~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
良い年でも悪い年でも年の瀬がきます。今年も奈落に向けてひた走り感の裁判員制度でしたが、それを象徴する事件がいくつもありました。おさらいの年末といきましょう。
そうそう、寺田長官ご下命の「出前講義」の失敗もそうだったし、長官の候補者名簿登載通知への片思いラブレター同封もそうだった…。
うろうろ市民につきまとうのはストーカーのようなものではないかとも言われました。
凋落度を加速させた裁判と言えば、オウムK被告の1審有罪を逆転させた高裁判決があげられるだろう。
20年前にオウム真理教の信者たちが起こしたとされる東京都庁郵便物爆発事件。殺人未遂ほう助罪などに問われ、1審東京地裁の裁判員裁判で懲役5年を言い渡された元信者K被告(43)の控訴審判決が11月27日に東京高裁で開かれ、大島隆明裁判長は1審判決を破棄して無罪を言い渡したんでしたね。
大島裁判長は1審が有罪の根拠とした元教団幹部I死刑囚(45)の証言を「信用できない」と指摘しました。
爆薬原料の運び役として起訴されたK被告が、原料の薬品が事件に使われることを認識していたか否かが争点になっていて、弁護側は無罪を主張していましたが、これを受け入れたのでした。
1審判決によると、K被告は1995年4月、山梨県内の教団施設から東京都内のアジトまで爆薬原料の薬品を運んでいる。翌月、元幹部らが爆弾を仕掛けた小包が都庁の知事秘書室で爆発し、職員が重傷を負った。この事件は教団に対する捜査のかく乱を目的としていたという。K被告が薬品を運んだのは地下鉄サリン事件の約1か月後。教団に対する捜査が連日報道されていたことなどから、1審判決は菊地は危険な薬品と知って運んだはずだという結論を導いた。
1審裁判員裁判は爆発物取締罰則違反は無罪にしましたが、殺人未遂のほう助罪が成立するとして懲役5年を言渡し、一方控訴審は殺人未遂ほう助についても1審判決をひっくり返して無罪を言い渡しました。
裁判員たちの有罪判断を逆転させたことでまたまた大騒ぎ。『読売』は「高裁『市民感覚』覆す」とどでかい横見出しを打ち、「主要事件の有罪揺るがず」などと素っ頓狂な縦見出しも打った。
ついでに言えば、12月にも千葉地裁の裁判員裁判で有罪とされていた覚せい剤密輸事件で東京高裁が1審判断をひっくり返して無罪にしています。
そうだ。そういう裁判が続くと裁判員裁判はボディーブローを受けたように力を失い、制度が自壊してゆく。
力はとうに失い自壊もしているから、正確に言えば、水に落ちた犬が叩かれていると言った方が正しい。
さて、オウムK事件。高裁逆転無罪で騒がしくなれば、「有識者」の皆々さまがそろい踏みでおしゃべりを始める。さっそく『読売』は、12月10日、論点スペシャル「オウムK被告 高裁無罪の是非」という全面特集記事を組みました。
それにしても「是非」というタイトルには、受けとめられないという気分がにじみ出ていますね。
4人の論者は全員弁護士。鈴木和宏氏は一連の教団事件で主任検事を務めた元検事。山室恵氏は教団元幹部に死刑を言い渡した元裁判官。渡邉修氏は刑事訴訟法の学者で刑事弁護もするという人。そして四宮啓氏は裁判員制度を作った責任者の1人。
控訴審判決は言いました。「危険な薬品という認識と、爆弾を作って人を殺傷するという認識は質が違う。17年も前のことが記憶に残っているというI死刑囚の証言は不自然で信用できない。根拠不十分な推認を積み重ねと論理飛躍の1審判決」。
この控訴審判決を皆さんはどう評価したか。簡単に紹介する。
鈴木氏はさすが元検事だ。「木を見て森を見ない控訴審判決。爆弾の材料とまで認識していなくても、何らかの危険な化合物を作ってテロ行為に使うことは認識していたと判断した1審判決の方が常識的で論理的」。
山室元裁判官の評価は逆だ。「K許すまじで強引に起訴したという印象がぬぐえない。爆薬の認識がなかったとして爆発物取締罰則違反を無罪にしながら殺人未遂のほう助を認めた1審判決はちぐはぐ。全国手配の『犯人』なら爆弾のことを知っていた筈だと思われたのだろう。社会を揺るがす重大事件の裁判員裁判には『世間の感情』に影響される危険性が潜む」。
渡邉センセイは「裁判員裁判の判決をプロの裁判官が書面を読んだだけで覆したのには強い違和感がある。裁判員制度の根幹を揺るがしかねない。他人に危害を加えるような犯罪行為を手助けするという認識があればほう助犯になる。高裁は硝酸がテロ行為に使われるとまで認識するのは容易ではないと言うが、幹部らが何らか違法なことをするのではないかと思うのがふつう」。刑事訴訟法の学者って、三審制のことや刑事基本権のことがあまりわかってなくてもいいのかしら。これでどんな弁護活動をしているのかね。
さて、裁判員制度を作った有責当事者の四宮氏はのたまう。「1審より控訴審の方が常識的で具体的で説得力がある。控訴審が有罪に疑問をいだけば無罪に戻るのであり、控訴審の無罪判決は司法制度が機能したことの表われとも言える。しかし、裁判員参加で国民にわかる公正透明な裁判が実現され、裁判員が真剣に評議したことには重要な意義がある。誇りに思ってほしい」。
なんじゃこの話は。キミは「控訴審で司法制度が機能した」なんて涼しげに言ってるが、「1審裁判員裁判で司法制度が機能しなかった」ことをどうして論じないのか。山室氏はそこに踏み込んでいるじゃないか。キミは、控訴審は常識的で具体的で説得力があったと言った。それは言い換えれば「1審裁判員判決の方が控訴審判決より常識的でなく具体性に欠け説得力がない」ということだ。どうしてそれが「裁判員参加で国民にわかる公正透明な裁判が実現されてよかったね」という話につながるのか。物を言う時には起承転結がしっかりしないと支離滅裂と言われるのだよ。
裁判員裁判が崩れる過程をまざまざと見る思いがします。感情裁判のどうしようもない限界。そこに依拠しようとする検察や御用学者の法律破壊。裁判に責任を感じる裁判官のホンネ。何が起きても起こっても「私の可愛い裁判員ちゃん」と唱え続けるしょうもない人。読めば読むほど味の出てくる特集でした。
最後に一言。この控訴審判決に対し東京高検は上告しました。最高裁がどう応えるのか。見物聞き物腫れ物がこれから始まります。最高裁は自分が撒いた種から生まれた異様な植物の成長を重視するのか、国民参加は国民重視とはまるきり違うと言い切ってしまうのか。
どちらに向かっても、裁判員に参加する気運がさらにさらに下がる話になることだけは間違いないね。ホントとほほの世界だよ、テラダ君。来年はどうするのさ。
投稿:2015年12月31日
「来年の裁判員候補に選ばれた人たちに通知が届く季節になった。ところが、さまざまな理由で辞退する人が今や3人に2人となっている。なぜなのか。」こういうリードで始まる。
『朝日』の「耕論 裁判員なぜ辞退」というタイトルの特集記事ね。15年11月18日のオピニオン欄1頁全面もの。
「裁判員推進は社是なり」の『朝日』がこういう特集を組むとなると、それはついに懺悔かはたまたごまかしか。そりゃ後者に決まっとるやろということになるともう身も蓋もないお話しでやんすが、ま、しばらく付き合ってくんなまし。
登場人物は、あちこちで発言している裁判員経験者の小平衣美さん、専修大学准教授の法社会学者飯考行さん、そして裁判傍聴記で知られる裁判傍聴芸人阿蘇山大噴火さん。
小平衣美さん。殺人未遂事件の裁判を経験して本当によかったと言う人だ。たった3日で出した判決に、「達成感でやってよかったと心から思った」んですって。さすが『朝日』さん。目の付け所が違う。選ぶ人が半端じゃない。小平さん。わかっていないようだけれど3日間てとても短いんだよ。
「でもよく考えたら評議の時に立派な意見を言う人に影響されていたことを思い出し、知識もないのに人の人生を左右する判断をしたことに悩み苦しむようになった」そうですよ。
裁判員をやってどんなメリットがあるのか検察官に尋ねたんですって。そしたら、「犯罪を他人事と思わない人が増えれば、犯罪の抑止力になる」と言われた。「その言葉で自分の判断が社会のためになるのだと知って終着点を見つけた気がした」と。
なに言ってんだか。あなたの話は起承転結がはっきりしない。人の人生を左右したという悩みはどういう理屈で社会のためになることになったのかちゃんと言ってよ。左右してはいないのか、左右してもよいことになったのか。詳しく言ったのに山本亮介記者の取材が下手だったのなら『朝日』の責任だけど。
それにしても、裁判員になるメリットっていうのが、「犯罪を他人事と思わない人が増えれば、犯罪の抑止力になる」ということなんですね。
見落とせないのは、裁判員はつらいとか苦しいとかのイメージが開始当時から変わらないのは残念だとか、制度のメリットとか制度が社会にもたらした(よき)ものなんていうこの人の受け止め方。
うーん。人を裁いてつらくなく苦しくもないと言われれば、それってボクだけじゃなくて、多くの人たちの理解と大きくずれると思うな。
人を裁くことがお気楽だとかお楽しみだとかというところを人にわかるように説明してほしい。そして、ここにこの制度のメリットとか意味とかがあるとあなたの言葉で話してもらいたい。タイトルは「メリット伝わっていない」になってるけれど、あなた自身がメリットを何もしゃべっていない。
依然として誰かの「立派な意見に影響されたまま」なんじゃないかしら。
もうひとこと言えば、あなたが本当にお楽しみだとかメリットだとかをしゃべったら、それこそみんなどん引きすると思うね。あなたがやっている「啓蒙運動」は成果が上がってますか。そこら辺がリトマス試験紙になるでしょうよ。
専修大学准教授の法社会学者飯考行さん。連続開廷、法廷中心。裁判員裁判が始まって裁判に緊張感が生まれたとおっしゃる。
心底脳天気の人だ。冗談も休み休み言いなさい。開廷前の公判前整理手続きで裁判の大きな方向は決まってしまっています。傍聴しているあなた自身も公判で初登場する裁判員たちも、もう「でき上がってしまっている」裁判を見せられているだけ。自分たちで作っているように見えるかもしれないけれど、実はとこかで作られて配達されてるピザ。それで本当の緊張感がありますか。
裁判員事件で弁護人を務めている弁護士もこれは本当の刑事裁判ではないという声を上げていますね。法社会学という学問は社会の受け止め方も裁判に関わる人たちの言葉も偏頗なくとらえないとおかしな学問になる。私の研究はその程度のものですと言われれば言う言葉もないけど。
強姦の被害者の生の声が音声機器で流れる。判決言い渡しの時に裁判員が泣く。こういうのを「人間味のある裁判」とあなたは言うようですが、インコはそのような裁判を「感情過多裁判」と名付けます。
だからあんまり心配するなと言いたいのか。日本はこの制度を始めた時からひどく辞退率が高く、しかも始めて何年も経たないのにもっともっと上昇し、もう4人に1人程度しか出頭しなくなった。その経過を見て、これは大変だとみんなが問題にしている。正面から問題を論じようとしないのは「法外社会学」だよ、飯さん。
プロと市民の協働でよりよい裁判が実現するとか、司法に国民のチェックが入ったとか、なにやらよさげな言葉を並べることがお好きな方です。
へっ。どんな「よい裁判が実現した」のか、どこに「チェックが入った」のか、あなた自身の言葉で説明してほしい。あなたの説明に説得力があれば人々はついて行くし、説得力がなければついて行かないだけのこと。裁判所に「不安解消に努めよ」とか「事前セミナーをやれ」なんて言ったってしょうがない。
裁判員になる前に事前セミナーに来いって言われたら、また辞退率が上がるってわからないのかな。
まったく。 最高裁が鳴り物入りでやった出前講義が大破産したことを知らないとすれば、あなたは研究者として半端です。
さて、最後に阿蘇山大噴火さん。『朝日』ご選任の登場者の中では比較的まともなことをおっしゃっている方です。
うーん。『朝日』容認の限界線ギリギリのお客様っていう感じかなぁ。「裁判に参加したことが日常生活や仕事にプラスになるって思える人は少数派だと思う」。そうですよ、それを何とか多数派にしたいっていうのがお上の考え。そして国民の了見を変えさせたいというもくろみがどうにもこうにもうまくいかない。
「なんで裁判員にならなきゃいけないんですかね」「裁判に市民感覚を反映させる必要性はあるのか」「冤罪がなくなったり犯罪が減ったりするのか」「根っこの部分を納得できるように教えてくれないところが謎」。拍手!
ここに問題をはっきりさせる鍵があると思うね。政府や最高裁は、裁判員をやることで司法に対する国民の理解が増すことに意味があると言っている。裁判所が苦労して裁判をやってることをよくわかってもらって、あぁ私たちの国は司法も裁判所も立派だなぁ、立派な国に生まれてよかったなぁ、そうだ自分もこの国をもっとよくするために頑張ろうって思う人を増やしたい。つまりそういうことでしょうが。
そのことは当局自身が以前からずっと言ってきていることですよ。
でも、マスコミはそれを言っちゃっては身も蓋もないからなのか、その狙いを告発するのではなく、市民参加でよりよい司法を作るんだなんて脳天気なことを言いまくってきたから、みんながよくわからんということになった。それが現状。マスコミだけじゃない、裁判員制度を推進した日弁連や左翼政党の責任も重大。結果、阿蘇山さんのような感想が広がっている訳だ。
でも、この方も、裁判員裁判なんかやめちまえとは言わないというか、言ったことになっていないですね。この文章を読む限り。
これだけの疑問を開陳する阿蘇山さん、こんな制度やめろと言ってみませんか。
そう言っている傍聴芸人さんもいるんだけどなあ。そこがこの新聞からお呼びが掛かるかどうかの分水嶺なんだとすれば、寂しい話ですね。
阿蘇山さんはおっしゃる。裁判をもっと傍聴しやすくすることが大事だと。そのとおりですが、政府も最高裁も裁判を国民の批判にさらすことなど考えていませんね。それどころか批判されないようにこの制度を推進して旗を振っている。そこはもちろんおわかりですよね。
さて、大『朝日』の立場を議論しよう。「裁判員 なぜ辞退」の答えはこれで出たのか。結論は「何も出ていない」だ。裁判員になることのメリットについて、政府や最高裁は司法の理解の増進を上げる。マスコミは官僚の司法を市民の司法に変えることだという。『朝日』はこの折り合いをどこでつけるつもりか。そこをはっきりさせない限り、辞退したいと思う市民が何に反発し、何に躊躇しているのかも明確にならないし、だからどうしたらよいのかも相変わらず不透明なままになる。メリットを考えるとかネガティブにとらえるとか、そういう話のすべてに制度の狙いの話がかぶさってくるのだ。
さぁ、『朝日』さん、どうしますか。
投稿:2015年12月20日
弁護士 猪野亨
下記は「弁護士 猪野亨のブログ」12月18 日の記事です。
猪野弁護士のご了解の下、転載しております。
裁判員裁判によって死刑判決が下された事件で、死刑が執行されました。
「法務省が2人の死刑執行 今年6月以来、半年ぶり」(朝日新聞2015年12月18日)
「裁判員事件で初の死刑執行 川崎の大家ら3人殺害の津田寿美年死刑囚ら2人 岩城法相が命令」(産経新聞2015年12月18日)
「確定判決によると、津田死刑囚は21年5月30日、住んでいた川崎市幸区のアパートで、大家の柴田昭仁さん=当時(73)=と弟の嘉晃さん=同(71)=夫妻の3人を包丁で刺殺した。」
自宅隣室に住む夫妻とアパート大家を殺害した事件ですが、2011(平成23)年6月17日に横浜地裁の裁判員裁判で死刑判決となりました。被告が自ら控訴を取り下げ、死刑が確定していたものです。
この最高裁の審査を経ていない死刑判決には大いに疑問のあるところであり、裁判員裁判に限らず、一審の死刑判決が破棄され、減刑される事案があることを考えると、自動上訴の仕組みは不可欠です。
「裁判員裁判の死刑判決を破棄 高裁の役割を示す」
量刑程度であれば、自らの意思も尊重するということもあってもよいと思いますが、死刑判決に関しては、自ら受け入れてもいいというだけで死刑判決を確定させるわけにはいきません。
刑罰は、あくまで国家が課す刑罰なのですから、そこには刑罰の選択も含め、特に死刑に関しては誤りがあってはならないのです。
この事件では高裁の判断も最高裁の判断も経ていない死刑判決が執行されたことになりますが、まさに裁判員の判断が死刑執行に直結しているものです。
死刑判決に関与した裁判員の感想の中には、死刑が執行されたときはまた別の感情になると思うという趣旨のものもありました。
今回の執行についても関与した裁判員は早晩、知るところとなります。
この事件での元裁判員たちの感想が異様に際立っていました。
「ますます自信を持つ裁判員?」
カナコロ2011年6月18日付になりますが、「会見に出た6人のうち、5人が「控訴しないでほしい」と語った。」というものです。
またその裁判員には22歳の大学4年生の裁判員が含まれていましたが、「考え抜いた末の納得の結論」と総括しています。
何故、控訴しないでほしいという自信にまでつながるのか非常に疑問です。
被告人は、その後、控訴を自ら取り下げていますが、裁判官が控訴するななどと言ったら大問題です。
しかし、裁判員はそのような発言をしてもマスコミからも叩かれることはありませんし、言いたい放題の感があります。
「一方で、極刑を出すことへの精神的負担については6人の意見は分かれた。「死刑は妥当で、今後の生活に影響はない」と50代の会社員男性。しかし、2人は、被告を死に追いやることに「罪悪感がある」と明かした。」(前掲カナコロ)
さて、実際に執行されたことによって、どのような思いに至ったでしょうか。
それでも上記大学生は、このような感想も述べています。
「死刑制度が必要という考えに変わりはない。でも死刑求刑の審理は心の負担が重く、裁判員裁判から除いて欲しい」裁判員裁判による死刑判決が増加し、他方で、それを上級審で破られる事態になった今、裁判員制度は新たな段階に入ったといえます。
「市民感情」を元に死刑判決が下され、裁判員裁判の尊重ということで死刑も執行されていくことになれば、これでは生の「感覚」がそのまま刑事裁判に流入することになります。これでは刑事裁判自体の崩壊です。
投稿:2015年12月18日
弁護士 猪野亨
下記は「弁護士 猪野亨のブログ」12月04 日の記事です。
猪野弁護士のご了解の下、転載しております。
先般、一審東京地裁の裁判員裁判の元オウム信者への有罪判決に対し、東京高裁が無罪判決を下しました。
しかし、それに対する筋違いの非難が少なくないのが驚きです。一審判決に関わった元裁判員の感想などは裁判員制度の弊害を象徴するものといえます。
「オウム元信者に対する逆転無罪判決 裁判員や被害者の声に違和感」
検察幹部の声も報道されています。
「「逃げ得」「びっくり」=逆転無罪に検察幹部-オウム真理教・菊地元信者判決」(時事通信2015年11月27日)
最高検幹部 「難しい判断をした裁判員の判断を覆すのか」
東京地検幹部 「逃走せず、当時起訴されていたら有罪になったのではないか。20年という時間の経過でオウム事件が風化したということか。近視眼的な判決だ。上告しなくてはいけない。」
検察庁だって、裁判員裁判に対する無罪判決で控訴しています。それにも関わらず「難しい判断をした裁判員の判断を覆すのか」とは言い掛かりそのものです。
裁判員裁判の判断かどうかではなく、その内容の是非が問われているのですから、裁判員裁判になってから、中身ではなく、このような批判、しかも法曹たる最高検幹部から出るようになったのですから、相当、検察庁も劣化したと言わざるを得ません。
事件風化というよりは、記憶の風化です。事件の直後だったら有罪だというのであれば、それこそ雰囲気でもって有罪判決を下すに等しく問題です。
記憶の面でいえば確かに他の教団幹部(井上証人を除く)の証言も、その内容はともかくもっと確かなものだったかもしれません。
とはいえ、恐ろしいのは当時のオウム憎しだけで捜査、訴追が行われていた当時の状況です。今だからこそ裁判所が冷静な判断をなしえたともいえます。
元オウム信者の当時の役割などを検証してみても、本来であれば事件当時であっても同じく無罪判決が出なければならない案件といえます。
裁判員裁判の「行き過ぎ」を無罪判決という形で東京高裁が是正したことは極めて真っ当なことです。
本来、裁判員制度を推進する立場であろうと、これを非難するのは刑事裁判の役割を全く理解していないということでもあります。
この若狭勝氏(自民党衆議院議員)の意見をどのように考えるのでしょうか。
「最高裁、裁判員制度をやめますか? 」
「裁判員裁判は、法律的な難しい判断を市民に求めるわけではなく、むしろ、市民の素朴な感覚で、犯罪の事実を認定し、市民の常識にかなう、よりよい裁判を実現しようという趣旨で導入されたこと。
だからこそ、仕事・行事・家事など、市民の時間を犠牲にした制度が実現できているのだと思います。
今回の高裁判決のように、裁判員の判断が簡単に覆されてしまうようでは、こうした裁判員裁判の制度を台無しにする恐れがあります。」
有罪・無罪が市民感覚で決まる、それが「素朴な感覚」というのは、元検察官である若狭氏の発想はどうかしています。上記検察幹部と同じくらい劣化しています。
元検察官といっても、この落合洋司氏のこのコメントは極めて真っ当です。
「[刑事事件]都庁爆発物事件:元オウム菊地被告、2審で逆転無罪」
投稿:2015年12月6日