~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
ノンフィクション作家伊佐千尋さんが
2月3日、前立腺癌のため88歳で亡くなられました。
伊佐さんは東京に生まれ、沖縄県立中学を出て沖縄で働いていた時に地元の青年たちによる米兵殺傷事件の裁判の陪審員に選ばれ、無罪の評決に加わりました。その伊佐さんはご自身の経験をノンフィクション『逆転』に描き、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し(1978年)、これを機に作家としてデビューされました。1982年には「陪審裁判を考える会」を発足、陪審制の導入を求める運動を推進。陪審制や裁判員制度に関係した著書に、『逆転 アメリカ支配下・沖縄の陪審裁判』新潮社(1977)、『裁判員制度は刑事裁判を変えるか-陪審制度を求める理由』現代人文社(2006)、『えん罪を生む裁判員制度-陪審裁判の復活に向けて』現代人文社(2007。石松竹雄・土屋公献共編著)、『裁判員拒否のすすめ-あなたが「冤罪」に加担しないために』WAVE出版(2009。生田暉雄共編著)など多数があります。
伊佐さんは、陪審制を強く支持され、その視点から裁判員制度に鋭い批判の目を向けました。氏の言葉を、『裁判員拒否のすすめ-あなたが「冤罪」に加担しないために』の第5章「裁判に市民が参加する意義」からいくつかご紹介しましょう。要旨で紹介するところがあります。
今年(2009年)、国民的議論を経ないまま、裁判員制度は正しい反論を押しのけて実施に移されようとしている。司法制度改革審議会の答申は、「21世紀の日本を支える司法制度」と題し、「市民主体の司法改革」を標榜するが、これは本当に「市民のための改革」か?
警察・検察・裁判所は無数の冤罪を真摯に反省することなく、裁判員制度の導入を推し進めた。これにより冤罪は増加、市民は片棒を担がされることになった。
陪審裁判では、裁判官と陪審員の分担がはっきりし、互いの独立性を尊重しあうことが鉄則になっている。裁判官の説示に言う「判事と陪審のチームワーク」はこのことを指す。それは裁判員制度にいう「裁判官と裁判員の協働」とは根本的に異なる。「任意性に疑いがあればそれを証拠としてはならない」という判事の説示と証拠法則に陪審は忠実である。
捜査のあり方も公正だ。アメリカのテレビなどで、警察官が被疑者を逮捕するとき、次のように言う場面を見たことがあるだろう。「君は黙っていてもいい権利がある。言ったことは法廷で君の不利益に使われることがある。君には取り調べの前に弁護士の助言を求める権利があり、取り調べに同席を求めることもでき、いつでも質問に答えるのを止めることができ、弁護士と相談するまで答えないと言ってもよい」。
昨年(2008年)、日弁連の招きに応えて訪日したアメリカ・コーネル法科大学のハンズ教授から尋ねられた。教授がいい言葉だと指摘したのは『裁判員制度は国民のためではなく、政府のためのもの』という私のメモだった。
犯人必罰を目的とすると言っても、もっと重要なのは罪なき被告人を有罪としてはならないことだ。死刑が確定した後に危うく執行を免れた免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件の例がある。免田さんからは、34年に及ぶ獄中生活の中で別れを告げた死刑囚77人のうち少なくとも7~8人は無実だったと自分は思ったと聞いた。加藤老事件、梅田事件、徳島ラジオ商殺し事件も気の遠くなるような長年月を経て無罪になった。横浜事件、布川事件、袴田事件、名張事件もある。これらは氷山の一角であり、今なお無辜有罪誤判が続出している状況を考えると、官僚裁判制度は破綻していると言わざるを得ない。
有罪に間違いなかろうという程度で有罪にしてはならない。陪審裁判とは、法の専門家だけでなく市井の人たち12人全員の目に一致して明らかであることを求める裁判制度なのである。
法哲学者ラートブルフは、刑事裁判官にとって大切なのは「民衆の温かい理解に満ちた心」であり、「法学知識1に対して人間と人生に関する知識1000が求められる」と説き、刑事心理学者ハンス・グロスは「被疑者・被告人のレベルに身を置かなければその心情と供述を理解することはできないだろう」と言っている。
裁判員制度の致命的な欠陥は、裁判官と裁判員が事実問題を一緒に評議することである。裁判官にとって市民裁判官を言いくるめ、自説に同調させることなど簡単である。私が陪審員だったとき、裁判官が同席していろいろ言われたら説得されて自分の考えなど通すことはできなかったろう。裁判について何も知らない素人が経験豊富な裁判官に反論し、自分の考えを主張することは極めて困難である。裁判官1人と裁判員11人の模擬裁判でさえ、1人の裁判官の与える影響がいかに大きいか、模擬裁判の結果が報告されている。
今回の司法改革を振り返ると、鳴り物入りで喧伝された「市民主体の司法改革」からほど遠く、いったい誰のための改革であったか疑問に思う。司法制度改革審議会の13人の委員は官邸で決められていたし、顔ぶれを見ただけでも民意を反映できる構成でないことが明らかだった。審議会発足後間もない時期に現場報告の機会が日弁連の講堂で持たれた。中坊公平元日弁連会長は、「法が社会の骨肉と化していないのは、基本的に国民の責任だ。国民は官を頼んで生きるのではなく、統治主体意識を持つべきだ」と語った。責任を市民に転嫁する怪しい雲行きの話に驚いた私は、閉会の挨拶で「国民の司法意識をそのように仕向けてきたのは(国の)中枢だったではないか」と異議を呈したが、統治主体意識と権利主体をすり替えられていることに、日弁連会長を務めたひとが気付かないのかと感じた。
司法制度改革審議会が政府に意見書を提出した直後の2001年7月に持たれた「司法改革市民会議」では、小田中聡樹専修大教授(東北大名誉教授)は、「意見書は迅速な処罰を第一義に重要だとして捜査手段の拡大を追求する一方、適正手続きの重視に強い拒絶を示して身柄拘束や取り調べの改革には一切取り組まないことを明示している。意見書の改革案は基本的人権や司法権独立や公正な裁判を受ける権利や適正手続きなどの保障など、いくつもの憲法の司法原則に明らかに逆行している」と強く批判した。
本書の作成に参加された生田暉雄元裁判官は、「最高裁の狙いは裁判の市民参加ではない。裁判員になった市民に強権的裁判を実体験させることで国家権力の強大さ恐ろしさを知らせてこれに従順な国民を作ること。制度の目的は裁判の市民化に名を借りた巧妙な国家権力従順化教育制度でしょう」と言っている。
簡単に要約すれば以上のようなものです。陪審制の下でも冤罪事件がたくさん出ています。人種差別の陪審員判決が暴動にまで発展した例もあり、陪審員判決の誤判も多く報道されています。伊佐さんは陪審にいのちをかけた方ですが、2001年9月11日以降のアメリカ刑事司法が人権保障司法とは無縁の暴走を続けている事情も綿密な検証を行う必要があると思います。
また、中坊元日弁連会長の行動は権力の意向を自ら買って出た行動というのが正しいと思われ、伊佐さんの中坊観にはいささか甘さを感じないでもありません。それらのことは確かにありますが、しかし裁判員制度のおかしさを指摘する限りでは、伊佐さんのおっしゃることは否定のしようがない正論でしょう。
追悼の文章にしては詳しく細かくなり過ぎました。でも、伊佐さんが生前強調してやまなかったことをご紹介するのはインコの責任だと思います。
伊佐さん。裁判員制度反対を「貫いた」とインコが申し上げたのには理由があります。陪審だ、陪審だと大騒ぎをしていたあの人もこの人も揃いも揃って裁判員制度に雪崩を打つように吸い込まれていった中で、伊佐さんは少しも動揺することなく裁判員制度の批判を徹底された。そのことに敬意を表してそう申し上げたのです。あの人って誰かって。ほら、しのみや何とかとかいうちゃらちゃらおしゃべり屋とか、それにつながる訳のわからん人たちですよ。「昔陪審今裁判員」っていう本籍不明のお天気屋さんたち。
伊佐さん。彼の地において裁判員制度創設の罪で裁かれる人たちは、町田顕元最高裁長官を先頭にもう結構な数に達しています。彼らを徹底的に裁く必要があります。インコは厳罰一辺倒で良いと思っていますが、伊佐さんの慧眼をとことん働かせていただき、心おきなくばっさり斬っていただきたいとひそかに思っています。
後はインコが引き受けます。では、お元気に冥府におかれましても権力批判の闘いを展開されますようよう祈念いたします。
合掌
投稿:2018年2月12日