~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
さてさて、皆々さまの大きなご期待に応えてその3に入りましょう。これは「法廷技術のさらなる向上のために」という論考です。レポーターは埼玉弁護士会の松山馨氏。
「さらなる向上」ってところがなかなかですね。引き上げなきゃっていう切迫感と、「だめじゃん」って言いきることへの躊躇感と…。
そう、でもこのままじゃまずいぞっていう緊張感が溢れ溢れて、駄々漏れ状態。
憲法37条によって被告人は「資格を持つ弁護人」を依頼する権利を保障されているっていうところから始まる。
「資格を持つ弁護人」っていうのは、「資格を持つだけじゃなく十分な能力を持ち効果的な援助を与えることができる」弁護人ということなんだと。反対側から言うと国家はそういう弁護人を被告人に提供する義務を負うことになる。
書かれていない。能力があるかないか見極めることなんか簡単にできないし、本当にそんなことになったら、目の前の弁護士がホンモノかフェイクかいちいち区別しなけりゃならなくなる。
「十分な弁護能力あり」と「十分な弁護能力なし」の区別はどこでするんですか。
ふざけた話さ。その判断をするのは個々の弁護士ではなく国であり、被告人に義務を負うのは個々の弁護士ではなく国になるのだ。
聞き取れないような声で弁護され自分の主張を裁判官や裁判員にちゃんと伝わらなかったとか、弁護人がジーパン姿をさらしたので不当に重い刑を言い渡されたなんて主張する被告人が国の責任を追及する。
法テラスのスタッフ弁護士や契約弁護士だったら国がその責任を追及する。弁護士の在り方を国が統制することになるな。
この方、日弁連の刑事弁護センター法廷技術小委員会の責任者らしいですよ。
だから問題なのだ。「弁護人は、憲法によって、十分な弁護能力を持ち効果的な援助を行うことを義務づけられている」なんて断言されると、何言ってるんだということになる。
弁護人の能力向上と言えば、医師と同じで、いつの時代にも専門家として求められる常識のような話じゃないんですか。
違う。ここで言われている弁護人の能力向上はそういう一般論ではない。裁判員裁判が始まった。公判前整理活動も超短縮公判も昔はなかった。検察も制度採用に伴い体制強化に努めている。弁護能力の向上は喫緊の課題。そういう流れの中の話なのだ。
高レベル弁護要求権とか高レベル弁護提供義務なんて大仰な話は、裁判員制度が登場する前には言われていなかった。
裁判員制度で急浮上する憲法上の権利なんて、どうにもヘンですね。
制度が始まってからたびたび集められたアンケートで日弁連の尻に火が付いた。その2でも触れたが、裁判員裁判の中の弁護活動が手厳しく評価されている。点数がひどく低い。そのために日弁連の言うこともヒステリックになってきた。
背景事情は理解しました。そこをマツヤマさんはどう突破しようと。
学習、学習、研修、研修……。その突破口を今回明らかにしようという訳だ。
裁判員制度を陪審制の第一歩と位置づけていた日弁連は、全米法廷技術研究所(National Institute for Trial Advocacy =NITA)から専門家(インストラクター)を日本に呼んだ。陪審制の先輩から指導を受けるということだった。NITAは法廷弁護技術の指導が売り物の組織。いかにも米国らしいプラグマティズムの産物さ。
なんかゲームっぽい。べらぼうなお金をかけたとかいうO・J・シンプソンのドリームチームを思い出しました。
米国にはこういうインストラクターの指導を受けて陪審弁護を進める弁護士がたくさんいる。弁護のやり方について事細かに指導を受けて無罪を勝ち取ろうとしている。ちょっとした手の上げ方や、肩のすぼませ方なんかも教える。立ち居振る舞いの指導だな。
この人は、「NITAの法廷技術指導法は日本でも有効に機能することを知った」「米国で活躍する法廷弁護士たちによる講評・実演の内容、立ち居振る舞いのすべてに、事実認定者を説得する力を確かに感じた」と言っているんだから、確かに感じたんだろうよ。
よろしい。日弁連は、その後米国でNITAが開催した指導法研修講座(Teacher Training Propgram)に代表を派遣したり、インストラクターを日本に招聘したりした。マツヤマ君は「現在の日弁連における法廷技術に関する活動は、NITAからの学びが出発点だ」と言う。なんてったって「学び」と来るんだぜ。
それはよろしい。法廷技術に関して日弁連が提供する最も重要な研修は「実務型研修」だ。いろいろ実演させて指導する。横文字で言うと「キーコンセプトはLearning by Doing」。実演して批評・批判される研修方法が良いという。
米国陪審パフォーマンスを日本の弁護士に叩き込もうという訳ですね。
09年には全国10個所、10年には6個所、11年には8個所、13年、14年、15年にはそれぞれ2個所で研修をやったと。
どんどん減ってるじゃないですか。会員のやる気以前に日弁連のやる気が年々落ちているように見える。それとも米国からインストラクターを呼ばなくてもいいくらいレベルが上がったっていうことでしょうか。
うんにゃ、アンケートによれば、年々弁護人の話がわかりにくいという裁判員が増え、弁護人に対する酷評が続いている。「日本でも有効に機能することを知った」とか「力を確かに感じた」とか言葉が踊るが、いったいどこで役立っているんだか、NITA話は全体にひどく空回りしている感じがする。
研修は2日間。起訴状や調書などの記録のほか課題や資料が事前に届く。50頁くらいのもの。これで例の「ケースセオリー」を事前に検討せよと言われる。課題は「有利不利な事実を拾い出す」「評価ではなく事実を拾う」「事実を導いた証拠をメモする」等々。受講者は不利な事実を導く証拠の証拠能力や信用性などを事前にチェックしておかなければいけない。
それって、たいていの事件でふつうの弁護人がやってることじゃないですか。それとも何か特別の手法なんですか。
まぁ聞きなさい。「ケースセオリーの内容は、その当事者の求める結論を論理的かつ法的に導くものであり、かつ、全ての証拠を説明できるものであって、その説明に矛盾がないものであることが必要であーる」。
全体講義はブレーンストーミングから始まる。冒頭陳述。有利不利な事実を洗い出し、ストーリーを語る。登場人物の人格に触れ、何がなぜ起こったかを話に含める。必要な範囲で具体的にすれば感情移入もしやすくなる。最初の60秒間がいのちだ。そして短い単純なフレーズの積み重ねの勝負。わかったか。
そう、君の短さもよい。受講生は8人単位。実演者は仲間の実演者の聴講生を兼ねる。指名を受けた実演者は立ち上がりジャケットの前ボタンを留める。立ち位置をここと決める。ゆっくりとそこに進む。5分の冒頭陳述の後、2人の講師から講評を受ける。改善点を指摘され、時に再現もされ、理由も解説される。
そう。すべてがビデオに撮られ、退室時にSDカードで渡される。教室を出るとそこに待っているもう1人の講師がカードの画像を見てコメントする。ボディーランゲージの効果的な使い方ができていないとか、ヘンな口癖を直せとか。主尋問、反対尋問、最終弁論のそれぞれについて、この講義・実演・講評がくり返される。
そう言ってしまうと身も蓋もないが、相手に違和感を持たせず意識の中に溶け込むように工夫をこらせということだ。マツヤマ君は言う。反対尋問は単なる尋問ではない、プレゼンだ。「ですね」で止める繰り返し質問は避ける。時に言い切り、時にオープンに。声の大小・強弱もよく考えよう。
マツヤマ君は、各地の弁護士会がこの講習の受講者を集め、日弁連に意欲的に申し込んでくれと呼びかけている。米国からインストラクターを呼ぶ代わりに日弁連が講師を提供するということらしい。
まず、陪審裁判と裁判員裁判を同視して弁護のパフォーマンスを論じているのが根本的におかしいと思います。
裁判員裁判で、裁判員の理解や評価がどう判決に結びついているのかがわかっていないのに、「裁判員の心をつかむ」とか「感情移入しやすいように」とか言ったって意味がないんじゃないでしょうか。
裁判員裁判は、陪審員12人だけで結論を出す陪審制と違って、裁判官3人と裁判員6人が結論を出すものです。法壇にはプロの裁判官がでんと座っている。評議室のど真ん中にもでんと座っている。陪審制とはまったく違います。
素人裁判官(陪審員)の心を捉える弁護パフォーマンスというものが米国で有効なのかどうかボクはよく知らないけれど、仮に有効だとしてもそれをそのまま基本的な裁判体の構造がまったく違う日本に持ち込むのは根本的におかしいと思う。少なくとも、裁判官と裁判員の心証の取り方の違いは何かとか、その違いを踏まえた裁判員への働きかけはどうあるべきかとか、そういう踏み込んだ視点が絶対に欠かせないでしょう。
まだあります。日本の最高裁は、裁判員が加わっても伝統ある日本の裁判に根本的な変化は起きないと考えて裁判員制度推進に転換したと聞きます。実際、この国の刑事裁判は、裁判員制度の採用によって簡易・迅速・重罰になったと言えるだけで、被疑者被告人の人権の軽視は基本的に何も改善されていません。旧態依然というよりも、前よりずっと悪くなったと言うべきことが多くあります。米国陪審裁判では無罪率がかなり高いと聞きますが、日本では裁判員制度の採用で無罪率は逆に下がってもいます。そういう制度の現実について、この人はまったく触れていません。ゲームマニアの話を聞かされているだけのような気がします。
確かにマツヤマ君はそのあたりのことについて何一つ触れていない。パフォーマンスがうまくいくとどういうご利益があるのか。弁護人の声が大きくなって裁判員たちが聞きやすくなったり、弁護人の身振り手振りで裁判員たちの心を捉えることになると、被告人にとってどういうメリットがあるのかが何も説明されていない。一言で言えばだからなんなんだという話に終始している。
裁判員裁判の中で被告人の弁護をやり抜こうとしたら(その2でも言ったように、インコは本当はそれはそもそもそけはムリなことだと思っているのだが)、裁判員6人の心をしっかり捉え、裁判官3人の意識も正しく捉え、その上で弁護活動を展開しなければならない。
裁判員6人というのもいまや極少の人たち、はっきり言って一風変わった人たちですよね。そういう人たちと一緒に仕事をする裁判官たちの意識もこれまでの裁判官とは違ってきているでしょう。
結論がそろそろ出そうな感じがする。マツヤマ君の文章は、陪審制信奉者の集まりだったら喜ばれるかも知れないが、その話を裁判員制度の弁護活動の場に持ち込んでも何の役にも立たない。裁判員制度の現実と大きくかけ離れた机上の空論だ。
このままだと、アンケートの結論はもっともっと弁護人に厳しいものになってゆくんでしょうね。
法務省や検察庁が米国式パフォーマンスを取り入れたなんていう話は聞かないが、裁判員の評価はおしなべて高い。澱の中の人たちが感情移入するのは、被告人を厳しく非難する検察官の論調に対してなのだ。パフォーマンス論のおかしさが誰にもわかるようになってきたと言ってよいだろう。
マツヤマさんたちも裁判員たちの声を天の声と捉えたり、厳しい弁護評価にぴりぴりしたり慌てたりしないで、アンケートにこんな答えしか書かない裁判員たちこそヘンだって言い出せばいいんですよね。
そう、とんでもない制度がとんでもない人たちを生んだっていう話さ。それが正しい結論だ。
投稿:2016年4月18日