~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
9月6日、『読売新聞』のコーナー「気流」に、「裁判員務め達成感」と題する投稿が掲載された。
「嫌悪感投稿」は問答無用に不採用でしょうが、「達成感投稿」というのも最近は珍しいですね。
投稿者は東京都練馬区に住む59歳の主婦野口紀子さん。記事を貼り付けます。
終わった後は「一つのことを成し遂げたすがすがしさを感じて貴重な体験になった」ですか。うーん。
際限もなく毎日同じことを繰り返し、家族からはやって当たり前と見られているような人たちからすれば、「達成感」とか「すがすがしさ」とか「貴重な体験」もわかるような気がします。
主婦一般をそのように断じるのはちょっと問題だがね。裁判員はやりたくないという主婦はものすごく多い。そのこともちゃんと頭においておかねばならない。
それはそうですけどね。この方どう思っていたか知りませんが、現実の裁判にはテレビドラマのような華々しさはもちろんありません。行うのは緻密な作業そのものです。ただし以前ならこの作業が何ヶ月にもわたって行われるのが当たり前でした。今はそれがほんの数日だけです。野口さんにわかってほしいのは、たった数日、表面をなぜるような審理をすることを「緻密な作業」とは言わないということです。
厳しいと言えば厳しいがそれは真実だ。経験したことのない経験をした、実態をありていに言えば、自分には日ごろ経験しない特別の世界だったという程度のことなんだな。
非日常を味わえ、裁判長からは丁重にねぎらわれて大いに満足したのでしょう。
裁判所などという「おそろしいところ」に出かけていったら、裁判長から「それぞれのお仕事を横に置いて裁判という国家の大事に関わって下さったことに心からお礼を申し上げる」なんて頭を下げて言われた。「皆さんが裁判に関わられた意味を私たち裁判官は肝に銘じてこれからの仕事に活かさせていただきます」なんてそれこそ気持ちをくすぐる言葉が裁判長の口から滝のように流れ出た。生まれて初めての褒め言葉で疲れ切った神経を癒そうというもくろみ。そのように言えと最高裁が事細かに指示しているのだ。
この裁判長ご挨拶の直後に裁判員たちの「アンケート調査」が行われるんでしょ。そこで裁判員たちに変な回答を書かれたら、裁判長の指導成績に×が付きますよね。
そうさ、裁判長も必死さ。ここで裁判員たちのご機嫌をとっておかねばと、歯の浮くような言葉を恥ずかし気もなくかけまくる。
「一つのことをやり遂げた達成感」は、主婦にとっては特別な体験でしょう。おまけに日当も出る。小遣い稼ぎにもなる。主婦が家を空けることを快く思わない夫や家族がいても、「お上の御用」で外出の堂々たる名目もできる。うっとうしい毎日から少しは解放される。
なるほど、そういうのをいけずと言うんですか。でもその解放感やら達成感やらは、犠牲にされる被告人にとっては、ふざけるなっていう話じゃないでしょうか。
キミも結構いけずだぞ。ところで、マネージャーは京女やなくて難波のこいさんやろ。きつねが狸に化けたらうどんが蕎麦に…、でも京都のたぬきは餡かけで…
本題に戻りましょう。刑事裁判の目的は何かです。何度も言ってますが、刑事裁判は市民の社会見学の場でも主婦に異体験をさせる場でもありません。どうしてもというのならば、司法アミューズメントセンターを作るとか各地のAM施設に裁判ゲームなんかを設置させたらよろしおます。
気になるのは、「裁判所が一般市民の感覚による司法判断を求めている」というところです。裁判官は、法的な解釈などわかりづらいこと、難しいところを丁寧に説明しなければなりませんが、裁判員の理解力もそれぞれでしょうし。正直言って現場の裁判官が素人感覚の司法判断を本気で裁判員に求めているとか、裁判員の意見を参考にしているとはとても思えません。この話にはどこかにウソがあるような。
この方はとても素直な方なのでしょう。目の前にいるプロの裁判官から「あなたの判断が必要」とやさしく言われても疑うことを知らないお人好しです。裁判官にすれば、最高裁が制度を推進している以上、お客様の裁判員にはそう思って貰うしかない。野口さんはとても満足しているらしいので、この事件の裁判官たちは最高裁から覚えめでたいでしょう。
「意見はしっかり伝えたつもり」とありますが、それが判決に反映されたかどうかは書かれていないです。
「つもり」って言ったって伝わったかどうかわからないでしょ。「つもり」には前もっての計算や前もっての考えという意味もありますが、「実際はそうでないのに、そうであるかのような気持ちになる」っていう意味もあります。つまり自己満足っていうことです。
しっかり伝えたつもりでどうなったのか。裁判官にしっかり伝わって採用されたのか。伝わったはずが伝わらなかったのか。
この間、東京地裁には裁判員裁判の無罪判決はないように思います。野口さんが参加した裁判も判決は有罪だったのではないでしょうか。そうだとすると、「伝えたつもり」の意味は極めてシリアスな話になってきます。
「意見はしっかり伝えたつもり」というのは、被告人が有罪になることを前提に、あなたはこのように更生したらどうかなど、自分の意見を伝えた「つもり」という話になるのではないでしょうか。そうだとしたらそれこそ上から目線の生き方指導ですよね。
こういう人は、死刑判決を言い渡すような事件でも、「あなたはやっぱり死んでお詫びして貰うしかない方ですね」なんて、案外平気で言えてしまうかも知れません。
何にせよ、裁判官にすれば、裁判員に「私の意見を取り入れて貰えた」と思わせて帰らせれば良いだけだからな。
いえいえ、私はしっかり反映されたと思いますえ。何と言うても、裁判官の方々が丁寧に説明してくれはったことで導き出された貴重な意見どすぇ。裁判官たちにとっては自分の意見を反芻して市民の言葉として言ってくれたってなりますやろ。
同じ日の新聞に、5日付けで大阪高裁長官から最高裁判事にご栄転の菅野博之さんの抱負が載っています。「裁判には人の人生や会社の命運がかかっている。一つひとつを誠実に見ていきたい」
ほう、そうかね。人の人生、いや命さえかかっている刑事裁判を「素人の貴重な体験の場」に提供しておいて、「誠実にみていきたい」もないだろうが。
私はある意味、これは正直な回答だと思います。「見ていきたい」とは単なる希望、「見ていく」と断言した訳ではないですから。
見ていってどうするんだ、見てるだけかとも言えますね。とかくこういう話には中身がないってことっすね。
そう。今でも最高裁は、裁判員制度で刑事司法が壊れていき、現場の裁判官が疲弊していくのを「見ているだけ」です。これからも「見ていくだけのつもり」なのでしょうね。
「つもり」には、酒宴最後の酌という意味もあるらしい。今日はいつになくマネージャーが激しいというか元気だった。その記念をかねてわれわれは制度終焉の前祝の宴と行こう。
投稿:2016年9月11日