~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
1月18日、ブロック紙『河北新報』が「〈裁判員裁判〉経験者『人を裁く怖さ感じた』」というタイトルで、裁判員裁判の現在を報道する記事を出しました。
久しぶりですね。それにしてもこの経験者は裁判員をやるまでは、「人を裁く怖さ」なんて考えもしなかったんでしょうか。
いろいろ意見はあろうが、まずはその記事とやらを拝見しようじゃないか。
裁判官、検察官、弁護士の法曹三者と裁判員裁判の経験者3人が17日、仙台地裁で裁判員裁判の在り方を巡り意見交換した。制度の改善点を探るのが狙いで、同地裁が主催した。
強姦(ごうかん)致傷事件で裁判員を務めた男性(69)は「裁判員になって初めて責任の重さや人を裁くことの怖さを感じた」と語った。同じ事件に参加した女性教員(57)は「被告を加害者と言い換えれば、若い裁判員も理解しやすいのではないか」と提案した。
「被告に質問しても『分かりません』と繰り返すばかりだった」。殺人事件で裁判員を経験した女性(53)はこう振り返り、素人による証拠調べの難しさを指摘した。
仙台弁護士会の松倉健介弁護士は「正確さと分かりやすさの両立は難しいが、平易な言葉でゆっくり話すことの重要性を学んだ」と語った。
うーむ、うーむ。こりゃ議論しなければならないことがてんこ盛りだな。
まだ材料があります。この記事の10日後の1月28日の同紙に投書が載りました。裁判員経験者と裁判員制度に対する批判ですね。
次のように言っています。「元裁判員発言 危うさ示す」というタイトルの投書です。投書者は石川雅之さんという仙台市の行政書士さん(55歳)。
18日の本紙朝刊宮城版に載った記事「裁判員経験者『人を裁く怖さ感じた』」を読み、以前から持っていた裁判員制度への疑問がますます大きくなりました。
記事に、裁判員を務めた57歳の女性が、「被告を加害者と言い換えれば、若い裁判員も理解しやすいのではないか」と提案したと書かれていたからです。
被告人イコール加害者ではありません。裁判で有罪が確定するまでは何人も無罪と推定されることは、刑事裁判の鉄則です。そもそも、被告人が本当に犯罪を行ったのかどうかを審理するのが裁判ではありませんか。
にもかかわらず、被告人を最初から加害者呼ばわりするのであれば、裁判の意味がなくなるばかりか、宮城県で起きた松山事件のような冤罪をこれまで以上に生み出しかねません。
裁判員を実際に経験した人がこのような発言をするということに、素人が裁判に関わる危うさが端的に示されていると思います。
裁判員制度は「市民感覚を裁判に反映させる」として始まりましたが、これでは法への無知と無理解を裁判に反映させてしまうのではないでしょうか。この制度は見直すべきだと私は考えます。
まだ続きがあります。1月30日、同じ仙台市にお住まいの三浦あやのさん(会社員)から、当欄に投稿がありました。
1月18日付け『河北新報』に「〈裁判員裁判〉経験者『人を裁く怖さ感じた』という記事が掲載されました。裁判員経験者が言ったことは、
・裁判員になって初めて責任の重さや人を裁く怖さを感じた(69歳男性)
・被告人を加害者と言い換えれば、若い裁判員も理解しやすいのではないか(57歳女性教員)
・被告人に質問しても「分かりません」と繰り返すばかりだった(53歳女性)
何か言わねばと思っていたところ、1月28日、同紙の投稿欄「声の交差点」に「元裁判員発言 危うさ示す」という投稿がありました。まさに私が思っていたことです。
投稿された方は、57歳女性の発言を問題視されています。要約すると、「被告人イコール加害者ではない。被告人を最初から加害者呼ばわりするのであれば、裁判の意味がなくなるばかりか、宮城県で起きた松山事件のような冤罪をこれまで以上に生み出しかねない。裁判員を実際に経験した人がこのような発言をすることに、素人が裁判に関わる危うさが端的に示されている」
これまでインコさんも「無罪推定を知らない人が裁判をやっている」と指摘されていましたが、やはり、改めて大きな問題だと思います。この方が言われる「裁判の意味がなさないばかりか冤罪の可能性もある」という指摘に大賛成ですが、ただ1つ、賛成できないところがあります。それは、最後に「この制度は見直すべきだ」と書かれていたところです。見直しではなく「この制度は廃止すべきだ」です。でも、そう書けば、掲載されなかったかも知れません。
「裁判官、検察官、弁護士の法曹三者と裁判員裁判の経験者3人が裁判員裁判の在り方を巡り意見交換した」と言うのですが、経験者はたった3人しか出席しなかったというのがまず大きな驚きです。仙台地裁では去年1月~11月に13件の裁判員裁判の判決が言い渡されています。1件に8人の裁判員と補充裁判員がついたとして104人が経験者になった計算です。それだけ対象者がいるのに、どうしてこれしか集まらないのか。「良い経験をした人たちの同窓会」として盛り上がらないのか。そこから議論をすべきでしょう。
裁判官と検察官と弁護士が何人出席したのかわかりませんが、難しい顔した法律家たちに問い詰められる3人の市民という図ですね。か・わ・い・そ。
意見交換会は全国の地裁・地検・弁護士会で行われているのだが、どこもかしこも元気の良い集まりにはなっていないようだな。
石川さんが批判された57歳の女性教員は裁判員裁判が十分理解されていない現状を指摘し、69歳の男性は責任の重さや人を裁くことの怖さを感じ、53歳の女性は素人による証拠調べの難しさを述べたというのですから、3人に共通するのは「言葉にならない深刻な思い」ですよね。良い経験をさせてもらったという喜びの言葉はどこにもない。
ここに裁判員経験者のホンネがにじみ出ている。裁判所がいくら意見交換会に参加してくれと呼びかけても出て行かないのはそういう感想を持っているからなのだ。
「被告を加害者と言い換えれば、若い裁判員も理解しやすいのでは」という発言はどうですか。
この女性教員は、「被告を加害者と言い換えないと事件を理解することが難しい」と言ってる訳だが、被告人を悪いことをした者と考えないと事件を理解することが難しいというのはまことにそのとおりなのだ。さすがは先生だけのことはある。
被疑者や被告人には憲法や刑事訴訟法でさまざまな権利が認められている。言いたくないことは何も言わないでよいという黙秘権が保障されている。有罪判決が下る瞬間まで被告人は無罪であるという前提で対応しなければならないという無罪推定の原則もある。これは被告人が自身の刑事責任を認めている場合でも守らねばならない大原則だ。どんな悪者であろうと処断する際に権力はルール違反を犯してはならないという法定手続きの保障という憲法上の権利もある。
悪い奴は徹底的に取り締まるだけだと考えている人たちには、わかりにくい話ばかりですよね。
事件の真実というのはそもそも極めてわかりにくいものだ。真相解明の過程で人権侵害を犯してはならないというルールも市民の中にはよく分からないという人もいよう。人を犯罪人と断罪するにはたくさんのハードルを乗り越えることが求められている。「本当は難しい刑事事件」を指摘したところまではこの教員の言説は正しいが、その決着を被告人=加害者と言い切ればよいという結論に持って行ったところで完全におかしくなった。そこを石川さんは鋭く突いている。
被告人を加害者=悪者と断定する立場に立とうということは、刑事捜査や刑事裁判をめぐる最も基本的で大切だけれども一見わかりにくい原則をこの際全部うっちゃってしまえということですから、これは教員らしくもない暴論ですね。
危ない危ない。このような考え方の行く先には冤罪事件がひしめき、被告人の弁解に耳を傾けない空気が一気に広まるだろう。
この教員以外の裁判員経験者たちは、責任の重さや人を裁くことの怖さを感じたり、素人による証拠調べの難しさを述べたりしているので、悩みや苦悶の渦中にいまだにいることを告白しているように読めます。この皆さんは「もう裁判員はやりたくない」とおっしゃっているんでしょうね。
意見交換会の場でどういう言い方をしたかはわからないが、ホンネで言えばそうに違いない。
「もう1度やりたいか」という質問はタブーになっていのかも知れませんね。でも、この女性教員の「見方を変えよう論」にはルーツがあるように思います。裁判員制度が始まる時期に、最高裁長官や検事総長や日弁連会長たちが、刑事裁判は簡単にできる、難しいことは何もないとそろい踏みして言い募りました。見方を変えれば難しいことは何もなくなり、すべては簡単になる。
そのとおりだ。この女性教員は、最高裁長官たちが吹聴した「刑事裁判簡単論」を正直に受け止めた口かも知れん。刑事責任に関して小難しい理屈はいらないと言い切った最悪の下手人は最高裁長官や検事総長や日弁連会長たちだということだけは、きちんと押さえておきたいな。
ところで、この女性は「被告を加害者と言い換えれば、若い裁判員も理解しやすいのではないか」と提案したということですが、「若い裁判員」と特に言ったのは、裁判員になる人たちが中高年に集中しているためでしょうか。この意見交換会に出席した人たちも50代2人と60代1人というのだから、失礼ながら決してお若いとは言えないし。
さてどうでしょう。最高裁事務総局が2012年12月に発表した「裁判員裁判の実施状況の検証報告書」では、裁判員の年齢分布は基本的に国勢調査の人口比とよく合致している、つまり世代的には均等に分布していて、どこかの年齢層に偏っていることはないという評価でした。
そんなデータはわからんぞ。状況を正確に知るには、裁判員や補充裁判員に選ばれる前の出頭候補者の年齢層を見なければならない。選任期日には裁判長や検察官や弁護人の考え方が選任の過程に反映する。若い裁判員を選びたいと思えば若い者が選ばれる可能性が高まる。応じて出頭した若い候補者が少なければ選ばれる確率は高くなる可能性がある。裁判員裁判への世代的な距離関係、つまり厭うか厭わないかを知ろうとすれば、出頭段階での年齢分布をみる必要があるのだ。
もちろんだ。若い人たちの出頭率が高まっていれば、誰から聞かれなくても、いそいそと自分から発表するだろうよ。
それだけではなく、最高裁は、2012年以来4年間以上も経つのに、実施状況の検証の続報を出していません。この間裁判員の出頭率はどんどん落ち、審理は長期化し、調べをする証人の数も増えている。その状況が明らかになるのを恐れているのでしょうか。
裁判員法が報告を義務づけているのだから、いずれ発表しなければならないことは明らかだ。どう弁明、釈明するのかに腐心しているのだろう。
そこにこんな現場の声や投書が報道されると、最高裁としてはにっちもさっちもいかないところにまた追い込まれるのでしょう。
仙台弁護士会の松倉健介弁護士は「正確さと分かりやすさの両立は難しいが、平易な言葉でゆっくり話すことの重要性を学んだ」と語ったそうですが。
なんという素っ頓狂というか調子っぱずれの応答なのか。ご本人が付け足し程度に言った話を河北の記者が針小棒大にまとめたのかもしれないが、記事チェックの機会がなかったとは思えない。裁判員裁判の問題性をめぐる論点は「正確さと分かりやすさの両立」でも「平易な言葉でゆっくり話すことの重要性」でもない。
このような制度がこのまま続いてもよいのかという基本的な問題にこの弁護士さんが正面から答えていないということですね。
もう1つ私の意見を言いたい。制度の見直しを言う石川さんの意見に三浦さんが反対しているところだ。
インコは石川さんは「制度廃止」と明言されたのに、編集者からそこは「見直し」にして貰えないかと言われ、この投書が掲載されることを重視して、石川さんは妥協されたのではないかと思う。
おおあり名古屋の金のしゃちほこだ。私の疑惑が邪推だというのなら、『河北』の編集者は私の指摘は間違いだとはっきり言ってほしい。私は頭を丸めてお詫びする。
さて、1つ提案をしたい。全国の地裁のホームページが裁判員経験者の意見交換の要旨を掲出している。私はこの報告は実際の議論を正確に再現していないのではないか、種々手が加えられているのではないかという疑問を強く持っているのだが、それにしてもこれは経験者の言葉が漏れ伝わってくる貴重な情報資料だと思っている。
皆さんのご当地の意見交換会の実情に目を向け、元裁判員たちの言葉とホンネを探る作業に協力していただきたいということだ。それは深い猜疑心と見抜く力を持っていればやりきれる。
岐阜地裁で行われた意見交換会では、「あなたは裁判員に裁かれたいか」と聞かれ、出席した6人の元裁判員たちのうち5人が裁判員に裁かれたくないと答えたことが報道されましたね。
わかりました。私もその分析報告を楽しみに待ちます。ところで、先輩は今日はすごくまじめ路線でお話をまとめられましたね。
いやいやこれが私の本来の姿。自分で言うのは何だが、まぁそんなところだ。
投稿:2017年2月5日