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福岡集会報告 “裁判員”という苦役からの自由を(3)

福岡で11月23日午後1時30分から同4時30分までの間、「裁判員制度はいらない福岡の弁護士有志の会」が主催して裁判員制度に反対する市民集会「“裁判員”という苦役からの自由を」が開催されました。 集会は、司会あいさつ、主催者あいさつ&論点説明、織田信夫弁護士による報告「福島ストレス障害国賠訴訟判決批判」、織田弁護士と李弁護士による論点討論&会場からの発言という議事進行で行われました。 最終回は、織田信夫弁護士と李博盛弁護士による論点討論及び会場からの発言をお送りいたします

“裁判員”という苦役からの自由を

OLYMPUS DIGITAL CAMERA司会: 後半部を始めます。後半は織田弁護士と李弁護士の対話、いろいろな問題について対話を通じて論点を深めてもらい、途中からみなさんからのご質問などを織り交ぜていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。 いろいろな論点についてはちょっとしたレジメをお配りしておりますが、これを全部、網羅的にやるという意味ではありません。その中からピックアップしてもらいます。 進行役が最初の質問、口火を切るというのもおかしな話なのですが、ちょっと私、聞いておりまして分からなかったのが、2011年11月16日の最高裁大法廷判決がこの福島判決の構造を非常に複雑化して分かり難くしている、分かり難いのは私だけかな、その中で出てきた2011年裁判の上告人の上告趣意書が憲法76条1項と2項、80条1項しか主張していないのにということでした。 ここに条文があるのですが、官として下級裁判官が司法権を行使するというあたりについて、素人である裁判員が混じると裁判所の構成が変わってしまうのではないか、質的に転換するのではないかと思いました。 憲法76条1項と2項、80条1項を簡単に説明いただきながら、口火を切ってもらってよろしいでしょうか。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA法80条1項には「下級裁判所の裁判官は最高裁判所の指名した者の名簿によって内閣でこれを任命する。その裁判官は任期を10年とし、再任されることはできる。ただし法律の定める年齢に達したときには退官する」とこう書いてあります。 76条1項と2項には、「すべての司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。特別裁判所はこれを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行うことができない」と規定されております。 小清水さんは、「下級裁判所の裁判官というのは、任命権者が内閣である者だけであり、その者だけが裁判の仕事を担当することができるのであって、素人が裁判に関与するのは憲法が定めている裁判所ではないので、これだけでも裁判員制度は憲法違反である」ということと、「仮にそうでないとしても、特別裁判所に該当するので、特別裁判所はこれを設置することができないという76条の規定に違反する」という主張をなさっておりました。 この主張だけを原審の高等裁判所でもしましたし、最高裁判所へ上告した後でも同様のことを言っております。「上告趣意はそれだけである」とわざわざ、「それだけ」という言葉を使って、それ以外は上告趣意に含めないのだということを明言されていたのです。 それに対して、最高裁判所は「小清水弁護人の上告趣意は多岐にわたる」と自分で上告趣意を作り上げてしまっている。 そのことに対して、私の方では「上告趣意のねつ造だ」という言葉を使った訳です。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA私の方からもその点を補充しまして、小清水弁護人の上告趣意が手元にありますので正確に読みます。 正規の裁判官は憲法80条1項本文前段の規定により、最高裁判所の指名した者の名簿による。内閣でこれを任命することとされている一方、裁判員は市町村の衆議院議員選挙人名簿に登載されている者の中からクジによって全くの偶然で選ばれるにすぎない。その権限は正規裁判官と対等、場合によってはより強いものである。裁判員の存在を認める条文は憲法のどこにも存しない。裁判員の参加する合議体は憲法32条に定める裁判所ではない。司法権を持たないかかる合議体が刑罰を科すことは憲法31条に違反する。裁判員違法は最高法規憲法に違反する無効な法律であり、裁判員の参加する合議体は非合法にして珍奇珍妙な根無し草であり、宙に浮いた幽霊にすぎない。被告人に裁判員裁判を受けない権利は認められていない。正規裁判官に不当評決是正の道はない。また、裁判員の参加する合議体が仮に裁判所であるとしても、予備的にそれは憲法76条2項前段の特別裁判所に該当し、憲法違反である。 これが上告趣意です。 で、その部分が出ましたが、私の方から織田先生が先に述べられた立法事実がない部分、ここはとても重要で「裁判員制度を今廃止してもだれも困る人はいない。それは立法事実がないことの証左だ」。これは非常にわかりやすい論証だなと思いました。 裁判所がまず、「憲法が国民の司法参加を許容している」として、司法への国民参加を許容した点ですが、司法への国民参加、これは憲法が許容しているのでしょうか。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA それについて私は、国民参加というのがどういう形かということになると思います。このように一般国民に網をかけてそれを全員に対して義務化するという国民参加は、憲法は予定していないと思います。 ただし、国民参加にもいろいろなスタイルがある訳ですよね。先ほども言いましたが、調停員とか司法員とか専門員とか司法への参加の形態があります。 80条1項には「下級裁判所の裁判官は最高裁判所の指名した者の名簿によって内閣でこれを任命する」と書いてある。では最高裁判所の裁判官についてはどう書いてあるかというと、「最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する」と書いてある。 最高裁判所大法廷の理屈というよりは、裁判員裁判推進派の意見は、「最高裁判所の裁判官というのは限られた任命形式というか人である。下級裁判所の裁判官というのは最高裁判所の指名した者の名簿によって任命すると書いてあるだけで、素人を排除するとは書いていない」と説明しています。 私は、それはそれで良いと思うんです先ほど言いましたが、宮沢先生は「80条1項の下級裁判所の裁判官というのは、これは何も裁判所法に乗っている裁判官ではない。これを例えば、昔は天皇が任命したものは官と言った。新憲法になってからはそのように限定する必要はない。これを裁判員と使ってもかまわない」というように仰っている。 要するに任命形式が内閣であって任期が10年、身分保障もあるということであれば、素人の人がそのような地位についたってかまわないと私は思います。 参審員とか参与員とか、どのような名称にするかは別にして、裁判所法で定めて裁判官を補助するような能力のある人を選んで、裁判に関与させて実質的に判断権も与えるという形式を取るならば、それは決して憲法違反だとは思いません。 しかし、全国民に対して網をかけて義務化することを原則としていることは80条では全く予定してないことであり、そういう意味で小清水さんが言われることは正当だと思います。憲法は確かに素人が裁判官であってはいけないとはいっていないけれども、民主的正統性は保たれなければならないというのが私の考えです。

 OLYMPUS DIGITAL CAMERAすると国民が司法に参加することは、憲法は許容しているとところが、福島の裁判所は一歩踏み越えて、論理をすっ飛ばして負担や義務の問題にまで言い及んでいると。そこは民主的正統性において問題であると。 さて、その民主的正統性なんですが、裁判員制度推進論者には「国民参加は民主主義と直結している。なぜなら民主主義は討論を経る。裁判員は裁判官と討論を一定の結論に至る。これはまさに民主主義ではないか」という意見がありますが、この点はいかがなんでしょうか。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 裁判制度推進派の論で「参政権同様論」よりは幾らか説得力があるのはこの「討議民主主義」ということなんですね。これはアメリカの学者の方が言い始めたことなんです。 ただ、それには立法、行政と司法とを混同していることだと思います。国民の代表かどうかは別にして、単に国民が意見を述べる機会が与えられる内容であれば、それは司法という特殊な分野には通用しないこと。司法の分野というのは、そういう意味において任命形式は別にして、立法、行政と結論を出す過程においては、民主主義には馴染まないと。これは金子肇さんが『裁判法』という本で、その司法が結論を出すということにおいて民主的であると言うことは望ましくないと書かれておりますね。民主主義というのは司法にとっては一つのジレンマだという言葉も使われております。そのように考えている方は結構多いと思います。というよりは、司法制度改革審議会でもそのあたりのことは最終的には了承されていた。当初は「国民参加の民主主義」というように言っていましたが、最終的には「民主主義を基本にする考え方は間違っている」といって、「理解の増進、信頼の向上」という言葉で修正されたというのが正しい言葉ではないかなと思います。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 要するに民主主義の正統性であるところの、討議をして一定の結論を得るというところは立法、行政では結論に正当性を根拠づける上では意味のあることだと。しかし、司法ではジレンマのあるところだというお話ですね。 現在、裁判員制度は民主主義と直結するものではないという考えが了解されていることとお考えですね。

織田:すべての人が了解しているとは思いませんが、司法制度改革審議会の多数意見はそのように、民主主義に基づくものではないという考え方で立法がなされたというように理解しております。

李:司法への国民参加が民主主義に必ずしも直結するものではないけれども、この裁判員制度は国民に義務づけることが容認されていることについて、推進派の人たちは何だと言っているんでしょう。強制することができる理由について。

織田:これは福島の裁判で、被告側、つまり国側が言ったことですけれども、簡単に言えば「義務づけなければ人は集まらない」ということなんですね。明確にそう言っています。だからこそ義務づけるんだと言っているんです。 問題は、そのようにすることが正当なのかどうか、憲法上、個人の尊重ということもありますし、司法の民主的正統性について果たして容認されるのかどうかということの検討を怠って、集まらせるために義務づけるんだと言っている訳なんですね。 それ以外に理由のつけようがなかったんじゃないかと思います。福島の判決も同じようなことをいっています。

李:要するに義務づけをしなければ参加しないだろうと、制度自体が成り立たないということですね。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA ちょっとその点ですね、国民に、司法への参加を求める参審員というのですか、そういう制度を取っている国はフランスやドイツにあります。フランスは日本に似て義務づけや制裁が定められているそうなんですね。ドイツはそうではない。ドイツは本人の了承はもちろん、参加する国民について議会の承認を得るそうなんですね。本人の了承を得るというドイツでは義務づけられていないと聞いています。 私は準備書面の中でも書いたのですが、「クジで選ぶというよりは、国民の中から私は裁判員としてその職務を担当したいと手を挙げたとする。手を挙げたらだれでも良いかというのではなく、本当にその人が裁判に参加する適正があるかどうか、能力があるのかどうか、そういうのを慎重にチェックする。クジで選ぶよりははるかに良い裁判ができるのではないか」と。 ですから、国民の参加と義務が当然に結び付くものではないと思います。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 参加=即義務化というのは異議ありというのは分かりました。推進派というか容認派の方は義務づけなければ制度自体が成り立たないという消極的な理由ですが、積極的な理由として制度ができるときの議論の中で、「規制緩和社会の中での治安維持のための国民の意識改革が必要。このためには、無理やりにでも参加させて国民を教育しなければならない」とこのように言われた方がおられます。その点はいかがでしょう。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA これは『法律のひろば』という雑誌の中で、司法制度改革推進本部の山崎潮さん、その後、千葉地方裁判所の所長さんになって間もなく亡くなられた方なんですけれども、その方が堂々と述べていることなんですね。 国民の意識を変える。今の社会というのは国民に参加してもらわないと治安が成り立たないんだと、意識改革をしてもらうんだと堂々と言っているんですね。 私はその『法律のひろば』を読んだときには、「まあ、よくここまで明け透けにいうな」と。山崎さんというのは個人的にちょっと知っている人で、お人柄がとても良い人なんでつい本音を言ったんだなと。これを読んで、裁判を良くすることではないんだと。彼らも分かっていたし、本音を言ってくれたんだなと思いました。 審議の過程でもそれらしきことはちょいちょい言っているんですよね。「素人が入って裁判が良くなるということはない。しかし、幾らか社会秩序のためには良いのではないか」というようなことは言っております。

李:今の点は確認ですが、山崎さんは裁判官だったんですね。

織田:はい、仙台におられたこともありますし、東京高裁では民事の裁判官でしたね。民事訴訟法の改正にも関与されましたね。そういう意味では行政的な手腕のある裁判官で、スポーツマンでしたね。余計なことですが。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA山崎さんは裁判官が本職であって、内閣の司法制度改革推進本部の牽引役である事務局長となって先ほど言った「治安維持のための国民の意識改革」ということを公に発言されていたということですね。 そこが裁判員制度義務化の理由の一つだという風に理解できます。 では、憲法上、あるいは日本の法制上、何らかの義務化をしているものはあるんですが、勤労の義務、納税の義務、義務教育とかありますけれども、参議院や衆議院では、国民は証人として呼び出されれば出頭の義務があります。これと比べてどうなんでしょう。

織田:証人義務のことについてはよく引き合いに出して言われますが、これは逆の規定の仕方ですね。証人としてだれでも呼ぶことができ、これを拒否することはできないということなので、国民にはそのような義務があるということですね。憲法に全く根拠のないことではない。その他、災害防止法とかでも国民の義務が定められているという京都大学の教授もいます。これについては罰則規定があるのかなと調べてみると、真摯な協力を要請するというものでした。

李:推進論者や容認論者の人たちは、「他の先進国も推進しているじゃないですか、フランスにも罰則規定があるじゃないですか、先進国の仲間入りという意味でも参加を義務づければ良いじゃないですか」という乱暴な話もありますが、その点はいかがですか。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 私が福島の裁判で「立法事実がない」と言いましたときに、国の方で「立法事実がある」ということの根拠をいろいろと言ってきました。 国は立法事実として、「国民の司法参加によって司法の国民的基盤、民主的正当性がより強固になることに加え、刑事裁判がより迅速に進みよりわかりやすい内容になることが期待される」と言ったのですが、これは立法事実とは言えず、立法目的ですね。 そして今言われた「欧米では以前から、陪審制や参審制など刑事司法に国民が参加している制度が確立している」と言いました。

私の方ではそのことについて、こう言いました。 被告が言いたいことは、『G8などにおいて司法に国民参加がないのは我が国だけ。G8のあり方は民主主義の在り方のように思われる。我が国だけが国民参加がないのは民主主義の在り方としておかしい』ということだと思います。他国がやっていることをやっていないからやるというのは、全く非論理的で根拠のないことである。各国にはそれぞれ歴史的事情、社会的背景があるから制度として存在しているのであって、他国で行われている制度だから我が国でも必要だとは当然になるはずもない。他国で行われているというのであれば、他国にある制度の成り立ち、その歴史的変化、その原因、つまり立法事実を明確にしなければならない。また、その制度を模倣しようというのであれば、現時点での制度の問題点、国民の受け止め方など広範かつ緻密な検討が必要であろう。司法審でも国会でもそれを行った形跡はない。おざなりの調査が司法審でなされただけである。国民参加の先進国であり、憲法に陪審の規定がある民主主義国の旗幟を自称するアメリカは憲法第2修正で人民が武器を保有し、又は携帯する権利はこれを侵してはならないと定める。被告の論理からすれば、我が国でも国民に武器を持たせるべきだということになるのだろうか。アメリカではこの武器の所持権が憲法に明記されていることによって多くの深刻な殺傷事件が頻繁に発生していることであり、現在の我が国でこの制度を導入しようと考える者は一人もいまい。ジュローム・フランクは『裁かれる裁判所』という本の中で「よく訓練された誠実な事実審裁判官が陪審をつけずに行う審理に比べればはるかに望ましくないと考えるものである」と述べて、陪審裁判を批判している。福島県民新聞の記事、地元の新聞ですが、これは証拠に出しました、アメリカに研修に行った法務省関係者がアメリカ人に「日本でも陪審制度のような新制度を導入する」と話したら、一人の例外もなく全員が「どうしてそんなバカなことを」と驚いた。「すでに陪審制度の限界は明らかになっている。それがこちらの常識。今からでも遅くない。止めた方が良いと言った」と。県民新聞に堂々と載っています。司法制度改革審議会は審議の過程で海外調査を行っています。イギリスのバリスタ教会では何と言ったかというと、「多民族国家の英国において、少数民族に属する者の権利を保護するなどの見地から適正に社会の構成を反映しうる陪審は社会の団結を維持・強化する上で有益である。裁判官は多くの場合、中流階級出身の白人の男性である」と述べていることが明らかにされています。我が国は多民族国家であろうか。少数民族の保護のため裁判員制度を取り入れる必要があろうか。またイギリスにおいては、陪審制度は最終的にはほとんど利用されなくなるかもしれないという予測もあります。イギリスにおいては陪審員の判断の精度において誤判率は6%と高いと報告されている。ドイツの参審裁判所では、プロの意見と異なる素人の意見は判決になかなか影響しないと言われている。また、フランスの陪審員の場合、陪審候補者として召還されても、仕事を休むより罰金を払った方が経済的だと人が少なくないと言われている。このことは『ジュリスト』の中で詳細に紹介されております。最高裁は司法審の第30回会議で「陪審制度においては誤判率が高い」と述べ、今朝の新聞でしたか、誤判のことが載っていましたね。強姦か何かで10年拘束された人が釈放されたと書いてありました。

諸外国で採用されている、あるいはG8の中でこういう制度を取っていないのは我が国だけという考え方は、司法審も国会もあるいはチェックしていたであろうけれども、思い込みが強すぎて、その他への慎重な配慮を欠くに至ったとも考えられる。 だから、大切なことは他国にあるからおかしな制度ではないなどと飛躍して考えるのではなくて、刑事裁判を変革しようとするならば、真に刑事裁判として望ましいものであるか否かを慎重に検討し、結論を出すことではないだろうか。

まあ、これはさらに余計なことなんですが、「諸外国にあるからというならば、我が国では憲法上、陸海空軍は存在しない。徴兵制もない。しかし、そのような国はどこにもないであろう。被告の言い分からすれば我が国でも軍隊を持ち、徴兵制を定めるとは当然であろうとなるだろう。G8の中で強大国が揃って核兵器を持つ。我が国が世界第3位の経済大国であれば、それに倣って核兵器を持つことは当然許されることになるという理屈にもつながる。この被告の主張は苦し紛れの主張だ」と反論をしました。 ちょっと長くなりました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERAものすごく極めて説得的な反論のように思います。 国策として推進するところは、冒頭に述べましたとおり、行き着くところは憲法の括弧つき改正したいという流れの中に、この司法制度改革が位置づけられており、結局、他の先進国にあるような戦争を含めた徴兵を念頭に置いて、裁判員制度の義務化があるやに思えます。 それで、じゃあ日本の司法制度、刑事裁判を担ってきた職業裁判官は、歴史上、職業裁判官にそもそも民主的な基盤は薄かった、あるいはなかったのかあったのか、その点はどうなんでしょう。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 私もその一人でちょっと言い難いんですが、実は裁判所を辞めて弁護士になったとき、いわゆる雛壇に並ぶ裁判官を見て、この人は本当に裁判をする資格があるだろうかと、自分のことを振り返って思いました。自分が7年間、裁判官をやってきて、いわゆる望ましい裁判をしてきただろうかということを大いに反省させられました。 裁判は、国民が寄ってたかって文殊の知恵で何とかするというのは好ましくない。憲法も法律も知らない人が寄ってたかって裁判をすれば感情的な裁判、直感的な裁判となり、冷静な判断ではないことは明らかです。だからといって、裁判をする人が単に官僚、生え抜きの人間で良いのかということになると大いに疑問で、自分のことを考えてもやはり法曹一元、少なくとも裁判官になる人は社会的に経験が豊富な人がなることが望ましいと思います。

社会的な経験が豊富であれば、法律や憲法を知らなくても良いのかということにもなりますので、そうなると訓練された弁護士からなるということが、少なくとも絶対に良いということではなくても、相対的には今よりもはるかに良いのではないかと。 現実的な問題として、下級審裁判官の中でも地方裁判所や簡易裁判所の裁判官をすぐに弁護士から全員をというのは不可能だと思います。

 実は、新潟大学名誉教授の西野喜一先生に「法曹一元化が残された道ではないかと思う」と言ったところ、西野先生は「北海道で裁判官になる人は居なくなるじゃないか」と言われて反対されましたけれども。 それはやり方によると思いますけれどね。金銭面で特別に保障をするとかです。

 まず、高等裁判所の裁判官から始める。そこには非常勤の裁判官もいいのではないか。職業裁判官が1人のところへある一定の弁護士が入る、又は弁護士だけで担当するとかですね、そういう法曹一元の在り方が良いのではないか。そこから改革をしていくということがまず日本では現実的な法曹一元の取り方ではないかなと思っています。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA私も一弁護士ですが、法曹一元化を少しでも実現するというのが司法制度改革の当初の目標でありました。実際のところは、弁護士からの裁判官への任官は非常に少ない。志望する人も少なければ門戸も限られているのが実情のようです。 さて、その裁判官ですけれども、裁判員制度が実施される前から裁判官にあった問題とは、司法官僚という点です。裁判官だった時、あるいは弁護士になってから見た司法官僚という問題についてありましたらお話してください。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 私個人を振り返って、裁く力があったのかなと本当に思いますけれども、私が裁判官担ったときには、左陪席、まだ一人前の裁判のできる資格がないときでも、自分が裁判長になった気持ちでと自分に言い聞かせてきました。議論の中でも、右陪席や裁判長から言われたことで疑問があるときには、資料室でいろいろな資料を調べて自分の意見を述べるということを心掛けてきました。 先日、福井の裁判所で原発差し止めの判決がありました。近代まれに見る良い判決だなと思いました。だから、司法官僚だからいけないということもないと思います。 大津事件の例もありますし、まあ、あれはいろいろと批判もありますが、あのように政治に対して毅然とした態度を取って刑事の判断をするという方もおられますし、裁判員制度反対運動をしておられる元裁判官の方なんかも本当に独立の気概を持った人ですし、問題は選択の問題ではないかなと思います。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA国家権力、司法権力を行使して国民の財産や身体の自由、生命にまで影響を及ぼすのが、裁判なんで、裁判官、あるいは司法の独立をどれだけ確保できるかという選択、どういった人を選ぶかという選択の重要性は、今お聞きした中でもわかりましたし、今まで裁判官として任務を担わせようとしてこれまで日本の中では選択し実践されてきた。 司法の独立、具体的には裁判官は良心に従って独立して憲法と法律のみに拘束されることが義務づけられる、そういった重たい重たい責務を課せられている。裁判員はそれと同じような権力行使ができる。その問題性について、先生はどういう風に捉えられておられますか。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 76条3項と80条の問題ではないかなと思います。76条3項は「すべて裁判官はその良心に従い、独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」という風に規定されています。この裁判官というのは、最高裁判所もおそらく下級裁判所もそうだと思いますけれども、裁判所法に定める裁判官という風に限定して考えていると思うんです。 私はそうではないと思います。これは裁判を担当する人という意味だと思います。先ほど、素人でもなれない訳ではないと言いました。素人でも裁判を担当する者はこの76条3項の裁判官の独立、司法権の独立といった気概を持った人であるべきで、そうでない人を選んではいけないし、なってはいけないと思っています。

李:クジで選ばれた人の中からというと、その気概を持っているかどうか判断しようがないですね。

織田:そうです。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA また、刑事訴訟規則の55条で、刑事裁判にあたっては、名前を明らかにして裁判をしなければならないし、その判断については責任の所在を名前を明らかにすることで明確にしなければならないとなっており、これが日本の刑事司法上手続き、法令上の枠ですね。 ところが、裁判員は名前が出ないので、この枠の中に入らないじゃないですか。 いかがですか。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA結局、先ほどの司法権力を、司法だけでなくて権力を行使するためには、民主的な正統性が必要だと私は言いました。 権力を行使する場合、ただ任命者がいれば良いというだけではなくて、国民のすべてに対して責任を負うということです。 判決は、個々の原告と被告人に対して、あるいは被告人と検察官に対して出される訳ですけれども、これは体制的といいますか、国家的な意思決定として影響を与えます。ですから国民に対して説明責任を果たしてもらわなければならないと思うんですね。 やっぱり、今回の福島裁判所の判決も、本当に国民に対して説得力があるものと言えるのかと言うと、とても言えるものではない。やはり、国民全体に対して、裁く者は自分の裁く理由、理由付けといいますか、それが必要だと思います。 みなさんはどう思われるかわかりませんが、私は陪審制度にも反対です。陪審制度というのはご存じのように事実認定のみを担当すると。刑の量刑には関与しないというのが陪審の在り方ですよね。陪審はその事実認定に至った経過については説明をしません。国民に対する説明責任というのは陪審制度では果たせないんですね。 裁判官もその陪審の結論だけをとって量刑を決めんですが、これもそういうお国柄であると言えばそれまでですが、説明責任を果たしていないと思います。国家的な意思決定についての説明責任を果たしていないということで許されないことだと思っています。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA先生のお書きになっている中で、「国民主権の実質化の観点から見たら、NOを言える制度こそ国民主権の実質化、すなわち裁判員制度への参加を強制されることに対して、手を挙げる、声をあげるこということこそが国民主権の実質化ではないか」というようなことを仰っていますが、そのことをもう少し説明していただけますか。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA憲法学者の意見も聞きたいと思うくらいですよ。 国民が民主主義国家でもって主権者だということはどういう意味なのかということだと思います。これは先ほどから言いましたように、「権力を行使する代表者を選任する」ということであって、一人ひとりが「主権者だから俺は偉いんだ」とか、「俺は意思決定ができるんだ」ということではない。これは『新しい憲法の話』という文部省が作成した本に出てきます。そういうことを書いているのはこの本だけではないかと思いますが、「国民主権というのは、あなた方一人ひとりが主権を持っているんじゃありませんよ。みんなが全体として持っているんです」ということを書いている。これはすごいなと思います

 それは国家意思の国家意思の決定に関与する、これは国民が全体の意思として、投票なら投票で選ばれた人によって、そのような形でもって権力を行使する。しかし、国民はそんな権力の行使の仕方について一人ひとりが行使することはできませんが、利益は享受するということも書いてある。

 結局、利益を享受する主体であるのが国民主権ということです。

 裁判員なんていうのは利益を行使するのではなくて、司法の意思決定に自らが関与するということですが、これは民主的に選ばれた人でなければ関与できないはずなんです。 裁判官も国民ですからね。民主的に選ばれているという意味では民主的正統性がありますけども、先ほどから言っているように裁判員というのはクジで選ばれた人にすぎない。任命系統に民主的正統性がないとなれば、裁判員という権力の行使の仕方はいけない。しかし、裁判を受ける権利、裁判によって自分の基本的な人権を擁護してもらう、被告人であれば正当に裁かれるという権利は、被告人も国民として国家主権者としてあるということになります。 この点について、憲法学者の意見も聞きたいと思いますし、みなさんの意見も聞きたいと思います。

司会:お二人に対する質問とか、それに拘らず自分のご意見なども出していただきたい。

女性: 福島地裁の裁判の話をインコのウェブで見て思ったことなんですけれど。潮見裁判長は裁判員裁判を知らないのではないか。織田先生が立法事実をと言われたとき、国側は最初、そんなことはやる必要がないと言った。潮見さんが「違憲判断をする上で立法事実は重要。立法時には刑事裁判の在り方への批判があってこの法律ができたはず。当時の刑事裁判の状況について議論してもらわないと違憲かどうか判断できない」というようなことを言われたと。そんなことはあったのかと。裁判員法ができたとき、「これまでの裁判は正統に行われてきた。だから司法への理解と信頼の向上のためだ」と言われていたはずです。こんな基本的なことが分かっていない裁判長がこの判断、裁判をやることに疑問を持ちました。

 後、刑事被告人にとって、裁判員が苦役かどうかは関係ないと思います。だから敢えて上告趣意書にされなかったのではないでしょうか。そんなことも大法廷も福島地裁もわからなかったのか、疑問はすごくあります。 裁判記録をずっと読んでいて潮見裁判長にはいろいろと疑問がありますが、判決を読んだ最大の疑問は、裁判員が職業でないということです。それは、徴兵よりひどい話になるのではないかと。職業軍人がいて、徴兵制があるとすると、徴兵されると帝国軍人なら軍人としての公の地位を与えられて、人を殺す権利を与えられるというか、人を殺すことを認められる。 しかし、職業でないとなると、死刑だとか、懲役30年とか、1年でも2年でもいいですけど、職業的裏付けがない人が公権力を行使するというのが良いんでしょうか。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 今、仰ったように、潮見裁判長は裁判員制度のことを知らない、私は最初から知らないと思っていました。まあ、無理もないというか、まず民事の裁判官ですから刑事のことは知らないでしょう。裁判員制度について裁判所の中で真剣に検討している裁判官なんていうのはまずいないと思います。自分の日々の仕事に追われているということもあるかも知れませんが、本当に裁判員制度というのは日本の司法制度にとってどういうことなのかという問題意識を持ちながら、日々仕事をしている人は刑事裁判官でもいないんじゃないかと思います。 法律がこうしている、最高裁判所がこうしているということで日々過ごしているんではないかと。 元裁判官で学者になっている瀬木比呂志さんは「今の裁判所でもって裁判員制度反対などと言ったら身の置き所がない」と言っていますね。まあ、そういうことで裁判員制度のことは考えないようにしているんじゃないかと。潮見さんも悪意であのような判決をしたとは思わない。ともかく最高裁判所の言うとおり、それに従うということで判決をしたのだと思います。 もし、本当に国民のことを思うなら、Aさんの苦渋を真剣に考えるならば、国会で何を審議したのか、司法制度改革審議会で何を審議したのか、推進本部で何を検討したのか、検討すべきで、私は検討してもらうための資料は素人の書いたものから専門家の書いたものまで全部出しました。それでもやはり、そこまで気を回すことができなかった。やはり裁判員制度を批判すること、それを推進する最高裁の裁判官を批判することは下級裁判所の裁判官にはできなかったのかなという風に思います。 私は、潮見裁判長は裁判員制度を知らないということを前提にして本当にいろいろな立証、細かい主張もしました。できるだけのことはしたと思っています。

 男性A: 私は裁判員制度というのは、司法における非正規、派遣、使い捨てだとこのように考えております。お二方はどう思われていますか。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 先ほどから出ておりますが、本来、職業としてあるべき立場なのに、職業ですらない。ですから、非正規、使い捨て、派遣、言えばもっとそれよりも酷いのかなと。一応、日当、旅費は出ますけれども、断ると罰せられるということで、より酷いものだと思います。

織田: ただいまの答弁を引用します。

司会: 弁護士の岩本さんはいかがですか。

弁護士:岩本 私は裁判員制度には反対をしてきたんですが、どこか引っかかる部分がありました。織田先生のお話を伺って、基本的には法律家としての考え方として「こうなるはずだよな」ということが自分なりに整理させていただいて、良かったと思います。

司会: 私も非常に充実した内容で、嬉しくここに立たせていただいております。

男性B: 来月の10日に施行されることになっている秘密保護法なんですが、これとの兼ね合いがどうなっていくのかというのがあって、それこそ秘密保護法の別表で定めている4類型に該当する秘密を漏らした場合には罰せられることになっていますけれども、もし、そうやって罰せられる人を刑事裁判で裁くことになったら、裁判員は罰せられる人の罪がどういう罪であるのか、もしかしたら知ることができないのかなと思ったりしています。 知ることができないまま裁かせられるということは、心の負担というのが今の普通の裁判員としての仕事よりもさらに重いものになっていくような気がして。 悪法同士がお互いに邪魔をしあって、結局、どこからか自滅していくんじゃないかなと思っているんですけれど、こういう見方は楽観的過ぎるんでしょうか。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 特定秘密保護法の罰則が裁判員裁判の対象事件になるかどうか、まだ私、把握できていないんですけれども、万が一、死刑もあり得るような事件で、特定秘密保護法で対象となっている特定秘密に関わるようなものが証拠となるような事件があり得るとしたら、裁判員も当然、秘密のベールになったもので証拠として判断しなければならない。裁判官も含めてですが。秘密の部分が増えると。 ただでさえ、裁判員裁判は、裁判員の心理的負担を軽減するために、証拠については生の写真ではなくてイラストにしようとか、どんどん事実から遠ざけられたり証拠から遠ざけられたりしていく中で、秘密ということが出てくると、なおさら判断は難しいし、本当にこれでこの人に対して懲役だとか死刑だとか言っていいんだろうかという悩みを、裁判員、裁判官もですけれども、当然抱える場面は確実に増えていくと思います。

男性C: 私も裁判員制度絶対反対なんですけれども、今日の話を聞いてつくづく思ったのは、いわば素人の裁判員に裁かれることをマイナス200とすると、職業裁判官に裁かれるマイナス100と、マイナス200が良いのかマイナス100が良いのか、選択肢が絶望的であると気がするんですよね。 確かに裁判員制度とは非常にひどい制度だと思うんですけれども、司法官僚といいますか、職業裁判官のこれまでの在り方、刑事事件での被告の裁かれる側から言いますと絶望的な選択肢しかないような気がしておりまして、その意味でいうと、職業裁判官の在り方、先ほどもありましたが、良心に従って裁いているとは思えない。 重たい天秤を全く別の重たい天秤で、真実かどうかとか良心に従っているかどうかとは別の天秤にかけて判決を言っているという気がするんですけれども。 まあ、そのことを余り言っても仕方がないんですが、裁判員裁判を導入することによって裁判官の意識とか、仕事の内容とかはどうなっていくんでしょうか。システムの問題ではなく、裁判官が裁く裁判も引きずられて影響してくるということはあるんでしょうか。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA まず、裁判員と一緒に裁判を担当する裁判官について、非常に裁判員のご機嫌を取るというか、裁判員というのはお客様というか、裁判員の評議での発言はできるだけ尊重しようとか、そういう風な気持ちになって、現実にそういう風な判決が出された。それが特に量刑の問題などでは最高裁判所では破棄されたりと。 要するに、これは最高裁判所がいけないんだろうと思いますが、裁判員の意見は国民の意見なので重視しなければならないと。国民主権ということをはき違えているのだと思いますが、国民の意見だから尊重しなければならないと、なっているんじゃないかなと思います。本来は、間違っていると思いますけれども、これが一つの流れですね。 現実にコリンP.A.ジョーンズさんというアメリカの弁護士で日本で教授をしている人は著書の中で「裁判員裁判をやって一番喜ぶのはだれか。これは裁判所ではないか」と書かれていますね。それは「誤判をしてもそれは裁判員の所為にできる。私しゃ知らんよ」と。 それと結び付くかどうか分かりませんけれども、最高裁判所がここまでして、上告趣意をねつ造してまで裁判員制度推進の御託を並べるというのはなぜかということなんですね。 それは裁判所に都合が良いからだと思うんですね。

  第一には、彼らが嫌がっている陪審制度というそういうものは採用しなくて済みます。裁判員法の33項には刑事事件について陪審を採用することは構わないという趣旨のことが書いてありますが、これは永久に没です。 そして、先ほど言いましたように、裁判の結果を裁判員の所為にできるという利点がありますね。 もう一つ、ある人の意見ですけれども、経済的にも裁判所は裁判員制度にとって潤おうと。例えば、留学とかなんとかに派遣できる裁判官も増えるとかね。 要するに、裁判員制度というのは裁判所にとって美味しい制度であるといわれています。

 それから控訴審の裁判官の意識はどうかと言いますと、千葉地裁が麻薬取締法違反の事件で無罪の判決をしたことに、東京高裁のある裁判官が逆転有罪、それも重刑、無罪から一転、懲役10年と罰金700万とかという判決をしました。気骨があるというのか、裁判員裁判何者ぞという対応をする裁判官もおります。 しかし、大阪地裁で求刑の1.5倍の判決をした裁判官がおりました。これは自分の子どもを虐待死させた事件でしたが、地裁の1.5倍判決を高裁はそのまま引用しました。さすがに最高裁判所は慌てましたよね。これは先ほど言いました千葉の事件でもってなるべく裁判員の意見を尊重しなければならないといった同じ部が担当することになりました。

 結局は、1.5倍はやり過ぎだということで自判をしました。被告人は2人いたんですけれども、そのうちの1人に対しては求刑どおり、もう1人は奥さんですが、求刑より2年低い判決を言い渡しました。 高等裁判所まで毒されているというとなんですけれども、裁判員裁判の判決は尊重しなければならないんじゃないかなという風潮が出ていたことは間違いないんですが、最高裁判所はやり過ぎだと破棄しました。

 裁判官にも裁判員制度で揺らいでいる人とそうでない人がいるということではないかなと思います。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA まだ尽きせぬご意見とか質問がありそうな雰囲気ですが、会場の都合もありますので、これで一応閉めさせていただきます。 長時間のご報告ありがとうございました。 まとめというのは力が及びませんので、私が感じたことを一言だけ言わせていただいてまとめに替えさせていただきます。 福島裁判の判決書きを読んだときには、正直言って、一読ではよく分からなかったんですよね。そのような複雑な構成になった原因が2011年11月16日の最高裁大法廷の無茶苦茶な判決にあることがかなりはっきりしました。その最高裁判決の問題点が上告趣意を歪曲してまで裁判員制度への批判を封じる政治的な判決を出していること、それが今の司法の危機を象徴的に示していると思います。 今も織田先生が触れられた、被告人の選択権拒否の問題2011年1月13日、それから事実認定について裁判員神話とも言うべき2012年2月13日の判決、とにかく、批判が相次ぐ裁判員制度にお墨付きを与えていると。福島の裁判もそうですよね。 ここに治安立法的な性格というのが示して余りあると思います。

 これまで福岡ではちょっとご紹介がありましたが、「追求する会」で裁判員制度はいらないということで運動を進め、司法と民主化の問題、改憲と足並みを揃えて進展していることへの問題、被告人の立場や弁護人の立場からの問題などかなり深めて参りましたが、具体的に裁判員としての苦役を強制されている一人ひとりの国民の立場の問題についてはこれまで議論を深める機会は得られませんでした。 今日はかなり実りの多い集会となりました。

 最後に、裁判員制度は合憲だという最高裁の無茶苦茶なお墨付きが出てしまった、これを実務的にひっくり返していくのは簡単ではありませんし、難しいと思います。私たちもどう運動を進めるかと言うときに呆然とするような思いもよくしますが、やはり廃止のための鍵、キーポイントというのは、「裁判員が参加しなければこの制度は壊れる」ということです。 そこに鍵があると思いますので、この制度の危険性、矛盾を暴いていくことで、一人の拒否からみんなの拒否へ、今、織田先生が仰った「NOこそ国民主権の実質化だ」という言葉を噛みしめながら、運動を進めていきたいと思います。 本日はありがとうございました。

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投稿:2014年12月7日