~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
弁護士 猪野 亨
下記は「弁護士 猪野亨のブログ」02月27日の記事です。
猪野弁護士のご了解の下、転載しております。
毎日新聞は、最高裁が裁判員裁判による死刑判決を破棄した高裁判決を支持したことに対し、上野達彦氏の見解を掲載しています。
「上野達彦先生の三重つれづれ:裁判員裁判制度 先例主義、排除されたか /三重」 (毎日新聞2015年2月25日)
批判すべき箇所を掲載します。
私は以前、2009年に始まった裁判員裁判について、期待感を持って評価した。幾つかの課題を抱えながらも、市民参加による裁判が関心を引き、市民の信頼を高め、欧米諸国の陪審制度や参審制に並ぶ、新しい形態の司法制度として期待されたからだ。 かつて、著名な刑法学者の故・平野龍一東大教授が裁判員制度導入前の刑事裁判を「絶望的」と評したことはよく知られている。この制度は、司法に対し市民の信頼を失いつつあった、我が国の刑事裁判に新たな息吹を吹き込むという役割も担っていたのだ。 そんな中、考えさせられる事案が最近、2件あった。いずれも強盗殺人事件について、1審の東京地裁と千葉地裁における裁判員裁判で死刑判決が言い渡されたのに対し、東京高裁は2件とも無期懲役に減刑した。新聞報道によれば、先例との比較の中で、死刑の選択はないと判断したという。注目された最高裁の決定も、東京高裁の判決を支持した。 このような裁判所の立場は裁判員制度の趣旨にそぐわないのではないだろうか。 例えば先例主義について検討してみよう。同種の事件と比較し、バランス(公平性)を重視した決定だったが、そもそも裁判員裁判が導入された経緯の中で、先例主義や過去との比較をできるだけ排除し、新しい司法制度を構築することを目指したのではなかったか。そのことが、司法に対する「国民の理解の増進とその信頼の向上」(裁判員法・第1条)に寄与することになるわけで、まさに法の精神である。最高裁は、この精神を育てていく責務があろう。 |
ここでの趣旨は、要は、最高裁が裁判員裁判の死刑判決を破棄した高裁判決を支持したことに対し、「裁判所の立場は裁判員制度の趣旨にそぐわない」と主張しているのです。
しかし、そうであれば、上野達彦氏の主張は、裁判員が死刑と言ったんだから死刑にしろ、という主張でしかなくなります。
これが刑事法の学者としての発言であれば、極めて残念な見解です。
そもそも死刑判決にバラツキがあってよいということ自体があり得ないのです。
裁判員制度を是とするか非とするかによって異なってはならないのです。
「裁判員制度の意義が揺らぐ? だったら死刑にすべきなのか 岡田成司氏の見解」
刑事法学者がこの刑事手続きの原点を理解できないのは、何故なのでしょうか。
ところで、この上野氏の主張ですが、前提に平野龍一先生の有名な言葉を引用しています。
「絶望的」の部分です。
しかし、この引用はいくら何でもひどすぎます。
平野龍一先生の言葉として引用されることが多いのですが、これは団藤重光博士古稀祝賀論文集に記載されたものです。(1985年)
わが国の刑事裁判は「調書裁判」である。このような訴訟から脱却する道があるか、おそらく参審か陪審でも採用しない限り、ないかもしれない。わが国の刑事裁判はかなり絶望的である。
この一文からもわかるとおり、平野先生が指摘されてきたことは刑事訴訟が密室での取り調べによって作成された調書によって有罪が認定されていくことを問題視したのです。
ところが、上野氏は、「裁判員制度導入前の刑事裁判を「絶望的」と評したこと」と裁判員制度の導入と平野先生の「絶望的」を結びつけているのですが、あまりにひどい結びつけ方です。
これでは裁判員制度がその「絶望的」な状態を改善するため、克服するために導入されたかのような文脈ですが、裁判員制度は、そのような経緯で導入されたものではありません。
ましてや、それが裁判員裁判による死刑判決という結論を尊重せよということに、平野先生の「絶望的」が結びつくはずがないのです。はっきり言えば、自らの刑事法学者の立場から論ずることを正当化するために平野先生の権威を利用した悪質なすり替えの論法なのです。
それから確認のために述べておきますが、裁判員裁判になってから調書ではなく、「公判中心主義」になったと評する人たちがいます。
明らかなすり替えであり、悪質というべきものです。権力に擦り寄る刑事法学者たちの発想です。平野先生の「絶望的」を歪曲した今回の主張からは、上野氏もその1人ということができます。
従来、公判中心主義は、調書裁判に対比される形で用いられてきました。公判廷において、証人に対し、反対尋問が功を奏し信用性を打ち砕いたとしても、起訴前に作成された供述調書が、突如として刑事訴訟法321条以下の規定によって証拠として出てくる、しかもそれが有罪の証拠として用いられる、これが調書裁判の弊害の意味です。
これに対比する意味において、調書ではなく、公判廷で取り調べた内容こそ重視すべきだ、これが従来言われていた公判中心主義です。
ところが裁判員裁判が始まってからは、調書ではなく、それを被告人質問とか証人尋問で行うよう裁判所から「指導」が入るようになります。
それは、調書の朗読(裁判員裁判でなければ、要旨の告知のみ)では、裁判員がわかりづらい、だから証人尋問や被告人質問の形でやれというわけです。
この「公判中心主義」が従来、言われていたものとは全く異なります。
従来であれば、内容に争いがなければ、証人については調書で済ませていたわけです。しかし、裁判員裁判のために証人に敢えて出頭を要請するのです。
これらはすべて裁判員のためです。証人も迷惑この上ない話です。
このような裁判員裁判を平野先生の言葉を使って自らの主張を正当化しようというのは、上野氏は刑事法学者として最低と言えましょう。
投稿:2015年3月2日