~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
弁護士 猪野 亨
下記は「弁護士 猪野亨のブログ」04月18日の記事です。
猪野弁護士のご了解の下、転載しております。
現在、日本の刑事裁判では国家主導の元で裁判員制度が実施されています。
この制度はマスコミが絶賛し、「市民感覚」といういい加減な感覚裁判を持ち上げてきました。
裁判員制度を持ち上げてきたのは、何も国家のお先棒を担ぐマスコミだけではありません。
日弁連も同様です。もっとも日弁連執行部は中坊氏が会長になって以降、宇都宮会長などごく例外を除いて、権力に擦り寄ってきましたから、マスコミと同じく裁判員制度の提灯持ちを担ってきました。
しかし、それだけなく、陪審論者や冤罪事件に取り組む弁護士の中からも、この裁判員制度にエールが送られてきたのです。
その理由は、いろいろ論者によって違うのですが、①陪審制度導入のための一里塚だ、②官僚裁判官だけの裁判よりましだ、③裁判員制度が導入されれば全面証拠開示や取調べの可視化が実現できる、などです。
③は論外です。昨年の法制審議会でも結局、このようなものは実現する見込みがないことを証明しました。
可視化もほとんどスカスカなものです。裁判員裁判の対象事件とはされましたが、そもそもこの可視化が議論されるきっかけになったのは、あの村木事件であって裁判員制度がきっかけではありません。
「通信傍受に賛成しようとする日弁連執行部 刑事司法改革で最大の汚点」
①も幻想と言いましょうか、民間丸投げの陪審制度と、裁判官主導の裁判員制度では全くもって構造が異なります。あたかもくじ引きで市民(正確には市民など という言葉はなく、有権者の中の除外事由がない者ということになります。)の中から選ぶ点で、似ているというに過ぎません。
②についても裁判官だけよりましという議論も現実には裁判員の暴走により重罰化などの問題にぶち当たっていて、到底、裁判官だけの裁判よりましなどという議論は破綻していると言わざるを得ません。
ところで、戦前の日本では陪審裁判が実施された時期があった、そこでは無罪判決も多く出されたし、日本国民だって立派に陪審員を務めることができるんだ、と言われることがあります。もちろん陪審制度の信奉者からです。
戦前の例が陪審制度信奉者から紹介されている記事がありました。
少々、古いのですが、東京新聞2009年7月12日付です。
この時期は、まさに最初の裁判員裁判が始まろうとしていた時期です。
元裁判官で弁護士の秋山賢三氏に対するインタビューが主の記事です。
「昭和3年10月23日、大分地裁で日本初の陪審裁判が開か れました。30歳代の工場長が年上の愛人女性の心変わりに怒って包丁で刺し重傷を負わせた事件で、読み書きや納税の条件を満たした陪審員12人が選ばれ た。裁判長は、有罪または無罪と心の中で決めてしまってはいませんね、と確かめたあと、法廷で被告の犯行時の酒量や包丁の持ち方を調べたり、証人尋問を 行ったそうです。焦点は殺意の有無。陪審の評議は殺意なしで被告は懲役6月の判決を言い渡された。当時の市民の常識では、検察官の描いていた殺人未遂では なく、傷害罪程度という判断だったのでしょう。日本の陪審は戦時中まで続き、約480件のうち約80件が無罪判決でした。」
これをみて、「市民」感覚が優れていると思いましたか。
愛人女性の心変わりに激怒して包丁で刺しているのに殺意なしが、市民の感覚だそうですが、全くもって驚きの発想です。
記事からはその女性がどこを刺されたのかは書かれていませんが(実際には、そこを刺して殺意なし?? というところかもしれませんね、そうでなければ紹介 しているでしょうから)、包丁でもって刺す行為に通常、殺意なしという場面は極めて限られていますから、これだけ聞かされても説得力はなしです。
しかも、一番重要なのは、当時の陪審員の資格は一定の納税額を納めている者に限定されており、しかも男性限定です。
要は、陪審員は、カネ持ちの男なんです。そうすると、愛人を囲っているような被告人と心変わりした被害者とどちらに親近感を持っているのかということでもあります。
当時は愛人を囲うなんていうのは、公認の時代だったし、逆に女性の場合には姦通罪によって処罰の対象にすらなていた時代。
陪審員たちが、この被告人に加担したという構図にしか見えないし、被害者側からみたら、当然に男社会の論理そのものだとしか感じるでしょう。
この構図って、どこかで似たような事件を聞いたことがありますよね。
そうです、米国の陪審裁判です。
白人警察官が黒人を射殺。白人による陪審員たちが無罪の評決。
この構図と全く同じなのです。
このような陪審制度が刑事裁判の改革になるというのは幻想どころか害悪にしかなりません。
現実の裁判員の関わり方をみると、裁判官がいなかったら、本当に危なっかしい存在でしかなく、どんな結論が出るのか、全く予想もつかないということに陥ることでしょう。
冤罪を防止するためには、それに見合った制度こそ必要であり、しかも、治安維持を優先したい権力との闘争によって初めて勝ち取ることができるものです。
単に陪審制度にしたとか法曹一元を実現したとかいうことだけで実現するものではないとうことくらいは自覚してもらいたいものです。
投稿:2015年4月24日