~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
裁判員裁判の判決が上級審で否定された事件の報道が続くなど、裁判員裁判をめぐる「識者」や市民の声がメディアに登場することがこれまでになく多くなった。そのなかからいくつかの声を取り上げ、鸚鵡大学にはぐくまれたインコの視点で論評させていただく。
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「強姦裁判の刑 あまりに軽い」埼玉県伊奈町
自営業 田路一さん(51) 。『東京新聞』(14年12月26日)。
被害者女性5人の事件で裁判所は求刑懲役30年を切り下げ23年にした。30年でも軽すぎると思った。判決理由に「動機に酌むべきものがない」とあるのにどうして7年も軽くしたのか。裁判員制度は裁判官と国民感覚の乖離解消を目的の1つとした制度だというのに、国民感覚とズレている。
騙し騙され、落ち行く先は
そうねぇ。強姦が成立するのなら(有罪を前提に言うのなら)「動機に酌むべきものがない」のは当然でしょう。同情の余地がある強姦の動機なんてあるりません。求刑を下回る判決を言い渡す時はに何の理由も言わずに求刑を切り下げることは普通ありません。この判決を報道したメディアがその部分を落とした可能性が高いとインコは思います。
また、裁判関係者が関心を寄せるのは「動機」だけではないということをぜひ考えていただきたいと思います。被告人の反省の態度、なぜこのような事件を起こすことになったのかという背景事情、重い判決が被告人の周囲の人たちに及ぼす影響などなど、様々な要素を総合的に考慮して被告人の責任の程度が決まり、量刑が決まるのです。
国民の感覚を反映させていないという田路さんのご意見。あなたは根っからの善人です。失礼ながらあなたは国民感覚の反映なんていう最高裁と政府の飾り言葉に簡単に騙されたってことです。中原中也風に言えば「騙されちまった悲しみに今日も難儀が降りかかる」です。
ウソだと思ったら裁判員制度の目的が書かれてある裁判員法第1条をみてご覧なさい。「司法に対する国民の理解の増進と信頼の向上に資する」って書いてあるだけでしょ。国民の感覚の反映なんてどこに書いてありますか。
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「裁判員選任について思うこと」法律事務職員
髙橋季里さん(36)。『週間金曜日』(15年2月20日)。
強制わいせつ事件の裁判員候補者として出かけたが、女性は1人も選ばれなかった。市民の経験や常識に照らして事件を審理するのが裁判員裁判なら、女性を遠ざけるのは弱者の視点を損なうことにもつながりかねない。性犯罪事件は裁判員に性別に大きな偏りが生じないようにできないか。
質問です
性犯罪事件の裁判員から女性を外すと女性偏見の裁判になるのではないかと疑っている髙橋さんに、こちらから少し質問させて下さい。
質問1。お気持ちはまるきりわからないではありませんが、しかしそうすると裁判官の場合はどうですかね。裁判官全員が男性というのは少しも珍しくありませんぞ。裁判官なら男でも弱者の視点を堅持していると言えますか。あなたの疑惑は男性市民裁判官(=男性裁判員)に限っての話だとすると、それはどうしてでしょうか。市民の経験や常識を大切にしたいとおっしゃるあなた自身の中に市民不信の思いや職業裁判官信奉の思いが潜んではいませんか。
質問2。 あなたはほとんどの市民が裁判員をやりたくないと言っている今日、珍しくも裁判員をやってもよいと決断されたお方のようです。どうしてそのように思われたのでしょうか。一般の市民より裁判員裁判のことを考えたり話題にしたりすることが多い(であろう)職場にいらっしゃることを考えると、細かい制度運用の話の前に、そもそもこの制度自体がおかしいのではないかという「根本」のところをお考えになったり、周囲の皆さんとの間で話されることはないのでしょうか。身近に山ほど素材があって、一般の方以上に実り多い論議になるようにも思うのですが。
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「市民感覚 万能ではない」神奈川県寒川町会議員
中川登志男さん(40)。『東京新聞』(15年2月14日)。
最高裁の決定を支持する。市民感覚は必ずしも妥当性を持たない。刑事司法への市民感覚の反映は量刑判断の場面でなされるべきではない。市民参加の原点は検察立証に無批判な傾向を持つ職業裁判官の在り方を正すことにあったはずだ。それにこの国の裁判は三審制だ。裁判員裁判に拘束されるのなら三審制は有名無実化する。少数意見は反市民感覚と言われかねないし、多くの人は自分の感覚こそが市民感覚だと思っているだろう。市民感覚は意外に曖昧な概念だ。
あなたのご意見は制度廃止論そのものです
市民感覚は時に妥当性を持たない、少数意見は反市民感覚と言われかねないというあなたのご意見に完全に賛同します。陪審制にお詳しい方とお見受けしますが、おおせのとおり市民感覚は特に量刑判断で暴走することが多いとインコも思います。
中川さんは、市民参加の原点は検察立証に無批判な傾向を持つ職業裁判官の在り方を正すことにあったはずだとおっしゃいます。そこには大きな誤解があります。それを言ったのはマスコミや日弁連や革新政党などで、最高裁や政府は決してそうは言っていませんでした。
しかし、最高裁や政府の悪らつさはここに始まります。彼らはしめしめと下を向いて笑い、マスコミや日弁連や革新政党などが国民主権の司法制度と褒めそやし、私たちの時代が来たと言いはやすのを放置し、「それは違う」などとくってかかることもたしなめることもしませんでしたね。「好都合だ、そう思わせておけ」ということだったのです。
ここから悲劇的で喜劇的な歴史が展開します。制度の本当の姿がだんだん国民の前に明らかになってきました。特に最近の裁判に特徴的です。その結果、そんな話じゃなかったはずだという声が国民から起こされてしまいました。誤解と正解の衝突です。今になってその付けが致命的な形で回ってきたのです。
はぐらかされ放り出されたマスコミも、自分たちの居場所がはっきりしなくなった日弁連や革新政党も、この事態にどうつじつまを合わせようかと必死です。「残されて戸惑う者たちは、追いかけて焦がれて泣き狂って」います。
インコは勉強家の中川さんにお伝えしたい。「最高裁の決定を支持する」のではなく、「最高裁の手の込んだ悪さ」を実感したと言って下さい。そう、わかれうたを唄う時がとうとう来たのですよ。
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「量刑相場」コラム「水や空」
執筆者(智)さん。『長崎新聞』(15年2月9日)。
量刑相場という言葉には実務家の「慣れ」「軽さ」を感じる。そのような「慣れ」を戒めるためにも刑事裁判に市民感覚を取り入れるということだったのでは。市民感覚補正の動きが上級審で相次ぎ、裁判員経験者の苦悩やストレスが種々指摘されている。くじで当たったばかりに突然裁判員裁判に関与させられ、悩み抜いた結論が上級審で重すぎるとか間違いだとか言われる。相場の変動は制度導入時から想定していなければならなかったことだ。許容範囲を超えるというのなら不完全な制度を見直すべきだろう。
さて、どうするか
「相場」は守るものか、変えてゆくものか。今回の最高裁判決で裁判長を務めた千葉勝美裁判官は、自ら補足意見を書き、その中で次のように言っています。「国民の良識を反映させる趣旨で裁判員裁判が導入されたのに、職業裁判官の判断だけで変更されるのであれば、制度を導入した意味がないとの批判もあり得る」「ただ制度は、裁判員裁判であっても常に正当で誤りがないものとはしておらず、事実誤認や量刑不当があれば職業裁判官だけの裁判で破棄することを認めている」「裁判官と裁判員は、過去の裁判例で示された『量刑判断の本質』を共通認識として評議を進めなければならない」。
ひっくり返してもよいという決まりがある、先例を裁判官と市民が一緒に勉強して評議すればよい、と言ってる訳です。国民に対する弁明と開き直りのメッセージとインコは読みました。これで済むんだから(済ませちゃうんだから)、最高裁の裁判官なんてラクなもんよ。
私はラクをせず、きちんとコメントします。最高裁は、この制度が国民の良識を反映させる趣旨で導入されたものだというところまでは認めているようです。つまり、これまでの裁判には「国民の良識が十分反映されていなかった」ことは認めると言っている(ようなもんな)のです。
でも、この制度を作る過程では、裁判長は裁判員参加は一審だけという結論に固執し、高裁や最高裁の裁判への市民参加論は一蹴していました。最高裁は、「国民の良識の反映」の百倍の重みで、国民の司法教育という観点を重視していたのです。
さて、「水や空」の(智)さんと一緒に考えたいと思います。不完全な制度を見直すというのはつまりどうすることでしょうか。私たちの眼前には、2つの道があります。1つは「高裁や最高裁にも市民を入れて市民の良識を反映させる」という路線です。もう1つは「くじで当たったばかりに突然裁判員裁判に関与させられ、悩み抜いた結論が上級審で重すぎるとか間違いだとか言われる」ような制度なんかやめてしまえという路線です。
最高裁も政府も、高裁や最高裁の審理に市民を加えることを絶対に認めません。なにしろ、この国の司法は職業裁判官の手によって長年にわたり正しい道を歩み続けてきたというのが不抜の司法観なのですから。話がここに来ると本音と飾り言葉のガチンコ勝負になります。衣の下から鎧が見えても、彼らは絶対にここは引かないのですね。
で、結論はですって? (智)さん、戸惑うのも泣き狂うのもやめましょ。この制度のこれからって言えば、もう廃止しかありません。そうすれば国民は無用で有害な苦悩から解放されます。そう、江戸の誤りは長崎でこてんぱんに叩きましょうよ。
投稿:2015年3月12日