~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
猪野亨弁護士ウェブ連続講座
「マスコミが伝えない裁判員制度の真相」第5回
「裁判員は神聖にして冒すべからず」で、本当にすごいのです。マスコミにとっても触れてはいけない聖域として扱われています。
裁判員に接触した『読売新聞』が自己批判しましたけれど、報道機関も裁判員に接触しちゃいけないとなっているんですね。裁判官には接触して良いんです。本来、「報道の自由」といったものが、民主主義社会を支える根底だった訳ですね。報道の自由は、国民の知る権利に答えるもので、情報提供することが、有権者として判断することに不可欠だという大前提があるから、マスコミには取材や報道の自由があると、裁判官だって取材の対象としてきた訳です。ところが、裁判員にはダメと。冒してはならない神聖な領域なんです。やっちゃった『読売新聞』は、直ちに自己批判です。こういった状況が生まれている。
後、象徴的だったのが、「裁判員に話しかけた弁護人」。これは喫煙所だったらしいのですが、弁護人が休廷時間中にタバコを吸っていたら、壇上にいた裁判員もそこにいて話をしたことが、「裁判員と接触したことになる」として、措置請求されました(会場「えー」)。
でもね、喫煙所にいて話したことだけで、裁判の公正が疑われるとは。こうなってくると、裁判員に対し奉りですよね。規制でがんじがらめの中でやっていく。
ここまで守られてしまうと、裁判員ってなんだろうってことになりますよね。
本来、裁判員というのは、どういう立場かというと、国家から任命されて裁判に関わるのですから、国家権力を行使する立場です。ですから、裁判官と同様に批判の対象、国民、有権者がその権力行使に関して批判の対象としなければならないのです。ところが、その批判を許さない。
これは、権力行使に対する口封じ、権力批判を許さないということと同じことです。それを、裁判員を守るためと称して、一切の批判を許さない。
マスコミの報道の中でも、裁判員に対する批判というのは見たことがないですよね。あるとすれば、例えば、被告人を怒鳴りつけた裁判員に対して、「それはおかしい」というのはあったかも知れません。突出したものに対しては、「これはどうなんだろう」という論調はありましたが、それ以外の、裁判員に対する批判というのは見たことがない。批判の対象としない。
本来ならば、実名批判で構わない訳ですよ。権力を行使している立場なんですから。国家権力の一員として、死刑判決を下したというのであれば、誰が、どういう責任において下したのかというのは明らかにするのは当然です。判決文にも書かれなければいけないはすです。それが書かれない。極めて無責任な制度ということです。しかし、無責任だという指摘をマスコミがすることはないんです。
裁判員には負担をかけるな
このような中で、「裁判員には負担をかけてはいけない」というのが第一義的に出てくるのです。
裁判の前に、公判前整理手続きがあります。この手続きは非公開で、中でなにやっているのか分からないというか、何をやっていてもばれません。そこに出席していた被告人への取材した結果が報道されました。「公判前整理手続きで、裁判官が『裁判員の負担にならないように』と頻繁に発言していた」と。要するに、あの証人を調べてほしい、あの証拠も調べてほしい、といろいろやっていたら、裁判官から「期間が延びちゃう。そうなったら裁判員の負担になる。いろいろ調べると、裁判員の負担になるから止めてください」と。
まったく、誰のための手続きなんだという問題になると思います。
こういったことが垣間見えてくると、誰のための何のための裁判かということがよく見えてくる。そういう意味では、よく報じてくれました。あともう一歩欲しいなとは思いますが。
このように裁判員に負担にならないように、負担にならないようにということが、非常に大きいんですね。
もう一つ、負担で疑問に思うことは、鑑定なんですね。遺体があって、どういう死因なのか、鑑定人が鑑定を行って鑑定報告書が出る。裁判所が、「鑑定報告書をそのまま文書で出されると、裁判員には分かりません」と言うんです。ですから、わざわざ、法廷へ鑑定人に来てもらって、鑑定人に対する尋問という形でやらせた。すごいですよ。鑑定人に約5時間。被告人質問も聞かせてということですから、鑑定人に対しては膨大な負担が掛かるんですね。
「鑑定人は、裁判員裁判になったら、鑑定書を提出するだけでなく、出廷しての説明が必要となり、裁判所に通う回数も増えた」ということで、すごい負担が増えている。
他方で、皆さん、ご承知のとおり、鑑定人不足ということが報じられています。「第二の埼玉・鳥取不審死事件が見過ごされる解剖医、深刻な不足状態」と。ある県では大学病院から鑑定医がいなくなってしまったということがあるのに、鑑定医に過剰な負担を強いている。
これ、合わせて読めば、こんな無駄なことをやめれば良いというだけのことです。ところが、鑑定人が出廷することを「立派だ、立派だ」と持ち上げ、他方で「解剖医が不足している」と。合わせて考えりゃ、裁判員裁判を止めれば良いだけのことです。
はっきり言って、解剖医になっていただくというのは、なんとも言えない、なんとも言えないというのは、あの医学部を目指して医者になろうという人たちの中に、最初から解剖医を目指すという人はあまりいない。大抵は、病気を治してあげたいという気持ちでお医者さんになっていく中で、どうしても必要な分野、不可欠な分野としてある訳で、そういった分野に行ってくれるだけで、素晴らしいなと思うんです。それをそのような処遇をしていたら、いなくなってしまうのは当たり前だと思います。不足しているって、普段の仕事以上のものをさせられちゃう訳ですからね。
さらに、裁判で、鑑定医がいろいろ質問されて、「もう一度、説明するんですか。いい加減にしてください」と苛立ちを見せる場面もあったと。やはり、イライラしますよね(笑)。
そういうのも良く報道してくれたなと思います。
インコ一言:
裁判員や被告人、弁護人の問題は考えていたが、鑑定医の問題までは気が回っていなかった(反省)。言われてみれば、本来の仕事でないところ=裁判劇に出演させられる、という負担はかなりのもの。
それにしても、「裁判員に対する批判を許さないことは、権力行使に対する口封じ、権力批判を許さないというのと同じこと」ということは、行き着く先は「すべての権力批判を許さない」ということになる。マスコミの現状はすでにそうなっていると言って良い。日弁連は、今後もこのまま追随していくのか。その分岐点に今、立っている。
投稿:2016年1月31日