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ちょっとスッキリした控訴審判決

オウム裁判に疑問を持つ一市民

 「『オウム』になら微罪でもなんでも徹底的に糾弾する。彼らには人権なぞない」。長く言われてきた言葉だ。何とか落ち着いて聞ける話を聞いたというのが今回の判決の第一印象。11月27日の毎日新聞を取り上げる。
 <菊地被告無罪>爆発負傷者「誠に残念」 裁判員、疑問の声との見出しで、「1審を担当した裁判員経験者からは「市民参加の意味は何なのか」と戸惑いの声が上がった」と。054819

「市民参加の意味は何なのか」というのは、つまり「市民参加」は三審制度を否定する制度だということだろうか。裁判員の市民感覚判決は「神聖にして侵すべからず」とでも言いたいようだ。おかしな話。

 被告の主任弁護人の高橋俊彦弁護士(45)は「1審では、運んだ薬品が毒物や劇物であるという認識が、人を殺す危険性の認識にすり替えられた。控訴審は危険性についてきちんと認定してくれた」と評価したという。

 知らずに毒物を運び、知らないままそれを使い、別の人が事件を起こしたというのなら、運んだ人に殺意があったと言い切れないのはあまりにも当然。
「市民感覚」というのは、「危険らしいものを運ぶのだから、人を殺すことを認識していて当然」となる感覚なのだろう。「事実はどうあれ市民の感覚としては認識しているという理屈になって当然」というものらしい。

  被害者は「被告は長年逃亡を続けており、罪の意識は十分持っていたはず。無罪判決は、その事実を法廷でしっかりと立証できなかったということで、誠に残念」とコメントしている。

待ってほしい。人が逃げるのは犯人である場合に限られない。犯人でないなら正々堂々と出てきて身の潔白を証すべきだというのは、権力の理屈以外のなにものでもない。
彼女が逃げた当時の状況を思い出す。信者は、鞄の中にカッターナイフを入れていたとだけで逮捕された時代である。「走る爆弾娘」と言われ、全国に指名手配されたら、逃げて当然だろう。私なら逃げますね。

 1審で裁判員を務めた男性会社員(34)は「控訴審で刑が軽くなることはあるかもしれないと思っていたが、まさか逆転無罪とは。自信を持って出した判決なのでショックだ」と話したという。

どうして「自信を持って」判決が出せるのか。「自分の感覚は正しい」と言い切れるのか。裁判所内で下にも置かぬ歓待を受け、何か発言すれば、「さすが市民の方は目の付け所が違う」とかなんとか煽てられ、「万能感」を持ってしまったということかな。あなおそろし。

1審では教団元幹部らの証言が食い違った。事実をどう認定するかが難しく、評議は約3週間続いた。男性は「事件から年月が経過し、被告の内心の認定に頭を悩ませた。決め手となる証拠もなく、真剣に話し合った」と打ち明け、「裁判員を務めた意味が何だったのか考えてしまう。直接的証拠があり、市民も判断しやすい事件に裁判員の対象を限ったほうが良いのではないか」と語った。 103807

いやはやである。3週間も裁判にかかりきりになれる市民が頭を悩ませ、真剣に話し合ったと報じる。決め手になる証拠がない事件で「真剣に話し合って」有罪にしてしまう大胆さ。「直接的証拠があり、市民も判断しやすい事件に対象を」というが、何のために市民がそんな事件の裁判に関わらなければならないのか? 『毎日新聞』は、どうしてそのことを問題にしないのだろう。あなおそろし。

検察幹部からは「まったく予想していなかった判決」などと驚きや疑問の声が相次いだ。判決が井上嘉浩死刑囚の証言が不自然に詳細だと指摘した点について、ある幹部は「井上死刑囚らの頭の中は今もあの時代で止まり、それぞれの場面の記憶が非常に鮮明だ。時間の経過だけで、直ちに捏造と疑うべきではない」と首をひねった。

オウムには13人に死刑判決が出ている。その根拠の中心にいるのは井上。各人の証言がバラバラになる中で、彼だけが一貫して検察の意にぴったり沿う証言を次々に行った。検察幹部とすれば井上証言が否定されることは耐えられないのだろう。

おかしいと思わないか。多くの証人や被告人の中で、たった一人彼だけがひたすら検察の言うとおり希望するとおりの証言をすることが。その証言を基本にして死刑判決が出ていることが。

一方でオウム事件捜査を担当した警視庁OBのOさん(67)は「被告の当時の上司だったT死刑囚らから、被告に事件の計画を話したという供述を得られなかった記憶がある。状況証拠を詰め切れたとは言えず、判決は致し方ない気もする」と話した。

 そう言うことです。

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投稿:2015年11月28日