トピックス

トップ > トピックス > 「改憲と裁判員制度」 

「改憲と裁判員制度」 

 斎藤文男・九州大学名誉教授

九州大学名誉教授・斎藤文男先生の「改憲と裁判員制度」をお送りいたします。 これは5月22日に東京・霞ヶ関の弁護士会館で開催された「改憲阻止そして裁判員制度廃止」の集会での講演草稿に加筆していただいたものです。

1.裁判員制度は改憲の地ならし
     ――司法の治安機構化・民営化――                               
2. 憲法をどう変えるのか
     ――9条改正、非常事態権限、人権停止――
3. 危機国家体制の構築
     ――法の支配から権力の支配へ――
4. しのび寄るファシズム
     ――ワイマール憲法の崩壊から学べ――

 

1.裁判員制度は改憲の地ならし

  ――司法の治安機構化・民営化――      

 私が裁判員制度に反対するのは、この制度が憲法違反であり、憲法改正への一歩、地ならしだと考えるからです。

 裁判員制度は、たんなる刑事裁判の改革ではありません。それは実質改憲です。この認識が、裁判員制度に反対する人たちにさえ共有されていない。そこに、裁判員制度反対運動の問題点、はっきりいえば弱点があります。

 では、裁判員制度はなぜ違憲か。理由は3つあります。1つ、裁判員の義務は、憲法に根拠がないこと。2つ、公権力(国家権力といってもよい。国家の強制力)をもたない民間人に公権力を行使させていること。3つ、司法の独立と法の支配の原理に反すること、です。

 まず第1。憲法に裁判員の義務はありません。憲法が定める国民の義務は、納税の義務、勤労の義務、教育の義務だけです。しかも、これらはいずれも、参政権、勤労権、教育を受ける権利と表裏一体をなしています。一方的な国民の義務ではありません。

 むろん、憲法制定当時、裁判員制度など予想もしませんでしたから、明文で裁判員の義務が定められていないのは当然です。しかし、いやしくも国民に義務を課す以上、その根拠は憲法になければなりません。ところが、その根拠がどこを捜しても見つからないのです。だから、違憲です。

 違憲の第2の理由は、裁判員制度が民間人に公権力の行使を義務づけたことです。裁判員は、必要とあれば死刑判決で人の命を奪う権限と義務を負わされました。公権力をもたない民間人に、民間人のまま、文字どおり生殺与奪の権限を行使させることは、公法の法理に反します。

 裁判員制度に反対するみなさんは、これは現代の「赤紙」だ、と非難なさる。が、裁判員制度は徴兵制より、もっとタチが悪い。赤紙で召集された民間人は、軍隊に配属されたその日から、大日本帝国軍人として、公権力を付与された。だから、敵を殺しても、殺人罪に問われない。けれども、裁判員は民間人のまま、裁判官と同席して、死刑判決を下す。民間人のまま、合法的な国家殺人に手を貸すのです。これは、公権力をもたない民間人の公権力行使であって、法理に反します。裁判員法で定めたからといって、許されるものではありません。裁判員法が法理に反しているからです。

 どうして法律家のみなさんが、この点を問題にしないのか、私は不思議でなりません。数年前まで、行政法が司法試験の必須科目でなかったからでしょうか。

 違憲の第3の理由は、裁判員制度が司法の独立、法の支配の原理に反するからです。これは、民主主義と自由主義の根本的理解にもかかわる問題なので、少し説明が必要でしょう。

 そもそも、民主主義と自由主義は対立する思想です。そして、民主主義は立法府と行政府に制度化され、自由主義は司法府に制度化されています。つまり、政府の立法・行政部門(政治部門という)と、司法部門(非政治部門)は、依って立つ思想原理が違うのです。

 民主主義と自由主義のイロハから、改めて考えてみてください。

 まず、民主主義とは何か。一言でいえば、人民の自己統制(self-government)のことでしょう。だから、国民が代表者を選挙し、国民の代表機関である議会が法律を制定して、行政機関がこれを執行するという仕組みは、民主主義の思想にもとづいています。

 ところが、元来、民主主義は、何が正統な権力かを問い、正統な統治の根拠を人民の同意におく思想です。したがって、民意にもとづく権力は強いほどよろしい。それだけ、民意がよく実現されるからです。しかし、民意はしょせん多数決で測るしかない。とすると、民主主義とは多数者支配のことであり、多数の専制に陥ることは避けられません。

 これに対して、自由主義は、個人の自由に価値をおき、これに干渉する国家権力をできるだけ制限しようという思想です。そして、この自由主義から、統治を憲法に従わせる立憲主義、国家権力を分割し相互に牽制・均衡させて権力の乱用を防ぐ権力分立制、司法の政治からの独立――ひとことで言えば、「権力の支配」に抗する「法の支配」の原理が生まれてきます。民主主義は、人民による権力支配を求めますが、自由主義は、多数者支配によって少数者の人権が侵されないように、「法の支配」を守ろうとします。そして、その「法の番人」「人権の砦」の役割を司法が担うわけです。

 法の支配は、正しくは「人の支配ではなく、法の支配」(rule of law,not of man)といいます。この場合の「人」とは、君主や立法・行政権者だけでなく、人民をも含んでいます。つまり、民意や世論、国民感情や市民感覚からの独立を意味します。だから司法は、多数者支配の民主主義原理を排除し、民意や世論、国民感情からも独立でなければなりません。さもなければ、公正な裁判は期待できず、少数者の人権は奪われてしまうからです。

 それゆえ、司法は民主化してはなりません。国民の司法参加で司法を民主化するなど、とんでもないことです。それは民主主義と自由主義の違い、司法の役割についての無知ゆえの誤解か、知ってのうえなら悪質な欺瞞・デマゴギーです。

 私は、裁判員制度は司法の民主化だ、国民の司法参加で「国民の健全な社会常識」や「市民感覚」が刑事裁判に反映されるのは大いに結構という人たちに反問したい。そんなに裁判を民主化したければ、いっそ職業裁判官は全員クビにして、人民裁判をすればよい。――いや、冗談をいっているのではありません。民主主義は人民の自己統治、人民による統治でしょ。その論理を裁判にも徹底すれば、人民による裁判が理想でしょう。古代ギリシャの共和国は、人民裁判だった。おかげで、ソクラテスをまんまと死刑にできた。――というと、いくらなんでも、それは無茶だ、とおっしゃる。ならば、裁判官も国会議員並みに、選挙で民主的に選ぶことにしてはどうか。フランス革命で生まれた急進民主主義の1791年憲法、95年憲法では、裁判官はすべて人民が選挙し、任期も短く限られていた。――というと、いやいや、一般市民には裁判官の能力・資質はとうてい判断できない、とおっしゃる。じゃあ、なぜ、それほど裁判に無知無能なズブの素人を裁判員にしたのか。

 裁判員制度には、理論的根拠も、実際的効用もありません。

 ありていにいえば、裁判員制度は、誤判や再審無罪などで裁判への不信と不満が高まったので、“ガスぬき”のためにつくられたのが実情でしょう。しかし、この制度の政治的ねらいはそれだけではない。お上の治安意識を国民に共有させ、司法を治安機構化し、民間人にその片棒を担がせて、刑事司法を民営化することにあります。これは、現代版の国家総動員法、人民が人民の首を絞める自虐立法です。

 でも、なぜ、裁判員制度が、憲法改正の地ならしなのか。

 それは、裁判員制度の発想と憲法改正の発想が同じだからです。いずれも、憲法を人権保障のためではなく、権力者の統治のための法とみなし、人権よりも国家への服従義務を優先させているからです。

 先だって5月16日の衆院憲法審査会で、自民党の保岡興治議員は、公務員の憲法尊重擁護義務を定めた99条を改正して、これに国民を加えるべきだ、と主張しました。この発言はバカバカしさを通り越して、噴飯ものです。憲法は国家権力を縛るものだから、公務員に憲法尊重義務を課しているのであって、憲法は国民を縛るものではありません。国民に義務を課すための法ではありません。国民を統治するための法でもありません。国民の人権を保障するために、国家権力を拘束するのが憲法であり、統治は憲法に従うべきだというのが立憲主義なのです。

憲法とは何か、立憲主義が何か、がまるでわかっていない。こんな無知蒙昧な徒に、憲法改正を言い出す資格はありません。国民は、はなはだ迷惑です。

そこで、この迷惑な連中の主張する迷惑な改憲論に話を移します。

2.憲法をどう変えるのか

  ーー9条改正、非常事態権限、人権停止ーー

 改憲の論点は、いまでは多岐にわたりますが、最大の政治的争点は、やはり9条の改正です。それともう一つ、3.11以後、急速にクローズアップしてきた非常事態条項の新設があります。この2つは、じつはメダルの表裏です。その他は、憲法改正の行きがけの駄賃か、せいぜい敵は本能寺の目くらましでしょう。

 9条改正の政治的ねらいが、集団的自衛権の行使を容認して、日米同盟を強化することにあるのは、いまさら説明の要もないでしょう。ただ、注意すべきなのは、9条改正論の主流が、かつての「戸締まり論」、つまり日本の独立と安全のためから、対米協力、ひいては国際貢献、国際安全保障への参加に代わっていることです。

 そのため、日米安保協力とともに、あるいはこれを隠すために、国際協力や国連協力を9条に明文化する改正論が強まっています。たとえば、自民党の改憲案では「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動」に自衛隊、いや国防軍が参加できるとして、日米軍事協力をカムフラージュしています。

 もうひとつ注意すべきことは、9条改正の手法です。安倍首相は、かねて9条の条文改正を公言していますが、これは長期戦略であって、短期的には、むしろ解釈改憲、立法改憲、行政改憲といった、いわゆる実質改憲、なしくずし改憲の手法を駆使してくるでしょう。現在、首相の諮問機関である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」で検討中の9条解釈の変更や、安全保障基本法の制定、ガイドライン(日米防衛協力の指針)の改定、防衛大綱の改定、NSC(国家安全保障会議)の設置などがそうです。条文改憲には年月を要し、当面の政治的対応の間に合わないし、なしくずし改憲なら国会の過半数の賛成か、閣議決定だけで可能だからです。

 現に、集団的自衛権の行使は、すでに周辺事態法をはじめ、3.11のトモダチ作戦、北朝鮮ミサイルの防衛、武器輸出3原則の緩和、海賊対処法や自衛隊法の改正などで、着々と進んでいるではありませんか。改憲問題は、条文改憲だけに目を奪われてはなりません。足元をすくわれます。

 しかし、改憲勢力にとってどうしても条文改憲が必要なのが、非常事態条項です。これだけは、なしくずし改憲というわけにはいきません。その意味で、これは9条以上に重要な改憲項目ともいえるでしょう。

 5月3日付の読売新聞は、改憲問題について3党(自民、民主、維新の会)の座談会を掲載しました。そのなかで自民党の中谷元議員が、96条が改正されたら、まず、どの条項の改正に着手するか、との司会者の問いにこう答えています。「まず、非常事態条項の創設。2番目は9条だ」。

 中谷氏は自民党の憲法改正推進本部事務局長、元防衛長官です。防衛長官だった人が、9条改正よりも非常事態条項の新設を優先、重視していることは見逃せません。

 非常事態条項の必要論は、3.11の東日本大震災と原発事故の直後から、にわかに高まった感があります。しかし、じつは決してそうではありません。1957年にスタートした憲法調査会でも、改正すべき点の一つとして論議されたのです。調査会では改憲・護憲の意見が割れ、両論併記の報告書が1964年に政府に提出されましたが、多数派の意見はこう述べています。

 「現行憲法の一大欠陥の一つは、国家の非常事態に対する処置がまったく講ぜられていない点である。……『不測の非常事態』としては戦争(外国からの侵略)、内乱ないし大暴動、経済大恐慌、天災(台風、水害、地震、大火、伝染病その他)などがあげられる。……憲法その他の諸立法でせっかく周到に保障された国民の基本的人権をこれらの事態に際して正しくまもるためにも、ぜひ非常事態ないし緊急事態に対する対策を憲法上明記しておくべきである」

  みなさんもお気づきでしょうが、この議論には次のような問題があります。

 まず第1に、そもそも非常事態条項がないのは憲法の欠陥か。設ける必要があるのか。

 第2に、非常事態の要件も、とりうる措置も、あらかじめ具体的に法定できない。いいかえれば、非常事態の認定も、とるべき措置も、行政のトップに白紙委任せざるをえないこと。

 第3に、非常事態権限とは元来、憲法の一時停止、人権の一時停止の権限をいうから、これが人権を守るためというのは、サギをカラスと言いくるめる真っ赤なウソであること。

 第4に、非常事態を戦争、内乱のほか、自然災害や経済恐慌にまで広げていること。最近は、テロまで含めている。

  旧憲法には、むろん非常事態条項がありました。旧憲法は、「天皇ハ……統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」(4条)として、天皇主権ではあるが立憲主義を定めています。立憲君主制です。しかし、31条で

「本章〔第2章臣民権利義務〕ニ掲ケタル条規ハ戦争又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」

と定めていました。天皇の非常大権と呼ばれるものです。さらに14条には

「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」「戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」

とあります。これは、天皇の戒厳大権と呼ばれるものです。

 このように、非常事態権限(国家緊急権ともいう)とは、「国家の存在が危機にさらされるような非常時において、憲法の一部を一時停止するなど、国家の法的枠組みを一時的に取り払うことにより、その非常事態に対処しうる権限」をいいます。どんな法律辞典にも、そう定義されています。ちなみに、憲法の停止とは、憲法の効力が停止されることで、憲法が廃止されるわけではありません。

 また、戒厳とは、「戦争などの非常事態の際に、行政権ないし司法権の行使を軍の機関に委ねること」と定義されます。これは、非常時における軍の作戦行動を円滑化し、住民に軍への協力を義務づけるためで、治安維持のための自衛隊の治安出動とは異なります。戒厳の宣告権も、非常事態権限に当然含まれます。

 これで、非常事態条項とはどんなものか、おわかりいただけたでしょう。要するに、旧憲法の「天皇」が、「内閣総理大臣」に代わるだけです。君主主権だろうと、国民主権だろうと、非常事態権限はいささかも異なるところがないからです。たとえ一時的にせよ、これは憲法の“心肺停止”、戒厳が敷かれれば軍部独裁を認めることです。

 そして日清、日露戦争で、戒厳令が早々に適用されました。次いで、日比谷焼き打ち事件、関東大震災、2.26事件では、“脱法的”手口で、事実上の戒厳が敷かれました。脱法的というのは、これら3事件は旧憲法14条によらずに、8条の緊急勅令(公共の安全を保持するため、議会閉会中のときは、緊急の必要により法律に代えて天皇が発する勅令)で、戒厳の実施を認めたからです。もともと、関東大震災も、2.26事件も、戦争や内乱ではありませんから、旧憲法14条の正式の戒厳が宣告できません。そこで、緊急勅令によって戒厳を敷くというコソクな便法を使ったのです。これを「真正戒厳」に対して、「行政戒厳」とか、「平時戒厳」といいます。このように、戒厳制は、いったん出来てしまうと、かならず拡大運用されます。「必要は発明の母」ならぬ、「必要は脱法の母」「拡大運用の母」なのです。

ですから、非常事態条項の新設は、憲法に“自爆装置”をセットするようなものです。スイッチを入れるのは時の首相。その独断と専権で憲法の呼吸をとめ、立憲主義の衣をかなぐり捨てて、裸の独裁を合法的に敷く以外のなにものでもありません。

3.危機国家体制の構築

  ――法の支配から権力の支配へ――

 独裁を合法化し、ナチスのイデオローグとなったのは、ドイツの憲法学者、カール・シュミットです。

 かれは、こう書いています。

   「主権者とは、例外状況にかんして決定を下す者をいう」

「主権者は、現に極度の急迫状態であるか否かを決定すると同時に、これを除去するために何をな すべきかをも決定する。……主権者は、平時の現行法秩序の外に立ちながら、しかも、憲法を一時停止するか否かを決定する権限をもつ」

「この決定は、いかなる規範的拘束からも免れ、本来の意味で絶対化される。例外事例において、国家は、いわば自己保存の権利によって法を停止する」

「独裁には、いかなる法的形式、いかなる自己拘束もありえない。独裁は、法律のない全権、法なき権力である」

「真の独裁は、あらゆる合法的状態の一時停止という点にのみ存する」

 このように、シュミットは、非常時に憲法を停止する権限を持つ者こそ主権者だとして、国民主権を真っ向から否定しました。同時に、この非常事態権限はいっさいの法的拘束を受けないとして、憲法と立憲主義を完璧に否定しました。「法の支配」を裸の「権力の支配」に代えたのです。

 シュミットがこう論じた当時のドイツは、第1次大戦の敗北で帝政が崩壊し、世界でもっとも民主的なワイマール共和制が発足したものの、巨額の賠償責任を負わされ、極右・極左による体制転覆の動乱が絶えず、国家は不安定で例外状況、非常事態が慢性化していました。その危機を突破するための、これはシュミットのあからさまな政治的主張でした。かれは、のちにナチに入党し、ヒトラー政権の法的助言者の役割を務めます。そして戦後、戦争犯罪に問われましたが、訴追は免れました。

 独裁はいったん確立されると、シュミットがいうように一時的な例外では終わりません。ナチス独裁は、第2次大戦の敗北とヒトラーの自殺まで12年間つづきました。

 しかも、ナチス独裁は合法的に成立したことを、私たちは決して忘れてはなりません。ナチ党は選挙で政権を握り、党首のヒトラーが宰相、のち総統となり、独裁制を固めました。合法的に成立した無法な独裁体制です。

 その扉を開いたのは、ワイマール憲法の非常事態条項でした。その48条はこう定めています。

「もしドイツ国家において、公共の安全と秩序がいちじるしく攪乱され、または脅かされた場合には、大統領は、公共の安全と秩序を回復するため必要な措置を講じ、必要とあれば武力を用いて干渉することができる。この目的を達するため、大統領は〔このあと、人身の自由、表現の自由、結社の自由、財産権の保障など、7つの人権規定を列挙して〕これら基本的人権の全部または一部を一時的に停止することができる」

 これがワイマール憲法の命取りになり、世界でもっとも民主的で、もっとも進んだ福祉国家憲法はあっけなく崩壊したのです。

 日本国憲法を改正して非常事態条項を設ければどうなるか、これでおわかりいただけるでしょう。

 けれども、人権制限は、非常事態の場合だけではありません。非常事態でなくても、平素から人権を制限できるようにしたいというのが、改憲論者たちの主張です。自民党の改憲案では、人権保障の総則規定を改正して、「国民は、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」と変えています。これは、国民の「権利」を「義務」にスリ替えるものです。

 現行憲法では、基本的人権は「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」(13条)と定められています。この「公共の福祉」と、自民党案の「公益及び公の秩序」とは、まったく異なる概念です。公共の福祉とは、個々人の権利自由の衝突を調整する原理なのに対して、「公益」や「公の秩序」は、国家的見地から人権を制限する大義名分なのです。

 公益の最たるものは「国益」でしょう。政治家は、ふたこと目には「国益、国益」とおっしゃる。むろん、何が国益かを決めるのは権力者です。平たくいえば、お国のためなら権利自由の行使は我慢しろ、というわけです。

 「公の秩序」にいたっては、これはまさしく警察概念です。治安の維持に当たるのは警察であり、治安とは「公の秩序」の維持のことです。警察法1条は、警察の目的を「公共の安全と秩序を維持するため」と定めています。つまり、国家安全保障の対内面を担うのが警察であり、対外面を担うのが自衛隊です。もっとも、先ほどお話ししたとおり、戒厳となると自衛隊の銃は国民に向けられますが。いえ、いまだって警察力で抑えが効かなければ、自衛隊が治安出動するのですから。

 要するに、自民党案のように憲法を改正して、人権の一般的な制限規定――いや、国民の責務規定を設けておけば、あえて非常事態条項を新設しなくても、同様の人権規制と国家への服従義務はいつでも可能だという人さえいます。これは、治安国家体づくりの一環にほかなりません。

 さて、ここで、憲法96条の改正問題について、一言しておかねばなりません。これも、いまお話しした立憲主義の破壊以外のなにものでもないからです。

 96条改正は、もとはといえば、日本維新の会が言い出したものです。安倍首相がこれに便乗し、96条改正の先行をもくろんだのは、維新の会やみんなの党と連携して、改憲発議に必要な衆参両院で3分の2議席を確保し、あわせて民主党の分裂と野党の分断をさそう政治的意図であることは明らかです。もっとも、最近では安倍首相も、国民投票では否決されそうだとみて、トーンダウンしていますが、96条が新たな改憲項目としてクローズアップしたことは確かです。首相も7月参院選の争点にするといっています。

 野党の某政治家は、これは「メニューもなしに、レストランに入れ」というようなものと非難しました。ある憲法学者は、改憲の「裏口入学」と評しました。しかし、私はこう言いたい。これは、ドロボーが「お宅の玄関のカギを外しておいてくれ」というようなものだ、と。家人が「盗みに入るつもりか?」と問うと、ドロボーは言った。「何を、いつ盗むかはオレが決める。ツベコベぬかすな!」

 そもそも、民定憲法では、憲法改正権は、憲法制定権をもつ国民にしかありません。国民が憲法を制定しておいて、改正は誰かに任せるのは理に反するからです。憲法改正を国民投票にかけるのは、そのためです。

 では、改憲の発議に、衆参両院の議員の3分の2以上の賛成を要件としているのはなぜか。それは、国民の代表機関たる国会に改憲の発議権を与え、十分な審議のうえで改憲案を作成し、国民に提案するよう義務づけたのです。この改憲発議権は、立法権と別のものです。だから、法案可決の単純多数決ではなく、3分の2以上の特別多数決によることとしているのです。

 その趣旨が、憲法の普遍的原則を維持し、安易な改正を許さないためであることはいうまでもありません。

  96条の発議要件の緩和は、あきらかに立憲主義の破壊であり、その行為自体が違憲なのです。

 

 

4.しのび寄るファシズム

  ――ワイマール憲法の崩壊から学べ――

 ところで、21世紀は、「戦時」と「平時」の区別がない時代です。戦時が平時化し、平時が戦時化しました。対テロ戦争は「外なる敵」と「内なる敵」とを区別しません。9.11のアルカイダも、先だってのボストン・テロの米国青年も「国家の敵」です。

 そして、「外なる敵」に対しては、たとえそれが自国の安全を直接脅かすものでなくても、国際安全保障のために武力を行使して殲滅せよ。「内なる敵」、つまり重大な犯罪者は、手っ取り早く社会から隔離し、抹殺せよ。これが今日の臨戦国家、危機国家の戦略です。

 だから、現代国家は、外に対しては戦争国家、内に対しては治安国家たらざるをえません。戦争や非常事態を想定した危機国家体制づくりを急がざるをえない。それには、憲法と立憲主義の止め金を外して、権力を集中し人権を抑圧する「権力の支配」体制を築く必要があります。これはまさしくファシズムです。

 ファシズムはしかし、戦争と革命に伴うものとは限りません。かつて、ドイツのナチズムやイタリアのファシズムは、ロシアの社会主義革命の脅威と第1次大戦の戦後処理への不満、加えて世界大恐慌の経済破綻から生じました。しかし、今日のファシズムは、平時に、もの静かに、しのび寄ります。しかも、合法性の、ときには民主主義の仮面をかぶって。

 昨今の日本で危惧されるのは、「決められない政治」に苛立った世論が、決断主義的指導者のイメージが“売り”の政治家を人気者にしていることです。いまや、民主政治は世論政治と誤解され、衆愚政治に堕しています。そして、独裁的指導者を待望する兆しさえ見受けられます。

 昨年の総選挙では、「誰それは、何党はダメだから、落とせ」というだけのバッ点選挙、懲罰選挙、うっぷん晴らし選挙で、安倍晋三を首相に返り咲かせました。そして再び、憲法改正が政治日程に上がっているのです。

 私は、憲法改正に反対します。条文改憲だけではなく、実質改憲、なしくずし改憲にも反対します。だから、なしくずし改憲である裁判員制度は即刻、廃止に追い込むべきだ、と考えます。

 改憲も、裁判員制度も、日本のファッショ化にほかなりません。

 みなさん、裁判員制度を廃止させ、憲法改正を阻止しましょう。

flower0975

 

 

 

 

投稿:2013年6月12日