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『朝日』安倍龍太郎記者は裁判員制度をどう語ったか

京都弁護士会 弁護士H

 新年早々裁判員裁判を論じる文章にお目にかかった。京都青酸連続死事件をテーマとする『朝日』1月18日の「記者有論」欄のエッセイである。筆者は京都総局の記者安倍龍太郎氏。これが新聞記者の書いたものかと正直驚いた。お粗末な文章はお粗末と言って終わりにしてもよいのだが、この文章の背景には『朝日』の裁判員裁判に対する姿勢があると思えるので、少し丁寧に分析したい。いささか長いが、検証する以上はその全文をまず紹介する。

記者有論 青酸連続死 裁判員裁判 「知りたい」に沿う審理をAS20180118000115_commL

 京都地裁であった青酸連続死事件の公判が終わって1カ月後。一審で死刑判決を出した元裁判員の女性は、拘置所にいる筧(かけひ)千佐子被告(71)との面会を希望した。判決内容に悔いはない。しかし、38回の公判を通し、「本当は魅力的な人なのではないか」という思いがぬぐえなかったからだ。裁判員本来の役割である「起訴内容が有罪か否か」の判断を超え、被告の歩んだ人生をきちんと知りたいと思ったのだという。①        

 裁判員裁判史上2番目に長い135日間の長期裁判となったが、判決後に会見した裁判員3人は「負担は感じなかった」と口をそろえた。そればかりか、検察、弁護側双方に「証拠を絞らず、時間がかかってもすべてを提示してほしかった」と語った。犯行の背景に「多額の借金」があるとされても、公判で具体的な金額はでなかった。犯行に使われた青酸も、被告は「業者からもらった」と言ったが、その証拠は示されなかった。裁判員から「判決を導き出す上でモヤモヤしたものは残したくない。具体的な証拠がほしかった」との声が出るのは当然だろう。077031

 あるベテラン検事は「法廷は真実を解明する場ではない」と言う。殺人事件であれば、裁判員は本当に人を殺したか否かを検討し、起訴状が述べる範囲の「公訴事実」が認められれば量刑を決める。結果、「被告の悩みや借金の程度など、犯行に直結しないものは二の次、三の次になる」。審理日数を抑えようとすれば一層その傾向は強まるだろう。

 一般市民である裁判員の負担軽減のため、法曹三者は証拠の数を絞り、事件の説明を簡略化するよう努める。だが、裁判員たちは負担を負担と思わないほど、事件の全体像を正確に把握しようと目を凝らしている。「枝葉」のように証拠を切り落とすことばかりに目を向けるのではなく、裁判員の「知りたい」との思いに積極的に応える審理のあり方を模索しても良いのではないか。

 判決の前日、拘置所で面会した私に被告は「これまで私の人生を聞いてくれてありがとう」と涙を見せた。死刑を覚悟した上での言葉だった。高校は進学校だったが、家庭の事情で大学に行けず、結婚後に苦労し、人生が暗転したと繰り返した。法廷で被告の人生が詳細に語られることはない。「私は人を殺(あや)めたけど、鬼ではないことは分かって」。被告も、自分が道を踏み外した過程を知ってほしいと願っていた。

 冒頭の女性から体調をいたわる言葉をもらった被告は、ずっと泣いていたという。長い裁判が終わり、走り書きでいっぱいの女性の裁判資料は地裁に回収され、シュレッダーにかけられた。「もう裁判を振り返ることもできない」。真剣に向き合ってきた資料を失ったことを女性は今も残念がっている。542371

 さて、以下に私の意見を記す。

 冒頭に「一審で死刑判決を出した元裁判員」と来る。早くもこれでダメである。判決主文は死刑だったから「一審死刑判決に加わった裁判員」と言うのなら間違いにはならない。裁判所が死刑を言い渡したのであって、「裁判員が死刑判決を出した」のではない。その裁判員が死刑を求めたと言いたいというのであればなおいけない。裁判員はどういう量刑判断をしたのかを公にしてはならないからである。全員一致の死刑であったとしても個々の裁判員の意見を明らかにすることは許されない(全員一致であったかどうかを明らかにすることも許されない)。この文章はその辺りの理屈をこの記者がまったく理解していないことを示している。

 元裁判員は「判決内容に悔いはない」が、「被告人は本当は魅力的な人なのではないか」という気持ちがぬぐえなかったから被告人への面会を希望したという。今度は話の内容そのものがダメである。判決が「被告人の魅力の有無」を論じたはずもない。元裁判員は、この被告人がどうしてかくもたいそうな事件を起こしたのか、本当のところが腑に落ちていなかったということなのだろう。そうだとすれば元裁判員は「判決内容に悔いが残る」と言っているのではないか。「判決内容に悔いはないが判決内容に納得しきっていない」とはどういうことか。そのことに疑問を持たない記者の浅薄さ(疑問を持っても言わないあざとさ)。235797

 「裁判員本来の役割である『起訴内容が有罪か否か』の判断を超え、被告の歩んだ人生をきちんと知りたいと思ったのだという」。何を言っているのか。「裁判員本来の役割は起訴内容が有罪か否かだ」などという決まりはどこにもない(「起訴内容が有罪か否か」という言い方自体がおかしい。普通は「起訴事実が認められるか否か」と言う)。安倍記者は陪審裁判における陪審員の役割と裁判員制度における裁判員の役割の違いも区別できていないし、そもそも裁判に関する基本知識がない。

 被告人が歩んだ人生は被告人に科す刑罰を決める上で極めて重要なテーマである。裁判員裁判においてもそのことは(少なくとも建前としては)当然の前提である。この記者が「裁判員にとって、被告人の歩んだ人生をきちんと知ることは本来の役割を超えるもの」と思っているとすればそれは大間違いと言うほかない。

 出だしでこれだけの不出来では、この記者の文章の先行きが思いやられ、はっきり言って読む気が消え失せるが、分析を宣言した以上、腹を決め読み続けることにする。214625

 第2段落である。共同記者会見に出た裁判員3人が、史上2番目に長い裁判員裁判にも「負担は感じなかった」と口をそろえたと紹介する。みんなが審理に積極的・意欲的に関わったことを強調したいらしい。しかし、参加した裁判員と補充裁判員は当初計11人はいた。後に2人が解任され、結局9人が残ったが、裁判直後の会見にそのうち3人しか出なかった。過半の裁判員たちが自分たちの思いを語らずそそくさと裁判所を後にしたことに記者はまったく触れない。「口をそろえた」裁判員が3人しかいなかったことを論じない記者の鈍感さに驚く。

  元裁判員たちが、会見の場で、検察・弁護の双方に「証拠を絞らず提出してほしかった」と語ったという。この話をそのまま紹介する記者は、証拠を絞り提出させないのは裁判所であるということを知らないようだ。審理に時間をかけないよう最高裁から厳しく注文されている地裁の裁判長が、証拠をもっと出したいと言う検察と弁護を強く牽制して提出証拠を絞らせている。しかもその決着は公判前整理でついてしまっている。知らぬは裁判員と安倍記者ばかりなりである。

 「判決を導き出す上でモヤモヤしたものは残したくない。具体的な証拠がほしかった」 という声が裁判員から出たということは、つまり「判決を導き出す上でモヤモヤしたものが残り、具体的な証拠がなかった(足りなかった)」 と言っていたということである。死刑を言い渡す重大裁判に関わった裁判員のこの不満は到底軽視できない。その声を「当然だろう」という記者は、誰に対して何をせよと要求しているのか。その姿勢の曖昧さは拭いがたい。235798

③ 第3段落。「ベテラン検事」の言葉の理解が全然できていない。
「法廷は真実を解明する場ではない」ということと、犯行に直結しないものは後回しになるということは当然に結びつかない。法廷は、検察の主張を支える立証を検察がし得たかどうかを検証する場である。犯罪事実の存在の証明ができていないと判断されれば無罪になるし、犯罪事実の存在の証明はできているが、検事が求める刑罰を科さねばならないとまでは認定できないと判断されれば検事の求刑より軽い量刑判断がなされる場合がある。つまり検察の主張する内容が検察によって証明されているかどうかを判定するのが刑事裁判の肝で、検察の頭越しに裁判所が真実を究明するものではないという当たり前のことを「ベテラン検事」は言っている。求刑超えの判決というのも稀にあるが、基本はこのとおりである。

 そしてそのことは、当然に「犯行に直結しないものは後回しにする」という理屈には結びつかない。被告人の悩みや借金の程度なども、被告人の責任の程度の判定に意味を持つことがあり、どうでもよいことでは決してない。有罪が前提のケースなら最初から被告人の刑責の程度の論議に入るし、無罪を争うケースなら、主張の仕方は微妙な場合があるけれども(無罪を主張している弁護側としてどのような情状立証ができるかという問題に逢着する)、仮に有罪だとしてもこのような事情があることを斟酌すべきだという論陣が張られるのが普通である。

    審理を抑えようとすればその傾向(情状立証を抑える傾向)は強まろうと記者は予測するが、「抑えようとする」のは誰なのかにも、その目的にも一言も触れないのでは、何も言ったことにはならない。

 第4段落。「裁判員は知りたいと考えている。事件の全体像を正確に把握しようと目を凝らしている。法曹3者は証拠を絞ったり切り捨てたりするな」。それが安倍記者の主張である。裁判員がみんなそのように考えているというのは記者の思いに過ぎない。記者はそうあってほしいと考えているのだろう。しかし、この記者には候補者名簿に登載された裁判員候補者の2割程度しか裁判所に来ず、来た者の中からも裁判員就任を断る者が続出している現状は見えないらしい。

 記者は、証拠を絞らせ、証拠調べを簡略にさせようと躍起になっている最高裁に対して、どうして正面から反論しないのか。圧倒的な数の市民が裁判員をやりたくないと思っている現状を突破する鍵として最高裁は審理の短縮を言い、市民の負担を軽くすることで出頭率を高めようとしている。市民は自ら進んで刑事裁判の審理に関わろうとしていると言うのであれば、記者は出頭率の極端な低さや、その傾向がこの間ますます強まっていることをどう説明するのか。社からこれだけスペースを与えられながら黙して語らないのは、語らぬことを条件とされたからなのか。いかにも不可解、不合理である。275945

 第5段落。「私は人を殺めたけど鬼ではない」と被告人は言い、
「被告人も自分が道を踏み外した過程を知ってほしいと願っていた」と記者は言う。無罪を争う事件で被告人が「私は人を殺めた」と言い、「道を踏み外した」と言うとすれば(それが本当だとすれば)、その被告人の弁護活動は困難を極めよう。捜査の実際も裁判のありようも直接見ていない私は、こうすべきであったという言葉を持たないが、被告人の人生や境遇が十分に注目されないまま審理が終結されたことを強く推測する。そして、それが裁判員裁判の現実であることを強く感じる。だから、裁判員裁判はダメなのだ。しかし、この記者はそういう論旨の展開は一切しない。

 第6段落。どうやら元裁判員はこの被告人と判決後に面会したらしい。元裁判員と被告人の面会は極めて珍しい。その話を聞いた記者としては、あれこれのどうでもよい話をするのではなく、対面の場でどういう会話がかわされたのかに絞ったエッセイにどうしてしなかったのか。裁判に用いた資料は回収され廃棄される。資料を失って残念。そんな感慨より百倍も千倍も大きな教訓が存在したはずである。百歩譲っても資料の廃棄を残念だと元裁判員が言う言葉を引用しながら、その保存をせよと言わないのはなぜか。言えば、保存を否定した最高裁の方針への疑問に踏み込まざるを得ないからではないか。

□ 筆力のない文章であることは措いても、この記者はこれまで刑事事件や裁判を取材した経験があるのだろうかという疑問を懐く。そしてそれ以上に重大なのはこの人は裁判員裁判に関する知識がまるきりないということだ。毒にも薬にもならない中途半端なエッセイと言いたいところだか、この文章には毒がある。市民が裁判員裁判に真剣に取り組もうとしているという「荒唐無稽の大デマ」を含むからだ。572091

 裁判員裁判を真剣に論じるのなら、どこで裁判員裁判が危殆に
瀕しているのかを論じ、どんなに破綻しても破綻を認めない最高裁を批判する姿勢が求められる。しかし、記者は最高裁の「さ」の字にも触れない。誰がこの制度をどういう理由で推進しているのか、そこにどのような問題があるのかということに少しも触れないのは今日の裁判員裁判論の基本を踏み外すものである。

 『朝日』が自社の記者に書かせる裁判員裁判論であるから、所詮はこの程度のものであることは当たり前かも知れないが、それは確実に『朝日』を市民から遠ざけ、市民の裁判員制度批判をいっそう強めるきっかけになることを指摘しておきたい。

以上

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投稿:2018年1月29日