~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
「裁判員いらないインコのウェヴ大運動」開始2周年を記念し、裁判員制度の廃止への道のりを一挙表示という大胆な方法でご紹介しましょう。
パンパカパーン、パン・パン・パン・パーン! はい、これです。
よく見なさい。裁判が始まってから最近までの出頭率の変化をグラフにしたものだ。横軸は年(西暦)、縦軸は裁判員候補者の出頭率(%)、出頭者は赤色部分、不出頭者は青色部分だ。裁判員裁判に呼び出されて出頭る人たちがどんどん減っている様子が一目瞭然でしょ。こういうのを階段を転げ落ちるようにっていうの。
これは、地方裁判所が審理開始に当たって裁判員候補者名簿の中から選定する裁判員候補者の数を分母にして、裁判員選任期日に出頭してくる候補者の数を分子にした数値なのだ。
そう、その候補者名簿の中から、各地裁の裁判官が、「この事件は3日で終わる予定だから呼び出し人数は100人で行こう」とか、「これは審理が20日間予定されているんで、でてけーへん奴が多いやろから300人呼び出さないとあかんやろ」とか、いろいろ考えて実際の候補者を選定する。これが分母。
で、裁判員選任期日に出頭してくる人数を分子にするっていうことは、選定された候補者のうち実際に裁判所に出かけてくる人の数を調べてその比率を見たっていうことなんですね。
裁判員法は「出頭」という言葉を使っているのに、最高裁は人聞きの悪さを気にしてか、「出席」という言葉を使ってるんでしたよね。
そうなんだ。用語方法にひどくこだわる役人には不思議な「読み替え」を断行している。裁判員法は裁判官と書記官には「列席」、検察官と弁護人と被告人には「出席」という言葉を使い(裁判員法32条)、裁判員候補者には「出頭」という言葉を使って(同法29条)、明確に使い分けをしている。
法律は「出頭」というけれど、「頭を出せ」とはなんとも上から目線、というよりほとんど脳天目線だ。この際少しでも嫌がられへんようにと彼らなりに苦労したんや、甲斐のない苦労やけどな。
わかりました、わかりました。で、その出頭率が年々美しい規則性をもって減ってきてるんですね。
こういう時に使う言葉かどうかということはあるが、確かに美しい規則性だ。この下り階段は出発点の所からひどく低いところにあったことに注意してほしいね。開始時点でも選定された候補者の40%ちょっとしか出頭しない状況だったのだよ。
小さく産んで大きく育てるというのはあるけど、低く始まり順調に痩せるというのは情けない話です。ずいぶんお金を掛けて大宣伝をしたというのに。
いや、知ったおかげでみんなイヤになったというのがもっぱらの見方なのだ。周知徹底の結果の不評判。
開始から2年経った2011年3月、東日本大震災・福島第一原発爆発事故が起きました。その瞬間から東北3県に限らず日本中が裁判員どころじゃないってことになりました。
制度崩壊の危機感は直ちに三宅坂を襲った。彼らは、国民に不安を押しつける裁判員制度は、国民の生命と健康と経済を不安のどん底にたたき込むこの事件の前で、それこそ立ち往生してしまうのではないかという恐怖に襲われた。
悪いことを考えている人たちほど、悪事が続かないことへの不安が強い…。
このままでは制度は確実に崩壊すると読んだ竹崎長官は、3月中に「被災地でも裁判をやれるところから再開する」と言い切った。その言葉は東北地方の裁判所を中心に部内からも激しい反発を引き起し、彼は「被災者の皆さんの生活再建を祈ります」なんてとってつけたような言葉で言い直したけれど、この時はここで踏ん張って物を言わなければ制度が完全に宙に浮いてしまうと思い詰めたのだろう。
竹崎長官は、これでこの制度は終わりだと思ったのではないでしょうか。
さぁ、どうだろう。その年11月、最高裁大法廷は、全員一致・補足意見ゼロという大本営発表のような「裁判員制度合憲」判決を言い渡した。それは制度が立ちゆかなくならないように、違憲論をこの際きれいにぬぐい去っておきたいという思惑が行間に漂う判決文だった。この判決の問題点についてはインコはたくさん紹介しているのでそちらを見て下さい。
この最高裁判決は、最高裁も原発推進の一役を買っていたのではと取りざたされる中のことでしたよね。
そう、国民の生活を不安に突き落とした原子力村の住人の中には最高裁もすました顔をして入っている、最高裁は原発推進勢力の一員だという声が高まる中の判決だった。どう考えてもこの判決は国民を制度賛成に誘うものにはならなかった、というよりもこの判決のために国民の最高裁不信はむしろ強まることになったというのが実態だろうね。
データを見ると、2011年は選任期日の出頭者が対前年比で4.8ポイントも下がっています。4~12月に絞ったら5ポイント超えは確実だったでしょう。制度が音をたてて崩れて行く様子を目の当たりにするようです。
3か月後、年は変わって2012年2月だが、最高裁は覚せい剤密輸の事件で、1審無罪をひっくり返して有罪にした高裁判決を再逆転させて裁判員裁判の無罪を支持した。判決は裁判員の判断はできる限り尊重せよと言ったのだ。
当時の最高裁としては、裁判員制度定着のためにはやれることはなんでもやり、言えることは何でも言おうという姿勢だったのでしょうね。
そのやり方や言い方は裁判員の参加促進の面で結局功を奏したのですか。
データを見給え。最高裁の大法廷判決や裁判員裁判尊重判決にもかかわらず、2012年の出頭率はまたまた2.9ポイントも下がった、イヤなものはイヤとことだ。
ところで、最高裁は本当のところ、そんなに「裁判員さまさま」「裁判員さまのお通りーっ」て感じだったんですか。
それも違う。国民の審判能力はレベルが低くて裁判などに耐えられないというのが最高裁の基本的な姿勢だった。国民の司法だの、陪審制の一里塚だのとはしゃぐ勢力の力も借りてムリムリこの制度を発足させたため、このあたりでひずみや亀裂がごまかしようもなくなってしまった。
この時期ころから、最高裁はホンネをあからさまに言うようになってゆく。2012年の12月には、最高裁事務総局は「裁判員裁判実施状況の検証報告書」を出して、「裁判員裁判の結果は、これまでの裁判と極端に異なっているわけでもない」と評価した。
そう、そして彼らがホンネを吐露し始めるのと国民の側からの目に見える反撃が対向する関係になってゆく。福島・郡山の女性は死刑求刑事件で裁判員をつとめて重いストレス障害を発症したことを理由に国家賠償訴訟を提起すると発言した。その言葉に慌てた竹崎長官は、事実を確かめることもせず現場に指示を出した。
そうですよね、およそ裁判官らしからぬ対応でした。それも福島・郡山の元裁判員が提訴したいと考えていると言っただけなのにです。
「裁判員裁判が終わってしばらくしたら元裁判員に連絡をとって様子を聞け」というのだ。大震災が1番手最初の打撃とすれば、これが彼らには2番手の伏兵攻撃。マクベス風に言えば「バーナムの森が城に向かって動いた」のさ。
2014年1月には水戸地裁で裁判員全員が辞任を申し出る事件が発生、裁判員をすべて選びなおすことになりました。もはやここまでと竹崎長官は定年を待たずに退官。4月には寺田逸郎最高裁判事が長官になり、出前講義を指令しましたね。その惨憺たる経過は前回ご紹介のとおりです。
この年7月には最高裁は、裁判員裁判の求刑越え判決を否定して、求刑内におさめる判決を言い渡した。裁判員の暴走を否定し、裁判員に引きずられる裁判官をたしなめ、裁判には自ずからある常識に従えと命じた。この年9月には先の福島元裁判員のストレス障害裁判で原告がまじめに裁判員の職責をやり遂げたことがストレス障害の原因だと認定しながら、原告の請求を棄却した。
そりゃいくらなんでも涙雨さんざんです。そういうことになれば、国民としてはもう裁判所に行かないにこしたことはないと思うようになります。裁判員をやって叱られ、裁判員の仕事は重大なストレス要因になると言われ、でもそのため病気になってもその責任を国はとらないと言われては。
何を言われても文句は言わない、ひたすら人を裁いて見たいと思うような人だけが残る。この制度の目標はそんな裁判員たちにこの国の重大刑事裁判に関わらせることにあったんすか。
違います。いろんな意見を平均的に裁判に反映させたいというのが最高裁の説明でした。だから権利ではなく義務にしたと政府は国会で答弁しています。平均的な国民をもっと国寄りに考える人にしたいという狙いからすれば、それは当然のことでしょう。だから現状は、最高裁にとってもまるきり思惑外れの状況にあるのです。
そのとおり。そして、それを決定的にしたのが、量刑判断に当たっては過去の裁判官裁判の量刑判断を尊重せよと言った今年2月の最高裁判決なのです。これは裁判員裁判を支える世論作りの先頭に立っていたマスコミや日弁連を大きな困惑・混乱に追い込みました。
一般国民に量刑判断なんてできないというのは、制度導入前から批判派に強く指摘されていたことでした。そこをごまかしごまかしやってきたのだが、その結果到達したのは重罰化だった。求刑越え判決の続出はその典型例。提灯を担いだマスコミと日弁連にはその結果に大きな責任がある。
最高裁の昨年7月の判決と今年2月の判決は国民の裁判員裁判離れを決定的にした。今年に入って出頭率の低下があらためて著しい。1~4月までのデータだけでも昨年より3.1ポイントも下がっている。たった4か月で対前年比3ポイント超減というのは東日本大震災・福島第一原発事故以来だ。今年末には2011年の4.8ポイント下げの記録を更新するのではないかと関係者は噂している。
なんか、聞いていると、最高裁は、国民の裁判員裁判への参加意欲を自分でどんどん失わせているような気がします。
なんでしょうか、私のことっすか(にゃんこ先生の愛弟子だったのに、いつから先輩の愛弟子にされちまったのか・・・)。
そうだ、キミの勘は私に似てすばらしいぞ。インコは、どうも最高裁自身がこの制度を潰す側に回ったなという感じを持っている。少なくとも潰れる状態を予期して事後処理を考える状態に突入している。彼らはそんなこと死んでも言えないけれど、制度は死んでもいいと思い始めている。
彼らが考えているのは、不出頭をとりあえず誰も処罰せず、変な判決を出さないように現場の裁判官の尻を叩き、それでも参加者が激減したら、この制度は一定の目的を達成したとかなんとか言って幕を引く。そして、この間に彼らが獲得した超迅速審理だの整理手続きだのという刑事司法改悪の悪らつな産物だけは死守しようとする。そんなことではないかと。
とにかく、裁判員裁判をやりきろうという気迫が裁判官にも検察官にもありません。弁護人は一部の弁護士しかやっていませんが、やっている人たちも多くはこれは本当の刑事裁判ではないと思っています。それが現実なのです。
ということは、制度廃止の後におかしなことをさせないというのが私たちの次の課題になるということですか。
そうそう、勝って兜の緒を締めると昔の人は言った。魂を悪魔に預けてこの制度を推進してきたマスコミや日弁連はそんなことできないからね。
それにしても、この階段の下り勾配はきついっすねぇ。ホップ・ステップ・ジャンプで廃止に飛び込むんですか。
ホップ・ステップ・ジャンプっていう言葉の本当の使い方はよく知らんが、まあよいとしようか、これは私たちにはとってもよいことだからね。
投稿:2015年7月4日