~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
先日、「遺体イラスト問題」(「裁判」から「裁判のようなもの」へ)をインコさんが論じましたね。この問題についてはマスコミでもさまざまな立場から議論されていて、深刻さがあらためてうかがい知れます。このテーマをもう少し深掘りして考えてみましょう。
「遺体の写真は出ません。ご安心下さい」。9月に死刑が言い渡された東京地裁の強盗殺人事件の公判では、検事が裁判員にくりかえし声をかけたそうです。検察は被害者夫婦の遺体写真を調べてほしいと言ったけれども裁判所に認めてもらえず、仕方なくイラストを使ったって訳。判決後の共同記者会見で、裁判員たちは「イラストでも十分残虐」とか「イラストはリアルではない」などと感想を語ったという話です(10月27日『毎日』)。
日常の市民生活の中には「血の海の茶の間」や「天井まで吹き上げた血潮」や「切り裂かれた胴体」は存在しない。市井の人々がその光景を普通の神経で受け入れられないのは当たり前だ。人の生死に関わる刑事事件の壮絶な現実は、日常生活の延長線上にない異界の話さ。
「ご安心下さい」という検察官の言葉は、その日常と非日常の間に橋を架けようとする検察官の工夫の産物。実際の裁判は、遺体の写真を見るのを不安に思い、遺体の写真が出てこないことに安堵する人たちによって裁かれている。
イラストのリアリティーは写真よりはるかに低い。それでもよい理由は何か。リアルでない方がよいというのはどういうことか。もともと写真を取り調べる必要などなかったのに延々と無用な証拠調べをしてきた。それを裁判員裁判の実施を機会に正常な証拠調べに戻した。そういうことなら一応は納得がゆく。
そう言いたくなるよね。しかし実際はそうではない。イラストが正しいのだったらこれまでは何だったんだということにもなるだろうし。正直言えば写真を調べてほしいのだ。だが裁判員が嫌がるので出さないことにした。それだけのことだ。本当は「写真は出ないから安心せよ」ですむ話ではない。
まさに「視覚証拠の決定的な退行」で裁判が行われていることになる。
9月の死刑事件は否認事案ではなかったけれど、被告人が犯行を争っていたらイラストじゃダメということになっていたかも知れない。その可能性は十分ある。厳密で正確な写真証拠が示されなければ、被告人はきちんと争うことができないし、作られた証拠で犯罪が成立することにもなりかねないからだ。
ベテラン裁判官は「遺体写真が立証や量刑判断に本当に必要なのかを考え、裁判所がより厳密に制限するようになった」と話したとありますね(前掲『毎日』)。
本当か。そんな当たり前のことを今ごろになって言うのもひどく変な話だ。裁判所が「厳密な制限」を課す結果、裁判の場に真実が登場する機会が減ることは間違いないだろう。
11月4日の『読売』の社説は興味深いものでしたよ。「イラストでも負担が大きい」とした東京地裁の判断は「首をひねらざるを得ない」「裁判所の過剰配慮」と断じたの。「証拠を直視すべき時もある」という見出しの社説だった。
社説は、犯行状況や殺害方法を示す証拠としては加工したイラストより写真の方が望ましい、裁判所には衝撃的であっても不可欠の証拠は採用するという毅然とした姿勢が求められると言った。「裁判員の選任手続きの際、凄惨な写真を見せることを裁判員候補者に説明し、不安を訴える人の辞任を柔軟に認めるというきめ細かな対応も欠かせない」というのが社説の結論だ。
でも、この考え方に立てば、裁判員裁判は、凄惨なシーンだって少しも気にならないとか、マンガやゲームの感覚で人を裁いてみたいとか、どんなことになっても裁判員裁判に参加したい気持ちを押さえられないというような「特異な傾向」の持ち主によって辛くも支えられることになるわね。
その徴候はもうはっきりと見えていると思います。それを推し進めよというのが『読売』ということかと。
そうだ。最高裁は、裁判員をやりたくないと考える人々がどんどん増えていることに強い危機感を懐き、裁判員候補者の「拒絶志向」を押しとどめようと血眼になっている。不出頭処罰の規定を慎重に封印し、辞退や解任の件数を減らすことを必死に追求し、全地裁のホームページで「出前講義」の広報を打ち出させた。恥と外聞は皇居のお堀に捨てたようだ。
そう言えば、このあいだお堀で浮いているようなものを見かけましたよ。
(無視して)『読売』路線と最高裁の方針は明らかにベクトルが逆向きね。ハムレット顔負けの悩ましい局面という訳ね。
裁判の体をなさなくなることを覚悟して裁判員の参加確保をめざすのか、それとも裁判の体をなさなくなるのを懸念して裁判員の参加確保をどこかであきらめるのか。参加拒絶激増を前に推進勢力の内部混乱は収拾不能に陥りつつある。
10月11日の『大分合同新聞』はこのテーマに果敢に切り込んでますね。「福島地裁の判決は裁判員を務めて何かあっても補償しないと宣言したようなもの。裁判員になるのを拒否する権利を認め、やりたい人だけがやる制度にすべきだ」という声が県内の弁護士から上がっていると紹介したわ。
そういう意見が、それも法曹の中から出てくること自体が制度の破滅を示している。「やりたい者だけでやる」のでは制度の目的が否定されるというのが政府・最高裁の立場だからね。
制度の目的は普通の市民にこの国の司法の正統性を信じさせ、我こそこの国を守るという気概を持たせることさ。
破滅とは何かってか? 裁判員制度が登場する前からこの国を守るのは私だって思っていた数少ない人たちしか裁判員裁判のまわりに集まってこないことだ。
社説によると、県内の弁護士有志が裁判員裁判が始まった2009年に設立した「裁判員支援センター」が「過料の制裁を速やかに撤廃し、拒否権を明確に認めるべきだ」と訴えていると。代表は鈴木宗厳さんとの紹介も。
「やりたくないことを強制する」のは憲法違反だという考え方がいかに弁護士の間に強いか、参政権のようなものだから苦役の禁止にあたらないという最高裁の判決や今回の福島判決がいかに説得力を欠くものかということがわかる。
やりたくないのに罰則付きでやらせるのはどう考えても苦役です。
そうだ。もう一つ言えば、このような声が「裁判員を支援する」運動の中からわき上がってきたことに注目したい。秋(とき)は来た。「支援から是正意見」への流れは、断崖絶壁に追い込まれた政府・最高裁の拒絶の壁にぶつかり、今度は「是正意見から廃止要求」への流れに変わらざるを得ないだろう。
インコは、大分の弁護士さんたちに、敬意を込めて次のメッセージを送りたい。
「皆さん。もともとやりたいと思っていた人たちは皆さんから支援を受けなくてもやりたいと言います。皆さんはやりたくない人には拒否権を与えよとおっしゃっていますが、最高裁はやりたくない人たちはやめて結構と言っていますから、皆さんの支援活動は、『やりたくないなら出頭をどんどん断ろう』という運動に進めてはどうでしょうか。これからの裁判員支援は不出頭支援が軸になると思います」。
「イヤだなぁの気持ち」から「この制度は許さないぞ」に進もう!!
投稿:2014年12月17日