~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
おとなしいインコですが、お屠蘇で元気が出てきた。もう少し続けさせてもらいまするぞ。
(少しゆがんだ顔で)待ってました、大統領っ。前から元気ですっ。
裁判員裁判の死刑執行でいろんな人が出てきていろんなことを言っている。制度推進のマスコミがしゃべらせたいヤツにしゃべらせているんだから、所詮はしようもない話が多いのだが、それでもこの制度の現状を考えるきっかけにはなる。
執行当日の『朝日』夕刊にさっそく登場したのは田口真義という不動産屋さん。裁判員経験者のまとめ役と称し、この新聞に重宝されているお方ですね。死刑判決に関わった経験者は死刑に関わることがいやなのではなく、実情がわからないままに執行されていくことが恐怖なのだ」と言い、裁判員裁判で死刑を意識し死刑のあり方に目を向けるようになったなんて言っている。この人は裁判員制度の推進に一役買いたいと思っているらしいが、死刑に反対している人ではないことがよくわかります。
あんたは「実情がわかれば死刑もいいと思うかも」なんて考えているのかもしれんが、いやな人は死刑に関わること自体がいやなのだ。情報公開がポイントだなんて話をずらしたりするなってこと。裁判員制度に賛成でも反対でもないとかどこかで言ったことがないか。死刑に正面から反対するとも言わないだろう。鵺(ぬえ)とはあんたのような奴を言うのだ。
大『朝日』は翌19日には専門家を登場させました。制度設計に関わった松尾邦弘元検事総長。
「国民は死刑を受け入れている。裁判員の負担については検察も裁判所も向き合っていかねば」。国民が受け入れていないことを懸念した『朝日』がこの方に声を掛けたんでしょうね。検事はこのくらいずれるという例証かも。極少の「国民」しか制度を支えていないってことを認めちまったらオシマイだからしょうがないか。でも、受け入れてくれたんだったら、検察・裁判所はいったい何に向き合っていけと言うのさ。
同じ『朝日』。木谷明元高裁判事。「執行を機に死刑を考えよう。みんなが裁判員になる可能性があるのに死刑に関する情報はあまりにも乏しい」。
現役時代には無罪輩出で知られたお方だが、麒麟も老いたりか。裁判員問題から死刑問題に論点を移してはいけません。今論ずべきは裁判員制度はこれでよいのかです。無罪か有罪かを争っている事件で、実刑にするか執行猶予にするかを考えようなんて簡単に言わなかったでしょ、昔のあなたは。
『読売』は当日2人の専門家を登場させました。渡辺修甲南大教授。「死刑は妥当。厳正な執行を。裁判員の心の負担はやむなし。市民が自信をもって死刑宣告ができるように検察は有罪の立証をせよ」。
オウムK判決でも『読売』に登場してめちゃずれを言っていたお方だが、はっきり言って極致のずれ方だね。心の負担をどうするかを議論してるんだぜ。それとも何を聞かれてもこういう返事しかできないのかね。それにこの事件の裁判員たちは証拠が足りなくて悩んだんじゃなかったんだよ、ワタナベ君。
もう1人は原田国男元高裁判事。「死刑事件を裁判員から外したら国民の意見を反映させる制度にならない。精神面でのケアを充実させていかねば」と。
国民のほとんどが参加しなくなり、一部の特異な人に支えられているのが現在の裁判員裁判です。その現状を無視して物を言ってもしょうがないんですけど。で、原田君は誰のどういう「精神面」のケアが必要だと言うのですか。
翌日の『読売』に登場したのは村井敏邦一橋大名誉教授。「裁判員のストレスは大きい。判決後に不安が増す人もいよう。長期的なケア態勢の充実も必要」と。素っ頓狂発言が多い中ではほっとするような「普通の意見」です。
ただし、前回にもコメントしたとおり、現在の裁判員裁判で心が傷つく人はもう僅かなのだ。傷つく人はほとんど裁判所に来なくなっている。死刑判決に関わる裁判員の心の負担のことよりも、苦にすることもなく楽しげに裁判員をやれる人が大半を占めているところに「制度の病理」がある。そのことに村井君は気づいていないらしい。
『東京』の当日夕刊に登場したのは、石塚伸一龍谷大教授。「裁判員裁判の量刑判断をチェックする機会を逸したのは制度の欠陥。裁判員たちは死刑を選んだことを一生背負い続けるだろう。彼らは国民の代表なのだから、国民の一人ひとりが死刑について考えるべき」。
死刑判決については自動的に控訴審の審理が開始されるべきとおっしゃる。「一生忘れるな」はそのとおりです。刑務官を買って出た裁判員たちには「ケアより宣告」。
でもねぇ石塚君。画竜点睛を欠くのは裁判員制度廃止を言わないで死刑論議に流れたところ。
裁判員制度を直視して下さい。インコはそう宣告する。
翌日の『東京』は村岡啓一一橋大学特任教授。「陪審制と違い裁判員は背景事情などを十分考えさせられないまま『生死』の過酷な判断を迫られる。自動上訴が不可欠。」。
裁判員制度の存在を前提として物を言えばそういうことにもなるのでしょう。村岡さんは陪審制と違って裁判員裁判には超短期に結論を出してしまう問題があることにもきちんと触れた。
でもそこまで踏み込むのなら、そんな裁判員制度など根本から考え直せとどうして言わないのでしょう。
さてさて裁判員裁判による死刑執行。識者発言を叩くのはこのあたりで終わりにしようか・・・。
ちょっと待って。年末が迫った12月28日に『朝日』が社説を出してくれました。タイトルは「裁判員裁判 死刑と向き合う機会に」。インコさんがこれを無視しては『朝日』様にも多くの読者の皆さまにも申し訳ないですわね。
「市民が裁判員を務める制度のもとで初の死刑執行のケース。携わった裁判員の苦悩はいかばかりか、はかりしれない」。うーむ、他紙の追随を許さない最大限の深刻表現だ。我が社はそういう認識に立っておりますと言ってみせるところがいかにも『朝日』。で、心のケアを「さらに充実させる」取り組みが欠かせないとね。これまでも「心のケア」が実施されてきたことをよっく心得てますとココロを込めて「さらに」にしたのだ。
ここからやっと本論が始まる。「その一方で、裁判員が死刑求刑事件について判決を下すこともあるという仕組みから、私たち国民は逃れるべきではない」。ガーン。その一方ってどの一方かよくわからんが、裁判員の死刑直面の仕組みを否定することは「この制度から逃げる」ことになるらしい。深刻表現の大リバース。
「そもそも権力の処罰は主権者からの負託だし、死刑も国民が決めたもの。これまであまりにも多くの手続きを執行する刑務官らにやらせ過ぎた」。おいおいホントかい。本来なら死刑囚の首をくくる紐は国民が引っ張らなければならないのに、刑務官に引っ張らせてきたと言ってる。死刑判決を出すのも死刑囚を殺すのも本当は国民の仕事だというのが大『朝日』の社是なのか。
そうするとこの国は長きにわたって間違った司法の仕組みを作ってやってきたことになりますわね。
「人を裁く体験を通じ、死刑と向き合い、是非を考える。裁判員制度をそうした機会にしていくことが大切だろう」。そうかそうか、裁判員制度は死刑制度を考えるための一方策だったのだ。一転、ここから『朝日』の論調は情報公開の必要性の話に切り替わる。田口某とやらが言ってるレベルの話に超接近である。
しかし、『朝日』の社是は「裁判員制度推進」。「死刑執行」の方を動かすしかない。だが、『朝日』の社是は「死刑について反対せず」だ。是非を考えるったって是非もない。
よく読んでほしいね。死刑に関して「反対」ではなく「情報を公開させること」に逸らした。しかり、『朝日』は「逃げた」。
情報公開を主張するのは、問題がまるきり理解できない時か、問題に迫ることを避ける時が多い。
死刑制度について反対を正面から言わない人たちが死刑に関する情報公開を求める。裁判員制度について反対を言わない人たちが守秘義務の解除などを求める。みんな同じことですね。
「社是」という言葉が出たついでに一言触れておく。『朝日』の12月4日の「社説余滴」の欄に論説委員加戸靖史氏が、米国の核兵器に頼ることを認める『朝日』の社説の立場を反核運動に取り組む人たちから批判された経験を書いている。タイトルは「『核権力』に立ち向かう」。自分も社説の立場を踏襲してきたが、人権優先の思想をもっと打ち出すべきと思ったと告白する。「人間として当たり前の要求を権力に突きつけていくしかない」というNGO事務局長の声を紹介しながら、加戸氏は「人間がこれ以上、核に脅かされることを防ぐ主張をもっと研ぎ澄ましたい」とも述べる。あまりにも当たり前の話だ。
こういうことがあらためてテーマになること自体に驚きを感じます。
報道の自由などにお詳しい(筈の)『朝日』の論説委員、編集委員、デスクや記者の皆さん。ボクや私の「表現の自由」はどこに行っちゃったんですかね。ここはひとつご自身の表現の自由に「真摯に向き合って」みませんか。情けなー、なんて言われないようにね。タイトルは「『裁判員』権力に立ち向かう」でどうですかね。
と、またまた元旦早々、歯に衣着せずに物を言っちまって、まっこと失礼つかまつりまする。人格もとい鳥格に問題があるなんて言われないよう、私めも「もっとチョーカクを研ぎ澄ましたい」と思っております、はい。
投稿:2016年1月2日