~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
インコさんは、裁判員制度にお詳しいだけでなく、死刑制度にもお詳しいんだそうですね。
いや、お詳しい…というよりも詳しい…というかな、たいしたことはないが、まぁ、うん。
こういう雲行きの時は危険です。ちょっとお聞きしたかっただけなのに変に刺激しちゃったかな。
日弁連が10月7日、人権擁護大会で死刑制度の廃止宣言を採択したっていう話だろ。ほら君たちも話したさそうな顔してるじゃないか。
知ってますよ。新聞は大会前からずいぶん話題にしてましたから。
死刑存続が社是の『読売』は、10日以上前の9月25日に「『死刑廃止』日弁連に波紋 宣言採択へ 被害者遺族ら反発 存続派抗議声明で応戦も」と挑発的な長い見出しを掲げました。東京本社版は何と6段組みでしたね。
7日の宣言採択を報じた翌8日の報道も本文140行を超える大報道です。「日弁連『死刑廃止』宣言 被害者支援派は反発 機運高まらず 「殺したがるばかども」寂聴さん批判 遺族反発 実行委謝罪」と、これまた見出してんこ盛りの7段組み。寂聴さんがシンポジウムのビデオメッセージで「殺したがるばかども」と言ったのは、被害者や遺族をばか呼ばわりしたようにとられたと実行委員会が謝罪したんだそうです。
一方、死刑廃止に親近感を持つ『朝日』は、10月3日に「『死刑廃止 20年までに』 日弁連表明へ/世論は容認多数 袴田事件で変化 『情報公開必須』」の見出しで報道。宣言採択の報道は「『死刑廃止』日弁連が宣言 採択参加7割弱の賛成で 世界的な潮流 背景に冤罪」とありましたね。
ところで、宣言のタイトルは「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」と言ったな。死刑廃止を言うだけじゃないと妙に強調したような言い方をしたところがくせ者だ。さて、この宣言採決の票数をヒヨコ君知ってるかね。
786人が出席して、賛成が546、反対が96、棄権が144でした。棄権が多かったですね。どうして廃止と存続にすっきり分かれなかったのだろう。
インコは、見たくれは飲んだくれでも、死刑廃止論者の端くれのつもりだ。
だが、死刑廃止運動を進めている弁護士たちの動きには正直言って、強い違和感を覚えたな。
いない。壇上に並ぶ廃止宣言起草者たちの顔には確信も気迫も窺えなかったとか、怯えているようにさえ見えたという話だ。
宣言の内容の問題だ。一言で言えば、起草者たちは死刑という刑罰をなくせれば後はどうでもよいと思っている。それがおろおろしたり怯えたりする原因になっている。
なんと言っても、この人たちが言う「人間としての尊重とか人間性の回復」とかの言葉の意味が何ともいい加減なのだ。
宣言は「刑罰制度は罪を犯した人を人間として尊重することを基本とするものでなければならない」と言っている。それならこの人たちが提案する「仮釈放の可能性がない終身刑」はどうして検討の対象になり得るのか。
宣言は「仮釈放のない終身刑」をこの際、検討の対象にしようと言ってるんですか。
「仮釈放の可能性がない終身刑」はやっぱり「罪を犯した人を人間として尊重すること」に反するじゃないかという訳ですね。
宣言は「刑罰制度は人間性の回復と自由な社会への社会復帰と社会的包摂に資するものでなければならない」という。それなら、どんなことがあっても一生「自由な社会」から隔絶され、何があっても「社会復帰や社会的包摂」とは無関係のまま死んでいかなければならない刑はやっぱり「あってはならない」人権侵害刑だろう。
「死刑は絶対に許されず、絶対終身刑は検討に値する」とどうして言えるのか、起草者たちは一言も言わなかったな。
死刑を廃止するに際して、死刑が科されてきたような凶悪犯罪に対する代替刑を検討すること。代替刑としては、刑の言渡し時には『仮釈放の可能性がない終身刑制度』、あるいは、現行の無期刑が仮釈放の開始時期を10年としている要件を加重し、仮釈放の開始時期を20年、25年等に延ばす『重無期刑制度』の導入を検討すること。ただし、終身刑を導入する場合も、時間の経過によって本人の更生が進んだときには、裁判所等の新たな判断による『無期刑への減刑』や恩赦等の適用による『刑の変更』を可能とする制度設計が検討されるべきである」。
わからんか。キミはまだまだ未熟だが、これがわからないのはキミが未熟過ぎるせいではない。
そうだっか、ほな説明しまひょか。「仮釈放は絶対にない。ただし更生が認められたら刑を変える」と言ったら、子どもでももっとちゃんと説明しろって言うだろ。
絶対終身刑も死刑と同じように基本的人権を侵害するときっと言われる。それをかわすように工夫しなくちゃならない。だからこんな言い方になった。
でも、「絶対に」というのは「例外なく」ということですから、「絶対」と「抜け道付き」は両立しません。こういうのを自己矛盾って言うんじゃなかったでしたっけ。
つまり、あちら立てればこちらが立たず、結局、何を言っているのかわからない論旨になったんだと思うのです。
言いたいことはまだある。重罰化・重刑化と言われる昨今の傾向をこの宣言は間違いなく助長する。
もう一度引用文を見てごらん。「現行の無期刑が仮釈放の開始時期を10年としている要件を20年、25年と加重し」などと言ってるだろ。だが現在でも下獄して10年で無期刑者の釈放の検討が始まるなんてまったくあり得ない。
そのことは刑事事件に関与している弁護士や刑務所収容者の支援運動に関わっている人たちには常識と言っていいんでしょうか。
もちろんさ。そういう状況の下で「仮釈放の開始時期を20年、25年等に延ばそう」などと言ったらどうなるか。
日弁連は仮釈の検討開始を不当に遅らせている現状を批判しないと宣言することになります。
法務省はそう言って喜ぶでしょうね。最近の重罰化傾向にはすさまじいものがあります。その傾向を批判しなければいけない日弁連が逆に容認するような主張に及んだことに私も驚きます。
内閣府が2014年に行った世論調査では、終身刑を導入した場合にも死刑は廃止しない方がよいと思うという意見が51.5%もいたとされる。こういう「世論」を背景にして法務省は死刑をそのままにして絶対終身刑導入の検討に勇んで進む。
「死刑をやめて絶対終身刑へ」のつもりが、「死刑も絶対終身刑も。そしていっそうの重罰化へ」に進んでしまうと。
宣言のタイトルは「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」でした。刑罰制度全体を改悪させる水路作りに日弁連は協力したことになるんですか。
そう思いたくないが、事実を冷静に見ればそうなるな。
『読売』が予測したように、今回の大会では「被害者支援運動」をしているという弁護士たちが宣言に反対する立場から発言したようですね。
宣言起草者たちはどうしてその人たちに正面から向き合わなかったのか。腫れ物に触るように被害者や被害者支援弁護士に対応した。一貫してそらし、かわし、避け続けた。
犯罪被害者がこの社会で置かれた状況をきちんと考えることは大切だと思います。しかし、死刑制度を考える時に被害者と被告人・確定囚を対決的に捉えるのは正しくないと思います。
被害者支援弁護士たちはまさしく対決的に捉えていたが、起草者たちも実は同じ視点に立っていた。「決して被害者の立場を無視している訳ではない」などと弁解するのは同じ線上にいることに他ならない。私たちは本当に被害者の立場に立つ、あなたたちの言う「被害者の立場」とはどういうものなのか、そこをはっきりさせようというような姿勢はまったくなかった。
それが正面から廃止を訴える姿勢かという疑問に結び付いてくるんですね。
私、宣言を丁寧に読みましたが、読めば読むほど中途半端な姿勢を感じました。
「被害者支援運動」に妙に気を使い、奥歯に物が挟まったような言い方をしながら、何とかこの辺で許して頂戴よと言っている。これでは確信も気迫も失せようし、何かに怯えもするだろう。
何が何でも廃止宣言を取ってしまいたいという姿勢に会場の弁護士たちが白け、それが棄権票を増やす原因になったのでは。
そのとおりだろう。宣言採択後に記者会見をした日弁連副会長が「被害者の声にしっかりと耳を傾け、宣言の実現に尽くしたい」と話したと報道された。私はそれがこの宣言の本質を示していると思ったな。
今回の死刑廃止宣言は裁判員制度の廃止とどう繋がるのでしょうか。
そこだ。はっきり言おう。日弁連中枢はもちろんだが、死刑廃止を言う人たちの多くが裁判員制度廃止を言わないところに大きな問題がある。
1つに、裁判員裁判になると死刑判決が減ると思ったということがある。
でも実際に死刑判決が減っていないことがわかったら、裁判員制度反対に舵を切りなおせばいいのでは。
それほど簡単じゃない。日弁連中枢は裁判員制度採用の旗振り役を買って出てこの制度を実現させた。その日弁連に死刑反対を表明させたいと考えれば、とても裁判員制度に反対なんて言えない。
いや、この話は日弁連中枢がなぜ裁判員制度の旗振りをしたかというところに行き着くのだ。政府は、国民の司法動員を国策として位置づけた。だが、日弁連は勝手に陪審制への一里塚だなどと言い募り、何の根拠もなく国民の健全な常識を司法に反映させるのだなどと言いまくった。
裁判員制度は簡易・迅速・重罰という戦時司法を支える仕組みだという見方があるとか。
確かにその要素がある。こんな情勢の下で政府・法務省が自ら進んで究極の刑罰「死刑」を手放すと考える方がおかしい。そしてその政府・法務省に日弁連はすり寄っている。これを何とかしようと言うなら、激しい闘いが欠かせない。
死刑廃止論者は裁判員制度反対の先頭にも立って、日弁連中枢や政府・法務省の姿勢を厳しく批判し、その中から死刑廃止への道筋を切り開いて行くべきだということですね。
11月23日の『読売』の論点欄に、全国犯罪被害者の会の元代表幹事が「死刑廃止運動と弁護士会」というタイトルで投稿している。この人は人権擁護大会でも発言していた。
死刑廃止のような会員の意見が分かれるテーマを日弁連の名前で追求するのはやめろと言っている。
でも、そんなこと言ったら日弁連は憲法に関わるあらゆるテーマについて何一つ物が言えなくなりませんか。
「内閣府の最新の世論調査では死刑容認が80.3%、廃止が9.7%。『国民の健全な常識の反映が欠かせない』として裁判員制度を実現させた日弁連は、この矛盾をどう考えるのか」というところだ。
よく出てくるこの死刑容認の数字は、警察庁や法務省や内閣府が死刑存続論を大宣伝してかすめ取ったもので、まともな議論のベースにすること自体が問題なのだ。
殺人事件などの犯人の凶悪性を社会背景と切り離して強調するのも、言って見れば死刑存続論の変形版ですよね。
うん。その程度のことはきっとこの投稿に対する反論権行使として日弁連の誰かが書くだろう。
そうだ。こんな数字にウソが潜んでいるのと同じように、裁判員制度は国民の健全な常識を司法に反映させる仕組みなどというのはまったくのデマ。しかし日弁連中枢は一貫して「健全な常識論」を言った。そして裁判員制度に賛成した人たちや反対しなかった人たちはみなその「健全な常識論」を受け入れた。
存続派はそこを突いて、「健全な常識論」を支持していながら「80%という常識」をなぜ支持しないのかと切り込んだ。
これにきちんと反論できる「裁判員制度賛成の死刑廃止論者」はおそらくいまい。はっきり言って、死刑制度に正面から反対と言い切れる人というのは、国民に国民を死刑台に送らせたり一生刑務所に送り込ませたりすることに反対する人たちに限られるのではないか。
だから、死刑廃止を検討する代わりに重罰を受け入れるというと議論になるのです。「廃止しろ」、「廃止する」じゃなくて、「検討する」というだけですよ。しかも、裁判員による判決は死刑判決を減らすどころか、裁判官裁判なら死刑にならなかったような事件まで死刑にしてしまい、求刑越え判決も連発しています。そこをまったく問題にしなかった。
現在の死刑廃止論者たちのあいまいさが今回の大会でも浮き彫りになったのではないかという訳ですね。
そのとおりだ。死刑存続と裁判員制度存続と被害者の異様重視は、異常司法の同根の産物なのだ。
キミも結構成長したぞ。日頃からの勉強が大切だ。ま、私を見習って頑張りなさい。
(それを言わなければ成長するんだけど) このところ議論の幅が広がっているインコさん、肩の力を抜いてやって下さいね。
投稿:2016年11月29日