から同4時30分までの間、「裁判員制度はいらない福岡の弁護士有志の会」が主催して裁判員制度に反対する市民集会「“裁判員”という苦役からの自由を」が開催されました。

集会は、司会あいさつ、主催者あいさつ&論点説明、織田信夫弁護士による報告「福島ストレス障害国賠訴訟判決批判」、織田弁護士と李弁護士による論点討論&会場からの発言という議事進行で行われました。

今日は、織田信夫弁護士による報告「福島ストレス障害国賠訴訟判決批判」をお送りいたします

“裁判員”という苦役からの自由を

報告「福島ストレス障害国賠訴訟判決批判:織田信夫弁護士

 私は、7年ほど裁判官をやっておりましたOLYMPUS DIGITAL CAMERA
 その初任地が福岡で、福岡には3年住んでおりました。室見の官舎に3年、非常に快適に過ごさせていただき、長男も福岡で生まれております。非常に懐かしいですが、すでに50年も前の話ですので、今とは環境は全然変わっておりますが、懐かしいという思いをもって今日は参りました。
私は非常に話が下手で、今日一緒にお話をしていただく予定だった高山先生のように弁舌さわやかとはいきませんが、訥々とでも私が経験したこと、あるいは思うことをお話したいと思います。

 今日お話することは福島国賠訴訟のことなんですが、李先生からご紹介がありましたので、しかも核心をついたものでしたが、一応、判決を読んだ者としてお話したいと思います。
福島国賠訴訟は、今年の9月30日判決となりました。結論は原告の請求を棄却する、つまり原告の負けということでした。
私ともう一人、女性の弁護士が訴訟の代理人を務めました。

この事件は先ほど、ご紹介がありましたように、裁判員として強盗殺人事件に関与して、殺人現場の生々しい証拠写真を見たり、被害者が死亡直前、消防署に救いを求める断末魔の叫びといいますか、そういう録音を聞いたことによって、急性ストレス障害になった女性、Aさんが国に対して損害賠償を請求したものです。

 福島県郡山の方がなぜ私のところに来たかというと、私が「裁判員制度はいらない大運動」の呼び掛け人の一人になっておりますので、インターネットか何かでご覧になってお出でになった訳です。

 自分の辛い思いを他の人にさせたくないので、なんとかこれを実現する方策はないものだろうかということでした。ソフトなやり方をするならば、「裁判員制度はいらない大運動」の機関紙などにいろいろなご意見やご感想を登載するということもありますが、強いやり方ならば国家賠償請求をするという方法もありますと説明しました。

 国家賠償請求をするということは窮極的にはお金を請求するということになりますよとお話したところ、「私はお金の問題ではない。お金を請求するとお金をほしがっていると誤解される」と最初に言われました。私は方法としてはそれが国に対するインパクトが一番強いやり方なので、「お金の問題ではない」ということは記者会見などでお話されればいいのではないかと言いまして納得していただきました。102532

 ところが、実際に着手してみますと、憲法問題ということで進めたものですから、Aさんにとってはご不満があったようで、心的外傷に対するケアを中心に要求するというようなことにできないだろうかという話になってきて、それは最初の話と違うということで、一度は辞任という話まで出ました。最終的には「憲法問題でやりたい」ということに同意していただきまして、憲法問題中心の国賠訴訟ということで提起しました。

 第1回弁論の際、裁判長から「憲法問題以外で賠償請求は考えられないか」という釈明要求があったのですが、「そういうことは考えない」と答弁しました。
憲法問題として、はじめに何を取り上げたかと言いますと、立法事実がないということです。
立法事実というのは、新聞等でも書かれる言葉ではないので、ご理解するのは難しいかもしれませんが、簡単に言うと、立法する社会的・経済的な背景事実、法律とはむやみやたらと作るものではなく必要性があって作るものです。必要性がなく、しかもそれによって国民の権利を侵害するというのは憲法違反であるという考え方があります。これはどちらかというとアメリカで生まれた意見ですが、日本でも最高裁判所がそういう考え方を取り入れた判決があります。

 後、もう一つ、もっとも大きな争点で、中心にお話することになると思いますが、国民に対して裁判員になることを過料の制裁を科してまで強制することは憲法18条後段の苦役からの自由に反する、第21条1項の職業選択の自由に違反する、個人の尊重を規定した13条違反だということを指摘しまして、このような憲法違反の立法を行った国会議員には過失があるので、国は国家賠償法上、Aさんに賠償する責任があるという組み立てを行いました。

 裁判所は我々の請求に対し、その判断の冒頭で、先ほど李さんが言われました平成23年11月16日の大法廷判決をそのまま引用してこう言いました。

 憲法は一般的に刑事裁判への国民参加を許容している。憲法自体が国民の司法参加を容認していると解される以上、その実現のために国民に一定の負担が課されることは憲法が予定するところである。その必要性が認められ、かつその負担が合理的な範囲に留まる限り、憲法18条後段には違反しない。

 この判示は、大法廷判決の「裁判員となることは苦役ではなく参政権と同様の権利を与えるものである」との「参政権同様論」とは異なって、頭から「裁判員義務容認論」を打ち出したもので、これが非常に特徴的です。この判決の中では特に重視されなければならないもので、真っ向から裁判員制度に取り組んだという形には見えます。106308

 しかし、その結論自体は非常に納得しがたい。それは憲法が国民の司法参加を容認していると解されることと、それがなぜ国民に負担が課せられるということに結びつくのか、それはつながらないんですね。現在も、調停員とか参加の制度はあります。負担という言葉を裁判所がどのように使ったのかは分かりませんが、これは強制されたものではないので、負担という言葉には馴染まないと思います。自ら同意して、あるいは進んでそのような職務を担当する訳ですから負担とは言えないと思います。

 司法参加が容認されているからといって負担も憲法が認めているとは当然、絶対にならないと思います。しかし、その説明は全くありません。
憲法が国民の司法参加を容認しているということ、負担を当然予定しているということの理由、説明は全くなく独断でした。

 判決はそのようなことを大前提にいった後で、司法制度改革審議会、あるいは国会審議における法務大臣の発言、司法制度改革推進本部事務局長の発言を引用して、その内容を一切検討することなく、丸ごとこれを肯定して裁判員制度の必要性について次のようにいかにも分かったように述べております。

 社会経済構造が国民の自己責任の原則の下に自己の権利・利益の実現を図る社会へと変変革するであろうとの予測の下で、司法の新たな役割が求められる。そのためには司法の国民的基盤の強化が必要であり、その手段として国民の司法参加が必要である。 

 これは最高裁判所の判決の書き写しなんですが、この結論はいかなる道筋で社会経済構造が今後変革するというのか、それが何故に予測されるのか、それと司法がどう結び付くのか、司法の国民的基盤の強化が必要だというならば、ここが問題ですが、現在の司法の現状についてどういう認識を持っているのか、その国民的基盤は弱体だと言うのか、基盤強化が国民の参加になぜ結び付くのか、これらの疑問に対して十分な説明がなされるべきだったのに、その説明はどこにも見当たりません。102533
ただ、結論をボンと出しているだけです。司法審や国会、推進本部の事務局長がああいった、こういった、あるいは最高裁がこう判示したという結論に到達しているだけでは、本来、独立に事件に向き合わなければならない裁判所の国民に対する説明責任について果たしたことにはならないのではないかと思います。

 判決はさらに国民の司法参加の具体的方策について、今問題になっている裁判員制度が選択された理由について述べております。
刑事裁判は国民の関心も高い司法の機能であることから、司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上を効率的に図ることが可能になると考えられたからにほかならない。この制度が憲法の基本原則である国民主権の理念に沿って司法の国民的基盤の強化を図るものであることに照らせば、立法目的は正当であり、必要性も肯定できる。

 抽象的な言葉が並んでいるわけですが、裁判員制度が国民主権の理念に何故に沿うのか、裁判員法がこの国民主権という用語をあえて避けて、理解の増進と信頼の向上という用語を選択した経緯があるのです。つまり、国民参加は民主主義とか国民主権とは関係ないことを示すために、このような曖昧な言葉が選択されたということを柳瀬昇さんという学者の方が「裁判員法の立法過程」の中で何度も明確に言われている。

 では、国民参加が民主主義と関係があるとなるとどういう問題が生じるかと言いますと、裁判員裁判というのは日本の裁判の中の0.01%、ほんのわずかですね。ほとんどの裁判は官僚裁判官がやっているわけです。そうなるとそちらの方は民主的ではないのかということになります。ですから、国民参加が民主的だといってはいけないということになってしまったのです。106307

 労働組合代表の司法制度改革審議会委員は「民主制から出てくるもので、国民主権の表れだ」とか、日弁連も「国民主権の実質化だ」という言葉まで使っておりますけれども、やはり研究者の考え方からしますと、民主主義や国民主権とは関係がないんだということになります。
福島の裁判所はそういうことはもちろん研究していないんでしょうね。国民的基盤の強化を図るという結論を出してしまいました。

 やはり、国民の権利や利益に密接な関係を持つ立法をしようとする場合において、将来、起きるかどうかも分からない、だれも予測がつかない変革に備えて立法をなすことは何なのかということを全く理解していないのだと思います。

 国民の基本的人権に関わる立法事実というのは、どうしても今、国民の権利を制限し義務を課さなければこの国がおかしくなる、あるいは国民の利益が害されるという事態を言うのであって、将来どうなるのか予測のつかないことは立法事実とは言いません。

 「司法は今は順調にいっている」ということは当時の法務大臣も司法審の委員も口を揃えていっているので、そこには立法事実はないということになります。017097

 東京大学教授のダニエル・H・フットさんが書かれた『名もない顔もない司法』という本の中で、「裁判員制度には明確で具体的な立法事実は存在しない」と明言し、その理由を詳細に説明しております。

 私は準備書面の中で立法事実がないということについて、「例えば裁判員制度がこの国から突然消えたとする。誰か困る人がいますか。だれも困らない。むしろ裁判員として呼び出されなくて済むと喜ぶ人はいるでしょう」と書きました。裁判員裁判のために庁舎にお金をかけましたので、それは無駄になるということは言えるかもしれませんが、困る人はだれもいません。このことは、裁判員制度はなくても良いということが証明されているということです。

 判決は、国民の参加義務づけについて被告の主張をそのまま利用しました。

多様な価値観を有し、様々な社会的地位にある国民誰もが裁判員となる資格と可能性を有し、刑事裁判に関与することになるから司法に対する理解と信頼が得られるのだといえる。

 裁判所が言いたいのは、裁判員制度を採用する以上は裁判員が一部に偏ったものであってはいけないということであるかも知れません。しかし、これは裁判員制度ありきの議論です。本来はまず、一般に広く国民の中から裁判員を選択しようとする、また裁判員となることを義務づけることの正当性があるのかどうかということを慎重に検討し、それが肯定されて初めてこのような制度が成り立つのです。はじめから制度があるのだから、その参加は平等でなければならないというのは、論理は逆であろうと思います。

 先ほども述べましたが、判決は「その負担に必要性が認められ、且つ、その負担が合理的な範囲に留まる限り、憲法18条後段には違反しない」と判示しております。017096

 そもそも、合意的とは何か。私は理解できないのですが、国民の負担が合理的な範囲とはいかなる範囲か。合理的範囲を超えるという一切の基準がなくて、本件Aさんの負担が合理的範囲を超えるか否かを判断することはできません。基準という大前提があって初めて本件の事実が基準を超えるものか否かの判断されるはずです。

ところがその基準を何も示さないで、Aさんの負担が合理的範囲を超えないというのは、判決としては、裁判所の判断としては完全に手法、手順を誤ったというしかないと思います。

 判決はさらに、裁判員の担う職務が相当に重い精神的負担を強いることになるであろうことは予想されると判示しております。
その負担が制度として合理的範囲に留まっていると結論づける理由は次のようなものです。

 裁判員法第16条は裁判員となることを辞退できる者を類型的に規定している、同条8号及び辞退事由政令において、裁判員候補者として呼び出しを受けた者の個別的な事情を考慮して、やむを得ない事由がある場合には、出頭することについて辞退が認められていること、特に、辞退事由政令6号には、裁判員としての職務を行うことにより、自己又は第三者に身体上、精神上または経済上の重大な不利益を生ずると認めるに足りる相当の理由があることも辞退事由として定めている、凄惨な内容の証拠資料に触れることによって、心理的、精神的に重大な負担になることが予想される場合には、辞退を弾力的に認めることができると解される。選任後でも、上記辞退事由に該当するに至った場合には、辞任の申立をして解任される道も用意されている。
 附則3条は裁判員としての参加のための環境整備を定め、検察官及び裁判官による精神的負担の軽減への工夫も含まれている。

 これは私たちが訴えを起こしたから始まった訳で、それまではこういうことはありませんでしたね。035724

 旅費、日当及び宿泊料も支給することが定められている。

 これは最高裁判決が述べています。今、言った最後の2つを除いては、国民に対して無理矢理裁判員を務めさせようとしているのではないと、辞退は柔軟に認めていると、裁判員として参加してどうも自分は具合が悪くなりそうだと言えば辞退も認められる程度の負担に過ぎないから、そのような負担は合理的な範囲を超えないということのようです。

 しかし、一般国民が裁判に関わることは一生のうちで何回あるかということです。傍聴することだってそんなにないですね。ましてや裁く行為、それに関与することはほとんどないです。死刑や無期懲役になるような事件で裁く立場になるなど絶無といっても良いでしょう。そのような想像もつかないような職務を担当する前に、そのような職務に着いて証拠調べに立ち会い、死刑や無期を言い渡したら自分がどのような精神状態になるか、肉体的状態になるかなんて分かりません。

 本件のAさんもとても真面目な人で、私には断る理由がないからと。本当は断りたかったんですね。Aさんは8年くらい介護の仕事をされていて、勤務先に対し「過料は10万円と書いてあるから、過料を払ってくれないか」と申し出たら、勤め先は「過料は出せないが休暇はあげる」と言ったと。Aさんはやりたくないが、断る理由がないので出頭したら、クジに当たってしまったと。不運が重なって裁判員になった。

 自分が凄惨な証拠調べに立ち会って頭がおかしくなると予想が付くんならはじめから断りますよね。だれも予想がつかないことを、はじめから「おかしくなるから断ります」とは言いませんよね。

 でも、このような福島裁判所の考えからすれば、「私は裁判員になったらどうなるかわからないから、裁判員にはなりません」と言えば、裁判所の方ではそれを断る理由がないとなります。まず、嘘ではないですから、過料の制裁もなくても済みます。049604

 ところが、この判決は別のところではこのように言っています。

 国民の司法の理解や信頼は、ただ誰かが刑事裁判に参加して得られるものではない。国民だれしもが裁判員となる可能性と資格を有する制度としなければ実効性は保てない。辞退事由がない限り、選任を拒絶できない制度とすることによって、制度の目的を達し得る。

 ここでは、そう簡単に辞退の自由を認めたら制度の目的が達せられないと言っています。簡単に辞退を認めたらいけないと。そうなると前に言っていることと、ここで言っていることは矛盾します。矛盾とはどういう意味かという典型になると思います。

 本来、人集めのために過料の制裁を科してまで国民に対して裁判員になることを義務づけている制度であるものを、辞退が柔軟にできる、イヤだと言う人はならなくても済むからその負担は合理的だというのは不合理そのものと言っていいと思います。

 この判決はまたですね、次のように言っています。

 Aさんの急性ストレス障害は辞退事由の弾力的運用や審理手続き上の工夫などで回避し得た可能性は否定し得ない。他方、Aさんの審理に臨む真摯な姿勢からすれば急性ストレス障害を発症する事態を回避し得なかった可能性も否定し得ない。すべての回避措置を行使したとしても発症したかもしれない。しかし、精神的、経済的負担の軽減が図られている以上、そのような事態になることが直ちに国民の負担が合理的範囲を超えることを示すものと断じることはできない。035725

 要するに裁判員制度はそのように国民を痛めつけても実現しなければならない制度だと言っているのです。そうであるならば、辞退について柔軟な態度を取っているから負担は合理的範囲に留まっているとか、何も個別に凄惨な写真を見ても大丈夫ですかなどと聞く必要はないのです。具合が悪くなっても国民にとっては甘受しなければならないことであると言えば良いだけのことです。

 しかし、頭からそのように言ってしまえば、裁判員は苦役だということになりますから、屁理屈を並べてこのように言っているのだと思います。

 裁判員制度の実現という国家目的の達成のためには、証拠を見て精神的に障害を負うことがあっても、国民は甘受、我慢すべきだと、傷害を負えば慰謝料までは払わないが、公務災害で治してあげるから、心配しないで裁判員を務めてほしいと。戦時中によく使われた「滅私奉公」、「尽忠報国」です。私は子どもの頃よく聞かされました。己を殺して公のために捧げる、忠義を尽くして国のために報いるという言葉ですが、まさにそれをしてほしいということですね。

 判決は個人の尊厳に対する13条違反の問題について、このように言っています。

 憲法13条によって保護されている利益であっても、公共の福祉による制約を受けることは免れないところ、裁判員制度を含む裁判員法には合理的な立法目的と立法の必要性が認められるのであるから、公共の福祉によるやむを得ない制約である。

  このようなことを堂々と言っている。この判示は「滅私奉公」、「尽忠報国」を是認するものです。
憲法13条に規定する公共の福祉とはどういうことか。基本的人権を各人に平等に与えるために、人権の衝突の可能性が生じる場合の調整の概念です。裁判員制度という国家目的、国家的利益を指すものではありません。公共の福祉とは簡単に言えば、みんなの幸せということです。憲法13条の主旨は、己の利益の他の人の幸せを犠牲にしてはならないということです。裁判員にならないことがどうしてみんなの幸せを害することになるのか。みんなの幸せのために国民は自分を犠牲にしても裁判員にならなければならないとどうして言えるのか。福島判決というのはとんでもない考え違いをしている。1

 むしろ、そのような国家目的の上に犠牲にしてはならないが個人の尊重であり、憲法13条が保障している基本的人権であります。

 国家存立の基礎である国民一人ひとりに、国家目的を掲げたあの戦争の悲惨な思いを味合わせることがないようにしたのが憲法13条なんですね。

 判決の判示というのは、日本国憲法を捨てて、戦前の体制に回帰させようという時代錯誤そのものというべきです。

 私は、提訴後にこのようなことを知りました。
大法廷判決は、小清水弁護人が敢えて上告趣意から外した憲法18条後段部分、76条3項違反の件について、ことさらに上告趣意として、つまり上告趣意をねつ造して判断していたのです。私は、この上告趣意ねつ造に関与した裁判官15名による裁判員制度定着のための積極的不法行為であるとしてこれを請求原因に追加しました。

 これについて福島判決はなんと判断したかと言いますと。

 当該弁護人は、裁判員法は違憲無効であるから被告人は無罪であると主張していたものである。

 しかし、小清水弁護人はそうは言っていません。抽象的に裁判員法は違憲無効だと言っているのではなくて、憲法76条2項と80条に違反すると言っているだけです。また、被告人は無罪とは主張していません。減刑を求めているんです。その前提として憲法違反のことを言っていますが、無罪などと主張していないのですから、福島の裁判所は判例集を見ていない。頭の中で適当に作り上げて、このような判示をしているとしか思えません。2jpg

 当該弁護人は、裁判員法は違憲無効であるから被告人は無罪であると主張していたものである。裁判員法は手続き法であり、仮にこれが違憲無効であれば、適正手続きの保障の下、そのような違憲な法律に基づいて被告人が刑罰に科せられることはないのであるから、裁判員法が違憲無効であるため被告人は無罪であるとの上告趣意の中には、弁護人が明示に指摘した憲法の条項以外の条項であっても、それに裁判員法が違反すると判断するのであれば、その旨も主張するという趣旨が含まれていると解するのが相当である。

 ごちゃごちゃしていますが、どういうことかというと、違憲無効と言っているということは個別の条項をあげていっているのとはちょっと違うと。裁判員法は違法な手続きによって裁判をすることを認めるような法律になっているから、そうであればすべての制度自体が違憲無効と言っているのと同じこと、だから一いち、憲法何条に違反するなどと言わなくても、違反すると思われる条項について判示しても構いませんというのが、福島の裁判所の判決です。

 ところが、弁護人が言っている憲法76条1項及び同2項と80条1項に違反するというのは無罪と言っているのではないのです。量刑不当を主張しているだけなんですが、裁判所としては、なんとしても最高裁判所の裁判官を守りたいために屁理屈を述べた以外には考えられない。

 小清水弁護人は原審でも80条と76条2項のみを主張しているんですね。当然、原審も当然のことながらそのことだけを判断しております。18条の問題や76条3項のことは言っていないのです。また、検察官というのは被告人の方から上告されますと、通常、答弁書を出しますが、答弁書もその点についてのみ答弁しています。

 最高裁判所の大法廷は、昭和39年11月18日、これは私の誕生日ですが、原審と控訴審で主張・判断し経なかった事項に関し、答申について新たに意見を言う主張は適合な上告事由に当たらないとこういう風に判示しています。この判示からすれば、原審の判断していない事項、上告人が明示した以外の主張というのは上告理由にはならない、判断を要しないんですね。それをわざわざ取り上げているんですね。3

また、福島地裁の論理でいけば、原審で憲法違反だとさえ言っておけば、最高裁は独自に違憲の疑いがあると思われる論点を拾い上げて、すべて合憲判断を示すことができるということになります。
警察予備隊の違憲訴訟において、最高裁判所大法廷は「違憲法令審査権は具体的紛争のためにのみなされる」と判決を出しました。つまり、「最高裁は憲法裁判所ではない」と判決しているのです。

このように福島の裁判所というのは、今までの憲法判断に対する最高裁のあり方について検討しないというか、検討すると要するに私たちの主張を認めざるを得なくなるから、頬被りをして判断してしまったとしか考えられません。
憲法学者で宮沢俊義さんという方がおられました。この方の『コンメンタール全訂日本国憲法』にはこのあたりを実に詳細に書いています。これくらい詳細に書かれている憲法の教科書はないのではないかと思うのですが、要するに最高裁判所は何でも拾い上げて憲法判断、合憲判断をしてはいけない、何も言わなければ合憲なんだと。取り上げてもいないことを合憲判断したということは判例としての価値はないということを明言しておられる。そのことは福島の裁判所、最高裁判所が分かっていたかはわかりません。

 最高裁判所は、先ほど、李さんがスライドで示されましたけれども、裁判員制度についての効用書きみたいなことを言っていますね。あれは全く蛇足と言いますか、本当は小清水さんがやった事件、麻薬取締法の事件なんですが、それについては全く無用な判断、不必要な判断なんですね。本来ならば上告趣意になっていないからと簡単に刎ねるのに、上告趣意として取り上げていないものを取り上げ、しかもあのようなご託を並べると。全くこれは政治的な行為で、裁判員制度を推進させよう、裁判員制度を根付かせようということのみで、あのような蛇足判決をしている。本当に許し難い大法廷判決だと思います。4

 そういう怒りも込めて15人の裁判官の不法行為と言ったのです。
それが効いたのかどうかはわかりませんが、竹崎最高裁長官は任期3か月前に辞任しちゃった。因果関係はわかりませんよ。前から体の調子が悪かったということを言っていたという話もありますが。
私は、何となくそうじゃないかなと。私が不法行為だと、張本人だと言ったので、最後まで任期を全うすることができなかったのではないかなという風に推測しています。

 それから職業選択の自由の判断についてですが、これは被告の主張をそのまま認めました。要するに「生活の主として行うのが職業であって、このような裁判員の仕事は職業ではない」と。裁判官の仕事は職業だが、短期で非常勤でやるのは職業とは言えないというのが福島の裁判所の判決です。これもまた、最高裁と違って独自の判断です。

 裁判員というのは特別職公務員です。これは最高裁のリーフレットにもきちんと書かれています。ですから公務災害の適用を受けるんだということです。立派な社会的仕事であり、私は主婦の仕事も職業だと思っています。
短期、長期、有償無償を問わず、公務員という職業につくことを強制されるいわれはないというのが私たちの考えです。

  現在従事している仕事を一時的にせよ、強制的に離れさせられるということは職業選択の自由に対する侵害であることも明らかだと。ですからそういう点においても、福島の裁判所の判断は誤っていると思います。

 福島の裁判所の判決について、非常に大まかな批判をしてきました。
私は、一審を担当し今のような判断を受けたのですが、控訴審は、Aさんは私以外の弁護士に依頼されました。真意はよく分からないのですが、全く金銭的な補償がなかったということについて、あるいは憲法問題の陰に自分たちの苦しみは隠れてしまったということについてご不満があったのかどうかわかりませんけれども、郡山の弁護士に頼まれました。5

 私は今、ざっと述べましたように、福島の判決については非常に不満を持っています。実はこの判決をもらうまでは、裁判長は潮見さんというのですが、仙台にいたことがあり、私も知っているのです。気骨のある人と思っておりましたので、最高裁大法廷があのような判決をしても、思い切った判断をするのではないかと思っておりました。
高山先生には、「勝敗五分五分だ」と言っておりましたので落胆しましたし、判決の理由については非常な憤りを感じておりました。

 判決文を読みまして、控訴したときにはこのような点について控訴理由について述べようと思っていたことがありましたので、それができなくなったことについて不満です。今も何となく煮え切らない気持ちがあります。しかし、弁護士は依頼者があっての弁護士ですので、いずれこれは何か別の形で表現するしかないかなと思います。

 これは論ずれば、もっともっと控訴審で言ってみたかったなと残念に思っております。

 この福島の判決について一言で言えば、憲法76条3項に定める裁判官の独立を放棄した余りにも粗雑な論理による国策追従、基本的人権無視の判決に尽きるのではないかなと思っております。

 ある会社が従業員に対し、「命令に背いたら解雇だ」と脅して、本来の職務以外のことを強制的にやらせたら、現在の社会はその会社に対してどのような判断を下すでしょうか。
ましてやその従業員がそのために精神的におかしくなったとなれば、どういうことになるでしょうか。
これはパワーハラスメントだと判断され、その会社は社会的に糾弾されて、多額の損害賠償を負うことになるでしょう。

 契約関係があって、ある程度の負担を承認した者でさえそうであるのに、国家として最大の尊重をしなければならない主権者である一般国民に対し、国家がその権力の行使として制裁を科して国家行為に荷担させることは、国家による国民に対するパワーハラスメント以外の何者でもないと思います。6

 裁判所は、本来、憲法の番人として多数者による少数者に対する不当な権利侵害から少数者を守ることにある。国民のための憲法の番人ですね。仮に、そのような任務を放棄したこのような判決がまかり通るならば、裁判員法が謳う国民の信頼の向上はおろか、信頼の失墜になることは明らかだと確信しています。

 大まかな批判は以上ですが、私はこの判決をもらうちょっと前にですね、結審後に思いついたことがありまして、あるウェブサイトに投稿しました。それは憲法の前文に関わることなんですが、民主主義社会において権力というのは、どういうものかということですね。

 これは憲法に書いてある。権力というのは国民の代表者がこれを行使する。国民の民意からの正統性がなければなければならない。行政や立法とは違うかも知れませんが、司法もやはり民主的正統性が必要です。

 民主的正統性はどうやって保つのかということですが、やはり任命形式だと思います。
内閣総理大臣は国民の民意を受けた国会議員から選ばれるということにおいて、内閣総理大臣としての正統性を持っている訳です。
裁判官も内閣総理大臣から任命される。最高裁判官は天皇から任命される。
そのような任命形式を憲法はそれぞれの権力者に対して定めている訳です。これはすごく意味のあることなんですね。7

 裁判員というのは誰によって選ばれるのか。内閣総理大臣ではありませんね。クジで選ばれるのです。形の上では裁判官が選ぶのですが、裁判官もクジで選ぶのです。任命形式は国民の民意に基づくものではないということは明らかなんですね。そうなると、民意に基づかないものが司法権力を実質的に握るんですよ。これは裁判員法の規定がそうなっています。裁判官の意思に反しても、もちろん、1人の裁判官が賛同すればよろしいとなっていますけれども、裁判官裁判、裁判官3人の裁判とは違う結論が裁判員裁判では出せるという仕組みになっています。

 これは明らかに司法権力を民意に基づかないもの、民主的正統性のないが結論を出すと言うことなんです。
少なくとも被告人は、民主的正統性のある人によって裁かれる権利がある訳です。そういうことからしても選択権を与えないということは絶対的に憲法違反だと思っています。

 ですが今すぐに裁判員制度を廃止するというのは非常に困難かも知れません。

 今度の3年目見直しの閣議決定も非常にお粗末なものです。長期を要するものは裁判員裁判の対象から外すとか、あるいは性的被害者の個人情報を明らかにしないとか、そのようなホンの僅かなところに手を入れているだけで、本質的な問題には手を入れていません。

 そんなお粗末なことでお茶を濁そうとしているのが、今の政府の裁判員制度に臨む態度です。

 私はやはり最低限、被告人に選択権を与えるという運動を国会議員に働き掛けていくことが、裁判員制度を廃止させる近道だと思います。

 与謝野馨さんという議員がおられました。衆議院の法務委員会の委員でしたが、あの方は「私が裁判を受けるならば、裁判員が参加する裁判では裁かれたくない」と言っているんですね。裁判官に裁かれたいと。大臣経験者ですら、そういっている。
これは不自然なことではなくて、国民の直感なんですね。裁判員というのはやはり裁判官ではないという考え方なんです。

 これからの運動の形として、民主的正統性のある裁判官による裁判、被告人に選択権を認めよと言う運動をすることを提案していきたいなと思っています。

 今日は、福島地裁の判決を批判するということで依頼されましたので、強制の問題についてのみお話しましたが、裁判員制度というのは根本的にいろいろ考えることがあります。裁判員制度について何か良いところはないかと、何度も反芻しておりました。良いところがあれば、残していきたいなという気持ちがない訳ではなかったのですが、どう考えても問題だと。

 そして、福島地裁のような判決を下す裁判所、どうしてこのような判断をしてしまったのかという根本を考える必要があるだろうと思います。これは福島の裁判所がどこを向いて裁判をしたのかということです。結局は国民のための裁判所ではなくて、裁判官のための裁判、あるいは最高裁判所のための裁判という、余計なことを考えたために、間違った判断をしてしまったと。

 仙台でもちょっとお話したんですが、これは本気じゃありません。冗談なんですが、このような裁判をなくすために裁判員裁判は必要かなと、そんな風にさえ申し上げます。

 やはり最高裁判所を頂点とするこういう官僚裁判官制度というのはなんとしても改めていかなければならない。

 これはいろいろ意見があり、反対もされるのですけれども、法曹一元です。日弁連が一度旗をあげました。先ほど、李先生がスライドで示されたように、弁護士経験者、それも10年や15年じゃなくて、できるだけ長く市民と接した弁護士、あるいは裁判官から最も毛嫌いされるような弁護士が裁判官になることが最も大切なのではないかなと思っています。

  この後は李先生と対談する機会があるそうですので、私の話はちょうど1時間になりましたし、終わらせていただきます。

106310

 

投稿:2014年12月3日