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書籍紹介『グロテスクな民主主義/文学の力』

天高くインコ肥える秋、そして読書の秋。33

 インコお薦めはこの一冊! 

西永良成著『グロテスクな民主主義/文学の力』
 (ぷねうま舎 2013年8月21日発刊 2600円+税

 同時代に投じる文学の紙つぶて
19―20世紀の苛烈な政治の季節を生きた一群の作家・思想家に、政治の貧困/貧困の政治を学ぶ。
 このグロテスクな現実と対決するために
(同書帯文)

 西永先生といえば、フランス文学者にしてフランス現代思想の泰山北斗。その深い考察力に圧倒され、『レ・ミゼラブル』を知っていた気になっていた浅薄さを恥じるインコ。それにしてもナポレオン3世の時代背景がなんと現代日本を彷彿とさせることか。そしてサルトルとカミュの時代、フランスの文学者たちと裁判批判における「カラス事件とドレフェス事件」まで読み進んだとき、フランスの参審員制の問題が登場。

 その註で「裁判員制度」についての一文をみつけた。

 フランスの参審員制と日本の裁判員制度とは深い関係にあるからですが、裁判員制度の問題に対する明快なご指摘に全文引用。

*1 その後の法改正によって、現在では参審員の数が6名になっている。

 なお、日本では国民の裁判参加権を認める「裁判員制度」が導入――樋口陽一先生のご教授によれば、戦前にこの制度が一時・一部存在し、その後「停止」されていたのだから「導入」ではなく「復活」――は賛否両論に分かれてさまざまに論議され、いまだに最終的な結論を見ていない

 ただ、私個人はおよそ半世紀まえに川島武宣が嘆いた「日本人の法意識」およびトクヴィルが言った「社会状態」、あるいはこの国のマスコミの言う「民意」なるものの現状を考えると、かりにじぶんがなにかの犯罪をおかし、出廷することになっても、まずこの制度自体に不服を言い立てるだろう。

 これは本書の註で扱うにはあまりに重大な問題であり、くわしくは国民必読の書ともいうべき高山俊吉著『裁判員制度はいらない』(講談社+α文庫、2009年)にゆずる。

 ただ、つい最近も裁判員を務めたあとに急性ストレス障害と診断され、国家賠償請求訴訟を起こした女性が、「病気」を理由に会社から解雇通知を受けるといったような、深刻な人権・社会問題が『毎日新聞』に報じられている。

 そもそも相手を充分に理解するまえに性急かつ安易に裁いてしまうのは、人間に特有の宿痾ともいうべき愚かしくも嘆かわしい現象であるが、まして高山俊吉弁護士じきじきのご教示によれば、この国の裁判員制度はフランスの旧参審員制度、すなわちヴィシー政権下のきわめて反動的・抑圧的な裁判制度に酷似しているという事実は、けっして看過できない問題だろう。

 元来分立されているべき行政と司法が同じ非文明的な旧いメンタリティーから発していると推定せざるをえないからだ。猫と葉っぱ上

 =同書紹介文=
 あらゆる規範を失った政治が醜態をさらし、文学の終焉が語られて久しい。!
 文学はこんにち、生へのアクチュアルな発信を断念し、政治的現実への無残な絶望を前に、ついに自閉してしまうのか。
大作『レ・ミゼラブル』を皇帝権力に抗っての亡命下に書き継いだユゴー、身をもって政治参加を生きたサルトル、グローバル化という民主主義の負の未来を見事に予言したトクヴィル……
時代の権力とそれぞれの仕方で向き合った思想家たちの闘いに耳を澄ます。
 ここには断念することを知らない精神と、私たちの同時代への驚くべき予言と、言葉と権力との秘密めいた関係をめぐる明晰な意識とがある。
 著者の半世紀を賭けた文学的試行を集積する「文学と政治」論集。

=目次=猫と葉っぱ下
はじめに 文学と政治
  『レ・ミゼラブル』の現代性
──ヴィクトール・ユゴーとその時代──
第一章 歴史小説としての『レ・ミゼラブル』
第二章 ユゴーとふたりのナポレオン
──『レ・ミゼール』から『レ・ミゼラブル」へ
第三章 『レ・ミゼラブル』と現代
 文学と政治参加
──ジャン = ポール・サルトルとアルベール・カミュ──
第四章 サルトルと私
第五章 神も理性も信じない人間
──アルベール・カミュの『異邦人』
第六章 もうひとつの文学行為
──フランスの文学者たちと裁判批判
第七章 歴史への責任
──アンドレ・グリュックスマン、サルトルを語る
 グロテスクな民主主義
──トクヴィルとフローベール──カフェ
第八章 トクヴィルの現代性
第九章  恋愛・金銭・デモクラシー
──『ボヴァリー夫人』の時代
あとがき 私のフランス文学周航

投稿:2013年9月17日