~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
「法と心理学会」の学会誌『法と心理』(第15巻第1号)の特集「手続二分論とその視点-法学と心理学からのアプローチ」に裁判員制度に関する興味深い論文が掲載されています。今日はそれをテーマにお話ししたいと思います。
事実認定の審理手続と量刑の審理手続を完全に分離すれば、被告人に有罪という結論が出るまでは被告人の責任の程度に関する審理はしないことになる。しかし、裁判員裁判は事実認定の審理手続と量刑の審理手続を分けていないから、被告人が無罪の主張をしているのに被害者は被告人に極刑を求める意見を言うことができる。それはおかしい、事実認定と量刑判断はきちんと分けるべきだというのが手続二分論だ。
いえ、この特集の中に、「裁判員は何を参照し、何によって満足するのか」というレポートがあります。関西学院大学大学院文学研究科の村山綾さん(応用心理科学研究センター博士研究員)と三浦麻子さん(関西学院大学文学部教授)によるものです。お二人の専攻は社会心理学。今回はこのレポートを取り上げようと思うのです。
心理学者の分析と言われると確かに興味が沸くなあ。
この研究の目的は「裁判員裁判を模した専門家-非専門家の評議過程において、(1)非専門家が有罪・無罪判断に用いる材料が事前の意見分布や評議前後の意見変容のパターンによって異なるかどうかを検討することと、(2)裁判員の主観的成果の指標として満足度に着目し、評議の満足度を高める要因を多面的に検討すること」だと説明しています。
裁判官と裁判員を対置し、裁判員が何に満足するのかを考えると。で、どういう方法で検討したのですか。
裁判官役1人と裁判員役3人のグループを30作り、有罪・無罪を判定する評議実験をしたそうです。
非専門家は、専門家や多数派の意見を参考に自らの判断を行うこと、評議に関する満足度には専門家に対する信頼の程度や、専門家や自分と同じ非専門家との意見の相違などが影響することが示されたそうです。
専門家や多数派の意見を参考に自らの判断を行うというのは興味深いところです。
評議の非公開と守秘義務のために、評議の展開や評決に至る過程も問題点も明らかになりにくいと指摘したうえ、裁判員制度は欧米の市民参加制度とは異なり、裁判官と裁判員の合議によって行われたり多数決制を採用したりする独自のものなので、外国の研究をそのまま我が国に適用して議論するのは難しいとされます。
本当にそのとおりだと思います。日弁連の制度推進派などは、陪審制と裁判員制度の根本的な違いを完全に無視しているし。
また、日本の先行研究を見ても実証的な研究は遅れているとされます。
遅れているというよりも研究する気がまるっきりないんじゃないですか。陪審員と裁判員を同視して何とも思わない人たちの話を何度も聞かされてきたボクとしては、こういう話を聞くと胸がすっきりします。
大学生3人(非専門家)と司法試験合格者1人(専門家)の30集団を作り、評議実験を実施したそうです。そして、非専門家は評議を通して専門家と同様の判断に意見を変容させやすく、また専門家と同様の判断で評議を終えた場合に自分の判断に対する確信度が評議前より高くなり、これらは裁判所が評議の前提として掲げる「平等な立場」が維持されていることに疑問を投げかけるものだと結論づけています。
裁判員は裁判官の意見に同調しやすく、裁判官と同じ意見になると自分の意見にいっそう自信を持つ、裁判官と裁判員が平等だなんてウソだという話だろう。おもしろい話だが、あまりにも当然の結論だ。
これまでの研究は、裁判員の評議後の意見変化や確信の変化だけを分析対象にしていて、具体的な評議の過程には触れていない。実際には裁判員の多数意見とか裁判官の意見は結論に大きな影響を及ぼすと考えられる。そこでさらに進んで、裁判員が参照したり重視したりする事項を検討対象にしてさらに分析すると言っています。
レポーターは次のように言っています。裁判員は裁判官と協同して客観的な成果を提出する。成果達成感や他の裁判員との関わり合いの満足度も大事だが、アンケート調査の結果を見るとその満足度が年々下がっている。成果感の低下は評議に十分参加できていないことを感じさせる。市民感覚を評決に反映させるのは裁判員制度の目的の1つとされているが、成果感の低下は裁判員制度への評価の低下や司法への信頼の低下をうかがわせる。
成果感が高まらない場合というのは、意見表明が十分できないとか少数意見のまま評議が終わる場合が考えられるとし、また裁判官の言動やそれを通して裁判員が抱く裁判官への印象も影響を与える可能性があるとしています。
時間をかけないで結論を急ごうとしたり、多数決押し切りを断行しようとしたりすれば、成果感なんてそれこそすっ飛ぶだろうよ。
模擬評議の結果によると、満足度が低かった裁判員は、はじめから裁判官の判断が結論になるように決まっていたという印象を持ったとインタビュアーに答えたそうです。また、評議中に違う意見を持っても言葉に出せなかった時もあったそうです。
行きたくない人たちはもうみんな行かない。出頭する人は参加意思というか参加意欲を持っている人たちだ、そういう人たちが評議から外されているように感じたときの不満感というのは以前に比べてずっと強くなっている可能性がある。
そうですね。いやでいやで仕方がないのに選ばれちゃった裁判員なら、法廷でも評議でも私を無視して進んでほしいって、そんなことしか考えていないかも知れません。
学者っていう人たちは、すぐにわかるようなことを理屈っぽく分析して見せるもんだ。ま、そういう説明のおかげで当たり前のことが当たり前だと公認されることになるのなら、それはそれでいいけど。
ある模擬裁判の会話率調査では、裁判官がしゃべっている時が全体の67%、ある裁判員は1%だったそうで、評議の中心に裁判官がいるのは明らかだと結論づけています。レポーターはこのことを踏まえて、①裁判官と裁判員の意見の違い、②お互いの対話の形や量、そして③裁判官に対する裁判員の信頼を分析しています。
実験をしました。裁判官は1人、裁判員は4人。6条件各5集団の計30集団。ケースは覚醒剤密輸事件。同一事件でもう有罪になっているAと目の前の被告人の間に共謀・幇助があったかどうかを判断するという設定です。
実際にあった事件をアレンジしたもののようです。実験の内容や測定事項、測定項目、結果の解説はかなり専門的なので、ここでは省略させていただきます。
そのとおりです。実験結果に関する考察について、レポーターは次のように述べています。裁判員が何を参照して自分の結論を出すのかということについては、多数派の中に裁判官がいると裁判官の意見が参考にされやすく、裁判員だけで多数派が形成されていればその多数派の意見が参考にされやすい。
多数派に引っ張られやすく、裁判官がそこにいるとなお引っ張られやすいと。
そういうことなんでしょうね。また、次のような興味深い報告があります。無罪から有罪に意見を変えた裁判員は、公判中の証人や被告人の供述や物証よりも裁判官の意見を重視する傾向がある。また、最終的に有罪判断に落ち着いた裁判員は裁判官の意見を重視していると。
要するに、裁判員裁判の実態は完全に裁判官優位ということだ。最高裁が描いた裁判員裁判の実態は、目的通りに貫徹されているということになる。
評議に対する満足度に影響を及ぼす要因を分析すると、有罪・無罪の判断だけではなく、満足度という主観面でも裁判官の影響を強く受けていて、「平等な立場」の評議が難しい可能性を示唆しているとレポーターは言っています。
「市民参加」万歳なんてはしゃいでいた人たちは、こういう分析をどう受け止めるんだろう。
発話量が満足度に影響を与えていないというデータから、レポーターは、コミュニケーションそのものがスムーズに行われていない可能性を推定しています。評議の過程は裁判官や他の裁判員と同じ結論を出すための単なる「確認」の場にとどまっている可能性が高いと言うのです。
また、実験のケースは単純な事案を想定しているが、複雑な実際の事件では裁判員はよりいっそう聞き役に終始し、裁判官と裁判員のコミュニケーションはよりいっそう不均衡になるだろうと推測していますね。そして、評議に対して実質的な意味を持つ裁判員の発言が増えなければ評議への満足度は上がらないと結論づけています。
最高裁は、裁判員の勝手な議論を絶対に評価しない。裁判官の掌(たなごころ)の中で踊っている限度の中でこの制度の意義を認める。そして、実験をしてみると果たしてそのようになっている。日弁連の推進派にはこういう分析をまじめに考える精神がまるっきりないだろう。
それにしても今回の研究者の分析は興味深いものです。裁判員裁判の実相が隠されている現状のもとで、何とか実態を暴き出そうという努力が試みられているということがわかりました。
それもそうだが、いまや現実の裁判員裁判に参加している裁判員の多くは「異様」な人たちだ。その異様さを反映させるとどうなるかという分析も必要になるだろう。
確かに難しい。おかしな制度も一旦できてしまうとおかしさの証明はとても難しくなってしまうということだ。その突破口はどこにあるかというと、みんなの拒絶だ。とことん拒絶だ。拒絶率が推進派の想定をはるかに超える水準に達した時に、平然を取り繕ってきた彼らも悲鳴を上げる。もう少しのことだ。
投稿:2016年4月29日