~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
東京都 中学校社会科の元教員 山田 将
読売新聞に掲載された投書について私が感じたことをお伝えしたい。きみへの返書のつもりである。投書のタイトルは「人生背負う裁判員の決断」。投稿したのは東京都練馬区にお住まいの田代健人君という15歳の中学生。内容は次のとおりだ。
「裁判で陪審員らが意見を決めることの難しさを描いた映画を、授業で見た。優勢な『有罪』側を最後は『無実』側が説得したのだが、現実はこううまくはいかないと思った。話し合っての満場一致は少なく、多数決が多い。有罪か無罪かを決断することは容易ではないであろう。
裁判員制度で自分が決断する時がくるかもしれない。しっかり事実を見て真実へと判断できるのか。多数決で決まるかもしれない。でも、最後まで被告の人生を背負っているつもりで、考えられるようになりたい。」
なかなかしっかりした中学生と感心した。「陪審員」という言葉を使っているから、きみたちは陪審員裁判の歴史的名作『評決』を見たのかもしれない。ちなみに、裁判員制度を宣伝する最高裁作成の映画は、教材資料として私の学校に何本も送られてきたが、優勢な「有罪」側を最後は「無実」側が説得するという仕立ての物はまったくなかった。陪審員物を教材に使った先生の考えはどこにあったのだろう。陪審制と裁判員制度の最大の違いは裁判員裁判には裁判官が3人も参加していることだ。有罪・無罪の判断が全面的に素人に任されていること、そして量刑の判断に陪審員が加わらないことが大きなポイントである。
実際の評議を考えると、きみも想定しているように最後まで陪審員の意見が一つにまとまるのはとても難しいだろう。けれども、陪審員の評議を分析した専門家の研究を見ると、同調圧力がものすごく働いて異論を押さえるという。裁判員裁判にはプロの裁判官が3人も加わるのだから、裁判官の意見が結論を決める決定的な力になるのは目に見えている。裁判官を含む多数が有罪を主張し、無罪を言う裁判員が多数意見に押しつぶされる。きみ自身言うが、「有罪か無罪かを決断すること」は途方もなく難しい。
裁判員制度で自分が決断する時がくるかもしれないと言う。きみは裁判所から呼び出されたら出頭するつもりなのだろうか。裁判員制度が今や風前の灯火の状態にあることをきみは知っているか。不出頭率は今年1月79.1%になり、無断で不出頭を決め込む人の率は39.1%に増えたという。
東日本大震災・東電原発事故があり(2011年3月)、「急性ストレス障害になりたくないのなら引き受けなければよい」と言い放った福島地裁、仙台高裁、最高裁の一連の元裁判員敗訴判決があった(最高裁判決は16年10月)だ。今や、裁判員裁判は、人を裁き処罰したがるごく一部の人たちや日当を稼ぎたいと思う暇な人たちによって支えられている瀕死状態にあるのだ。
政府・最高裁は、素人の感覚や感情でやれると宣伝したが、その一方、国民を裁判所に呼び出す目的はこの国の司法が長く適切に行われてきたことを教えることにあると言っていた。裁判所の判断は従来の裁判官の判断の枠を基本的に踏み外させないことにしたのだった。読売新聞だけではなく全メディアが飛び跳ねて喜び、大政翼賛会を彷彿させる応援団の勢いを背景に全国の学校に裁判員裁判の宣伝ポスターが配られ、私の中学校でも掲示板に、野球少年が裁判員になる日の決意を語るポスターが貼られた。宣伝映画のCDも最高裁からたくさん送られてきた。でも結果はこういうことだ。そのことをきみはどう考えるだろうか。
起訴されていない画像投稿を起訴されたようにみなし殺人と合わせて有罪と認定し、懲役22年の判決を出した東京地裁立川支部の裁判員判決(三鷹女子高生殺害事件)は高裁で破棄され差し戻された。検察は2度目の裁判員裁判で画像投稿も起訴したが量刑は最初と同じ懲役22年だった。検察は控訴したが、2度目の高裁は2度目の裁判員裁判の結論でよいとした。裁判員裁判のでたらめと決着のでたらめだけが目立った。
相次いで裁判員の判断が高裁で覆されているので紹介する。一つは通行人2人を刺殺した事件だ。殺人等の罪に問われた被告人について、大阪高裁は、「計画性が低く精神障害の影響も否定できない」と一審大阪地裁の死刑判決を破棄した(3月9日)。もう一つは小1の女児を殺害した事件だ。殺人等の罪に問われた被告人について、同じ大阪高裁の別の部だが、「生命軽視の姿勢を過大評価している」と一審神戸地裁の死刑判決をこれも破棄した(3月10日)。どちらの裁判員裁判も「公平の観点」の考慮に欠けると高裁に指摘されている。
「公平の観点」の考慮に欠けるというのはどういう意味かきみは分かるだろうか。同じような事件についてこれまで裁判所が行ってきた量刑の判断とかけ離れた判断をしているということだ。「これまでの裁判所の量刑判断」と言われても裁判員には普通は分からない話だ。無理な相談と言った方がよい。実際には裁判長が判例一覧表のようなものを見せて、これが実例だと説明するらしいが、被告人の責任がそんなに簡単に比較できるはずもない。せいぜいで1人殺害なら多くは無期懲役、2人以上なら死刑が多いという程度だろう。
そういうデータを見せられても、自分たちの考えで判断してよいと言われて裁判所に来た裁判員たちの中には、「私はこのように考える」と頑強に言う人もいよう。きみもきっとその口だろう。その勢いがよほど強ければ裁判官たちもそれで行こうと言うかもしれない。何しろ裁判員の受けが悪い裁判官は裁判所の世界ではダメ判事とされるらしい。それを高裁は高裁で「公平の観点」の考慮に欠けると言って打ち消す。「裁判官はつらいよ」の世界なのだ。
裁判員は尊重されるのかされないのか。高裁・最高裁で裁判員裁判の結論が簡単にひっくり返されれば誰しも裁判員をやりたくなくなる。きみのように自分の責任でしっかり対応しようと決意する人は「いちやーめた」とおさらばする。処罰に異様な関心を寄せる人たちも高裁・最高裁に否定されて「なぁーんだ」と鼻白む。そういう話を聞いた市民たちは呼ばれても裁判所には行かないという気持ちをどんどん強める。日当を貰えれ何でもよいという人たちだけが裁判所に出かけて行く。裁判所は今ハローワーク裁判員だけが残る方向に向かっているのだ。
理知的なきみには裁判員制度の現実がそんなものになっているということを知って貰いたい。そしてそのきみには、「一般市民に被告の人生を背負わさせる」この制度の存在理由をしっかりと考えて貰いたい。
もう一度言う。裁判員制度は陪審制とはまるで違う。
きみの先生が陪審制の映画を生徒に見せたのはなぜだろう。裁判員制度もこれと似たようなものだという考えによるのだったら、先生の考えは間違っているというほかない。裁判員制度が陪審制とは違うということを考えるきっかけにしようという趣旨だったら、それは深い考えに基づくと言える。きみは私の文章を読んだら、明日学校で先生にそのことを聞いて確かめることをお勧めする。そこから本当の裁判員学習が始まるだろう。
投稿:2017年3月27日