~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
難行苦行の酷暑が続く時期にふさわしく、今日は裁判員制度の苦役論を考えよう。このところなにやら「苦役」をめぐる話題が多いこともあるし。
「くやく」ですね。わかります。苦労して点になる牌の組み合わせを作ることでーす。
アホ。今、何の話をしていると思ってるんだ。読み方から間違ってるんだからそれこそ話にならん。基本から話そう、「役」にはもともと「やく」という読み方と「えき」という読み方がある。
大混乱していると言え。「やく」は呉音、「えき」は漢音。山立小学校で習ったろうが。
そういうのを「私の勉強はやくに立っていません」と言うのだ。「役」の意味は呉音も漢音も基本は同じで、官が人民に労働を課すことや課された労働そのものを言う。ただニュアンスが少し違うな。「やく」と言えばつとめ、職務、官職、任務というような意味合い、一般的には大事な仕事や高い地位を指して言うことが多い。
そう、「えき」になると人民を徴発してこき使うというニュアンスが強くなる。つらい仕事をさせるということだ。例えば、役務、賦役、使役、服役、懲役なんていう。兵役という言葉もあるぞ。
うへっ。しっかり辛くなりました。これからは何が作れても「くやく」とは申しません。
うむ、キミのおかしな応対が私に道草をさせたぞ。私は早く本題に入りたかったのだが。
裁判員裁判に国民を強制動員するのは憲法が禁じる「苦役強制」ではないかというのが裁判員制度をめぐる大論点の一つだった。
そのとおりだ。最高裁は2011年11月、大法廷判決の中で、裁判参加を国民に義務づける裁判員法第112条一号を説明して、「この義務は参政権に類するもの」と言っていた。
「裁判員の職務等は、司法権の行使に対する国民の参加という点で参政権と同様の権限を国民に付与するものであり、これを『苦役』ということは必ずしも適切ではない」と断言していたのですね。
「権利に類する義務」ですか。「参政権に類する」からそれは「苦役」でないという訳ですね。
そう、最判は「民主主義を国是とする国家においては、司法への国民参加は国民が自らの問題として自発的・意欲的に取り組む課題になり得る」と言った。
わかりにくい話です。教育も勤労も納税も、「国民が自らの問題として自発的・意欲的に取り組む課題になり得る」かも知れないですが、それでも憲法上しっかり国民の義務として規定されています。誰も権利のようなものなんて言いません。
はっきり言えば、言葉の言い回しで物事の本質をごまかすなっていうことだ。
わかります。義務はどう説明しても義務、権利はなんと言われても権利。権利と義務をごっちゃにするのはウソの始まりだと山立中で習いました。
そう、裁判員は権利のようなものと言ってみても所詮はアンコウのようなもの。
(それはここで言う話かしら。話をわかりにくくしないほうが…)
裁判員参加が強制であることはどう取り繕っても隠しおおせない。「権利のようなもの」なら苦役じゃなくなるんだったら、苦役の抜け道はいくらでも作れる。
「嫌なことは無理強いされない・嫌がることを強いてはならない」というのが苦役禁止の基本の考え方なんですね。裁判員になるのはイヤだという人を無理に裁判員にさせてはいけないと。
そう言えば先輩。最近、「徴兵制は憲法第18条の苦役強制禁止に抵触するのではないか」ということが日本の国会で論議されているようですね。
おお後輩よ。よくぞそのことを言ってくれた。私はその話をしたいと思っていた。
安全保障法の審理の中で、安倍政権の憲法解釈に立つと現憲法下で徴兵制が導入されることにもなり得るのではと追及され、安倍首相は「徴兵制は憲法第18条が禁じる苦役に該当するから徴兵制導入はまったくない」と強く反論している。
安倍首相は、短期間で隊員が入れ替わる徴兵制では精強な自衛隊が作れないなどとも言っていますね。
その話、ボクも聞きました。徴兵制は本当に「苦役」に該当しないんですか。
安全保障法に注目する人たちのうちどれくらいが裁判員制度にも関心を持っているのかわからないが、この国の最高裁が、「裁判員になるのは権利を実現するようなものだから苦役にならない」と断言していることにもっと関心を寄せてほしいと思うね。
最高裁の理屈に立つと、徴兵制は「苦役」ではないという解釈論が司法上の見解として出てくる余地があるのではないかと。
そうさ。最高裁は「民主主義を国是とする国家においては、司法への国民参加は国民が自らの問題として自発的・意欲的に取り組む課題になり得る」と言うんだから、この「司法」を「安全保障」に置き換えれば、それで徴兵制は「苦役」ではなくなることが十分考えられる。
安倍首相は「徴兵制は憲法第18条が禁止する『苦役』に該当する。首相や政権が変わっても導入はあり得ない」なんて何度も言っているけれど、そんなに明確に言い切れる話じゃないだろう。
国民の司法に対する理解と信頼を強めるためと称して裁判員制度が登場した。そして裁判員になるのは「苦役」の禁止に触れないと最高裁が判決した。それなら、国民の安全保障に対する理解と信頼を強めるためと称して徴兵制が登場し、徴用されるのは「苦役」の禁止に触れないという理屈が登場してもおかしくない。
短期間で隊員が入れ替わる徴兵制では精強な自衛隊が作れないっいうのはどうですかね。
いやいや、ど素人が日替わり週替わりで法壇に座って裁判官と一緒に裁判をすることが、司法への理解と信頼を厚くすると言ったのだ。「精強な裁判官」も顔色なしの判断を最高裁は平気でする。それと同じさ。ど素人でもプロの軍人たちと一緒に砲弾をぶっ放しているうちに安全保障に対する理解や信頼が厚くなる。
そう言えば、太平洋戦争で日本が負けたのは徴兵制のためだなんていう議論は聞きませんね。
怖い話になってきました。でもそんな論議は国会でされていないような気がしますが…。
「集団的自衛権に関する憲法解釈の変更が可能になるなら徴兵制の導入もあり得ることになる」と言う野党議員はいますが、首相には「論理の飛躍がある」とか「国際的に非常識だ」などとかわされています。
それは、私に言わせれば、最高裁の論理に飛躍があるとか、最高裁の理屈は国際的に非常識だとか言っているのと同じだな。
集団的自衛権の合憲性について砂川事件の最高裁判決に寄りすがる政府です。裁判員は苦役でないという最高裁判決をステップにして徴兵制導入を言い出すかも知れないっていうことでしょうか。
そのとおりだ。それは決してあり得ない話ではない。『読売』の社説を見てご覧。「徴兵制導入は飛躍した議論だ」という見出しで、「徴兵制には禁止を継続すべきだとの共通認識が存在する」なんて言っている(8月4日)。
おもしろい論拠ですね。それを言うなら、裁判員はやりたくないというのは今や完全に国民の共通認識です。それなのに裁判員制度が依然として実施されているのをどう説明するのでしょう、この新聞社は。
そういうことさ。裁判員「苦役」論は徴兵制をめぐる国会論議に大きな材料を提供するものであり、徴兵制をめぐる国会論議は裁判員制度の憲法上の重大問題をあらためて浮き彫りにしている。そういうことだろうね。
投稿:2015年8月9日